J.グルニエ 著 井上 究一郎 訳
『孤島』
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ジャン・グルニエの『孤島』には9つの作品がおさめられている。そのそれぞれにおいて「私」という語り手が、旅した土地 ---- 古代の廃虚、海に張出した展望台、カスバの丘、北の町の花屋 ----- について、飼い猫について、子どものころに体験した虚無の感覚について、詩情豊かな長いモノローグを聞かせる。そのすべての底流のように共通しているのは書名にもなっている孤島=孤独な人間の魂が還る場所である。
全体がひと続きのように見えるこれらの物語は、書かれた年代では前期、後期に分かれている。とりわけ島に関係の深い5編がおさめられた『孤島』の単行本初版が出たのは1933年、著者が30歳を過ぎた頃で、この部分が前期に属する。すでに作品には、世捨て人のような隠れた生活への志向が見られ、希望といえば、まったく偶然に訪れ人生を啓示する特別な瞬間を期待することだと書かれている。
大海に漕ぎ出し、嵐や怪獣におそわれる苦難の末に楽園の島にたどりつく伝説はどこの国にもあるが、この随想とも小説とも決めがたい作品の背景にあるのはそんな世俗的な夢の島ではなく「霧にけむり、危険な暗礁にふちどられ」荒涼とした無人島である。中でも強い印象を受けるのは、若者と病んだ肉屋との対話を描いた『イースター島』だ。
肉屋は、肝臓の病気にかかった理由を「私」に語る。かれは夕方カフェに仲間と飲みに行くだけでなく、
<「じつは、朝のうちに私一人で出かけるのがたのしみになってしまってね。人が誰もやってこない時間にはいって行って、カウンターでアペリチフをいっぱいやる。それが私にどんなにたのしみだったかは、とてもあなたに口ではいえない。そうですね、私が自由だという感じ、ほかの連中のように機械じゃないのだという感じでしたよ。」>と告白する。
いよいよこの世を去るという時になって、肉屋は一人だけで死なねばならない恐ろしさと生へのなごり惜しさにとらわれている。
<私たちはよく散歩した。肉屋は、それまでの生活でおそらくどんな風景にも気をとられたことはなかったのに、いまはなんでもないものの前で、長々と立ちどまった。人間たちから拒まれたある支えを物に求めていたのだ。>
<突然、意味のない言葉の途中で、そして私が自分の夢想にふけっているあいだに、肉屋は彼の手を私の手の上におき、長いあいだそのままにした。私の心臓はあわただしく打ちはじめ、目はゆかの上をじっと見つめたままだった。やっと出て行くというよりも逃げだすことができたとき、私は彼の目が涙でいっぱいなのを見た。おそらく私はそれまでほとんどくるしい思いをしなかったのだ。なぜなら、そのとき以上にくるしい瞬間を生きたことがあったとは思われないから。>*
若者は、他に何の共通点もない肉屋と、死の恐怖を共有することによって会話を続けてきたのだが、その時、自分のそれは好奇心にすぎなかったこと、自身もまたいずれ死ぬべき人間であることに気づく。肉屋の死に直面した苦痛が初めて彼に感じられたのである。
この一編は、他の作品よりもずっと小説らしい客観的な記述で、絶望と孤独にさいなまれる人間の姿を、対照的に生の時間を十分持った若者の語り手の目をとおして描いている。平凡なありふれた死の風景でありながら、身震いさせるような洞察の言葉が読む者に迫ってくる。体が健康なままで脳が冒されるのと、最後まで正気を失わずに体が衰えていくのを感じるのと、どちらがましなのか、どちらも苦しいことだ。しかも、誰もが選ぶことも避けることもできないのである。
本書の最初と終わりに配された残りの3編が書かれたのはそれから20年近くを経てからで、熱っぽい調子や不安定さ、鋭い懐疑は影をひそめ、過ぎてきた地への懐かしさがあらわれてくる。どこか遠くではなく今いる場所に自分の島を見つけ、そこから静かに世界を観照する語り手の姿に安堵を覚える。ごく荒っぽく分ければ、初期の作品は文学的であり、後期はより哲学的である。
初版訳者あとがきに、フランス国内でもほとんど無名と書かれているグルニエだが、改訂版あとがきによると、最晩年になって権威ある文学賞を受賞し、大いに評価が高まったという。生きているうちでまだ幸運だったという見方もできるが、隠れて生きることを模索したグルニエのことだから、そんな世評の変化にも超然としていただろうと思われる。また、非常にていねいな訳註や、原著者との交流などが書かれたあとがきの文章からは、翻訳者の本書への並々でない共感がうかがえて興味深い。
原書は1959年に アルベール・カミュの序文が添えられた改版として出版されている。
------------------------------- * グルニエは、その作品よりもむしろ、カミュのアルジェ高等学校時代に始まる生涯の師として知られていた。カミュが師にささげた作品『表と裏』の一編<皮肉>の中で、皆が映画に行くのに目が悪いため一人置いていかれる老婆には、この肉屋が投影されているように思われる。また、「私」が朗読するローマ皇帝列伝の記述、
<ある犠牲者が祭壇で殺されようとしているところを見たカリグラは、木槌をわしづかみにして、その犠牲奉納者をなぐり殺す。ある日、カリグラは、ある訴訟の被容疑者たち、証人や弁護人を含むすべてをこう叫んで殺させる、------ 「彼らはすべて同様に有罪者である。」>(『イースター島』)
この部分は、『異邦人』の主題を思わせ、若い頃のカミュに与えたグルニエの影響の大きさを推察することができる。こうしたことは、すでに研究者によっていいつくされているのかもしれないが。
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改訳新版
1991年2月 (株)筑摩書房 筑摩叢書
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