池田 満寿夫 著
『美の値段』
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西新宿の安田火災東郷青児美術館へ行くと、薄暗い特別展示室に3枚の絵が飾られている。セザンヌの<りんごとナプキン>、ゴーギャンの<アリスカンの並木道、アルル>、そしてゴッホの<ひまわり>である。もっとも、3点が揃っていることは少なく、いずれかが内外の展覧会へ貸出されていることが多い。
1987年に、安田火災が<ひまわり>を58億円で落札した時には、かなり話題になった。バブル経済まっただ中にあっても、一枚の絵画にこの値段は、あまりに現実離れしている、ほとんどの人がそう思っただろう。
<ひまわり>の値段について、本書で池田満寿夫は < 百数十億のジェット機一台とゴッホの絵とどちらが価値があるか、と問われればもちろん「ゴッホの絵のほうが価値がある」と答える。> といいきっている。確かにそう比較されると説得力がある。
芸術家は、金銭のことにこだわらないのが日本的美徳だとされるところだ。その風潮をあえて破り、本書で、池田満寿夫は美術品の商品としての価値について、当事者の視点で様々な角度から率直に語っている。もちろん、それは画家としての自信に裏打ちされたものである。彼の考え方は明解だ。
「私は昔から画家に対する最高の賛辞はその作品を買うことであると信じている。」
無名の時代、池田は一枚100円で銅版画を売ったことがあるという。その版画は、後には数十万円で取引きされるようになった。
いったん画家の手を離れた作品は、商品として流通しはじめる。後になって、売値の何十、何百倍の値段がついたとしても、画家のもとには一銭も入ってこないのだ。だから、最初に絵を売る相手が重要であり、その主な相手である画商との関係が、作品の価値を左右する力を持つ。
本書で池田満寿夫は、日本の画商が欧米に比べ、画家と共同で作品の価値を高めていこうとする力量に欠ける、と批判する。画家の才能と将来性に賭けるよりも、早く売って資金を回転させ、目先の利益をあげることだけを考えているというのである。東京の地価が高いため、在庫を抱えると絵の値段よりも経費がかかることも影響しているだろう。しかし、画商ひいては一般コレクターや国民性そのものが、極めて保守的であることにも原因がある。
人は何であれ、評価の確立したものを好む。日本では特にその傾向が強い。ブランド信仰であり消費主義である。将来性に賭けたり、世間的に認められていないものに自分だけの価値を見い出すなどということは、稀なのである。美術に限らず、音楽家でもバレエ ・ダンサーでも、有名なコンクールに入賞しないと、一流とみなされないのも同じ理由だ。
現代美術の中心は、アメリカにある。そして、ジャスパー・ジョーンズやジャクスン・ポロックの、果たしてこれがアートなのかと疑うような作品に何億円もの値がつくようになったのは、ひとえに力のある画商が彼らの独創性を認め、世界中に売り込んだおかげなのだという。
アメリカ社会が矛盾に満ちた暗黒の部分を持つものであるにしても、こうしたアメリカの夢が実現されていくところに、底知れない懐の深さがある。最初にニューヨークで認められ、10年以上アメリカに住んだ池田満寿夫は、それを誰よりも知っていた。その彼が、閉鎖的で日本画優遇の市場しかない日本に戻ってきた経緯が知りたくなってくるが、それはこの本には書かれていない。
池田は、生前、たびたび画風を変えている。ピカソの生き方を意識していたのだという。晩年陶芸に凝ったのも、それに関係があるのだろう。ピカソに似ているといわれると、「もちろん、私は影響されてますから」と答える、と書いている。ピカソに対する共感は、その芸術性だけでなく、自分の作品の値段を自らコントロールし、売れる絵と芸術的価値の高い絵を描き分けた、非凡なプロデュー スの才能に対してでもある。
個性と独創性は違う、と池田はいう。現代の独創性は、美術なら美術界の歴史や構造、現在の流行などあらゆる情報を知り、その上で全く違った新しいものをつくり出すことなのだ。
池田満寿夫と青年時代からの友人である編集者の安原 顯は、池田について、
「停滞を嫌い、何にでも果敢に挑み、挑んだからには気の済むまで遮二無二努力をする人間だった」*
と書いている。
* 安原 顯 著『やっぱり本は面白い』 1997年、ジャパン・ミックス(株)
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1990年5月 (株)光文社
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