★そのいち
まずはイギリスのナンセンスの原点、
マザー・グース1〜4巻 講談社文庫 谷川俊太郎訳 から…
●ナンセンスは<意味>を打ち倒す<音>●
えっさか ほいさ/ねこに バイオリン
めうしがつきを とびこえた/こいぬはそれみて おおわらい
そこでおさらはスプーンといっしょに おさらばさ
Hey diddle diddle,/ The cat and a fiddle,
The cow jumped over the moon;/The little dog laughed
To see such sport,/And the dish ran away with the spoon
あまりにも有名なマザー・グースのナンセンスなひとふし。解説によると、16世紀か、それ以前から、イギリス人に愛好されていたらしいこのライム(rhyme押韻詩) 。おもいきりリズミカルで、結果、内容はとってもシュールです。どういう意味内容をもつのかは、いっさい不明だそうな。(そう言われると、その底になにか深い意味が隠されているのでは、と探りたくなるのもわたしたちのサガでありますが。)
ことばがたちあがるときのエネルギーのすごさ。<音>が、<リズム>が、<意味>なんてつまらぬものをノックアウトしてしまう。別な言い方をすれば、肉体が脳を裏切るということかも。(マザー・グースには手遊び唄や、集団で体を動かして遊ぶ唄も多いのです。)
そんなわけで、みんなでラップみたいにうたってみましょう。ヘイディドディド、ザキャッタンダフィド、ザカウジャンプトヴァザムウン…。意味のはるかむこうに、シュールで刺激的な亜空間が見えてくるはず。
●ナンセンスは時間による<意味>の剥落●
六ペンスの うたをうたおう/ポケットは むぎでいっぱい
二十四わのくろつぐみ/パイにやかれて
パイをあけたら/うたいだす ことりたち
おうさまに さしあげる/しゃれたおりょうり(後半 略)
Sing a song of sixpence,/A pocket full of rye;
Four and twenty blackbirds,/Baked in a pie.
When the pie was opened,/The birds began to sing;
Was not that a dainty dish,/To set before the king?
このライムを見ただけでは、なんだか謎だらけです。六ペンスの歌とはなんなのか。なぜその次に突然麦の話になるのか。パイに焼かれたくろつぐみが、あけたとたんに飛び立つなんて。解説を見ると、国王ヘンリー8世をめぐる二人(アン・ブーリンとだれだっけ)の女性の確執うんぬんとあります。ところがそのあとにすぐ、それはこのうたをめぐる諸説のひとつでしかない、と続けています。謎はふかまるばかりですが、このうたにある強烈なイメージだけは、わたしたちに伝わってくるのです。マザー・グースのなかのたくさんのライムに、さまざまな歴史的解釈がなされていますが、暗く血なまぐさい事実や意味は、時間とともに剥がれ落ち、言葉が蒸留されて、そのスピリットだけが残ったのでしょうか。
●ナンセンスは不安と恐怖の棲家●
マザー・グースの多くのライムから、いつも滑稽さの奥になんとも言えぬ不気味さを感じるのはわたしだけではないでしょう。史実や意味が剥落しても、その香りは残っている。直接に語られるより、その恐怖や不安のエッセンスは強く感じられるような気がしませんか。
だれがこまどり ころしたの?/わたし とすずめがいいました
わたしのゆみやで/わたしがころした
だれがこまどり しぬのをみたの/わたし とはえがいいました
わたしがこのめで/しぬのをみた
だれがそのちをうけたのか?/わたし とさかながいいました
ちいさなおさらで/わたしがうけた(以下 略)
Who killed Cock Robin?/I, said the Sparrow,
With my bow and arrow,/I killed Cock Robin.
Who saw him die?/I, said the Fly,
With my little eyes,/ I saw him die.
Who caught his blood?/I said the fish,
With my little dish,/I caught his blood.
スパロウにアロウ、フライにアイ、フィッシュにディッシュ、韻を踏むことが新しいイメージを生み、それによって、どんどん不気味さのレヴェルがアップしてゆくようではありませんか?
もりのなかのジプシーと/あそんじゃだめとかあさんはいった
もりはくらく くさはみどり/タンバリンもってサリーがきた
わたしはうみへ─ふねはない/十シリングでしろいめくらのうまをかい
せなかにとびのりたちまちかけさる/サリー わたしのかあさんにいって
もう二どとうちにはもどらないって
My mother said that I never should/Play with the gypsies in the wood,
The wood was dark; the grass was green;
In came Sally with a tambourine.
I went to the sea?no ship to get across;
I paid ten shillings for a blind white horse;
I up on his back and was off in a crack,
Sally tell my mother I shall never come back.
マザー・グースのなかで、わたしが特に気に入っているうたです。入ってはならない場所、接触してはならない人、<禁止・禁忌タブー>の強さが、不安感をもたらしますが、その不安感には、どこかしら誘惑の甘さがあります。ナンセンスの空洞をくぐり抜けると、原初の濃密な感情や、<意味>よりも深くて重い<存在>そのものが揺らめいているのです。
●いかれてるのはいいことだ●
くるったおとことくるったかみさん/くるったまちにすんでいた
ふたりのあいだにみつごがいたが/ひとりのこらずくるってた
くるったおやじにくるったおふくろ/おまけにくるったこどもがさんにん
みんなくるったうまにのり/くるくるくるってはしりだす(以下 略)
There was a mad man and he has a mad wife,
And They lived in a mad town.
And they had children three at birth,/And mad they were every one.
The father was mad, the mother was mad,/And the children mad beside;
And they all got a mad horse,/And madly they did ride.
うーむむむ、徹底している。この家族、後半では地獄の入り口にたどりつき、こわがるどころか浮かれ騒いで悪魔をがっかりさせてしまいます。一見<秩序>の埒外にいるかに見える悪魔でさえも、固定した<意味>や、ある<秩序>なのだということを、くるった家族が照射するのです。ナンセンス=狂気=生命・混沌・システムを打ち壊す圧倒的なパワー。そういうところが魅力なのです。
★そのに ナンセンスの巨人たち
●武井武雄大先生●
武井武雄大先生は1894〜1983大正から昭和後期にかけて童画家、童話作家として活躍された大先生であ〜る。この方のぶっ飛んだ、それでいて、おっそろしく洗練されたセンスは、日本のこの世界で、いまだ並ぶ人がいないのではないか、とわたしは思っている。世界の中でも相当なレヴェルなのではないかなあ。
ひねた幼稚園児だったわたくしが、いつも楽しみにしていた至光社の「こどものせかい」の扉絵を、しばらくの間担当されていたのが武井大先生であり、初山滋、いわさきちひろ、柿本幸造など、他の豪華な執筆人とともに、わたしの脳髄の、言語と美の領域を刺激してくれたのでありました。
その武井武雄大先生を紹介したいというのもあって、この企画を考えたのですが、なんと!! もっとも紹介したかった「ラムラム王」(銀貨社)という長編童話が、ただいま行方不明!! がっかり…。そこでナンセンス度は少し弱まるのですが、同じ時期に銀貨社から復刻版で出た「あるき太郎」をご紹介しましょう。
みなさんさあよういはできましたか。あるき太郎がいまきしゃにのります。
いっしょにたのしいたびをしましょう。
物語のはじまりはまあまあノーマル。「パパもママもごきげんよう」と言っているあるき太郎は、この本が昭和2年の刊行だということを考えるとずいぶんハイカラです。(ハイカラということばが古いか。)いいとこの子です。
「ポッポステーション」から、ハトの車掌の汽車にのり、あるき太郎は出発します。では、このお話の中のへんてこりんなところをどんどん箇条書きであげてみましょう。
脈絡もなく、次から次へと、ゆかいでへんてこなイメージが飛び出してくるところ、さすがはナンセンスの王様です。いろんなものから、つくづく自由です。「ラムラム王」はこれよりもっとすごいのですが、この人の話が、ナンセンスの王道を突っ走っている、とわたしが思う理由は、教訓の匂いがほとんどしないということなのです。たとえば、このお話のラストを引用してみると…。
ひとりたびをぶじにおえて かえってきたあるき太郎のかおをごらんになって、おとうさまやおかあさまはどんなにおよろこびになったでしょう。
「あるき太郎さん、りょこうでいちばんなにがおもしろかったの」と、おききになったとき あるき太郎はすぐにこうこたえました。
それはあるくことです。あるいたおかげで ぼくはいま てっぽうだま太郎よりつよいんですよ。」
えー、なんと、これでおしまいなのぉぉぉ?? あんなにいろんなことがあったのに、それしか感想がないのぉぉぉ?? すごすぎます。アナーキーな感じです。この圧倒的な虚無感というか、肩すかし感というか、腰くだけ感。または何かを土台から破壊したような感じ…。を味わいたい人は、ぜひ、武井武雄大先生の作品を読んでください。「ラムラム王」は、言っとくがもっとすごいよ。
●スズキコージ大先生●
別役実の「コト・カトラさんの幻想植物園」をご紹介したとき、挿絵を描いていたスズキコージ大先生の名前にふれましたが、今回は、主役です。1948年生まれのスズキ大先生は、自分ひとりで、そうとう「イッチャッテル」絵本を何冊も世に出しています。「うしバス」(たぶん福音館)「山のディスコ」「山のかいしゃ」(たぶんクレヨンハウス)。あー、わたしはどれももっていない。インターネットの通販では、たぶん手に入れられるのですが、街の本屋さんにはスズキーコージ大先生の本はあまり見当たらないのです。きっと、危険物扱いなのでしょう。今回紹介するのは、1996年クレヨンハウス発行の「うみのカラオケ」です。たぶんアクリル絵の具かなーとおぼしき、ラテン系の強烈な色彩。ストーリーは、いたってシンプルですが、そのシンプルさと絵の強烈な生命感が相俟って、つよ〜いナンセンス感覚をみなぎらせている作品です。紹介は、スズキ大先生本人のあとがきの文章がおもしろいので、そのまま引用してしまいます。
今までに絵本で「山のディスコ」「山のかいしゃ」と大傑作を生み出して、今度は「山のカラオケ」にしようかなと思ったが、まてよ、この際「うみのカラオケ」がいいんじゃないかと思ったのです。
街のカラオケはあまり好きではないのだけれど、(どちらかというと、生ギターやタイコのほうが、つくづく素敵 !)、友人達と、カラオケに行く事がたまにあるのです。(中略)
今回の絵本では、タイが、「大漁節」を歌うなど、ちょっと不条理な世界から始まり、やはり、カラオケぎらいな人も入れるとおもしろいと思って、舟木君(舟木一夫からはいしゃく)を登場させました。
又、まてこさんの歌う曲を何にしようかなと、考え、やはり美空ひばりの「港町十三番地」がふさわしく、これしかない決定でした。(中略)
僕は海につかって浮遊しているのが好きなので、よくあおむけにプカプカ浮かんでいる人間を見たら、死人ではなくて、僕なのでよろしくどーぞ!