『牧師』
僕が12歳のとき友達だった牧師はおそろしく穏やかな牧師だった。だれにでもわけへだてなく優しく、貧しい人には尽し(もちろん手のひらからパンを生み出すことはできなかったが)、懺悔室で罪人を諭した。彼の金髪は波打って、背中に流れていた。その背中に羽根が生えていたわけではないが、その端正な顔の上の方ですうっと細められている目とそれが宿したひかりは正確に天使を連想させた。
その牧師が教会にきた当初、僕はちなみに、猛烈に彼が気にくわなくて、町をまわる彼をみかけるたびに石やカエルやさまざまなものを投げつけていた。しかし幾度ぶつけようとも、細められた彼の目を見開かせることはついにできなかったのである。そう、彼の笑みは、石つぶてでも崩せない笑みだった。
何月も経つうち彼と僕は、毎日草むらに座り込んで話をするくらいの仲になった。もっぱら話すのは僕のほうで、彼はにこにこして聞いているばかりだったのだが。僕の話す「おろかな」はずの自慢(大抵があれを壊した、あいつを泣かせた、というものだった)にも彼は、むやみやたらと十字架を取り出して握り締めたりはしなかったし、「アーメン」やそのたぐいの言葉は口にしなかった。僕は彼のそんな所が気に入っていた。
ところで、万引きの帰りなんかに気が向いた日は、僕は教会の窓から中を覗いてみたりした。いつも懺悔室には大なり小なりの列ができていた。街角で警棒をふりまわしているおじさんや、僕の学校の先生も時々そこに見受けられる。検事だった僕の母親がソワソワと周囲を気にしながら順番を待っているところを見かけたときは、思わず声をあげて笑い出しそうになってしまった。
もっともあの人は、端正な顔を持つ牧師にすっかりお熱を上げていただけなんだろうけど。
僕も1度だけ、冗談で懺悔室に入ったことがある。
「貴方の犯した罪は何ですか?」と彼はヴェールの奥でゆっくり問うた。僕が罪を全部告白したら、それまでにあなたのヒゲ、全部生えそろっちまうよ、と僕は答えた。その声で僕とわかったのだろう、彼はくすりと笑うと、では、その中でも最も重い罪を選んで聞かせなさい、と言った。少し迷って僕は言った。
「僕の最も大きい罪は――」
ヴェールに手を突っ込んで、牧師の細い腕をつかんだ。そしてその手の甲にキスをした。手がひくりと動いたので僕は満足して言った。「――今、おかした。」
しばらくの沈黙があった。彼の腕は僕の手の中ですらりとしたままだ。
不安になって立ちあがろうとしたときだ、彼の指が僕の手首をつかんだ。そして言った。
「神はあなたを許すでしょう。」
その台詞のくだらなさに僕はがっかりして、手を振り払おうとした。だが彼はヴェールを越えてきてこう言ったのだ――「僕もあなたを許しますよ。」と。そして唇が僕の額に触れた。
恐ろしく優しいくちづけだった。
また月日が少し流れて、僕が13歳の誕生日を迎えた日、牧師はいつもの草むらに、小さな包みを持ってきた。あけてみてください、と彼は言った。中身を十字架と想像して滅入った僕はしかし、包みを破り開けてみて驚くことになる。中はジッポ・ライターだった。彼は僕が建物の裏なんかでときどき煙草を吸っていることを知っていたのだ。
彼の笑顔を見てそのとき僕は、これが彼なりの戒めかたなのだと思ってカチンときたが、どうやらそうではなかったらしいと、3日後の夜に悟った。
それはいつもならとっくに教会が締まっているはずの夜遅く、僕がこっそり家を出て月夜の散歩としけこんでいたときのことだ。
教会の窓からぼんやりと光が漏れていた。扉を押すと開いたので、僕は足を踏み入れた。アンティークなスタンド・ライトからの明かりがひとつの人影を映し出したが、何十もある机のひとつにひとりで座っていたその男が彼だとは、最初信じられなかった。
いや、見た目ははいつもと何ら変わらなかったのだ。すらっとさりげなく伸ばされた背筋や、白いローブが似合う細身の身体や、天使然とした長髪は。
だがしかし、彼から漂ってきたのはきつい酒の匂いだった。彼から一度も感じたことの無い匂い。
僕が立ち尽くしている中で男は「ウォッカ」の瓶を傾け、さら、さらと飲み干し、コトリと机に置いた。僕はそっと彼の前に回ったが、気付く気配は無かった。彼の白い顔は白いままで、どこか壮厳としていた。開いた目がライトにちらちらと揺れるのが神々しかった。
そして彼はまた何やらを持ち上げた。僕はまたひと瓶開けるのではないかと懸念したが、そうではなかった。彼が掲げたのはチェーンに繋がれた十字架。その瞬間の彼の目は――蒼い炎を宿していた。
僕は声を上げそうになったけど、彼が十字を振り下ろすほうが先だった。パキン、ふがいない音を立てて、木製のクロスは折れ去った。2つに。
その十字架はけっこう大きくて、定位置である彼のローブの左ポケットは、その重さにいつも少し垂れ下がっていた。それくらい彼とともにあった十字架なのだ。それをいとも簡単に折り去った彼は、うすぼんやりとしたその明かりの中でもそうと言いきれるくらい、明らかに無表情だった。
僕は数秒呆気にとられたあと、男の前の机に駆け寄って思いきりパーで叩いた。
「あなた――何やってんだよ。」
不穏な音と声をあげたにもかかわらず、男の目が僕に焦点を結ぶにはそれから更に5秒ほどの時間を要した。
「……ああ、ジョセフですか。」
そういって彼は微笑んだ。
「何、やってんだよ?」
いつもと同じようで違う笑み(酒のせいかは疑わしい――40度のアルコールを流し込んでなお、彼の顔は青白かったからだ)と、棒切れと化した十字架をさっさと机から払う長い指を見まわしながら、僕は反駁した。
「何って、ケリをつけているんですよ。」
どこか恍惚とした声で、彼は言った。
「ケリって何だよ? あなた、牧師を辞めるのか?」
「ええ、そうなると思います。」
まるで『明日は曇りでしょう。』と言うのと同じ調子で彼はそう言った。僕はまた呆気にとられた。
「辞めるって――」僕は目玉をぐるぐる動かした。「辞めるって、あなた神が好きだったじゃない。だって一緒に草むらだの町なかだの歩いてるときずっと、あなたのローブのポケットの中でその十字架のチェーン、からから音たててたもの。僕にはちょっといまいましいくらいだったけど、でもあなた、大好きだったじゃない。」
焦点の合わないまま、彼の瞳は僕を映した。
「ねえ、ジョセフ。僕たちは毎日のように会っていたけど、僕はジョセフの話をきいて頷いたり、相槌をうつぐらいしかできませんでしたね? つまらない大人だと思ったでしょうけど、それは僕がお話をするのがめっぽう苦手だからなんですよ。ジョセフのしてくれた話は本当に楽しかったんです、特にとなり町のミスター・ジョージをカエルの卵だらけの沼に突き落としたっていうお話が好きだった。だけど僕はお返しにするお話をほとんど持ち合わせていなかったんですよ。でもひとつだけなら、面白い話を聞かせられるかもしれない。もっとも、沼から起きあがったミスターの頭が、カエルの卵でアフロみたいになっていた話を考えれば、面白くもなんともないでしょうけど。」
歌うように、でもそこはかとなく無表情に彼は言った。僕は何かの力にひきつけられるように頷いたが、どちらにせよ彼には関係なかったにちがいない。彼の視界にはすでに、薄暗い教会ではなく遠い昔が映し出されていたからだ。
「そう、ちょうど僕がジョセフぐらいの頃ですね、僕はジョセフと違って、まったくの甘ったれだった。両親が大好きだったんですよ、母親に頭をもみくしゃに撫ぜられてはどうしようもなく幸せな気分になったし、父親が釣りに行くときは、友達の誘いを断ってでもついていったくらいです、ジョセフにはまったく、胸がむかむかする話かもしれませんけど。ところで、父親が好んで吸っていたタバコがあったんですよ、甘い香りのタバコです。父が仕事から帰って木製のチェアに腰を下ろすと、いつもすっと母が現れて、マッチを擦って彼のタバコに火をつけた。僕も火をつけたがったけれど、母は決まって微笑んで『だめよ。』と言った。火を使うのはまだ早い、とね。でもある日、僕が13歳になったらその大役を任せてくれると、父が言ったんですよ。僕はたまらなく嬉しくて、誕生日が待ちきれなくなった。けど結局、僕にその役が任されることは永遠になくなったんですよ。父も母も、僕の誕生日の前日に殺されたんですからね。僕が日曜の教会から帰ると、ふたりとも床にころがって真っ赤になっていたんです。」
あくまで淡々と語られるその昔話は、鮮明な映像をもたらした。僕は息をのんだ。
「弁護士だった父が仕事がらみで買った恨みが原因らしい、ということでした。でも僕にはそんなことはどうでもよかった。雪の日だったんですよ。僕の家のクリーム色の壁が真っ赤に染まったのは。誰もが幸せを信じたくなるような、真っ白な雪の日だったんです。実際僕は雪の降る通りで父のタバコにもっとかっこよく火をつけられるようにと思い立って、ジッポのライターまで買っていたんですから。」
彼の目にチリチリと、先程の蒼い光が宿ったように見えた。
かと思えば、すぐに彼は(まだ、遠い所で)皮肉そうに笑った。
「さっきジョセフは、僕が神を好きだと言ったでしょう。それはまったく、本当のことなんです。両親の代わりに信じられる絶対的な存在として、僕は神が大好きになった。それで、牧師になった。僕は、もちろん、この仕事も大好きになりましたよ。だって自分の右どなりに神がいることを、いつだって信じられる環境にいられたんですからね。」
「…………。」
「僕は特に、懺悔室で話を聞く仕事が気に入っていた。本当にいろんなひとたちが、いろんな告白をしていくんです。親の死に目に会えなかったことや、ずっと昔の万引きや。恋のこと、裏切りのこと――それから、殺人もね。」
僕ははっとして顔を上げた。彼の顔に陣取っていた微笑は、影も形もなくなっていた。
「殺人だって?」
「5日前かな、来たんですよ。か細い声で、とんでもない罪を犯した、もう十何年前のことだか忘れてしまったが……と話し始めたと思ったら、突然半狂乱になって叫び始めるんです。『なあ牧師さん、俺は天国に行けないのかな!? 行けないのかな!?』とね。僕が面食らって、いったいどんなふうな罪を犯したのかと訊ねると、『人を殺した』、と言うんですよ。『子供のいる夫婦を、刺して殺した』、とね。声は震えてた。でも、間違いようはない。あれは僕が12歳のときに両親と住んでいた地方特有の、めずらしい訛りだった。」
「それってどういう。」
「僕も、まさかと思ってね。それは、雪の降る夜のことですか、と、訊いてみたんです。すると、叫びつづけていた男ははっとしたように息をのんだんです。男はこう答えましたよ。『そうだ、雪の日だった――心洗われるような。あの町に雪が降ったのは何年ぶりだったのかな。……に。』と。男が呟いた名前は、僕の育った町の名前だった。そう、彼こそ僕の両親を小間切れにして逃げおおせた、張本人だったんですよ。」
「そんな。」
「そんなことも、世の中にはあるものなんですね。僕はいつも神とともにあったけれど、正直言って、奇跡らしい奇跡にはめぐり合ったことが無かったんですよ。そんな僕にはじめて与えられた奇跡的な偶然がこれだなんて! とんでもないお笑い種だ。こんなに面白いことが世の中にあっていいものか? そう思った。実際おなかを抱えて転げまわりたい気持ちを抑えるのが大変だったんですよ。そうするかわりに僕はひととおりの決まり文句を言ってのけた。悔い改めなさい、そうすればあなたは救われるでしょう、云々! でもね、ジョセフ、彼は救われない。彼がむせび泣き、神に許しを乞い、動機、つまり僕の父親への恨みを吐露している隙に、僕はヴェールをすこし横にずらしていたんですよ。あくまで気付かれないようにね。それはもちろん牧師にあるまじき行為だし、右どなりの神にだって見られてただろうけど、まあそれは気にならない。とにかく僕は彼の顔を見た。脳裏に焼き付いていますよ。」
その男が救われないということには大いに賛成だったけれど、神の救いの手からそのふぬけた殺人鬼を叩き落そうとしているのが、他ならぬ彼なのだとおぼろげながらわかって、僕は体が冷えた。
「あなたは、親の仇をうつの? この町を出て男を追う?」
「そうですね。もちろん、そうしますよ。」
「どうして。」と僕は言いながら、本当は大して驚いてはいなかった。さっきから見まい見まいとしていたものが、窓から差し込む月光のせいで視界のなかに鮮明に、入ってきていたからだ。それは荷物。大きなボストンバッグで、彼がこの町に来たときに持ってきたものだ。
「ジョセフ、何度も言うけれど、僕は神が大好きだった。でもね、父なる彼は僕の中のマムとダッドには勝てなかったんですよ。絶対無二の存在だった彼らには。」
さて、と、と彼は立ちあがって言った。唯一のネタも話し終わってしまったし、マザコンでファザコンの中年はそろそろ行きましょうかね。いまどき流行らないよって、町の少年に笑われてしまう。
彼の目がにやっとして僕をとらえた。
すぐに彼はボストンバックをからからいわせて扉に向かったが、僕は目的もなく立ちふさがった。「行くな。」と言ったら、彼は意外そうな顔をしてから微笑んだ。
「ジョセフ。」彼はまた僕を呼んだ。平坦さのやわらいだ、いくらか情熱的ともいえる調子で。「本当のことを言うとね、僕はきみのことが好きでしたよ。」
彼の白い手が瞬く間に僕の顎を捕らえて、僕の唇はついばまれた。一瞬して放されたが、僕の口はぽかんと半開きのままになってしまった。
確かめるように唇を指でなぞっていたら、彼は子供みたいに笑ってこう言ったのだ。「きみのそんな間抜け面を見れたのは、僕だけでしょうね!」
僕はむかついて、口をむすんでから、生まれてはじめて十字を切ってみせた。彼は苦笑して、真っ黒なコートを翻した。すぐに扉の閉まる音が続いた。からから、からからとバッグの音も聞こえていたようだったけど、すぐに消えた。牧師は町を出ていった。
それから数ヶ月のうちに、教会を抜けた牧師が殺人を犯し、電気椅子に座らされるというニュースが新聞に載ることとなった。死刑執行の前には、囚人は牧師と共に最後の祈りを捧げられることになっているらしかったけど、彼には必要無いだろう、そんなことを思って僕はにやっとしただけだ。
ところで、いま僕は牧師だが、そうなってみてはじめて思ったことがある。彼は、あの牧師は、いつでも折れるようにとわざわざ木製のクロスをこしらえたのではないか。
そんなわけで僕の十字架も木製だし、同じチェーンにはジッポのライターがついているのだ。
神の左どなりで、僕らはいつでも背徳を、待ちわびている。
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