カズオ・イシグロ 著 飛田 茂雄 訳
『浮世の画家』
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幼い頃の記憶を、私達はどれだけ止めていることができるだろうか。私自身、断片的ながら思い出せる場面はいろいろある。幼稚園の先生が読んでくれた本のこと、青い屋根の家と赤いチューリップの絵を描いたこと、友だちの家の土蔵に鎧や兜がしまってあったこと。夜のサーカスで見たオートバイの曲乗り。クリスマスにはキリスト降誕劇をやったが、その他大勢の精霊役だったことや、サンタクロースが園長先生だったのも覚えがある。ただし、それらはごく狭い自分の回りの世界だけであって、その外側にどんな社会が広がっているのか、当時は全くわかっていなかった。誰でも同じようなものだろうと思う。
日本に生まれ、5歳で英国に渡って以来一度も戻らなかったイシグロは、本書で幼少時の記憶とおそらくは両親から聞いた話、そして小津安二郎の映画などをもとに造形した日本社会を描いている。その世界は、観光絵葉書の写真か映画のセットのように作り物めいて現実感がないが、どこか郷愁を誘う情緒的な風景であるのは確かだ。しかしそれ以上に、この小説の真価は、架空の世界に生きる人々の感情が、国や時代を超えて普遍的な確からしさを持つところにある。
舞台は、戦後の混乱が残る時期の東京近郊らしい都市である。主人公小野益次は引退した画家だ。成功し画壇で影響力を持っていた彼は、国威発揚に協力する言動をしたため、敗戦後は自責の念から「隠居」している。上の娘は安定した結婚生活を送っていて孫の一郎と遊ぶのが画家にとって気晴らしだが、下の娘の婚期が遅れていることが心配の種だ。もう一つの気晴らしは、かつて歓楽街があった瓦礫の町に残ったマダム川上のバーで、昔の弟子の1人と酒を飲み思い出に耽ることである。弟子の中でも将来有望だった青年達は、今では彼のもとに寄り付こうとはしない。
物語は2つの時系列を行き来しながら進んでいく。一つは1940年代末の現在として、次女の縁談を巡る出来事が綴られる。もう一つは小野の青年時代からの過去の記憶である。小野の心は折に触れて過去へ向かう。イシグロは人間の記憶がいかに不確かで恣意的なものであるかを、小野を通して浮かび上がらせる。
縁談が不調に終わることへの気掛かりは、自分の過去が原因なのではないかという疑いとなって、小野を不安に陥れる。そして後半、万事好都合に進んでからは、過去の追憶も次第に肯定されるようになる。やがて小野は、自分達は信念に従って正しいことをしたのだから、それに満足し誇りを持つことも許されるはずだ、ただ運が悪かっただけなのだ、と考えるに至る。イシグロは、自分を正当化しなくては生きて行くことができない人間の心の動きと、それがしばしば本人だけの思い込みであり他人の認識との間には差異があることを、細密に冷徹に描写する。
画家に感情移入して読んできた読者は、かれこそが独善家で、保身のために上手く立ち回ってきた人間であることを知らされる。しかし、振り返って考えてみれば、物事を自分に都合よく解釈すること、失敗を他人事のようにしか思い出すことができず、社会や政治を批判しながら事が好転するとそんなことは忘れたように迎合し、利益を享受しようとすること、それらは、誰もが(少なくとも私は)思い当たることだ。
画家と弟子との心理的な緊張が高まる場面で、小野はかつての自分の教えを否定する弟子の言葉を、細く開けた障子の向こうの庭木や石灯籠に降り掛かる淡雪を見ながら背中で聞く。
英雄的なところの全くない卑小な主人公にもかかわらず、読者として共感を覚え、読後感も暗くはない。それは巧みに描かれた極東の国のエキゾチックな印象とともに、歴史の過ちに対して個人が問われる責任には限りがあるという、大いなる赦しが読み取れるからである。
こうした作品の特徴は、既に著者が精神的に英国人そのものであることを感じさせる。だとしたら、人間の思考や感情は通常考えられている以上に、生得のものは僅かで、社会習慣や環境の影響が大きいということになる。祖先から受け継がれる民族のアイデンティティなどというものは幻想にすぎないのだということを、この作家の存在そのものが主張するかのようだ。
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1988年2月 中央公論社
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