| 神代・古代 |
 |
 |
 |
 |
| 大陸(朝鮮半島)から多くの渡来人が敦賀にやって来た。伝説の人物ツヌガアラシトが敦賀の名の起源伝説となる。 |
気比大神伊箸耐別命(いざさわけのみこ)は神代から敦賀の地に鎮座し給うた。多くの神話の登場者は気比社に祀られる。 |
古代敦賀郡には延喜式神明帳記載の式内社は43座。それは越前国全体の3/1強、若狭国全体に匹敵する。 |
遣唐使が波濤を越えていた頃、日本海では渤海国との交流が盛んに行われ、多くが敦賀を経由、滞在して京に向かった。 |
| 中 世 |
 |
 |
 |
 |
| 南朝新田義貞の野望は幻の北陸朝廷から始まり、金ヶ崎城に拠って戦う。金ヶ崎城址はその哀史を追憶させる。 |
越前朝倉氏の攻勢から守り抜き、織田信長の越前進攻、退き口を支援した若狭の堅城。 |
兵5000を率いて、上杉謙信は越後から海路敦賀に上陸、上洛を果たす。領国支配の中、特異な存在だった敦賀湊。 |
織田信長最大のピンチ、天筒山、金ヶ崎古戦場。羽柴(豊臣)秀吉のしんがり。 |
 |
 |
 |
 |
| 近江から織田信長は急迫して、朝倉軍を刀根坂で殲滅。戦国大名朝倉氏の滅亡。 |
越前一向一揆は木の芽山地城塞群で織田軍を迎えるが、もろくも敗退。今も城塞跡は残る。 |
羽柴秀吉、天下覇権への戦い。敗者柴田勝家の本陣跡、玄蕃尾城を訪ねる。今も、その遺構をとどめる。 |
友情という観念が戦国の時代に咲いた。それは大谷吉継の石田三成への恩義か、近江人の気節か。 |
| 近 世 |
 |
 |
 |
|
| 蝦夷の海産物、畿内の加工品が敦賀湊で行き交う。井原西鶴に「北国の都」と言わしめた。 |
平重盛の伝説から昭和まで、琵琶湖への水運開発は続けられた。壮大なる歴史的計画だったが。 |
尊皇攘夷を掲げて上洛を目指した水戸天狗党は雪深い敦賀で降伏。未曾有の悲惨が待っていた。 |
| 近・現代 |
 |
 |
 |
 |
| 大陸と太平洋側を産短距離で結ぶ敦賀港は、明治、大正、戦前日本の大陸経営拠点であった。国際港敦賀の面影。 |
明治初年政府は日本海側の敦賀への鉄道開設を急ぎ、明治15年敦賀港へ開通、明治22年東海道と連結した。 |
ユダヤ難民、シベリアポーランド孤児は敦賀港を見てやっと天国を見た。 |
三方を山に、他方は海、地理上の切所も、人馬の道から車の道、トンネルによってそうでは無くなった。敦賀はひとつの歴史的役割を終えた。 |
| 街道・地史・名所 |
 |
 |
 |
  |
| 敦賀から越の国に向かう最古の道、険阻な木の芽山地(かひる山)を越えるとき、多くの都人が歌を詠んだ。 |
天長7年(830)頃、木の芽山地鞍部木の芽峠を越える道が開発され、明治まで千年の官道となった。 |
都から琵琶湖の水運、そして深坂峠を越えた。紫式部が歌を詠い、馬借が越え、旅人が行き交った古道は今も残る。 |
律令制下の官道北陸道、近江から敦賀への道は七里半越えとよばれ、敦賀港と琵琶湖水運を結ぶ。 |
 |
|
|
|
| 近江から敦賀への最短距離、黒河越えはいつしか西近江路の間道となっていった。 |
数万年の地史が残る。貴重な湿地は多様な生態系を残し、里山の原風景を残す。 |
気比神宮の神苑であった。今は、市民・県外の人々の憩いの名所。敦賀の太古からの海岸の原風景を想わせる。 |
|
 |