古い飾り山笠の写真が出てきたのでこのページを作りました。
(2011年6月)
1980年前後でしょうか、福岡市南区の野間大池にダイエーグループのスーパー・野間アピロスが出来ました。その入口の所に師匠と共に飾り山笠を作っていました。
制作は数年間(5~6年?)続きました。

上の写真はおそらく源平合戦の一場面だとおもいます。上方に碇(いかり)をかかげた武将がいます、平知盛のようなので「壇ノ浦の戦い」でしょう。富士山が見えるのはなぜでしょう?
ここの飾り山笠はかなり高くて12mほどあったと記憶しています。福岡市で一番高い方でした。
飾り付けの時は、中のやぐらを上がったり下がったりと、かなりの重労働でした。
でも、昼食の時はビールを飲んだりして、よく落ちなかったものです。若さでしょうか。

これは看板が見れるので分かりますね、真田幸昌の武将姿です。
飾り山笠には表裏があり、表は歴史物を作り裏は漫画やテレビものなど現代的なものを飾ります。
次の写真が真田大助の裏になります。

裏は「おれ達ひょうきん族」です。懐かしいですね、「タケちゃんマン」と「なんですかマン」で、上方には教会で☓をしているおっさんがいます。

これは人が写っていますので大きさが分かります。
アンデルセン物語とあります。人魚姫・おやゆび姫・裸の王様
◆飾り山笠の飾り付け
4~5人がやぐらの中に入ります。
上から順番に建物や人物を配置します。師匠は前から指示をします。「もっと上」とか「もうちょい箱崎より」と言う具合です。
左右の指示は出しません。師匠と中の人間にとって左右は逆で混乱するからです。それで地名で「もっと姪浜の方へ移動」と叫びます。
大方の配置が決まると、岩・花・木・波などの小物で余白を埋めていきます。
完全に隙間がないようにします。
博多祇園山笠の歴史
博多祇園山笠公式ホームページより。
◆聖一国師(しょういちこくし)が始めた
諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が鎌倉時代の仁治二(1241)年、疫病除去のため博多町人に担がれた施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいた
のが始まりという説を取っています
「施餓鬼棚(せがきだな)・・・施餓鬼(または施餓鬼会せがきえ)をするためのセット(棚)。
施餓鬼・・・お盆のようなものです。死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を施し、その霊を供養する事です。時期は、盂蘭盆(うらぼん)として旧暦の7月15日(中元)に行われるのが一般的です。」
これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したということです。
時代は鎌倉、室町から戦国時代。博多の町は大陸貿易の基地として栄え、それが故に戦国大名、豪族の争奪の場となって焼け野が原となりました。その復興を命じた
のが豊臣秀吉で、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれます。
その間、博多山笠も隆盛、衰退を繰り返しました。 山笠は、古くは高さ15メートル前後のものをゆっくりと舁いていましたが、「櫛田社鑑」によると、貞享四(じょうきょう1687・徳川第五大将軍綱吉)年正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町 (土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけて一触即発 に。この場は何とか収まったが、夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走 り、これが評判を呼び、「追い山」に発展したという事です。
明治維新後も何度かの危機を乗り越えて現在の博多祇園山笠があります。
聖一国師(しょういちこくし)・・・円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。
宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山します。
櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるからです。
承天寺・・・福岡市博多区博多駅前1丁目29番9号
舁き山笠の紹介
◆舁き山(かきやま)は次の七つの流れがそれぞれ所有しています。
西流・千代流・恵比須流・土井流・大黒流・東流・中洲流・
流・・・十数か町(旧町)を束ねた組織の呼称です。
今では博多祇園山笠や博多松囃子といったお祭りで耳にするだけですが、江戸時代を通して日常生活に密着した自治組織でした。
現在の校区自治連合会に相当するといえます。
大陸貿易で栄えた博多は戦国時代、せめぎ合う大名、豪族の争奪の場となり、兵火に遭って焼け野原となりました。
天正十五(一五八七)年、その復興を命じたのが太閤秀吉で、「太閤町割り」あるいは「博多町割り」と呼ばれます。
当時も奇数の七は縁起がいいとされ、流も七つと決められました。
(「七流」のほか「七小路」「七堂」「七番」といった言い方もある)現在も「七流」ですが、往時の二つ流が取りやめ、代わって戦後に生まれた二つが加わっています。
◆舁き山の重さ
舁き山には六本の棒が通されており、一本の棒を前後4人で舁きます。横に二人ばかり付いて全部で26人でしょうか。
舁き山は1トンの重さがあると言われています。単純に計算すると一人当たり40kgです。
◆試し舁きでぶっ倒れた話
試し舁き・・・6本の棒がしっかり山笠台に固定されているか実際に舁いてみること。台にはまだ何も載っていません。
30歳の頃、私の師匠が舁き山を作っていた時、流れの役員さんの家を訪問したことがありました。その時、試し舁きに誘われました。走ったのは往復50~60メートルだったでしょう。
あまりの重さに、膝はがくがくと笑い、終わって貧血で倒れてしまいました。それ以来、よく舁くなーと舁き手を尊敬しています。
飾り山笠の紹介
◆飾り山笠は、7月1日から15日の午前0時まで福博の町、次の14ヶ所で公開されています。
千代流・東流・中洲流・上川端通・新天町・博多リバレイン・天神1丁目・渡辺通一丁目・福岡ドーム・博多駅商店連合会・キャナルシティ博多・川端中央街・ソラリア・櫛田神社
現在、野間アピロスはありません。
千代流・東流・中洲流は飾り山笠と舁き山と同時に二つ所有しています。
櫛田神社に向いた面を「表」とし、その裏側を「見送り」と呼びます。
それぞれ 博多人形師による絢爛豪華な人形が飾られ、「表」には武者物、「見送り」には童話やテレビアニメが題材になることが多い。
◆以前は高さが15、6メートルあった山笠を舁いていましたが、明治時代に電気の普及による電線の敷設のために実際に動く「舁き山笠」と展示用の「飾り山笠」に 分化しました。
現在の「飾り山笠」は10メートル前後の高さです。
現在は上川端通の飾り山笠のみが「走る飾り山笠」として追い山ならしや追い山で「櫛田入り」を奉納しています。
舁き山笠の見所
舁き山笠は7月10日からそれぞれの町内で動き始めますが、時間やコースの公式な発表があるのは次の3回です。
1,追い山笠ならし(7月12日 午後3時59分)
本番の追い山笠のための練習(リハーサル)です。早朝に出かけるのは苦手な方におすすめです 。約4kmのコースを本番さながらに走り抜けます。
聖一国師(しょういちこくし)ゆかりの承天寺を訪れるのも一興でしょう。
2,集団山見せ(7月13日 午後3時30分)
広い通りを走るので一番見やすいでしょう。アイスクリームを頬張りながらゆっくり鑑賞できます。 出 発点を狙うのがいいかも知れません。
3,追い山笠(7月15日 午前4時59分)
一番迫力はあります。特に櫛田神社の出発点はおすすめですが、道は狭いしなにせ人が多すぎま す。覚悟して出かけましょう。
とやかく言う私も追い山笠は一度しか見たことはありません。30年ほど前、私の師匠が一番山を作った時に行きました。夜が白々と明け始める雰囲気の中、太鼓がドーンと鳴ると「おーっ」と言う掛け声と共に山が動き始めます。自分が作った山だったからでしょうか、鳥肌ものでした。
この順番は七の流れで順繰りに回ってきます。7年に一度回ってくる一番山が誉れ高く、一番山のみが櫛田入りした時に「博多祝いめでた」の一番を歌うことが出来ます。
そのための時間を一分間余計に見ているので、59分に出発して、走行時間の計測は5時からとなります。
14日の夜から近くのオールナイトの映画館や喫茶店などは満員御礼です。 ページトップへ↑
|