父の死                                         

1998.7.5

14:05

 

 父は81歳でした。男性では長寿になるでしょうか?父は若いときからヘビースモーカーで、偏食(野菜を余り食べない)大食い。だから、生活習慣病・・・糖尿病に心疾患(不安定狭心症)で薬が欠かせない状態が続いていました。父に「タバコを止めよう!!」と持ち出し禁煙。でも、父だけではありません。実は、私自身も、との時には愛煙家になっていましたし、兄もそうでした。ですから、家族中で禁煙をすることにしたのです。でも、それは、父には、手持ちぶたさになり飴玉をなめる癖になっていきました。そうです、糖尿病を悪化させていきました。しっかり先のことを予測して話し合いを持ってすればよかったと反省です。

 父が79歳の時、胃癌が発見させれました。手術の必要性に迫られたのです。癌の進行状態は、「幽門部の閉塞により食事が取れなくなる可能性も有る。もしかしたら膵臓に浸潤している可能性もある。だから、手術といってもバイパス術だけになるだろう。」というのが主治医の見解でした。

 私たち家族、特に私はその手術は拒否的意見を持っていました。何故なら、糖尿病のある体で手術をした場合、術後の縫合不全で回復どころか死期を早めることも、心臓の問題もある・・・と考えたからです。母・姉(当時はまだ健康で生存)夫婦・兄夫婦と家族会議。そこで話されたのが、手術での合併症も心配だけれども、本人の食に対する欲を考えると私たちが決めるべきではない、父自身が決めることで無ければいけないと意見が合致しました。その方が、術後に守るべき事項も父自らできるのではないかというのが結論でした。

 

 父に告知(病状を話す)するのは主治医ではなく、私が話すことで主治医も承諾してくれました。というのも、自分自身が勤めていた病院であり、私が看護師であったことも背景に有った事だと思いますが・・・・・

 父と二人きりになれる部屋を借り、父と対面。私は不覚にも、話す前に涙を見せてしまいました。それを見た父は静かな口調で「俺は癌か?」と訊ねました。「うん、手術が必要だって、でも、心臓が悪くって、糖尿も有るから・・手術した後の事を考えると、私は余り進められない。でも、手術しないと食事が食べられなくなるし・・・・」と、話し合いというよりも、静かな沈黙が長かったように感じました。最後に、父が「俺は、手術してもらおうと思う。食べられなくなるのは困る」と・・・それで私は伝えました。手術したら色々な合併症が起こる可能性が高いから、絶対に医師の指示に従って欲しい・・・父は承諾しました。1週間後には手術がおこなわれました。術後の経過はよく、回復は比較的に良く・・・・・でも、主治医が予測していたように、膵頭部に癌は浸潤。余命は数ヶ月ということでした。これについては、父には話しませんでした


 退院した父との思い出を作るために、回復を見計らって、箱根の温泉旅館に一泊旅行もしました。それから、民謡をしていた父は、その年に民謡を普及させた功労賞を武道館で受けいましたから、家族で話し合い、そのお祝いと、傘寿のお祝いを兼ねホテルの会場を借りてパーティーを催しました。一世一代の晴れ舞台、紋付袴の凛々しい父の姿と言いたい所でしたが、痩せ細った父の姿はちょっと痛々しげな感じもありました。それでも、父は大いに喜んでくれました。

 それ後数ヵ月で、食事が食べられなくなって再入院。付き切りな状態で病院に詰めました。そんな時に、父が、家に帰りたいとしきりに言うようになりました。ベッドに横になっているだけで、身動きも自分ではまま成らないようになっていた頃でした。

 多分、この数日が峠と思いました。

 家族に相談。家で看取ってやろうよ。知り合いの開業医の先生に協力してもらえば、後は、医療的(中心静脈栄養est.)なことは私が看る。ということで、救急車を手配、付き添って帰宅の途につき、途中の車内で父が・・・・「俺は、もう駄目か? 死ぬのか?」・・・私は、涙が出て、否定もなにも出来ませんでした。父は悟ったと思います。

 

 自宅では、4日間。日中の医療的世話と夜間の世話は私が行いました。

 帰宅した次の日、父が同窓兵に会いたいというので、父のメモ帳(友人など丁寧に連絡先などを整理して書いてある)を元に連絡を取り、来てもらいました。

 一方、自宅で簡素ではありますが民謡会を開くなど、家族が一丸となって父の思いを実行していきました。父は、既に、床に座ることも難しくなっていましたが、「オーオー」と喜んでいました。

 夜になると、「おかあちゃん・・・おかあちゃん・・・」としきりに呼びました。父の母親のことだろうか?それとも母のことか?と思いましたが、父は母を「おかあちゃん」と呼んでいましたので・・・でも、母を起こさず、「ここに居るよ!大丈夫だからね!!」と言うのが精一杯でした。

 4日目の昼頃・・・私は夜の看病で疲れて仮眠を取っていました。兄が、「もう逝ったと思う。見てくれ・・・」と私を起こしにきました。静かな穏やかな最後であったと・・・・

 葬儀までの2晩、父が寂しくないようにと、家族皆が一つの和室に父と共に寝ました。

 弟の死とは違い、父は本当に幸せな最期を持てたと思うし、私たち家族も父の為に努力したという満足感がありました。

 これは、弟の時の不満足さを父によって埋めてもらったようにも思いました。

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