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このページは、毎週の週報に載せているコラムを転載したものです。そのため、内容が教会内の事柄に即して語られている場合もありますので、ご了解ください。
一週間ごとに更新します。
何かについて、責任ある関わりを表明するのは、いろいろとうっとうしいものであるし、責任も生じてやっかいでもある。オリンピックに行くぞ、と宣言してプールで格闘するよりも、自由気ままに市民プールで遊泳している方がはるかに気軽だし、楽しいはずだ。カラオケで楽しんでいるだけなら、プロの歌手を目指す苦しみを味わう必要はない。子ども好きだとしても、自分が親になるよりは、他人の子どもを適当なところでかわいがっている方が、ずっと楽である。ぐずりだしたら親に返して退散すれば済む。結婚しようと告白するよりも、恋人気分でいるほうが簡単かもしれない。
けれど、そうやって避けていたら、本当にすばらしいものには出会うことがない。苦労はないかもしれないが、ドキドキするような喜びや、楽しみや、見ている人々をすら感動させるほどのあふれかえるような体験に出会うことはないだろう。ほどほどの関わりが悪いとか、劣っているとか言うつもりはない。ただ、もう一歩踏み込むことで手にできるはずのものは、決して得られないのは事実である。
神のことを気に入っていて、その教えに共感し、まあまあ親しく関わっているくらいの生き方というのも、それはそれで悪くはない。すてきな存在を近くで見ているのは、それだけでも心潤うものであり、何か勇気を与えられるようでもあり、人生の指針を発見できるかもしれない。でも、神のファンであるだけだとしたら、そこから先の世界を体験することはない。聖書は神との関わり方について、「愛」という言葉を使う。「気に入っている」のと「愛する」ことは全く違うし、「親しみを感じる」ことと「愛する」のとも大きな違いがある。愛することには責任が伴い、だから緊張するだろうし、時に重さも感ずるだろうし、でも、だからこそ見いだすことのできる特別な喜び、神と共に生きることの喜びを見ることができる。
それで私たちは、信仰を「告白」することを大事だと言い、信仰を生きていると表明することに価値を見ている。人生で初めての告白も、そして、日々に歩む中で繰り返される表明も、祝福の扉を開ける行動なのだ。
(2008.8.17)