R・ブラッドベリ 著 宇野 利泰 訳
『華氏451度』
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「SFの抒情詩人」というのが、いつもブラッドベリのキャッチフレーズだった。
とはいえ、翻訳を読む限り感傷的なわけでも文体が凝っているわけでもない。いつまでも色褪せない詩情は、ただ世界を空気のように満たしているのである。
ある未来社会。そこでは本を読むことは反社会的行為とされていた。
" 焚書官 " モンターグの仕事は、密告者からの通報を受け、隠されていた本を燃やすことだ。灰も残らないくらいに。人にものを考えさせる本は、すべて禁書に指定されている。
人々の夢は、四方が大画面で埋められたテレビ室を持つこと。妻は子どもを欲しがらず、その耳にはいつも音楽と物語をささやきかける「海の貝」と呼ばれるイヤホンが差し込まれている。モンターグは自分を幸福だと思っていた。
けれども10月の夜に、隣家に住む風変わりな少女と言葉をかわしたことから、かれは自分の住む世界に疑問を抱くようになる。ある日モンターグの手は、黒い蝶のように焦げたページが舞い上がる焚書の現場から1冊の本を拾い上げていた。
そして戦争が始まる。
科学技術に依存する社会に警告を発し、活字文明と人間の精神の自由の深い結びつきを訴える作品を書いたブラッドベリだが、その文章は非常に映像的でまさに映画のシーンを観ているかのようである。
読みながらありありと思い浮かべることができる。ファイアマンたちの詰所の隅にうずくまる《機械製シェパード》の無気味な緑の目を。月の光に照らされた舗道に枯れ葉が舞い、その向こうに立つほっそりとした少女が指先に持つ、季節外れのたんぽぽを。燃やすためではなく暖めるための火が照らし出す、いくつかの年老いた手を。
登場人物の性格は単純に戯画化され、決められた役割を演じているかのようだ。そのことが、いっそう発せられるせりふを先鋭なものにしている。
「だれもがいつも、仲間からの疎外をおそれている。……だれもが、ほかのものと同じ形をとって、はじめてみんなが幸福になれるのだ。」「政府が無能で、指導者ばかりやたらに多くて、税金をとり立てるのに熱中しなければならんとしても、それを国民にとやかくいわせてはいかん。とにかく平穏無事がなにより大切だ。」
モンターグの偽悪的な上司ビーティが語る小説の中の社会は、現代とよく符合する。もしも本書が90年代に発表されたとしたら、おそらくSFとは呼ばれなかったのではないだろうか。
"松明をたたき落とした" モンターグは老学者フェイバーのもとを訪れる。モンターグが持参した聖書にフェイバーはいう。「それが手に入れば、この右腕を捨てても惜しくない」
ほとんどの本が焼かれてしまった世界では、残された1冊の本が限りない重みを持っている。そしてその内容を記憶する人間は、書物そのものと同じなのだ。
そして案外、作者は本そのものにはこだわっていないのかもしれない。知の継承は言葉によるのが合理的なのは確かだが、書物という形にいつまでも固執するのは現実的ではない、それに沢山あればいいというものでもない、とも作者はいいたかったのではないか。
最近、再びこの小説を映画化する話があり、ブラッドベリ自身が新たに脚本を書き下ろしたという。もしも実現するなら、新作とともに、まだ未見のトリュフォーによる旧作もぜひ劇場で観たいものだと思う。
訳者は往年のSFやミステリーのファンには懐かしい名前だが、今読むとさすがに会話が古めかしい。もっとも、そこが良き時代のSFを感じさせないでもない。
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1975年11月 早川書房 ハヤカワ文庫刊
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