ジュニア版
273
ちゅうれんは うみにみをなげ しぬるのみ
tyurenwa
uminimionage sinurunomi
仲連は 海に身を投げ 死ぬるのみ
魯仲連(ろちゅうれん)は戦国時代の斉(せい)の人である。
趙(ちょう)の国に行ったとき、たまたま秦(しん)の軍隊が趙の首都邯鄲(かんたん)を包(ほう)囲し、魏(ぎ)の使者の新垣衍(しんえんえん)が秦の昭王を中国の帝王に立て趙(ちょう)の王をそれにしたがわせようとしていた。
そこで、仲(ちゅう)連は趙(ちょう)の宰(さい)相平原君(くん)に会っていった。
「魏(ぎ)の新垣衍(えんえん)はどこにおられるか。できればあなたのためにかれに話して国に帰らせたいのです」と。
平原君はそれではとお願いし、仲連を衍(えん)に会わせた。
仲連は衍にいった。
「周の隠(いん)士であった鮑焦(ほうしょう)は国政(せい)にしたがうことも国王をたたえることもできない国に住んでいる自分を恥(は)じて死にましたが、わたくしも同じです。今この邯鄲(かんたん)を包囲(ほうい)している秦(しん)は礼節(せつ)と人の道をふみにじり、討(う)ち取った敵(てき)の首の数で人をたっとぶ国です。役人を量りにかけて使い、人民を奴隷(どれい)にして使っている国です。そのような国の王をどうして尊敬(そんけい)できましょうか。昭王がもし帝(てい)王となって中国を支配するというのでありますれば、仲連は東海に身を投げて死ぬだけです。とうてい秦(しん)の民にはなれません」と。
新垣衍(えんえん)は二度と昭王を帝王にするとはいわなかった。
☆☆☆☆☆☆☆
274
はんれいは うみにうかんで ざいをなす
hanreiwa
uminiukande zaionasu
范蠡は 海に浮かんで 財を成す
范蠡(はんれい)は春秋時代の人である。
越(えつ)王勾践(こうせん)に仕えて苦労し、二十年あまりの間、勾践(こうせん)と力を合わせて計画を立て、呉(ご)王夫差(ふさ)をほろぼして会稽(かいけい)山でやぶれた名誉(よ)を取り返した。
しかし、范蠡(はんれい)は思った。
「飛ぶ鳥がいなくなれば、弓(ゆみ)は蔵(くら)にしまいこまれる。兎(うさぎ)が死にたえれば、猟(りょう)犬はにて食われる。大手がらを立てたといっても、その下にいつまでもいられるものではない。まして、勾践(こうせん)の長い首と鳥のくちばしのような口をした人相だ。忍耐(にんたい)強いが残忍(ざんにん)で欲(よく)が深く、うたがい深い。苦労を共にすることはできても安楽を共にする人物ではない」と。
そこで、重いものは残して軽い宝(ほう)石や宝玉を身につけ、家来を引きつれて舟に乗り、海にういて斉(せい)の国に行き、大金持ちとなった。
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普及版
273仲連蹈海 仲連は海に身を投げ死ぬるのみ
274范蠡泛湖 范蠡は海に浮かんで財を成す
史記によると、魯仲連は戦国時代の斉の人である。
奇抜で才知に長け、すぐれた画策 はかりごと。計画を立てること を好んで諸国を歴訪し、官に仕えることは承知しなかった。
趙に行ったとき、たまたま秦の軍隊が長平 山西省高平県 の戦い(534参照)の余勢を買って邯鄲 趙の首都 を包囲し、魏の使者の新垣衍が趙王に秦の昭王を尊ばせて 敬わせて 九州 中国全土 の帝王にさせようとしていた。
そこで仲連は、趙の宰相平原君 趙勝375 に見えていった。
「魏の新垣衍はどこにおられるか。できれば君 平原 のために彼を責め とがめ、国に帰らせたいのです」と。
平原君はそれではとお願いし、紹介して 仲介して。仲立ちして、仲連を衍に会わせた。
衍が先にいった。
「わたしはこの包囲された城の中にいる客人を見ていますが、みな平原君に取り入りって何かを求めようとしておられる。ところが今、仲連先生のお顔を拝見いたしますと、そのようにはお見受けできない。それなのに、なぜいつまでも危機の迫った城の中にいて立ち去られないのか」と。
仲連はいった。
「世間は、あの周の隠士であった鮑焦を国政に従うことも国君 国王 を頌えることもできずに死んだとしているが、みな間違っている。多くの人は知らないのです。知らないから自分自身のために死んだとしているのです。実際は、弁舌が巧みで金儲けのうまかった子貢405。孔子の弟子 に、『国政に従わないものはその国土を踏まない。国君を汚らわしいとする者は君の恩恵を受けない、と聞いている』と非難され、『清廉の士は進むことを重んじ、退くことを軽んずる。賢人はすぐに悔い改めて死を軽んずる』といって木に抱きつき、そのまま干乾びて死んだのです。つまり、子貢のいう通りであったから、己を恥じ、義のために死んだのです。わたしも同じです。今この邯鄲を包囲している秦は礼節と義理を破棄して首級 討ち取った敵の首 を重んじる国です。役人を天秤 量り にかけて使い、人民を奴隷にして使う。そのような国の王をどうして敬い尊奉できましょうか。昭王がもし帝王となって九州を制するというのでありますれば、仲連は東海を蹈んで 東海に身を投げて 死ぬだけです。とうてい秦の民になることには耐えられません」と。
新垣衍は敢えて再び秦を帝王にするとはいわなかった。
平原君は仲連に一国を与えようとしたが、彼は辞退して去り、生涯見えることはなかった。
*国土を離れ、木に抱きついて死んだ鮑焦は、ソクラテスより百年早いアイロニスト(皮肉屋。当てこすり屋)でもあったようです。
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史記によると、范蠡は春秋時代の人である。
越王勾践(425・151)に仕えて苦労し、力を合わせて勾践と綿密な計画を立てること二十余年、遂に呉王夫差を滅ぼし、会稽山の辱に報いた 辱を雪いだ。名誉を取り返した。
しかし、范蠡は思った。
「飛ぶ鳥がいなくなれば、弓は蔵にしまい込まれる。兎が死に絶えれば、猟犬は煮て食われる。大いなる功名を立てたとはいえ、その下に長くいることは難しい。加えて、勾践のあの長い首と鳥の嘴をした人相だ。忍耐強いが残忍で、欲が深く、猜疑心が強い。辛苦を共にすることはできても、安楽を共にする人物ではない」と。
そこで、重いものは残して軽い宝石や珠玉を身に付け、家の子郎党 一門および家来 を引きつれて舟に乗り、湖 海 に泛 浮 いて越を去り、遂に帰ることはなかった。
山東の斉の国に行った。
姓名を変え、鴟夷子皮と名乗った。大袋の小袋といったくらいの意味である。
范蠡は隠れて海のほとりを耕し、父子で数千万の財産を成した。
斉の人はその賢さを聞いて、宰相にした。
蠡は溜め息をついていった。
「わたしは家にいて千金を成し、官 越 にいて宰相となる。これは布衣 庶民 の極みである」と。
そこで、宰相の印綬を返し、ことごとくその財産を散らして 散財して 知合いや村人に分け与え、大事な宝だけを懐にして密かに逃げ出し、陶というところに止まった。
彼は思った。
「ここは天下の中心で有無 ある物とない物 を交易する路が通じており、富を成すことができる」と。
今度は陶朱公と称した。
住んでいくらも経たないうちに、巨万の財貨を積み重ねたので、天下は彼を称えた。
こうして范蠡は、三度移って天下に名を成し、陶で老いて死んだ。
*范蠡が鴟夷子皮を名乗ったのは、自分を伍子胥に擬えてのことのようです。
伍子胥は楚の平王に父と兄を殺されて恨みを抱き、呉王闔廬に仕えて楚を討ち、平王の墓を発いてその死体を鞭打つこと三百、仇に報いますが、闔廬を継いだ子の夫差が越王勾践を受け入れようとするのをたびたび諌めたことから「属鏤の剣」で自殺させられ、挙句、鴟夷(酒を入れる革袋)に詰め込まれて長江に捨てられます。
范蠡はこのことを知っていたから、誅罰を受ける前に、自らすすんで長江に浮いたのです。
執着しない、腹八分の思想といえます。