理工学部を中心に見る京城帝国大学の植民史的意味

 

李成奎(荷仁大)

序論

 

 1924年に日本帝国は、植民地である朝鮮のソウルに、京城帝国大学を設立した。それは、朝鮮半島に建てられた最初の近代的な総合大学であり、唯一の日本人と朝鮮人の共学大学だった。また、帝国日本が建てた9つの帝国大学中の6番目のもので、日本が海外植民地に建てた初の帝国大学だった。1924年に予科が開設され、26年に法文学部と医学部の二つの学部で開校された。そして1941年に、理工学部が追加された。しかし、京城帝大は、日本が太平洋戦争に負け、戦争が終結すると共に終わりを告げた。それは、非常に短命な悲運の大学だった。

 1974年に、この大学の同窓会は、782ページにのぼる膨大な京城帝国大学創立50周年記念誌『紺碧遥かに』を出版した。それから14年後の1988年にこの大学の理工学部の同窓会は、別途に京城帝国大学理工学部開設45周年記念誌として『遥かなり佛岩山』(182ページ)を出版した。この二つの記念誌こそが京城帝国大学のありのままの姿を把握するに当たり非常に有益な史料だと筆者は考える。二つの資料は、主として同窓生らの回想や証言で成り立っており、同窓会誌という特性上、そこには、生々しい表現や、偽りのない事実が記されている。本論文は、京城帝国大学に関する限り、何よりもこの二つの著書の信頼性を基盤にしている。

筆者は、この京城帝国大学の短い人生をこの大学の理工学部を中心に考察した。初めに、戦争と科学技術とが、密接に相互作用する典型的な事例を提示する。その次に、帝国日本による植民地科学技術および京城帝大での寄与(万が一それがあったなら)について言及する。

 

1.京城帝国大学の誕生

 

 京城帝国大学の設立の理念を見てみよう。朝鮮は、日本の支配において公式的には、植民地ではなく二つの国の「合併」だった。統治において内鮮一体もしくは一視同仁が叫ばれており、京城帝国大学は、理念の観点から見ると、ヨーロッパの事例で見られるような植民地大学ではなかった。戦前の日本の高等教育において最も権威があった「帝国大学」をモデルにして建てられた格の高い大学だった。東京大学の設立(1877年)に始まり、京都、東北、九州、北海道の次に続く6番目の日本の帝国大学だった。以後、台北、大阪、名古屋と続く。

 

 京城帝国大学は、×18861918(大正7)年の「帝国大学令[1]」に依拠して建てられたものであり、これによれば、帝国大学は、国家の必要に応じるために存在し、国家の近代化を具体的に企図するにあたって必要となる高い能力を持った人材を養成するという目的が明示されている。そして城大[2]は、大学の理念、教育と研究の体系、付属施設など全ての面で、日本本国の帝大と同じだった。一方、ヨーロッパ列強が建てた植民地大学の場合は、主に応用的技術科目を教えることが主目的で、基礎的学問は、本国への留学を通して実現するのが普通だった。

 

 教育と研究の体系的な側面を見てみよう。2年制の予科制度[3]が実施されて設立初年度(1924年)から2年間は、予科学生だけ存在するということになり、学部は、26年に開かれている。1926年に法文学部と医学部が開設されて、京城帝国大学が本格的に出発した。東洋文化研究の中心地であることを最大の売りにしており、後にこの方面での学問的な寄与が大きい。人数の規模においては、少数精鋭を標榜しており、教育よりは研究に重点を置いた大学だった。法文学部は、朝鮮の法律制度・経済・言語・文学・思想・信仰・風俗・美術・歴史など、言うなれば「Koreanology」の全演繹を追及した。一方、医学部の特性は、朝鮮特有の疾病または生薬の研究を行っていたことだ。

 

 東京帝国大学出身者中心の、若くて有能な一流の学者を教授陣にしている。これは、植民地における朝鮮人の敬意を得るための最適の条件を京城帝大が備えていたという意味だと考えられる。

 

 クラスは、文科ABと理系ABの4つに分けられ、文科Aは、法学専攻、文科Bは、文学(文学・史学・哲学)専攻のクラスだった。医科は、医学志望生全員が二つのクラスに分けられた。

 設立初期の志願者現況を見てみよう。最初の志願者数は、658名で、入学定員は、文科80名、理科80名の合計160名で、競争率は4.1倍だった。入試科目は、国語、英語、数学および選択科目で、文科は日本の歴史、理科は自然科学の総4科目だった。

 朝鮮人合格者は、文科A(法学)10名、文科B(文学)19名、理科16名の総45名で、160名中45名で、すなわち28%だった。日本人と朝鮮人の合格率を比較すると、日本人は、30.7%で、朝鮮人は、18.6%だった。[4]ここで見られるように、城大は、朝鮮人にとっては、羨望の対象であり非常に狭き門だった。[5]

 1925年度の予科の2期生を見てみよう。全体162名(文83名、理79名)の入学生中、朝鮮人は、44名だった。志願者数884名、競争率5.46倍で、全体の18%の合格率だった。

 当時、朝鮮語新聞である東亜日報と朝鮮日報が朝鮮人に対する「入学差別」を批判している。しかし、日本人学生対朝鮮人学生の比率は、2:1に終始した。

 朝鮮に初めて設立された、近代的正規大学であり、しかも帝国大学であったことで威風があり、終戦に至るまで半島に存在する唯一の総合大学として権威と人気を誇っていた。

 城大生の気性には、常に大陸に雄飛する「パイオニア精神」を叫ぶ意気揚々たる姿が見られる。優秀な教官陣と学生で構成され、城大生自身の自負心は強く「城大の目標は東大ではなくベルリン大学」だという意識が教授や学生らの間に広がっていた。国際人を指向し、大陸に生きながら(朝鮮半島を大陸の一部と見る)大陸を雄飛するという精神を誇りとして抱いていた。

 昔からの思想、文学、法制、漢学などの人文学を中心に成り立つ朝鮮の人文学を崇める伝統は、植民地政策と京城帝大の設立にも反映されている。この頃、すなわち1924年を前後して朝鮮民衆が追及した独立に備えた実力を養うためには、実際に近代西洋文明の核心となっている科学技術の発展が追求されなければならなかったはずだ。それでも朝鮮は日本が京城帝国大学を設立するにあたって理学部や工学部の設立を強く要求しなかった。法文学部と医学部だけで満足だったのだ。

 

U.日本帝国の大陸侵略と京城帝大の変貌

 

日本の帝国主義的膨張は、1931年の満州事変を皮切りに、大陸に進出を始め、1932年に、傀儡政権である満州国を建設した。1937年に、日中戦争が勃発し、その後、1941年に、日本帝国が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。1930年代初頭から終戦までのいわゆる「15年戦争」の時期が到来した。1930年代は、日本において、科学技術が大きく発展した。その技術は、先進国に勝るとも劣らないほどになった。そして、これに比例して産業と経済が大きく復興した。特に、日中間の全面戦争の開始以後は、国家の統制により重化学工業が急速に発展した。[6]

 

朝鮮では、1929年から大規模水力発電所群が建設され、工業経済の活性化が始まる。鴎緑江と豆満江の本支流には、大規模ダム式発電所が建てられた。これは、その当時、世界的規模の水力資源を確保していた。そして、半島では、これによる電力を元に、近代的工業が同時に開発されていった。このようにして30年代から植民地朝鮮半島は、本格的な工業化を果たす。興南に東洋第一の総合化学工場である日本窒素が建設されるのを皮切りに、朝鮮各地で、各種の近代的産業設備が建てられた。

 日中戦争の勃発以後、朝鮮半島は、満州駐屯の日本軍のための兵站基地として、新たな重要性が出てくる。帝国日本の兵站政策は、より加速度をつけ、戦争が拡大するにつれて、軍需工業を主軸にする朝鮮での工業技術の発達の必要性が増大した。すなわち戦争目的で、帝国日本は、朝鮮での産業の発展を要求したのだ。

 戦局の進展に伴って、朝鮮の大陸前進兵站基地としての役割が益々大きくなっていった。それは、「万一、大陸作戦軍に対する内地からの海上運送路を遮断される状況が生じた場合、その期間は、朝鮮だけで、これを補充する」という発想が台頭して来たためだ。ここで朝鮮においての豊富な資源と電力、低廉な労働力は、その戦略的地位を急速に高めた。

 これと共に、思想面でも国家主義的統制が、強化されていった。このような流れの中で、内鮮一体化政策や、朝鮮人の皇国臣民化が、急速に推進されていった。

日本は、次第に戦時動員体制を強化し、1938年に国家総動員令、翌年に国民徴用令が制定・公布された。それから194112月に太平洋戦争が勃発し、日本は本格的に挙国的な戦時体制に入る。城大でも、戦時動員を念頭に、前もって4110月に授業年限の短縮令が出されていた。初めは3ヶ月の短縮だったが、6ヶ月の短縮になるなど次第に短縮期間が長くなった。予科も初めは6ヶ月の短縮だったが、1年短縮に移行した。

 20世紀の戦争は、「科学戦争」であると同時に「物量戦争」であることを日本帝国は充分に認識していた。よって、理工系専攻者に対する需要が急増し、必然的に高等教育における理工系教育に力が入れられた。

このような時代の変化を受けて、京城帝大の理工学部が誕生する。その背景にあったのは、朝鮮人からの要請と言うよりも、軍国主義的な必要性という独自色が強い。1924年の京城帝大設立は、朝鮮人による民立大学設立運動の事前遮断と、朝鮮人の高い教育熱が与える日本帝国に対する圧力という二つの要因が背景で作用したためだったが、それとは状況を異にする。

 

V.京城帝大理工学部

 

 384月に理工学部の予科生(15期生)が入学し、41年に理工学部が発足した。理工学部の初代部長を歴任した後、総長になる山家信次は、次のようにきっぱりと、理工学部創設の意義を理工学部開部式の演説で述べている。これを見れば、理工学部創設の背景と目的が一目瞭然だ。

 

 朝鮮における産業経済は、前回の満州事変を契機にして急激に飛躍し、今回の日支事変により最大の発展期を迎えたと言えるだろう。また、半島は、各種の地下資源が豊富であり、さらに動力源となる水力利用も活発であるため、国策に対応する様々な工業の勃興、発展が、実に華々しい。

 これらの工業の発展を推進、造成して、高度国防国家体系を整備し、大陸兵站基地として必要とされる工業的能力を確立することは、半島に課せられた重大な責務であり、新東亜の建設のための緊切な要請だ。よって、我々京城帝国大学理工学部の責務もおのずから明確である。これらの産業の発展に関する基礎的な知識を供給するだけでなく、科学および工業技術に関する研究、実験を行うための中枢機関とならなければならない。

 特に最近は、理工学を履修した高級技術者の需給が非常に困難な状況である。半島において、その需要を充たし、続いて北地満蒙の要求にも応じ、日満支一体の国策的要望に対応することをひたすら考えなければならない。[7]

 

1.             朝鮮での科学技術の殿堂

 

 帝国主義的侵略戦争が拡大し、日本では、科学技術が新たな時代的・国家的寵児となった。したがって、理工学部は、京城帝大で最も人気のある学部となる。入試競争は熾烈で、競争率は、最大で25倍となり、平均では20倍だった。法文学部もそうだが、理工学部の場合は、教授陣のレベルが際立って高く[8]、高い競争率を勝ち抜いてきた優秀な学生らの自負心も他とは異なっていた[9]。秀でた教授陣に対する学生らの誇りは、記念誌によく現れている。最年長の教授の年齢は46歳であり、大部分が若い教授だった[10]。また、医学部予科に進学し、在学中だった学生が再び試験を受けて理工学部の予科に入学したという甚だしい事例も二、三あった。

 

 物理学・化学・機械工学・電気工学・土木工学・採鉱冶金学・応用化学の7つの学科が設置された。初期には、24講座が開設されたが、すぐに増加し、33講座になる。1942年当時の理工学部の教授陣を見てみると、教授27名と、助教授21名がおり、新入生定員は、40名だった。日本本土の帝国大学と比較してみよう。名古屋帝大と比較すると、1941年の教授の数は似通っているが、学生数は、城大が40名であるのに対し、名古屋大学は、約150名だった。教授数に対する学生の数は、4倍近くに上る。また、東京帝大も名古屋帝大と同様に、学生数が京城帝大に比べ多かった。

 設備などを含めて様々な意味で理工学部は、当時の世界的な水準を誇っていたと、この大学の物理学科の卒業者であり、ソウル大学の教授を勤めた金鐘浮ヘ、記述している[11]。理工学部が教える科目の内容においては、西洋の先進大学の大学院レベルだった。16万坪の大きな敷地に立つ4つの建物があり、その中の第一号館は、東洋一の大きさを誇る大学の建物だった。また、第二号館を建てる際には、軍艦一隻に相当する鉄材の特別配給を受けた。戦争の激化により鉄材が不足していた時期であることを勘案すると、日本帝国が京城帝大理工学部と科学技術に注ぐ期待が大きかったことが窺える。研究施設と実験設備においては、本土の帝国大学と比べると、最上かつ最新型の高級製品が備えられていた。

 「日本が戦争に負けたのは、科学技術の質においては、決して劣ってはいなかったけれど、だがしかし、量が不足したからだ。」とした日本人師匠の言葉を首肯的に金鐘浮ェ回顧して結んでいることが、筆者には印象的だ。

 

 新生理工学部は、朝鮮半島を代表する科学技術教育と研究機関としての任務を遂行することになり、朝鮮半島の人々は、京城帝大理工学部を通じ、当時の最先端の科学技術に接することができた。京城帝大の理工学部は、植民地半島の科学技術の殿堂だった。

 朝鮮と日本両国から大きな信頼を受けていた山家理工学部長によれば、理工学部学生に使われた一人当たりの国費は、2万円だった[12]。一方、当時米一俵が10円、日本兵の月給が7円、村役場の書記の月給20円、戦闘手当てまでつく軍属が50円だった[13]。記念誌には、同窓生らの座談会の記録も記されており、そこに参加した人々は、口を揃え、城大理工学部が「学生一人あたりの国家経費で見ると、未来にもありえない大学」だと述べている[14]

 

2.             日本帝国の大陸経営の尖兵

 

 理工学部も、以前に誕生した法文学部、医学部と同様に教育よりは、研究に重点を置く体制をとっていた。ところが、理工学部の研究のテーマを見ると、戦争と関連のないものがないと言っても過言ではない。また、戦争に関連しないテーマは、全く研究費を得ることのできない状況であり、戦争のために科学技術が追求されていたことが、二つの記念誌からよく分かる。城大理工学部の科学技術研究開発は、20世紀の戦争が科学を発展させた典型的な事例だ。一方、朝鮮での軍需産業技術と共に、朝鮮特有の地下資源についての研究が本格的に行われた。

 様々な特権が科学技術従事者らに与えられた。例えば、京城帝大でも、太平洋戦争が最終段階を迎えた1943年頃には、学生らが、軍人として徴収されているのだが、理工系の学生らは、免除あるいは延期され、法文学部の学生らだけが、一時的に軍隊に連れて行かれた。教授らには、ふんだんな研究費が支給された。金属が、徹底的に徴収されていく中でも、理工学部の金属器材は、温存された。これら全ての特権は、城大理工学部が戦争遂行目的に効果的に寄与したことを意味する。戦争が熾烈になるにつれ、高度な科学技術を備えた人材の必要性が益々高まったのだ。

 戦争が激化するにつれ、戦時動員も深刻化してきた。その中で、理工学部の学生らは、各種軍需産業現場や工場に動員され、ほとんどが、専攻と関連した場所、すなわち、火薬工場、滑走路、鉄道線路、造兵廠、航空廠、機械工場、アルミニウム工場、飛行機エンジン整備工などとして動員された。例えば、仁川の陸軍造兵廠に動員され、陸軍で作る輸送潜水艇の設計を助ける仕事もあった。[15]

 城大にも、全体的な研究動員体制が敷かれたのだが、理工学部の場合だと、例えば「朝鮮稀貴元素の開発利用班」(岩瀬教授および班員5名)などが構成された[16]。戦争が末期に差し掛かる1941年の初頭には、理工学部内に「軍研」というグループが現れた。電気工業科の教授らを中心に各地の部隊から派遣された電気専門の兵士45名とで研究班が編成されており、教授らは、兵卒の階級章をつけた軍服を着用した[17]

 城大理工学部が、大陸の関東軍のための下請け研究所の役割を忠実に遂行していたことを示す例は豊富にある。例えば、関東軍が大学に依頼し、1944年に「対戦車ロケット砲研究」がはじまった[18]。この研究には、山家総長も参加しており、安価な爆薬で、大きな効力を発揮させるための計算が毎日のように行なわれていた。航空機の材料となる、今までよりも軽くて強いアルミニウムや、不足する石油の代わりになる代替燃料の開発も中心的な課題だった。

 

 太平洋戦争が激化し、日本が決戦体制に突入して行く中で、京城帝大は、ついに理工学部中心の大学に体制を変える。1944年の4月に理工学部の山家教授が、城大の総長になったのだ[19]

 城大で遂行されていた軍事技術研究のテーマの中には、放射性物質の研究があり、これは、原子弾製造のための試みだったと解析されている[20]。朝鮮は、アルミニウムやトリウムをはじめとする稀元素資源の独占的な生産地だ。1941年に理工学部教授の岩瀬栄一教授を中心とした理工学部所属チームが咸鏡北道の吉州地域でウラニウム鉱を発見して以来、「朝鮮稀元素開発利用」研究班が構成され、放射性鉱物の探査および研究が本格的に推進された。[21]

 

 卒業生らは全員、卒業後には半島や大陸の軍需産業や関連機関に進出していくのだが、ここでは、総督府が密接に関与している。法学科第一期卒業生の兪鎭午は、理工学を専攻する朝鮮人らの方が、法文学を専攻する側よりも差別なく出世することができたと証言する。[22]

 

 城大とは、何だったのかという質問にある日本人同窓生が、「日本の大陸進出という膨張政策の申し子であり、その理論的拠点だった」と表現するまさにその通りで[23]、京城帝大は、もともと、建立の理念からして国家のための大学だったが、特に理工学部は、戦争遂行のための日本帝国の尖兵だった。一方、朝鮮半島は、大陸経営の前哨基地だった。城大は、満州事変から始まる15年戦争が招いた現実に、実に敏感に対応したのだ。

 

 日本帝国の興亡のかかった大陸経営において尖兵の役割を遂行する京城帝大理工学部は、したがって当時の日本本土のどの帝国大学と比較しても設備、教授陣、学生において遅れをとらない世界的な科学技術の研究および教育機関だった。よって、今日の京城帝大の評価は、まだ過小だと筆者は考える。

 

Y.京城帝大と理工学部が植民地に残した遺産

 

1.             人的遺産

 

 理工学部は、1945年までの総3回にかけて123名の卒業生を輩出した。その中で、朝鮮人は、37名だった[24]。城大の朝鮮人の卒業生810名(その中の37名が理工系)は、解放後、新生独立国のエリートとして、知的に(特に大学教育建設に)大きく寄与しながら、一方で、出世街道を走っていることは、周知の事実だ[25]。理工学部の卒業生は、大学教授として、産業界のCEOとして、近代的な学問と科学技術方面で国の近代化に貢献した。

 法学科第一期卒業生兪鎮午は、京城帝大出身者が、韓国の大学教育において、特に大きな役割を果たしたことを述べ、次のように城大の意義を表現した。「もしもこの京城大学というものがなかったならば、韓国は、建国の過程で、更に大きな混乱を経験したのではないかと考える。」[26]

 

 また更に、城大出身者は、韓国と日本の二つの民族間の相互理解に寄与した。この大学の日本人の先生および同窓生の、朝鮮や朝鮮人に対する理解と愛情は、格別なものだったということが二つの記念誌に表れている。一方、この大学の朝鮮人は、親日派という烙印を押されるほどに、日本帝国に協調的だった。日韓のこの大学出身者らは、師弟の間柄や、また同窓生や先輩後輩としての篤い友誼を継続して維持する。城大同窓生は、高校の同窓生であり、大学の同窓生でもある。特に理工学部の人々がより篤い友誼を見せた。人文科学とは違って、科学技術は、イデオロギーから自由でいられる点を念頭に置けば、理解しやすい。筆者は、このような人間的側面にも留意する必要があると考える。86年の二番目の記念誌には、この大学出身者らが、非常に長い歳月にかけて、日韓交流の架け橋としての役割を担ってきたことが豊富に表されている。それは、師弟間、同窓生間の個人的な付き合いや、または、技術指導、相互招請、学術交流などの形式を取っている。

 

2.             ソウル大学およびソウル大学工科学部の誕生

 戦後に、この大学はなくなった。全ての日本人の教授ら、教職員および学生らは、日本に撤収した。しかし、この大学出身の韓国人が主軸になり、京城帝国大学の消滅を、国立ソウル大学の誕生として不死鳥のように再び蘇えらせた。ソウル大学は、誕生以後、今日でも韓国ナンバーワンの大学としての名声を確固たるものにしている。京城帝国大学は、敗戦とともになくなったが、それが蒔いた種から再びソウル大学として誕生したということだ。

 ソウル大学が解放後、今日にいたるまで、大学社会で担っている大きな役割を考えれば、京城帝国大学の遺産は、解放後の我々の科学技術や教育に深い意義がある。ソウル大学は、大学の敷地、建物、施設をそのまま全て享受し、また、無形の遺産として、その伝統もまるごと享受している。特にソウル大学工科学部がソウル大学内でも長い間、90年代初頭に至るまで持っていた優越的な地位は、広く知られている。すなわちそれは、京城帝国大学理工学部が持っていた特権的な地位を受け継いだ伝統だと言えるだろう。

 

 城大理工学部の出身で、ソウル大学の教授を歴任した南基棟氏が、記念誌に寄稿したソウル大学の工科学部誕生の経緯と現状を述べた書簡を読んでみよう[27]。校内のどの学部よりも工科学部が優秀であると誇る南基棟教授は、87年(『遥かなり佛岩山』が出る前の年)に出版された「ソウル大学工科大学史」の内容を紹介しつつ、ソウル大学工学部が誇り高い京城帝大理工学部の伝統を受け継いでいることを述べている。ここでは次のように城大理工学部について評価されている。

 

 京城帝国大学理工学部は、この土地に設立された最初の理工系大学で…その存在意義は、実に大きかった。日本の植民地統治下で、非常に狭い関門をくぐり抜け、朝鮮人学生でありながらも、この土地で、日本本土の大学と同じ水準の理工系大学教育を受ける機会を得たのだ。…結果として、この大学で習っていた朝鮮人の在学生の数は、終戦当時、合計で92名に過ぎなかった。しかし、韓国の科学技術や産業の発展における影響と実績は、大きい。その92名は、我が国の学界と産業界において、貴重な人材として活躍した。

 

結論

 

 京城帝国大学の初代総長服部宇之吉は、「漢学の大家」としての名高い人物だった。そして、9代目最後の総長となったのは、帝国海軍の中将で、火薬学の権威者である科学者山家だった。ここに、城大が経てきた変貌の過程が表れていると言える。

 城大理工学部は、帝国日本の侵略戦争が生み出した大学である。また、帝国日本が戦争における科学技術の重要性を認識していたことを示す生きた事例だ。その誕生の時期と消滅、また、それらが主に没頭した研究テーマがそれをよくあらわしている。

 

 植民地の半島が大陸経営の前哨基地だったとすると、京城帝国大学の理工学部は、戦争遂行の先鋒に立つ科学技術の尖兵だった。だから、日本帝国は、朝鮮での科学技術の発展と産業経済の復興に力を注がないわけにはいかない状況に置かれていた。

 

 京城帝国大学は、帝国日本が、朝鮮半島で成した成果の中で、最高の傑作品だと筆者は、評価したい。総督府は、城大を通じて、非常に少数ではあるが、朝鮮の秀才に、立派な教育を提供した。それは、人文学においては、東洋文化研究の中心地として、科学技術においては、当時最高の教授陣と設備を備え、日本の先進科学技術水準をそのまま反映させた世界的な水準の大学だった[28]。一流の研究と教育が行われていた。

 もちろん、城大にダークな部分があるのも事実だ。植民地朝鮮に建てられたとはいえ、やはりそれは、どこまでも支配者である帝国日本と日本人のための大学だった。それは、忠実な帝国臣民を養成して国家に貢献する人物を養成する大学であり、学問の独立と自由とは、距離があった。日本帝国は、朝鮮の秀才らに、この大学で教育を受ける機会を付与することで、植民統治に必要な支持層を作っておくのに成功する。教授陣は、100%日本人で、学生の数においては、日本人対朝鮮人の比率は、始終2:1[29]だった。朝鮮人の抗議は続いたが、無為に終わった。また、朝鮮人は、この大学の貸間暮らしだった。

 

 最近の歴史学界では、植民地近代化論が提起されている。植民地時代の朝鮮は、日本によって近代化がなされ、経済が発展したという主張だ。これは、従来の植民地についての日本帝国の搾取や抑圧だけを強調してきた伝統的な論理と相反する。この論戦は、反論に反論を重ねており新聞が大きく扱っている[30]。落星垈経済研究所のイヨンフン所長によれば[31]、韓国の近代的経済が発展したのは、明らかに日本帝国時代であり、合邦以前の19世紀後半、朝鮮の経済状況は「消尽状態」即ち体力を使い果たした状態であり、自から倒れたと述べる[32]

 当時の戦争とこれに付随する朝鮮での経済発展と科学技術の発展の必要性などを考えると、朝鮮において工業と経済を立て直さなければならない理由が、明確に存在したというのが筆者の考えだ。だから、植民地時代の朝鮮では、経済的発展があり、これとともに大陸侵略の前哨基地だった植民地半島で近代的な科学技術の発展が成されたことも事実だと考える。日本帝国は、半島で「物量戦争」に勝つための軍需工業を育成する必要があり、「科学戦争」の遂行に必要な科学技術研究開発の殿堂が必要であり、半島および大陸で仕事をする科学技術を備えた人材が必要であったため、この時代的使命を城大理工学部が遂行した。

 

<参考文献>

京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会『紺碧遥かに―京城帝国大学創立五十周年記念誌』京城帝国大学同窓会1974

李忠雨『京城帝国大学』多楽園1980

京城帝国大学理工学部開剖四十五周年記念誌編集委員会『遥かなり佛岩山―京城帝国理工学部開剖四十五周年記念誌』京城帝国大学理工学部開剖四十五周年記念事業実行委員会1988

鄭圭永『京城帝国大学に見る戦前日本の高等教育と国家』東京大学大学院 教育学研究科 博士学位論文19953

キムクンベ『日帝時期朝鮮人 과학기술인력의 성장 (科学技術士の成長)』ソウル大学院教育学部科学史科学哲学共同過程 博士学位論文19962pp366391

ジョンソニ경성제국대학연구(京城帝国大学研究)ムヌン社2002

朴星來他『한국과학기술사의 형성연구(韓国科学技術史の形成研究)』ソウル大学出版部2004

イヨンフン編수량경제사로 다시 조선후기(数量経済史の朝鮮後期における再考察)』ソウル大学出版部2004

泉靖一『舊植民地大学考』中央公論19707

阿部洋『日本統治下朝鮮の高等教育―京城帝国大学と民立大学設立運動をめぐって』思想565(1971)

馬越徹『京城帝国大学予科に関する一考察』大学論輯 第5巻 広島大学教育研究(1977)

広重徹『科学の社会史:近代日本の科学体制』中央公論社1973

『京城帝国大学一覧』

『京城帝国大学学報』



[1] これによれば、第一条において「大学は国家に須要なる学術の理論及応用を教授し並其の蘊奥を攻究するを以て目的とし兼て人格の陶冶及国家思想の涵養に留意すへきものとす」と規定している。しかし、次第に内容の抽象性が問題になり、1940年にもう少し具体的な京城帝国大学規定を制定した。

[2] 京城帝国大学は、略してこのように呼ばれた。以下「城大」と称する。

[3] 1934年の11期入学生から予科過程が2年から3年に延びるのだが、これは、この時、内地である日本の高等学校3年制と等しくしたことを意味する。しかし、1943年からは、再び2年制となる。

[4] 入試競争は、どんどん熾烈化する。1927年度4期生の入学試験時は、志願者が1000名を越え、1056名の志願に対し154名の合格者で、競争率が6.8倍となった。この時に合格した朝鮮人学生は、44名で、3期生は、59名だった。

[5] 京城帝大生らは、当時、朝鮮の未婚女性らの羨望の的であり、特に妓生(キーセン、遊女)らが、熱狂したという。

[6] 広重徹『科学の社会史:近代日本の科学体制』中央公論社1973、日本科学技術史の古典と言われている。1930年に日本が成した科学技術と産業経済における画期的な発展が詳細に記されている。

[7] 『紺碧遥かに』p34

[8] Ibid.,pp.39-40に、理工学部の教授らの略歴が詳しく記されているのだが、彼らの大部分が東大出身で、当時の日本理工学界の新星達だったことが分かる。

[9] 理工学部の学生らは、他とは異なるプライドを持っており、彼らが出した記念誌にも現れている。すでに全校次元での記念誌が出版されているにも関わらず、彼ら独自の記念誌を出版したのもこのような脈絡で理解することができるだろう。

[10] 『紺碧遥かに』p119

[11] 金鐘普g경성제국대학과 경성대학,서울대학교물리학과의 변천을 회고함(京城帝国大学京城大学、ソウル大学物理学科変遷回顧する)

한국과학사학회지(韓国科学史学会誌)』第23巻第2号(2001pp180204

[12] 『紺碧遥かに』p52

[13] 白南楓『조선반란(朝鮮人反乱)』(図書出版 国文,1981p.165などを参照

[14] 『遥かなり佛岩山』p442

[15] Ibid.,p.83

[16] 『紺碧遥かに』p442

[17] Ibid.,p.67

[18] Ibid.,p.86

[19] 理工学部の誕生において中心的役割を担った山家信次は、日本帝国海軍中将であり、元東京帝大教授で、人望と学識を等しく兼ね備えた人物だった。超一流学部としての理工学部の設立は、ある程度は、必然的な時代的産物であるとはいえ、山家信次個人の役割は、大きかった。記念誌の回想を見ると、多くの教授達、学生達が、彼の業績と人格に対する敬意を表す意見を書いている。彼は、理工学部で技術史の講座を作ろうと試みたりもしていた。

[20] 『中央日報』(1995.7.20)や『ハンギョレ新聞』(1995.7.23)などでは、過去に日本軍将校が、外信記者クラブでの記者会見で、原爆開発の試みについて証言をしていたと報道した。一方、日本本土では、すでに1940年から有名な理化学研究所で、朝鮮半島の北部で生産されるウラニウムを利用して、原子弾製造を試みていたという主張がある。また、理工学部の開設後には、放射科学を専攻する研究者が、本土から数人理工学部教授として赴任してきた。

[21] 『遥かなり佛岩山』p44

[22] 『紺碧遥かに』p406

[23] Ibid.,p.416

[24] この数字を日本本土の留学を通じて、理工学士の学位を取得した朝鮮人の数字と比較すると、意味が大きい。尚(サンズイ+)が、1906年に東京帝国大学で、理工学分野初の博士学位を取得した。1911年に劉銓が、京都帝国大学で取得したのを筆頭にして本格的に、朝鮮人の理工系大学卒業者が出始めるのは、1919年の3.1独立運動後の1920年代からだった。そして、1945年の解放までの朝鮮人の理工学士の総数は、204名に達する。その中の5名が博士の学位を取得しており、理学63名、工学141名の比率だった。朴星來他『한국과학기술사의 형성연구(韓国科学技術史形成研究)(韓国科学財団,1995)。各大学別の卒業数:京都帝大52名、早稲田大33名、東北帝大28名、東京帝大23名、日本大19名、北海道帝大12名、東京工業大12名、九州帝大10名、大阪帝大10名などの順だ。

[25] 李忠雨『京城帝国大学』(多楽園1980)pp265-297には、城大の卒業生らの1980年現在の主要経歴が記されている。

[26]『紺碧遥かに』p411

[27] 『遥かなり佛岩山』pp175177

[28] 敗戦後、理工学部の教授らは、一流の教授であり、東京大学出身が大部分であった関係で、難なく日本本土の大学に転勤した。学生らも東京帝大、京都帝大、九州帝大などに難なく転学した。城大の水準が高かったことを示す証拠だ。城大出身の東大教授もいる。

[29] 1926年当時、日本には、22の私立大学があった。9の帝国大学とも計算に入れれば、京城帝大で教育を受ける機会が与えられた朝鮮人の数がどれほど小さいのかが実感できる。しかし、京城帝大より4年遅く建てられた台湾の台北帝国大学と比較すると、京城帝大は、朝鮮人が34%だが、台北帝大は、21%に過ぎなかった。

[30] 『朝鮮日報』200434日、35日、14日、23日など参照

[31] 『朝鮮日報』2004106

[32] イヨンフン編『수량경제사로 다시 조선후기(朝鮮後期の数量経済史における再考察)』ソウル大学出版部2004