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 『リング』

 こゆびを俺に結び付けておいた。高価な銀色のリングで。彼女がアメリカなんかに行っちゃわないように。糸を離そうとしない俺にうざいとかそういう言葉を投げつけたことはなかった。ただ少し悲しそうに微笑うだけ。ずきりとするものを感じないでもなかったけれど、俺はリングを外させはしなかった。決して。
 彼女には夢があった。それのためなら何でもするわ、とその口から聞いたわけではないがそうなんだろうと思う。教室であろうと部屋であろうと、俺が訪ねるとき彼女は必ずアメリカの雑誌や楽譜を読んでいた。まっすぐ机に向かって。俺は英語も音楽も苦手だから、何が書いてあるのかさっぱりわからない。それでも彼女の目の色は読み取れた。真剣。俺とキスをするときよりずっと。俺は心底、その真剣さが怖かった。怖くて「みつる!」と声をかけると、びっくりしたように振り返っていつものふわりとした笑顔を向けた。「さとしィ」と。毎日そうだった。彼女をこっちに呼び戻しては、俺は疲れるくらいほっとした。
 みつるの夢がなんなのか、聞いたことはない。共感してしまうのが嫌だったからだ。俺たちは進路の話をしなかった。というより、会話はあまりなかったように思う。帰りの喫茶店でもキスばかりしていた。ほとんど俺のほうからだったと思うけど。
 それでもある日、俺の気持ちを知ってか知らずか、先のことをさらりと話し出したことがあった。俺はみつるの目を見て嫌な予感がしたのを覚えている。俺は臆病だった。彼女の口が「わたしね、アメリカ、」と漏らしたとき、テーブルのむこうにいた彼女の襟首をひっつかんでディープ・キスをした。椅子が足の上に倒れたけど気にしない。みつるの顔が青くなるまでした。窒息させようとしたのかもしれない。ゆっくり離した。俺は勝ち誇って「なんだい」と言った。彼女は椅子に崩れ、荒い息をつきながら弱弱しく首をふった。首筋に垂れた唾液がなまめかしくて、俺は彼女をそのままホテルに連れていった。執拗に求めるのは、やっぱり俺のほうだった。
 二日後に宝石のリングを2つ買った。夕食の約束のとき、彼女に手渡した。悲しい笑顔を見たくなくて俺は顔をふせたまま「君に、」と言った。彼女が受け取るのを待った。箱を開ける音がして、声がした。あまりに明るい声だったので、俺は顔を上げた。そこには満面の笑みが浮かんでいた。「ありがとう、すごくきれいなリング!」そう言ってみつるは両手の薬指にかたくひとつずつはめはじめた。俺は驚いた。ただそれよりも嬉しさがこみあげてきて酒を飲んだ。彼女は向かいで美しく笑ったまま俺より多く酒を飲んだ。レストランを出て俺の肩につかまったみつるが「ねえ、さとしの部屋に行きたいな」と言った。「どうしたんだい、めずらしいじゃないか」「いいでしょう? 本当に嬉しかったんだもの」俺は酔っていながらもその目になにかきっぱりとした感じを見て取れてとても喜んだ。強くみつるの肩を抱くと熱い手のひらが回されて欲情した。きしむスプリングの上で初めて彼女が情熱的に俺の名前を呼んだ。求めるのは俺だけじゃなかった。互いに3回果てて汗も粘液も気にせず眠りに落ちた。達成感に満ちた眠りだった。
 深い眠りの途中ばたんと音がして、覚めかけた意識をベッドに押し戻した記憶がある。いい夢を見ていたからだ。でも夢の続きは見れなくて、何時間かあと伸びをして起き上がった。脇のスペースがあいているのを見たときも、気の利くみつるのことだ、先に起きて朝食のひとつでも作ってくれているんだろうと思った。ベッドの脇にちゃんと彼女の鞄がたてかけられていたから。ところが台所を見ると彼女はいない。ならトイレかバスルームで、俺が起きるまで暇をつぶしているんだろう。その証拠にほら、シンクで水滴のはりついた銀色のボールが。「みつるー、起きたぞ」返事はない。全部の部屋をのぞいてみてもいない。それならそうだ、冷蔵庫に残り物しかなかったから、下のコンビニにでも行ったんだろう。俺はなんだか心もとなくて、服を着た。ジャンパーを羽織い部屋を出ようとしたとき、なんとなしにシンクのボールの中身を見て愕然とした。氷水の張られた中にうずくまるように浮かんでいるのは指だった。
 白い指。
 赤い水に浮かぶ白い指。
 こゆびには銀色のリングがかたくはめられていた。
 俺はボールをひっくり返した。赤い液がとろりと流れるのがリアルだった。震える手で小さくなった氷をかきわける。出てきたのはもう二つのリング。昨日彼女に渡した、昨日彼女がこれ以上ないくらい嬉しそうに受け取った二つのリング。
 俺はわけがわからなくなってシンクをなぐりつけた。ガン! ガン! ガツン! 何回も何十回も叩くうちに皮膚が破けた。リングを壁に投げつけた。血を失ったこゆびをつかんで振り上げて――――やめた。
 彼女の鞄の中をあさった。大学のノートと財布とペンケース。俺に宛てられたらしきものはなかった。俺は一ヶ月部屋を空けて彼女を探し回った。大学も休んだ。人に金を払って調べさせもした。それでも彼女は見つからなかった。
 俺は憔悴して部屋に戻った。細いこゆびと宝石のリングと。それだけが彼女の残していったメッセージだった。腐った指の途中でリングが銀色に輝いていた。滑稽だ。まるで外れなかったから斬ったのとでもいうように落とされた細いこゆび。公園に穴を掘って穴を掘ってあかぎれができるまで掘ってリングと一緒に投げ入れた。そしてひたすら土を盛った。
 首輪にしておけばよかったと思う。外れない首輪。それなら彼女を繋ぎ止めることができたのに。それともあの女は首を斬ってでも行っただろうか。あのきっぱりした眼。多分答えはイエスだ。
 細いこゆびと宝石のリングと。




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