『海辺のカフカ』
村上春樹・著

『大きな橋を渡って』

こんばんは。
村上春樹の『海辺のカフカ』。
今夜にも読み終えることができそうです。
この物語は四国の高松という場所が
舞台になっているのですが、
昨日から偶然、仕事で高松に来ています。
今は高松の小さなホテルでこれを書いています。
物語のなかのカフカ君もこんな場所に
泊まっていたのかもしれません。
明日の夜には帰ります。
大きな橋を渡って。

(2002/10/08 (火) 20:44)

 これは2002年10月8日の夜にBBSに書き込んだ言葉だ。 それから僕はここで書いた通り本を読み続け、その日の23時02分にこの本を読み終えることができた。四国の高松という場所を舞台にした物語を高松で読み終えることができたことに、何だか不思議な感じがした。なぜ僕はこの物語を四国で読み終えたのだろうかと。そこにはきっと何らかの呪縛があるに違いないと僕は思う。

 この物語は呪縛の物語である。
僕はこの物語を読みながら誰にでも呪縛はあるものだということに気が付いた。 現実の世界の中ではその呪縛に気づかずに生きている人もいるだろうし、いつでも呪縛の影に脅えながら生きている人もいるだろう。また呪縛を呪縛として、そこにあるものだから仕方ないと素直に向かい合って生きている人もいると思う。とにかく呪縛は我々の内と外にちゃんと存在する。 この物語の中には田村カフカという名前のひとりの少年が登場する。 彼が背負っている呪縛はいささかやっかいな呪縛である。 それは、
『父親を殺し、母親と交わり、姉と交わる』 というものだ。

 誰でもそんな呪縛を背負ってしまったら、どうしていいかわからなくなり、少しはおかしくもなるだろう。この物語は、呪縛の内側とその外側という二つの世界が描かれている。この物語を読む人はきっと自分自身の中にある呪縛に気が付き、カフカくんが呪縛の中でもがき苦しむ情景に共感し、考えてしまうことになる。カフカくんは物語の中で語られる方法と行動を通して呪縛の外の世界へ解き放たれる。けれども読む人が物語の登場人物と同じ方法と行動を取ることなんて不可能だし馬鹿げている。それは物語の中で何度も繰り返される言葉である「メタファー」の一つなのである。誰もが自分自身の問題は自分自身の問題として捉え、自分だけが知る方法と行動を使って、その問題を乗り越えていかなければならない。

 呪縛をかけた者は自分が呪縛をかけてしまったことも忘れてしまっているかもしれない。けれども呪縛をかけられてしまったものは、しかるべき方法と行動によって呪縛から抜け出さなければならない。この物語はそんな大切な事実を教えてくれる。

 この物語にはもうひとり大切な人物が登場する。 それはナカタさんという名前のおじいさんだ。ナカタさんはその日その日をとても単純な方法と行動によって生きている。ナカタさんは猫と会話ができる。 カフカくんとナカタさんはともに別々の動機によって四国の高松に向かう。 ナカタさんにいたっては動機という動機もないのかもしれない。 ただそこにある重力のようなものに引き寄せられてしまうのだ。 それがナカタさんに課せられた呪縛である。

 『海辺のカフカ』。
この物語の中にはどうしようもない存在も出て来る。この世の中にはどうしようもない存在もいるのだということに気が付く。たとえ物語という架空の世界の中であっても、どうしようもない存在はくっきりとその姿を現わし、この世界の闇の存在に気づかせる。どうしようもない存在にならないようにするにはどうすればいいのだろうかと僕は考える。 この物語の中にはその一つの<こたえ>があるように思われる。 それは簡単に言えば『共感する』ということだ。 共感=共に感じ合うこと。 それができれば世の中はもっと単純に形を変えることができるかもしれない。 戦争のない世界がやってくるかもしれない。 そんなことは誰でもわかっているように思うこともある。 でも、みんなそのことに気づかないふりをしているように思う。 そして、どうしようもない存在になってしまう人もいる。 自分が何者であるか気がつかずに死んでしまう人もいる。 それが人間という種に課せられた呪縛なのだろうか。

『海辺のカフカ』を読むと、 そんな負の思考回路はあっさりと破壊されることになる。 呪縛には意思はない。 意思を持つのはそれぞれに生きている一人一人の人間である。 問題は意思的に生きることができるかどうかということであり、 それが呪縛と戦うための唯一の方法である。

(2002/10/10_TOYOKUMA)


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