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戦乱の絶えなかった1560年代の京都で、キリシタン達は貧民救済や
戦争による負傷者などの救援活動を組織的に行った。
貧しい者のために寄金を募り、クリスマスや復活祭には彼らに
食事を提供したり、飢饉の際には炊き出し等の慈善活動を行い
徐々に信者を増やしていった。
永禄3(1560)年、京都ではクリスマスにキリシタン100余名が集まり
盛大な降誕祭を祝ったという。

堺の教会にいたイエズス会司祭ロイス・フロイス(Luis Frois 1532~97)は
永禄11(1567)年の堺近郊で起きた織田信長と松永久秀との戦いで、
クリスマス休戦を申し出る。両陣営にいた約70名の武士が、堺の教会に
集い、ミサや懺悔を行い、料理を持ち合い仲良く食事もした。
翌日、再び敵味方に別れて戦場に戻ったという。
ザビエル来日から30年が経過し、キリシタンは13万人に達していた。
来日したイタリア人巡察師ヴァリニャーノ(Alesandro Valignano)は、
若い日本人聖職者や在日ヨーロッパ人聖職者の教育機関である
神学校・学院、修練院等を開設し、画期的な布教方針を樹立した。


狩野元秀が描いた信長 宣教師が描いた信長
信長の寵愛を受けたフロイスや都地方区の修院長オルガンティノ、
キリシタン大名の高山右近の功績で、京都南蛮寺の建立(1576年)
安土セミナリヨ(神学校)の開設(1580年)に成功した。

織田信長の保護を得たイエズス会は、京都布教の拠点として
四条坊門姥柳(うばやぎ)町に3階建ての聖堂を建立し、南蛮寺と
呼ばれた教会は新しい京の名所として賑わい、門前には南蛮帽や
ロザリオなどの南蛮グッズを売る店も現れた。
各教会には合唱隊もでき、オルガンの伴奏で賛美歌が歌われ、荘厳な
ミサが挙げられた。信長は町の教会を訪問しては、オルガンやヴィオラ、
クラボ、ハープ、フルートの音色に酔いしれたという。
この頃の降誕祭はさぞ盛大だっただろう。
1580年代には、信者数も60万人になっていた。

織田信長亡き後天下をとった豊臣秀吉は、当初は信長と同様に
キリシタンを優遇し、南蛮貿易を推進していた。秀吉自身も南蛮趣味に
凝った時期もあり、お花見で家来達に南蛮衣装を着させたり、
寝室には大型のベッドも置かれた時期もあったそうだ。
天正11(1583)年のクリスマス、大阪に作られた教会で、京都・堺・
河内・摂津等からキリシタンの大群衆が集い、盛大なミサが挙げられた。

天正15(1587)年、九州征伐に勝利した秀吉はバテレン追放令を
発布する。しかしすぐに追放されたのではなく、天正遣欧使節が帰国
した1590年頃にはキリスト教と南蛮文化はもっとも栄えた。
秀吉の死の直後の慶長4(1599)年、長崎でのクリスマスの模様が
フェルナン・ゲレイロ編『日本諸国記』に詳細に記されている。
「降誕祭は学院の前の非常に立派な庭で荘厳に、また大勢の群集を
集めて行われた。神学校の生徒達は4時間以上も聖なる主の降誕
について非常に深く信心を表した。藩主の大村は全ての貴人を伴って
この目的だけに来訪した。彼らは全てを非常な威厳、充分な秩序、
そして代表する人物の地位に相応しく大いなる壮麗さをもって挙行した。
ヨーロッパのいかなる地方においても快く迎えられ賛美されただろう。
肥後でもまた、小西行長がこの祭典を真摯に祝い、2.3ヶ月前に改宗した
全てのキリシタン1000名以上を饗応した。」

秀吉の目論んだ、キリスト教を抜きにした南蛮貿易から得る実質的な
知識や文物、長崎を直轄領にして南蛮貿易を独占しようとした政策は
徳川家康に受け継がれ、寛永16(1639)年以降、三大将軍家光により
キリシタン禁止を主な理由にした鎖国政策に引き継がれていった。
宣教師と共に来日した外国兵を受け入れ、国籍を問わず自らの兵
として登用したり、能力主義を重視して、足軽出身の秀吉などを
登用したりと合理的で革新的な織田信長。
彼は宣教師を通して世界を意識していたのではないか。
お気に入りのフロイトに布教活動を許す代わりに、海外の情報や
文化を吸収し、政治参謀としての役割をさせていた。
彼の思い描く”天下”は、秀吉・家康とは明らかに違っていた。

もしも、明智光秀による本能寺の変が起こらなければ、
もしも、織田信長の天下統一が実現していたら、
日本のクリスマスは、少しは違ったものになっていたのだろうか・・・
彼もまた、手を焼いていた本願寺などの浄土仏教勢力同様に
キリスト教が普及しすぎたら、きっと弾圧に向かっていただろう。
信長も、純粋な信者ではなく、権力者なのだから・・・
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