バー「キャシー」 のこと
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| 西梅田地下街B2の一角にある | 開店30周年誌と40周年誌の表紙。つぎは50周年 |
1958.5 トリスバー キャシー開店 大阪市北区曾根崎4丁目 トリスハイボール70円
1963.4 メニューにカレーライス登場
1968.5 キャシー開店10周年 サントリーレッドハイボール100円
1969.4 大阪駅前第一ビルへ移転(現在に至る)
1978.5 開店20周年 サントリーホワイト ハイボール150円
1985.10 何故か阪神タイガース日本一に
1988.5 キャシー開店30周年 「AGEING 30」発刊される
サントリー角 ハイボール400円
1995.1 阪神淡路大震災 キャシーも半壊
1998.5 キャシー開店40周年 「AGEING 40」発刊される
2003.5 キャシー開店45周年 祝賀飲み放題パーティ開催
(阪神タイガース18年振りの優勝予定)
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2008.5 (予定)キャシー開店50周年 大阪オリンピック開催(これは幻となる)
ある日のキャシー店内風景 2000.7月某日
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| マスター塩野保男さん。頭部以外は40年前と変わらぬ | 常連のS氏。「ここは酒呑みのマナーを学んだ道場である」 | |||||||||||
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| 感謝状・表彰状の数々 | 開店前の風景。6時には常に超満員になる |
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| 01.6.26 |
「キャシーAGEING 30」に寄せた拙文(P20−21)
情報基地キャシー
私が壽屋に入ったときの初任給が一万二千百十円で手取りは一万円を切ったが、オールドは確か千六百円だったように記憶する。いずれにせよ、大卒初任給の一割以上であった。(現在の感覚でいうと一万五千円というところ)。だから早く給料が上がって、角やオールドを飲めるようになりたいと思った。残業の帰りにキャシーに立ち寄り、トリハイ(当時まだ水割りの習慣はなかった)で塩豆をかじりながら棚に並んだ亀甲型の角や黒いタヌキを憧憬のまなざしで眺めたものだった。
キャシー創業のころはまだ戦後は終わっていず、今の駅前ビルあたりは廃墟の混乱が残っていた。キャシーの店は2号線に面して、いま古本屋が並んでいるあたりにあったように記憶している。私は当時東京勤務だったので、そんなに通ったわけではなかった。時々労働組合東京支部の役員として全国中央委員会などで来阪した時、会議のあと大阪駅二十二時発の夜行寝台車で帰京するまでの時間をキャシーの止まり木で白札のハイボールにオニオンスライス(三、四年たって少し格が上がった)をアテに在阪の仲間と、会社の現状や将来のありかた、経営トップ層の批判など元気のいい議論に熱中していて寝台車に乗り遅れてしまったこともあった。
キャシーは私にとっては単に飲む場所ではなかった。いろんな酒を知り、飲み方を知る道場であり、社内の情報集積・拡散の基地でもあった。
大阪に帰ってから、二十年以上になる。開高健サン流に言えば橋の下をたくさんの水が流れたが世の中ことごとく変わった中にあって、キャシーも塩野大兄もほとんど変わることがない。これは奇蹟としか言いようがない。毎月末が近づくと白い角封筒に僅かの数字の請求書が届けられる。これが私の生活のリズムの一部になっている。このリズムを崩したくないため、最低毎月一回はキャシーの扉を押すのである。
(88.4.記)
「キャシーAGEING 40」に寄せた拙文(P36−37)
前置き
この本には仕掛けがある。塩野マスターがカウンター越しに見続けてきた40年間を観察記として陳述した文章が巻頭30ページにわたって展開されていて、その観察記に記された事象に対する反証・補足・弁明を65名の飲み助の面々が執筆するという仕掛けである。ここではその観察記の部分の転載は省略したことをお断りしておく
経理課の仕事ぶり
塩野さんの証言には思い当たる部分もあったりなかったりします。
都合の悪いことは忘れる習性がついたのか、単なるアルチューハイマー症候群の兆候かも知れない。確かに当時の経理部(一課と二課があった)は無茶苦茶残業が多く、またそれを楽しんでいたきらいがありました。残業の帰り道に塩野サンとこへ寄って、終電かタクシーでご帰館、というのが普通でした。
仕事はキツイ、シンドイだけでは到底つづくもんじゃない。わが社発展のために全力あげて闘っているみたいな高揚した気分がどの部署にもみなぎっていて、しかも皆それぞれに明るかった。気持ちが前向いていた。シンドかったけどキャシーで居合わせた連中とワイワイ言うているうちに元気が出てきたし、塩野さんの合いの手のタイミングが絶妙だった。
会社がだんだん大きくなり同じ社内でも顔も知らん人が増えてきて、キャシーでしか会うたことないという人も大勢おられます。サントリーに入社してキャシーを知らんという人は人生を半分しか生きてないことになります。
わたしは在社三十八年間のうち、東京勤務の時期を除くと三十年は塩野さんの顔を見続けてきたことになりますが、素浪人になった今でも何かと用事を作っては、月に最低一回はキャシーの止まり木に休みに来ています。今のわたしの夢は孫が成人して酒飲めるようになったら、一緒にキャシーの止まり木に並んで、トリハイを飲むことですが、あと十五年か、「まだいけますわな?」塩野さん・・。
(98.4.記)