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児童ポルノ法案から
「児童ポルノ禁止法案」について、友達とメール交換しました。
本来なら、この「児童ポルノ禁止法案」の原文にあたらなければ、
議論にならないのだと思いますが、年末まで修羅場が続きそうで、
ちょっと探す余裕がありませんでした。
その友人が紹介しているような、明確でない規定の法文の問題は、
結構 あちこちに見られます。
]このことは私達の国での「公」に対するあいまいな意識とのかかわりがあるように思います。
「私」や「共」に対する「公」の存在の意味は、伝統的な論題です。
最近、小林よしのり氏などもサピオ誌上などでずいぶん書いていますし、
爆笑月刊誌「正論」や「諸君」などでは毎月のようにとりあげられています。
小林氏らの、いわば急作りな国家主義者たちの論理に共通する欠点は、
「公」と「共」との概念の混同にあります。
で、「公」の存在意義です。それは「強制力を伴った問題解決」にあるだろうと思います。
例えば暴走族の一人一人を説得するのは、
個人で取り組めば「私」の領域 での問題解決であり、
町内で相談して取り組めば「共」の領域での問題解決
です。
それらに対して、なにがしかの「法律違反」だとして、
「強制力を伴っ て」検挙したり逮捕したりするのが公的な問題解決です。
小林よしのり氏が一個人として「私」の領域で、
オウム真理教が行ったとされる一連の暴力に立ち向かったことは、
賞賛されてよいと思います。
が 彼の勇気ある行為と所謂、「オウム新法」や破防法の適用とは、
「私」と「公」という別次元のことなのです。
賛成にせよ反対にせよ、公の強制力が働くのだということを、
しっかり考えなければならないはずです。
この当たり前のことが、例えば落合信彦氏あたりには分からないようです。
それとも分かっていて、そんな国を作りたいと思っているのかなあ。
この「公」としての強制力、「公権力」をむやみに使われてはかなわないから、
罪刑法定主義が登場するわけで、その裏付けとして法律の明文化が
必要とされるわけですが、どうも日本の法律は明文性(こんな日本語はないですね。)
が低いような気がします。
世界の法律の文章比較をしたわけではありませんけれども。
例えば、先日決まった国歌・国旗法案です。
この法案には「尊重規定」は 一切ないのですが、早くも「それは当然だ」
と主張する人が多くいます。筑波大の中川教授、岐阜県知事の某などに
よれば、「君が代」を歌わないのは 非国民だそうです。
先日、在位十周年を迎えた現天皇は式典の斉唱時に歌っていませんでしたから、
中川氏らの論によれば、彼は非国民なんでしょう。まったく、なんだかなあ、です。
「法律に明記されていないこと」は「公」には「強制できない」のです。
個人として、君が代を尊重したければすればよいし、個人として「日の丸には敬礼しろ」
と主張するのは自由です。
しかし「公的に強制力をもって」君が代や日の丸に敬意を示せ、ということは、
(思想信条の自由という大原則だけでも反論の論拠には充分ですが)
そもそもそんな条文がない以上、行ってはならないはずです。
「児童ポルノ禁止法案」が、友人のいうように曖昧な条文だとすれば、ここま
でだらだらと書いてきたことと通じる問題を含んでいるといえる
と思います。
ここ百年ぐらいに限って言えば、この国では論理性に基づく判断や、責任の
所在を明らかにしての判断は、軽んじられてきたといっていいでしょう。
「日本ではその場の空気が全てを決定する」という論があります。「なんとなく、
その場の雰囲気で」決まることが大変多いのは、経験則ですが、たぶん間違いないでしょう。
誰の責任でもなく、そもそも何が決まったかも明らかでなく、物事が進むことの
恐ろしさは、大東亜戦争で身にしみたはずなのですが、
世代交代が記憶を薄れさせていく、ということなのでしょうか。
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ラスカルにしおこと、西尾楓子のホームページから
親しい友人の一人、西尾楓子のホームページは、読むだけの参加
で失礼して
いますが、1000アクセスを超えて、快調な展開です。
結構楽しんでいます。
その中で「マンガとアニメのみにしか範を取れない世代」(つまりは私たち以後の世代)
についての批判が「電波館」コーナーで最近なされました。
納得したり同意したりしながら、切ない気持ちになるのは、自分も
「漫画とアニメにしか範を取れない世代」だと感じるからです。
本、映画、テレビ等々、二次体験をもとに人生観を作り上げてきた私も、
カヲル君の言うように「一次接触が苦手」なのです。
私よりも十年、二十年あとに生まれた子ども達は、もっと沢山の
情報の洪水の中で生きてきていることにも思い至ります。
ラスカル嬢の批判は、圧倒的な情報に溺れつつ、
さらに膨大な量の情報を垂れ流すように発信して生きるこの世代の創作活動に及びます。
求められるのは「書けないことは書かない」、いわば作家としてのモラルです。
大筋は賛成ですが、一方で力足らずとも書き続けることも当然大切です。
結局、このことについては書くにせよ書かないにせよ、いかに自分が責任を持てるのか、
身銭(?)を切って書いたり書かなかったりし
ているのか、という辺りに
問題は収束しそうです。
それから、まとまりませんが、以上のことと少しだけ関連して、
別の友人と以前から延々と議論していることなのですが、
この所の新潟での拉致監禁事件や、小学生が殺された事件の報道
(この報道自体 にも疑問を感じています)を見ると、
やはり子どももアクセスできるメディアのあり方の検討の必要性を感じます。
自主規制や曖昧な形での線引きが危険なことは、その友人、ラディゲ君が以前述べた
ように明らかですから、アメリカでのX指定などを参照して、
暴力など明かな人権侵害に
かかわる描写については懐かしの「18禁」
の復活を主張したいと思います。
いや別に18歳でなくてもいいのです。要は、子ども達に、人権侵害にかかわる二次体験
を頻繁に経験さ せたくないのです。