串田 孫一 著
『呟く光と翳』
-----------------------------------------
もうだいぶ前のこと、ある洋菓子の雑誌に串田孫一がバウムクーヘンを作っているところが載っていた。雑誌といっても定期刊行のものではなく、綺麗な写真と読み物のなかなか凝った編集の本である。
バウムクーヘンは普通、手作りするような菓子ではない。けれども串田さんは、あのつなぎ目のわからない年輪の作り方を調べたり想像したりして、子どものような好奇心で、実際に拵えてみたのだ。
串田さんが考えたバウムクーヘンの作り方。まず、粉、卵、バター、砂糖をよく混ぜ合わせて、ホットプレートに丸く流す。その薄焼きの底がいい色に焼けて表面が乾いてきたら、裏と表をひっくり返す。そして色付いた上面にあたらしいケーキ種を薄く流す。以後、底面が焼けたらひっくり返してその面にあたらしい種を流すことを繰り返して徐々に厚くしていく。輪にはならないものの、焼き上がって適当に切ると、その断面が木目のように層状になっている訳である。仕事部屋の書棚を背景に完成したお菓子の皿を手にした、串田さんの得意そうな笑顔の写真が記憶に残っている。
* * * お茶をいれかえたし、ちょっと何かつまもうか。ある日、いつものように書斎で仕事をしながらそんな気分でいた「私」のもとに、近くに住む幼い女の子がお使いとしてやってくる。母親から手作りの菓子を届けるようことづかってきたのだ。もちろん、渡すときのあいさつも教わってきた。だが、彼女はそれを忘れてしまった。そんな時は、先回りしたりせかしたりせずに、その口から言葉が出てくるのをじっと待たなければいけない。
「あのね、ええとね…」そして、彼女は何といったか。どんなへそ曲がりでも微笑まずにはいられないそのすばらしい口上を、「私」はこの文章の題となった「手作りの傑作」である、と賞賛する。そして、いつかお返しにバウムクーヘンをつくって持っていこうか、と空想する。
『呟く光と翳』は、最近数年の間に、さまざまな新聞や雑誌の求めに応じて書かれた文章を集めた随想集である。随筆を読むとき、私達はそれが書き手の体験であることを無意識的に想定している。だが、考えてみれば事実でなければならないきまりなどは、どこにもない。この作者の著書には、随筆と創作とのどちらともつかない文章が案外多く、そう考えると「手作りの傑作」の意味も複雑になってくる。
三十年、四十年前の文章を読み返して、作者は、こんな生き生きした文章はもう書けない、と思ったという。たしかに、かつての登山や旅の随想での変化に富んだ光景と比べると、この本に出てくるのは仕事部屋の中や庭先、あるいは郵便局くらいまでの道で出会う人や風景の話、そして記憶の中の物語がほとんどである。
しかし、その文章から変わらずに聞こえてくるのは、自然の中にある音だ。例えば風に鳴る木の梢。雪解け水の速い流れ。雉鳩の鳴き声や昆虫の羽音。声高に話す人はいない。便利な機械の音も響かない。そこでは、人間は一人で考えこみ、ようやく聞こえるかすかな物音や過去の声に耳をすます。とはいえ、油断していてはいけない。この作者は思いもよらないところで、読者を驚かせたり、吹き出させたりする仕掛けを施す名人だからだ。例えば甲高い天使の声で。
機械や道具の便利さが当然になると、人は考えることをやめてしまう。知恵や工夫が必要でなくなる。機械の力を借りていながら、傲慢になっていく。そのことに作者は疑問を呈する。「…便利そうな道具は、失敗が見えないことで、私達の気持ちを操るものが多い。他人には勿論、自分にも見えない失敗のない好都合の道具に取り囲まれてしまったら人間は何をし始めるか分らない。」他人には厳しい非難の目を向け、自分の失敗はごまかしてしまいがちな心を、見透かされているようだ。
手作業で生み出されるものは、機械生産の効率や精密さは持たないかもしれないが、作り手の人間に漲るような満足感をもたらす。この作者の自然や人間の観察、書物、物や道具、それらについてのすべての文章は、他に依存しない行為から生じる価値について書かれているように思われる。だから、作品にあらわれる「私」は、常に自由で孤独だ。
詩人でもある作者の文字や言葉使いの好みへの厳格なことは、作品のはしばしから知られるが、そうした錬磨を経て取り出された文章には、難解なところはひとつもない。しかし、なにげない表現や感想の言葉に多くの意味が含まれていて、背後の世界が持つ豊かな広がりを想像させる。私は、その平易でしかも洞察にみちた文章の秘密を解くことができたらと思ってきたが、到底解明はできそうにない。
---------------------------------
1999年10月 筑摩書房
---------------------------------
書棚/HOME