中島 義道 著
『哲学の教科書 思索のダンディズムを磨く』
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このところ「教科書」について議論が喧しい。その内容や経緯はよく知らないが、一連の動きは、教科書に印刷されたことだからといって、何も考えず鵜呑みにしていいわけではない、ということを教えてくれる。
さて、本書『哲学の教科書』は、7歳のときから「私」や「死」について悩み苦しんできた「哲学病」の著者が、その修羅場に他人を引き込もうとした「悪趣味な書」である。そして通常の入門書と違い、哲学の解説ではなく実技の方法を自分自身の個人的な実感に基づいて書いたものである。
本書は最初に、哲学とは何でないかを説明する。そして、次に哲学と何であるか、哲学固有の問いについて語る。中で、私が最も興味を持ったのは、時間についての問いである。
時間には現在しかない。これは納得できる。だから、未来は存在しない。これもわかる気がする。私は、将来確実に起こる出来事とは死しかない、とずっと思っていた。しかし著者は、その死さえも未来の予測として確実ではないと言う。いままで何百億回人間が死んだとしても、それは次の1回を保証するものではないのである。過去のデータをどんなに積み上げても、未来を存在させることはできないのだ。
私たちが未来と考えることは全部、未来そのものでなく現在の「未来に対する信念」「期待」にすぎない。
過去もまた存在しない。過去は「現在想起」しているだけである。そして、大脳が記憶や想起をなぜできるかは解明されていない。過去は物質ではないのだから、タイムマシンで過去の世界へ行くことはおとぎ話にすぎない。
では、現在とはどういう時間なのか。1秒はさらに無限に小さい時間の点から成るとすれば、現在を把握することもまた、非常に難しい。(ここで、私は夢枕獏の『上弦の月を喰べる獅子』に出て来た話---刹那とは、全部の髪を束ねても蜘蛛の糸より細いという細髪女の髪を、一太刀で切断するとき、その最初の1本が切れる時間であるという、仏教典に由来するらしい説明---を思い出した)
哲学とは、思想ではなく文学でなく、芸術でも宗教でも科学でもない。思想家、評論家は哲学者ではありえない。知識を自明のものとすること、一つの世界像を受け入れ常識を前提とすることは、哲学的ではないのである。
哲学的に考えると、あらゆることが「そうでない」。それでは何が哲学か。
著者によれば、それは素朴な疑問にこだわり続けること、単純な問題を、わかったつもりにならないで徹底的に懐疑することである。借り物の理論ではなく自分の実感に誠実に思索し、虚しさを自覚しつつ「鮮明に精確に魅力的に」言語化することである。
著者は、読者を哲学に誘い込むための囮として、自嘲的ユーモアを交えて職業としての哲学(研究)者になる方法を語り、東洋人である日本人が西洋哲学を学ぶ困難さを論じている。。
また、古今の文学や芸術を例にあげ(宮沢賢治、モーツァルトには哲学的なところがあり、芥川龍之介や三島由紀夫、ベートーベン、ワーグナーはそうでない)、クリプキ、デリダなどの現代哲学を概観する。
この「教科書」は、哲学の知識を学びたい人のためのものではない。日常にどうしても納得のいかないことがある人、なんでもないあたりまえのことに強く違和感のある人に、疑問への解答そのものではなく「本当の意味で自由になる道」「自分自身に還る道」を示そうとする。
その道は、どこまでいっても最終目的地に到達することはないのであるが。
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1995年5月 (株)講談社
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