堀田善衞の『インドで考えたこと』を読む。
この本が出版されたのは1957年12月19日のことであり、今は1999年であるから実に42年前に書かれた本ということだ。僕は19XX年代を把握する方法として映画史をひもとく。例えばこの本が出版された1957年はデビット・リーン監督の『戦場にかける橋』がアカデミー作品賞を獲得した年であり、シドニー・ルメット監督の『12人の怒れる男』がベルリン国際映画祭作品賞を、ウィリアム・ワイラー監督の『友情ある説得』がカンヌ国際映画祭のグランプリに輝いた年である。日本映画の方に視点を移すと、黒澤明監督の『どん底』が公開された年だということがわかる。むかしといえばむかしである。でもそんなに大昔の話でもないような気がする。
堀田善衞の語り口はひとことでいうと「淡麗」である。
なんだかどこかのビール会社が出している擬似ビール商品のコピーのようだが実際に堀田善衞の文章を読むとその淡々とした飾り気の無さに一種の潔さを感じることができる。美辞麗句という言葉があるが堀田善衞の文章はそういう世界の対極にちょこんと腰掛けて煙草の煙をプカプカふかしながら静かに笑っている。
「そんなにゴテゴテと着飾ってあんたら大変やなあ」と。
『インドで考えたこと』の中で堀田善衞は実に様々なことについて考える。アジアについて考え、アジアの中の極東に位置する国である日本について考え、インドにおける諸問題について考え、思想、宗教、歴史について考える。そして自分自身のことを考える。この本は堀田善衞自身が「行儀の悪い思想旅行、思考旅行、抽象旅行の記であるかもしれない」というように孤独な旅人の頭の中を巡る思考をつらつらと書き綴ったものである。
僕がこの本を読んで考えたことは人が物事を考えたり思考を深めていったりという事象がどのように行われるのだろうかということである。思考とは目に見えるものではなくもちろん定量化することもできないものだ。Aさんの思考力のほうがBさんの思考力よりも優れていると誰かがいう場合、僕はその「ものさし」はいったい何なのだろうかと訝しむ。確かに世の中には物事を深く考えて行動する人とあまり考えずに行動する人がいる。けれどもそれは場面場面で使い分けることが必要である。普通トイレに入るのに「入るべきか入らざるべきか?」と考える人はいない。重要な仕事を行うときにポイントを把握するためにひとまず考えることは大切なことである。そんな風に人は場面に応じて考えるという行為のレベルを上げたり下げたりする。そしてまたその場面が重要かどうかという問題も人によって違うのである。学校の先生の中には夏休みの最終日は宿題の出来ていないものにとって最後の審判の日であると考えている人がいるかもしれない。けれども学生にとっては夏休みの最初の日であろうが最後の日であろうがそれは休日である。宿題をするしないは別の次元の話でありちゃんとするものはちゃんとするし、しないものはしないのである。時間と空間を生きるものにとって大切なのはその中でいかに自分らしくいられるかということだ。いやいや宿題をやっている子どもはその瞬間自分自身の首をちょっとだけ絞めているのかもしれない。
脱線。『インドで考えたこと』の話だった。
堀田善衞はこの本の中で実にいろいろなことを考える。彼が考えるとき彼の中にあるのは何なのだろう?つまり彼が考えるときその核となっているものは何なのか?僕は堀田善衞の文章を読むといつもそのことについて考えさせられる。いろんな考え方をするひとがいることを僕は経験的に知っている。そして堀田善衞のように考える人に僕は憧れる。
その思考の流れはどこまでも自由であり、それでいていつでも本質的なものを見失わない。
『インドで考えたこと』は次のような言葉で結ばれている。
「その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、生きたい、と叫んでいるのだ。西欧は死にたくない、死にたくない、と云っている」。
日本は今どんな叫び声をあげているのだろうか?
とふと考える。けれども僕にはその声は小さすぎて聞こえない。
(TOYOKUMA)