片岡 義男 著
『コーヒー もう一杯』
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引越しの時のままの段ボール箱から別の本を捜していて、薄い角川文庫の本書が出てきたので読み始めた。この著者の作品は、そのドライな軽快さが軽薄と受け取られてなのか、さかんに本がでていた頃も、店頭ではあまり見かけなくなった現在も、文壇のようなところからはほとんど無視されているが、20年前の文章が、今なお少しも古くない。
これまでに、文庫本を整理、つまり捨てる機会は4、5回あり、それをくぐりぬけてきた本だから、私の判断としてはかなり再読に耐える作家なのである。小説では、深刻な心理や複雑な人間関係は描かれず、独立して生きる男や女が、お互いに一定の距離を保ちながらときどき親密になったり、また離れていったりという淡白な関係で出てくるだけで、むしろ作者が本当に書きたいのはその時どんな風が吹き、オートバイにどんなステッカーが貼ってあったかということであるらしい。会話がさすがに気取りすぎていると感じられる小説よりも、随筆のほうが入って行きやすい。
今度読みなおして、著者の父親が日系アメリカ人であることや、自身も子どもの頃アメリカ語で育ったという箇所に、そうだったかと納得するところがあった。著者の、常識や社会通念にとらわれずに、日本の風土や人々を外からというより地球の中の一つの島として眺める視点は、そのあたりから来ているのだろう。アメリカの物質文化についていろいろ語っているが、単に礼讃しているわけではない。「度はずれのした破廉恥なずるさを、さも正義のように言いたてて押しつけてくるのがアメリカだと思っていてまちがいはない。」などと、さらりといってのけてもいる。(「いま、ここにある、自分の場所」)
ヘミングウェイについて、こんなふうに書かれている。
「『キリマンジャロの雪』のなかの、不眠症の恐怖みたいなことについての一篇を読みなおしてみた。まあ、なんという不器用な、ぎくしゃくとした、つらそうな文体であることか。ヘミングウェイの文体は力強く簡潔で男性的、ということになっているのだが、ぼくにはそうは思えない。」(「雨の夜のドライジン」)私にも『海流の中の島々』の最後がどうにも痛々しくて読めなくなったことがあるだけに、同感だ。
ペーパーバックの辞書について書かれたところもいい。ランダム・ハウスの英英辞典について「きわめてすっきりしたデザインだ。現代の先端をいく、という感じがほど良くただよい、しっとりとした落着きは、内容の充実をおのずから語っている。そして、雰囲気や印象は圧倒的に軽い。」それに対して日本の辞書がもっとも重視しているのは、「ぼくが感じているかぎりで言うなら、これは一生懸命つくった辞書ですよ、という点」だという。(「辞書とポパイとミッドナイト・カウボーイ」)
著者は、1年ほど使うとくたびれてくるペーパーバックの辞書の同じ新品を買ってくる。そして、元の古びたほうは本を読むときに座る椅子の下にころがしておく。そうすると、まだしばらく役に立つのだ。ここを読むと、庭に面した明るい場所に置かれたイームズか何かのパイプ脚の椅子の下に、白い表紙が少しめくれた小ぶりでぶ厚いペーパーバックがほうりだされているところが目に浮かぶ。消費者にとって役に立つ「物」と割り切った、本とのつきあいが新鮮だ。
ロスアンゼルスのディズニーランドのなにもかもがよく出来たレプリカである「薄気味悪さ」を指摘した文章に共感をおぼえる。書かれた当時は、浦安のディズニーランドは開業前。日本にあるのは、レプリカのそのまたレプリカだというのに、人々の圧倒的人気を得ているその不思議さを思わずにいられない。
ハワイが急速にカリフォルニア化して、かつてのハワイらしさを失っていく様を綴った「ブルー・フォ・オールド・ハワイ」や、水質浄化の引きかえにコンピュータで徹底的に管理されることを余儀なくされたオレゴン州のウィラメット河について書かれた「あの河はいまコンピューター」などは、最初に読んだ時の印象が全くないことを考えると、私自身の興味のあり方が変わったのかもしれないし、単に、日本がアメリカを20年遅れて追いかけているということかもしれない。東洋人がアメリカで教育を受けることについての文章も示唆に富んでいる。
「アメリカにおいてアメリカ人として教育を充分に受けた状態とは、このようなエネルギーを新陳代謝させつつ常に自分の内部にたくわえ持ち、社会という他者にむかっていつも全開に保つことが自然にできるような状態を言う。」(「チャイナタウンへの坂道」)ここでいわれているエネルギーとは、英語という言葉を駆使して、有意義な存在である自分を売り込む能力や意欲のことだ。
ほとんどが、原稿用紙10枚くらいのみじかい文章だが、そのひとつひとつについて書きたくなるくらいに、小さな発見の楽しさが隠されている。著者の語り口をまねていえば、「きわめてすっきりした文体だ。流行に左右されない新しさ、という感じがほど良くただよい、対象への醒めた距離感覚や何にもとらわれない現実認識は、作者の立場をおのずから語っている。そして、雰囲気や印象は圧倒的に軽い」とでもいうような。
いい意味での受け身な感じ、受容力の大きさがあり、それが作品の空間の開放感につながっている。人間関係の葛藤など相対的に限りなく小さいものになってしまう。それが物足りない人には、まったく面白くないということになるのだろう。あるいは、軟弱さと誤解されるのかもしれないが、読んでみると優しさや甘さとは無縁だということがわかる。
久しぶりに読みかえして、自分のものの見かたに思ったより影響を受けているらしいということに気がついた。なにも考えずに、ただ字面を追うだけでも生理的な快感をおぼえる。そういう書物は、たくさんはない。
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1980年10月 角川書店 角川文庫刊
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