『鯨さんの詩』(鯨歌)

 

鯨文化の粋『鯨歌』を求め、東から西へ全国縦断の旅。

“鯨博士”の大隅清治先生、鯨研究家・荒木公敏さん、佐賀の呼子鯨組代表・

八幡崇経さんのご助力を賜り、これまでに収載できた鯨歌は10道県51曲、

内訳は北海道1・千葉1・静岡1・三重1・和歌山4・大阪1・山口10・高知5・

佐賀5・長崎22となっています。

それぞれの歌に、分かりにくいことばのワンポイント解説を付けてあります。

さらに末尾、荒木さんと共同編集の “くじら語”リスト に、分かりにくい

“くじら語”をまとめて五十音順に再掲し、解説を試みています。

(ワンポイント解説内の「→ 茶文字 」は、“くじら語”リスト 参照)

 “くじら語”リスト は、荒木さんのホームページ『くじらLAND』でも同時展開

しています。 → http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/

 ワンポイント解説・“くじら語”リストとも、疑問が残ることばも多く、見当違いや

誤りもあろうかと思います。お気づきの点など、ご叱責、ご教示いただければ幸いです。

                               (10.5.1)

                  ◇

「昔捕鯨が行われていた地域には、捕鯨の様子を歌い込んだ『鯨歌』が残っており、

保存会の努力で今も歌い継がれている。また鯨歌とともに『鯨踊り』も受け継がれている。

鯨歌には捕鯨操業の開始と終了時および正月などに歌われた『祝歌』と、クジラを解体・

処理する際に歌われた『作業歌』がある」<大隅清治『クジラと日本人』(岩波新書)>

日本で最初に組織的な捕鯨が行われたのは、安土桃山時代が始まった元亀(げんき)

年間(1570−73)。尾張(おわり。愛知県西部)知多半島先端の愛知県南知多町

師崎(もろざき)で7〜8隻の船が銛(もり)で鯨を突く「突取式」捕鯨を行ったのが

始まりとされます。ここが産業としての捕鯨発祥の地とされています。(尾張だけで

なく、この頃、伊勢(三重県)から熊野(三重・和歌山両県南部)にかけての沿岸で、

突取式捕鯨が発達していたと考えられます)

 1606年師崎から突取捕鯨を伝授された紀伊国太地(たいじ。和歌山県太地町)の

和田忠兵衛頼元が「突組」を興し、さらに1675年、和田覚右衛門頼治(頼元の孫)

によって網に鯨を追い込んで銛で突く「網掛突取式捕鯨」が開発されます。画期的な

漁法の開発でした。

太地の技術は全国に広がり、江戸時代中期から後期にかけて、東は房総(千葉県)や

磐城(福島県東部から宮城県南部)、西は土佐(高知県)・西海(さいかい。山口県の

長門、佐賀県の肥前、長崎県の平戸・五島・壱岐・対馬など)などで、沿岸捕鯨は

全盛期を迎えます。房総・紀州・土佐・西海が四大捕鯨漁場とされています。

              <大隅清治『クジラと日本人』(岩波新書)による>

 四大捕鯨漁場のうち、おもにツチクジラを捕獲した房総では「突取式捕鯨」、紀州や

西海では「網掛突取式捕鯨」が発達しました。

 伝統捕鯨の町のうち、現在も北海道網走市・宮城県牡鹿町・千葉県和田町・和歌山県

太地町の4か所を基地として、ツチクジラ・ゴンドウクジラなどの小型捕鯨が行われて

います。

 また、和歌山県太地町・山口県長門市・佐賀県唐津市呼子町・長崎県平戸市生月町を

初め多くの町で、鯨文化を保存・継承し、後世に伝えていく活動が続けられています。

 

                  ◇

 09年1月に出版された <中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>にも、

「鯨唄」について詳しい解説が述べられています。一部を引用させていただきます。

「各地に残る捕鯨の文化の代表的なものとして鯨唄がある。その多くはもともと鯨組で

 働く者達が唄った、捕鯨の様子を歌詞に織り込んだ唄であるが、捕鯨や鯨のイメージを

 取り入れた都市祭礼の中で唄われている鯨唄もある。各地に残る鯨唄には共通の歌詞が

 見られる事から、ある鯨唄が捕鯨従事者の移動に伴って各地に伝わり、歌詞や音曲に

 独自性を加味しつつその地の鯨唄が成立していくという流れがあったと思われる。

  鯨組で唄われた鯨唄には『祝いめでた(大唄)』『思うこと叶う』『年の始め』

 『羽指踊唄』などの祝い唄系統の鯨唄と、『轆轤(ろくろ)巻き唄』『骨切り唄』

 『椎皮叩き唄』『網の目締め唄』など作業唄系統の鯨唄がある。祝い唄系統は、

 組出し(出漁)、正月、組上り(終漁)などの行事の際に唄われている。…

  作業唄系統のうち『轆轤巻き唄』は、鯨を岸辺に引き上げて解体する時の轆轤を

 巻く作業の際に唄い、『骨切り唄』は骨納屋で油を煮出しよくするため骨を細かく

 刻む作業の時に唄われた。『椎皮叩き唄』や『網の目締め唄』は網の整備に際して、

 防腐用に網を染めるための椎の木の皮を叩く作業と、網目を締める作業の時に唄われた

 鯨唄である。」

 


                   ◇

 【北海道】

●『アイヌの鯨祭のうた』   北海道

 

 浜へ鯨があがってきた、フンボ、エー

 行ってみようよ、フンボ、エー

 浜へ大きな鯨が、白身の肉をどっさり背負って

 上ってきた、フンボ、エー

 行ってみようよ、フンボ、エー

 

<福本和夫『日本捕鯨史話』(法政大学出版局)> に、

「アイヌ学の大家として知られる知里真志保博士によると、…もと鯨神をまつった鯨祭の

歌だとおもわれるものに『フンポ・エー』という折返しをもってうたわれるうたがある」

として、紹介されていました。

「フンポ、エーという折返しは、もとは多分、フンペ、エクというのがほんとうで、

『鯨がやってくる』という言葉であったろうとおもわれる。とのことである」

知里真志保ちり・ましほ。1909(明治42)−61(昭和36)) は、

アイヌ民族出身の言語学者・民俗学者。現在の北海道登別市に生まれました。

金田一京助(きんだいち・きょうすけ)の文法を出発点としながら、独自のアイヌ語

文法体系を構築。『分類アイヌ語辞典』(植物篇・人間篇・動物篇)はアイヌ文化研究者

必携の書と言われます。1958年に北海道大学文学部教授。

アイヌの叙事詩ユーカラの伝承者として著名な金成(かんなり)マツは、おば。『アイヌ

神謡集』(1923)の知里幸恵(ゆきえ)は姉。 <『世界大百科事典』(平凡社)>

 

              ◇

【千葉県】

●『勝山の鯨唄』   千葉県安房郡鋸南町勝山(あわぐん・きょなんまち・かつやま)

 

やれ目出度のう

うれしめでたの

ヤレ若松よナアエヤ

ヤレ若松よナアエヤ

アア枝も栄える葉もしげる

サア突いたしょ突いたかしょ

ホイ槌鯨のこもつは

突いたかしょ

今度突いたも(は)

ヤレ勝山組よナアヤレ

ヤレ勝山組よナアヤレ

アア親もとるとる子もとるよ

 

サア突いたしょ突いたかしょ

沖のかごめに

ヤレもの問えばナアヤレ

ヤレもの問えばナアヤレ

アアつちは来る来る

明日も来る

誰がさしたよ

ヤレ枕箱ナアヤレ

ヤレ枕箱ナアヤレ

アア夜中夜中に目をさます   (後略)

<『鋸南町史 通史編(改訂版)』より。

小島孝夫編『クジラと日本人の物語 〜沿岸捕鯨考〜』(東京書店)による>

 

*千葉県の房総沖では現在も、南房総市和田町(わだまち)を捕鯨基地に、

ツチクジラ漁が行われています。

「ツチクジラ」は体長約13メートルのハクジラで、古くから沿岸捕鯨の対象に

なってきました。(現在もIWCの管理を受けない「小型鯨類」に分類され、

北海道網走市・宮城県牡鹿町鮎川・千葉県南房総市和田町・和歌山県太地町の

4か所の沿岸で頭数を決めて捕獲されています)

南房総市の北に位置し東京湾に面した鋸南町勝山は、現在は捕鯨は行われて

いませんが、江戸末期まで沿岸のすぐそこまで鯨が回遊して来て、関東唯一の

鯨漁の町として栄えました。

「狂歌」の、江戸時代の太田南畝(なんぽ。蜀山人)の項でも紹介しましたが、

地元鋸南町(きょなんまち)商工会発行の <『歴史ハンドブック・クジラの都』>が、

往時の鯨の海と捕鯨の様子を、いきいきと伝えています。少し長くなりますが、

上の鯨唄を理解するうえでも、たいへん役立つと思いますので、ピックアップして

引用します。

「江戸時代、クジラは勝山に毎年6月から8月にかけてやってきた。…勝山の

クジラ漁は、少なくとも1612年にはおこなわれていたという記録がのこって

いる。…このあたりに来るクジラは、ツチクジラといって、からだの長さが10

メートル、重さは10トンぐらい。ツチクジラはイカや深海魚を食べるために

深く潜る。…クジラが浮上すると、最初に、一番銛(もり)とよばれる熟練した

漁師がモリを投げる。鉄の先と木の柄でできた、4メートルから6メートルもある

長いモリだよ。続いて別の船からもつぎつぎとモリが投げられる。モリには麻綱が

ついていて、更に太い綱がつき、綱をくりだしながら、クジラが弱るのを待つんだ。

…紀州のクジラ漁は網で捕ったけど、勝山に来たツチクジラは、モリを受けると

目のまえの深い海に潜ってしまうので、網は使えなかったんだ。

…その勝山の大地主だった初代の醍醐新兵衛定明(だいごしんべえ・さだあき)が

1655年、クジラ漁の組織「醍醐組」をつくった。」

  醍醐家の主が代々名乗った「醍醐新兵衛」は、1869(明治2)年まで、

10代にわたって鯨組を率いました。この組は「醍醐組」と呼ばれましたが、

ここでは「勝山組」と歌われています。

ツチクジラ 突取式捕鯨

*「槌鯨のこもつ」は親子連れのツチクジラのこと。「子持ち鯨」は捕獲の

対象として貴重ですが、捕獲しようとすると、親は必死に子どもをかばいます。

鯨捕りに従事した人々は信仰心が厚く、自然の恵みをいただく一方で、鯨の親子を

ねんごろに弔いました。伝統捕鯨の町には鯨の墓や供養塔があり、種々の宗教行事が

今も残っています。

子持ち鯨

「沖のかごめ」は、沖のかもめ(鴎)のことでしょう。

「枕箱」(まくらばこ)は、箱に括枕(くくりまくら)をつけた携帯用の枕で、

漁師が船で沖に出るときも使いました。箱枕(はこまくら)とも言います。

 

                  ◇

 大隅清治先生から <海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』1〜3>

をいただいています。横文字のタイトルの歌詞集ですが、2・3巻は、鯨歌の特集になっていて、

東は静岡県から西は長崎県まで、合わせて27の鯨歌が収載されています。

以下、歌詞の末尾に特に、< > の注釈がないものは、同書からの転載です。

 

【静岡県】

●『突ン棒』       静岡県沼津市戸田(ぬまづし・へだ)

 

何と咲いたよ エー枕箱 ゝ 目覚めに目を覚ます

サー突いたかじょう ゝ チョイとツチの子持を突いたかじょう

 

土肥の地組で エー追せておいて ゝ 戸田の嵐を吹いて通る

サー突いたかじょう ゝ ホイ ツチの子持を突いたかじょう

(中略)

イエエンゆごとしんみず何から先よ アエーンエーンサッサ

まくら咲いて誠に鯨突く エー目出度のヤァ

いわか枝もオーンヤラーン

 

*題名の「突ン棒」(つきんぼう。突きん棒)は、船から長い柄のついた銛を投げ、

獲物を突き取る漁法をいいます。千葉県鋸南町の勝山と同じように、ツチクジラを

銛で突く勇壮な漁を歌った鯨歌で、歌詞もよく似ています。

(→ 突きん棒 突取式捕鯨

*「枕箱」(まくらばこ)は、「勝山の鯨唄」でも述べましたように、箱に括枕

(くくりまくら)をつけた携帯用の枕で、漁師が船で沖に出るときも使いました。

箱枕(はこまくら)とも言います。

ツチの子持(こもち)」は、『勝山の鯨唄』の「槌鯨のこもつ」と同じ意味で、

親子連れのツチクジラのことです。

ツチクジラ 子持ち鯨

 


              ◇

【三重県】

●『鯨取船明神丸の唄』 三重県四日市市南納屋町(よっかいちし・みなみなやちょう)

[流し唄]

(前唄)

エェーヘェーヘェーヘェーエェーエ―― イヘーエ――ヘェー

エェーイ――ヘェー エ――ヘエーヘー

エ――サ――アー サーヨォシテーヨォシテ

 (本唄)

今年ゃ世が良て穂に穂が咲いた

アー 枡はさて置いて箕で計る ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

吹けよ西風上がれよヒシコ

アー 上がりゃ四日市の浜で捕る ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

吉田通れば二階から招く

アー しかも鹿子の振袖じゃ ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

躑躅(つつじ)椿は山坂照らす

アー 鰯ゃ四日市の浜を照らす ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

沖のカモメに潮時問えば

アー 私ゃ発つ鳥波に問え ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

太鼓叩きはどなたで御座る

アー あれは富田の清助じゃ ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

宮の熱田のならずの梅は

アー 花は咲いても 実はならず ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

宮の熱田の二十五丁橋は

アー 誰が掛けたか知らぬ間に ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

鳥羽はよいとこ朝日をうけて

アー 七つ下がれば女郎がでる ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

鳥羽のセンスイ錨はいらぬ

アー 三味や太鼓で船つなぐ ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

〜以下略〜

[役唄]

安芸の宮島 廻れば七里

アァ 浦は七浦 ノホホイホイ 七恵比寿 お目出度や

[突唄]

沖のカモメに 鯨はと問えば

サァ 鯨が来る来る ノホホイホイ 後へ来る お目出度

ヤッソレー

イヤッサー ソレジャイナーエー

イヤッサー ヨイトコショーエー

[役唄]

お諏訪前で 鯨を突いた

サァ これもお諏訪の ノホホイホイ 御利生かや お目出度や

[役唄]

うれし目出度の 若松さまは

アァ 枝も栄えて ノホホイホイ 葉も茂る お目出度や

[役唄]

うれし目出度で 詣れば渡る

アァ 伊勢の大淀の ノホホイホイ 宇治橋や お目出度や

[梶直し唄]

これで妻子も諸共に

ア− 珠を持って 遊べ ヤッサ それじゃ 治まのぉー

アー エートー  シャーントーセイ

ソレジャー ヤーサ シャーントーセイ

[梶直し後唄]

弥栄(いやさか) 子孫の家の ホーイノホーイ

アァソーレイ

[梶直し後唄]

伊勢の間の山を通ればヨォ

ア− お杉やお玉  ヤッサ 治まる御代ヤトーセ

 

*三重県四日市市では、10月第一日曜日とその前日の土曜日に行われる

旧四日市地区の氏神「諏訪神社」の例祭「四日市祭(秋の四日市祭)」に、

「黎り(ねり)」と呼ばれる奉納演技が行われます。黎り(ねり)の一つに、

南納屋町(みなみなやちょう)の鯨船「明神丸」の演技があります。

  *<ホームページ 『四日市市−文化財 鯨船山車明神丸』> によりますと、

www.city.yokkaichi.mie.jp/bunkazai/pages/data/31.html

「明神丸」は、県指定有形民俗文化財(南納屋町鯨船山車明神丸保存会)。

全長約8メートル、幅約2メートルあまりの豪華な船形の山車で、鯨を突く

演技を行うオドリコとロコギ(いずれも男児が務める)が乗り、太鼓叩きが

同乗します。鯨は竹製の張りぼてで長さ約4メートル、青年2人が入ります。

演技は「流し唄」「突き唄」などの歌に合わせて、鯨を発見して追いかけ、

追い詰め銛を打つという順に行われます。

<ネット『四日市祭 納屋の祭』http://happytown.orahoo.com/naya_matsuri/> に

唄と演技の詳しい説明がありました。抜粋しておきます。

上記歌詞と見比べながら、勇壮な明神丸の黎り(ねり)を想像してください。

演技は、「流し唄」から始まる。船が漁場に着く迄の漁夫達の世間話や

唄いながら船を漕ぐ様子を表し、「前唄」と「本唄」とに分かれている。

「前唄」は「エーヘーヘーヘー・・・」という唄から始まるのであるが、

これは「今日は良い日じゃ、良い日じゃ」と云って船を漕いでいるのを

表したものである。

合間に「エーサァーサーヨシテヨシテ」と囃(はやし。掛け声)が入る。

その後に「本唄」が続き「今年しゃ世が良て、穂に穂が咲いた  枡はさて

置いて、箕で計る ヤッサ」と豊作を喜ぶ歌などを唄う。

唄の最後には、「治まる御代やとせぃ」と平穏無事を感謝する言葉が

囃として付け加えられる。

さて、漁場に到着すると「役唄」が始まる。鯨突きの始めを知らす唄である。

「安芸の宮島廻れば七里、浦は七浦七恵比須 お目出度や」

安芸の宮島(厳島神社)は船の神様で、安全と大漁を祈願してから漁に掛かる

のである。

次に「沖のかもめに背美はと問えば、さぁ背美は来る来る、後へ来る お目出度や」

と「突唄」(鯨を突く唄)を唄う。

踊り子やロコギは扇をかざして鯨を捜す所作をして踊りが始まる。

櫓漕ぎは櫓を漕ぎ、踊り子は両手を大きく広げて鯨を突く準備の踊りをする。

若い衆は船を前後左右に操って、あたかも大波小波をより分けて鯨を追う様を演じる。

途中クジラの逆襲をあびて船が押し戻される場面もある。

クライマックスが近付くと太鼓が激しく打たれ、船は大きく船尾を上げ

同時に踊子は銛を両手に捧げて鯨に打ち込む。

鯨を突き終わると

「お諏訪前で鯨を突いた、サーこれもお諏訪の御利生かや お目出度や」と

氏神様に感謝して「祝い唄」が続く。

「嬉し目出度の若松様は、枝も栄えて葉も茂る お目出度や」

全国的に唄われる祝い歌である。

「嬉し目出度で参れば渡る、伊勢の大淀の宇治橋や お目出度や」

鯨が捕れてお伊勢さんへ妻や子供達を連れてお礼参りに行くという唄である。

「これで妻子も諸共に、玉を持って遊べ ヤッサ」

これで社殿に向けられていた船の梶を変えて次の漁場または港へ帰る準備をし、

もう一つ感謝の意味をこめて祝いの唄を歌う。

「いや栄のその子孫家のホイのホイ、アーソーレー」

「伊勢の間の山を通れば、お杉やお玉ヤッサ 治まる御代やとせぃ」

これで演技が終わってもとの流し唄に戻るのである。

漁が終わって港に帰る(祭りを済ませて家に帰る)時には、

威勢よく伊勢音頭を唄いながら家路につく。

<駒田英市『鯨船明神丸の演技』より>

*諏訪神社の例祭「四日市祭」は戦前までは、旧市内26町が、この鯨船を初め、

カラクリ人形の山車、仮装行列など華やかな黎り(ねり)を奉納しました。

町衆文化の華、東海の三大祭とうたわれましたが、四日市空襲で黎り(ねり)

ほとんどを焼失しました。

戦後はじまった市民祭、8月の「大四日市まつり」の影響もあって、諏訪神社の

黎り(ねり)の奉納は途絶えていましたが1997(平成9)年に秋の四日市祭

として奉納行事が復活しました。

<この項、

ネット『四日市祭 納屋の祭』http://happytown.orahoo.com/naya_matsuri/

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など>

 

                  ◇

【和歌山県】

●『綾踊』    和歌山県東牟婁郡太地町(ひがしむろぐん・たいじちょう)

 

  エー明日は吉日エー 砧打つエーヨイヨイ

  明日は吉日エー砧打つ エーお方姫子も出て見やれホイ

  砧踊りは面白や エーなおも砧は面白や

 

エー何とさしたるエー 枕やらエーヨイヨイ

何とさしたるエー枕やら エーちょいと夜中に目を覚ますホイ

砧踊りは面白や エーなおも砧は面白や

エー淀の川瀬のエー 水車エーヨイヨイ

淀の川瀬のエー水車 エー誰を待つやらくるくるとホイ

砧踊りは面白や エーなおも砧は面白や

 

*「綾踊」(あやおどり)は、竹に色紙を巻き小石を入れた長さ45センチ程の竹筒

(「綾竹(あやだけ)」 綾竹)を両手に持って踊る踊り。「砧踊(きぬたおどり)」とも。

静岡・千葉・和歌山などに伝わっています。江戸時代前期の小歌踊系統の砧踊が太地に

持ち込まれ、その動作が鯨を追う時に船縁を棒で叩く所作と似ている事から定着した

のではないかとされています。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

(→ 綾踊 砧踊

*「砧」(きぬた)は布を叩いて、やわらかくしたり、つやを出したりするために

用いた木槌のことですが、鯨を網に追い込むとき勢子船(せこぶね)の「かんぬき」

(舟のへさき手前の横桁)や船べりをたたく棒も「きぬた」と呼びました。(

*「お方姫子もでてみやれ」は、「奥様・お嬢様も、出てきてご覧」と呼びかけて

いるのでしょう。

*三番の「淀の川瀬の水車」(よどのかわせのみずぐるま)は、淀川の三十石舟と

沿岸の水車をうたった端唄(はうた)・うた沢の題名。<『広辞苑』>

また常磐津(ときわづ)『夕月船頭』にも、

「淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると」という一節があります。

当時上方で流行した歌の文句が、鯨歌に取り入れられたのでしょうか。

 

  ●『綾踊』    和歌山県東牟婁郡太地町(ひがしむろぐん・たいじちょう)

 

  明日は吉日砧打 明日は吉日砧打

 おかた姫子も出て見やれ

きぬた踊りは面白や 猶もきぬたは面白や

 

背美が孕んで産めばこそ 背美が孕んで産めばこそ

沖にお背美がたえやらん

きぬた踊りは面白や 猶もきぬたは面白や

 

   お背美子持を突き置いて お背美子持を突き置いて

 春は参ろぞ 伊勢様へ

きぬた踊りは面白や 猶もきぬたは面白や

 

竹になりたやお山の竹に 旦那栄えるしるし竹

栄える旦那 旦那栄えるしるし竹

 

*荒木公敏さんが別の文献で見つけた太地の『綾踊り』です。

 前項と歌詞にかなりの違いがありますので、収載しました。

 「綾踊(あやおどり)」・「砧踊(きぬたおどり)」については、前項と、

末尾“くじら語”リストをご参照ください。(→ 綾踊 → 砧踊 →

*「(お)背美」(せみ)はセミクジラのこと。体長約16メートルの

ヒゲクジラで、泳ぐスピードが遅く、死んでも沈みません。捕鯨対象として

好都合の鯨のため、日本近海でも18世紀から盛んに捕獲されました。

背美(鯨)

*「旦那」は、鯨組の組主(組頭)。「しるし竹」は、鯨漁期が近づくと「羽指」

(はざし。勢子船の指揮をとる銛師)が竹やぶから切り出した竹。縁起が

良いものとされ、幟旗(のぼりばた)や印旗(しるしばた)にしました。

次の『殿中踊』もご覧ください。(旦那(様) 印竹 羽指

            <この項、『熊野太地浦捕鯨乃話』太地五郎作乃述

日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房>

 

 ●『殿中踊』       和歌山県新宮市三輪崎(しんぐうし・みわさき)

 

  突いたや三輪崎組はサ ゝ 親も捕り添え子も添えて

  前なる轆轤(ろくろ)へかがすをつけてサ ゝ 大背美巻くよ暇もない

 

  組は栄える殿様組はサ ゝ 旦那栄えるいつまでも

  竹になりたやお城の竹にサ ゝ これは祝いのしるし竹

 

  船は着いたや五カ所の浦にサ ゝ いざや参らん伊勢様へ

  ソリャ 一国二国 三国一じゃ

 

*静岡県の『突ン棒』は、ツチクジラの子持鯨(親子連れの鯨)を突き取る歌でしたが、

こちらは「大背美」(大きな背美鯨。せみくじら)を突き取る歌です。

江戸時代、沿岸捕鯨は規模が大きくなり「鯨組」という数百人規模の組織集団によって

行われるようになりました。一番では「三輪崎組」という「鯨組」が子持ちの背美鯨を

捕獲し、大きな「轆轤(ろくろ)」に「かがす」(太い麻縄)でつないで、浅瀬に

引き上げる様子を歌っています。(→ 鯨組 納屋場 轆轤 かがす

*「背美鯨」は、体長約16メートルのヒゲクジラで、泳ぐスピードが遅く、死んでも

沈みません。捕鯨対象として好都合の鯨のため、日本近海でも18世紀から盛んに

捕獲されました。特に日本近海に進出した欧米捕鯨船による乱獲が激しく、日本近海の

セミクジラは激減しました。(背美(鯨)

*二番の「旦那」は、鯨組の組主(組頭)を指しています。当時の鯨組の組主がいかに

富裕であったか、西海捕鯨の基地の一つ、佐賀県唐津市呼子町の鯨組「中尾組」の

組主について「中尾様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俚言が

残っています。当時の唐津藩主を凌駕した鯨組組主の繁栄ぶりを偲ばせます。

(→ 旦那(様)

*「しるし竹」は、毎年、鯨漁期が近づくと「羽指」(はざし。勢子船の指揮をとる

銛師)が寺に籠ったあと、竹やぶから切り出した竹。縁起が良いものとされ、

幟旗(のぼりばた)や印旗(しるしばた)にしました。(→ 印竹 羽指

*三番は、がらりとお伊勢参りに場面が変わります。

 「五カ所の浦」は、この歌の場合、和歌山県三輪崎に近い三重県南伊勢町五ケ所浦

 のことだと思われます。大漁のお礼にお伊勢参りに出かけた。伊勢神宮に近い

「五カ所浦」に上陸し、いざ参らん、お伊勢様へ!

 「三国一」(さんごくいち)は、インド・中国・日本の三国で一番のこと。世界一の

意味で、掛け声などに使われてきました。(→ 三国一

 

 *トップページで紹介しています <星野哲郎他編『日本の海の歌』> にも、この歌が

  『紀州鯨唄(和歌山県民謡)』のタイトルで紹介されています。

  同書の解説によりますと「紀州の鯨漁の本拠地は太地の和田組と、藩命で結成した

  新宮三輪崎の殿様組があるが、このうたは後者のもので『殿中踊り』と呼ばれる

  もの」

 

●『鯨おどり』      和歌山県新宮市三輪崎(しんぐうし・みわさき)

 

  沖の長須にヨーエー(ハイハア)背美問えば

   (ハーヨーイヨイ)

  沖の長須にヨーエー 背美問えば
  背美は(エイハア)来る来る後へ来る(きぬた)

 

  前のロクロにヨーエー(エイハア)綱つけてヨ

   (ハーヨーイヨイ)

  前のロクロにヨーエー 綱つけて

  浦へ(エイハア)土産の突き鯨(きぬた)

 

  沖で潮吹きゃヨーエー(エイハア)浦千鳥

  (ハーヨーイヨイ)

沖で潮吹きゃヨーエー 浦千鳥

組の(エイハア)栄えを千代と鳴く(きぬた)

 

 *登場するのは「長須鯨」(ながすくじら)と「背美鯨」(せみくじら)。

  大きな鯨2種の共演です。

長須鯨」(ながすくじら)は、体長約23メートルの巨大なヒゲクジラ。

鯨類の中でシロナガスクジラ(白長須鯨)に次いで大きいクジラです。

<大隅清治『クジラと日本人』> によりますと、江戸時代に「長須鯨」と呼んだのは

シロナガスクジラのことだったそうです。(現在のナガスクジラは「のそ」と呼ばれて

いました)(→ 長須鯨

  「背美鯨」については、上記、和歌山県『殿中踊』の解説と、末尾の“くじら語”リスト

背美鯨 の項をご覧ください。

 *一番は、沖の長須鯨に背美鯨はどこかと尋ねたら、「背美鯨は後から来るよ」という

  答えが返ってきたと歌います。─ 当時、捕鯨の対象にされた鯨のうち背美鯨の評価が

最も高かったことが、この歌からもうかがえます。

*二番は、この前の『殿中踊』にも出て来た「轆轤(ろくろ)」に綱をつけ、鯨を浅瀬に

 引き上げる様子。(→ 納屋場 → 轆轤

 *三番は、一転、「浦千鳥」が鳴く、沖のおおらかな眺めを歌います。

  「組の栄えを千代と鳴く」は「鯨組」(江戸時代に発達した大規模な捕鯨集団。→ 鯨組)が

     「末長く栄える」と、鳴いているよ。─ 千鳥の鳴き声と「千代」(ちよ。千年。非常に長い

年月)を掛けています。(→ 浦千鳥

 

                   

 【大阪府】

 大阪にも鯨歌がありました。

 中世、貿易港・商人の町・日本では珍しい自治都市として栄えた堺の漁民と

住吉大社を結ぶ伝説に彩られた鯨踊りと歌。─ 地元の方たちは、かつての

賑やかな祭りを蘇らせたいと願っています。

 

 ●『鯨踊り音頭』  大阪府堺市堺区出島町(さかいし・さかいく・でじまちょう)

 

  波の花咲く(コラセ) かすみの海でさ

  沖で鯨が しおを吹く(マカセ)

 

  沖に見えるが(コラセ) 鯨の船か

  小高か たいじか 宮崎か(マカセ)

 

  *「小高」「たいじ」「宮崎」は沿岸捕鯨が盛んだった紀州(和歌山)の

   3つの捕鯨基地。─「小高」は、現・和歌山県東牟婁郡古座川町

   (ひがしむろぐん・こざがわちょう)。「たいじ」は、東牟婁郡太地町

   (ひがしむろぐん・たいじちょう)。「宮崎」は、新宮市三輪崎(しんぐうし・

   みわさき)のことだと思われます。

  *堺市の出島(でじま)は、古い歴史を持つ漁業の町です。鎌倉時代の末期、

   出島沖にくじらが現われ、漁師たちが総出で網を編んだが、鯨は忽然と消えた。

   漁師たちは落胆したものの、消えた鯨は紀伊熊野権現の使者と考え、浜で踊って

   なぐさめあった。─ ここから出島の『鯨踊り』が始まったと、伝えられて

   います。

  *その後、出島の人々は「鯨まつり」を始めました。

   15間(約27m)もある車輪を付けた竹の張り型の鯨を、水鉄砲で汐を

   吹き上げながら子どもたちが綱で引き、稚児が乗った船車がこれを追って、

   大阪市住吉区の住吉大社まで5キロの道のりを練り歩きます。

   以来住吉大社の祭礼行事として20〜30年ごとに賑やかに行われてきましたが、

   1931(昭和6)年、そして1954(昭和29)年に行われたあとは、

   「堺まつり」のパレード参加など、一部の復活にとどまっています。

          <小松正之『歴史と文化探訪 日本人とくじら』など>

  *江戸時代、関西と西海(九州)の間では捕鯨関係の人やお金の交流が

   ありました。堺にも鯨油や鯨肉が運ばれ流通していました。

   1691(元禄4)年には、大阪の大阪長右衛門組が長崎の五島灘

   平島に出組を持っていました。

    <中園成生「西海捕鯨漁場における熊野漁民の活動」

    (『熊野誌6号 捕鯨特集』熊野地方史研究会・新宮市立図書館))>

  *一方大阪湾深く堺沖まで鯨が入ってくることも多く『出島漁業史』には

   1907(明治40)年、県境の和歌山県加太(かだ。和歌山市加太)

   沖で出島の人たちが大鯨を捕まえ、一般観覧をして漁港の築港費用に

   当てたという話も残っています。

            <小松正之『歴史と文化探訪 日本人とくじら』>

 

 2011年1月、この歌の地元、堺市堺区出島町にお住まいの郷土史家

鎌苅一身さんから連絡をいただきました。鎌苅さんは、かつて盛大に行われた

「出島浜・鯨まつり」の研究を続け、祭りの復活・保存にも尽力されています。

<『堺泉州 第19号』堺泉州出版会・2009.5> に寄稿した『堺出島浜・

鯨まつり−堺泉州三大奇祭−』を送ってくださいました。

 それによりますと、1954(昭和29)年の「鯨まつり」は、

「(全長27mの竹組の鯨が)阪堺線沿いに大和橋を越え、大樽に海水を仕込んだ潮を

 噴き上げ、鯨唄を唄いながら住吉大社をめざし行進をした。昭和6年(1931)以来

 23年ぶりの復活で、大きさは当時でも約30mにも及んだといい、南海電車一両分

 (約20m)より巨大であった。…口はパクパクと動き、尾ひれも可動式であった。

 豊漁に感謝し鯨を慰霊するため太鼓橋を渡り、海の神を祭る住吉大社に奉納参拝した。

 境内は大変な賑わいを見せたものである。…鯨まつりは過去4度、明治12〜14年?

 の間・明治42年・昭和6年・昭和29年に行われた。…下関・太地・長崎などでも

 鯨まつりが行われているが、出島浜のように大鯨を押し立て、延々5キロもの道中を

 巡行する壮大なまつりはまれである。出島漁民・住民、堺衆のエネルギーを示したもの

 であり、芦原三韓まつり・石津やっさいほっさいまつりと共に三大奇祭と言われる所

 であろう」

 また、『堺出島浜・鯨まつり−堺泉州三大奇祭−』には、

「堺出島浜伝承唄 くじら音頭 作者・成立年代不詳(地元で取材された野崎敏生氏が

『道ばたの文化遺産3号・平成6年刊』に発表されたものより)」として、堺出島の

『鯨踊り音頭』の歌詞が一番から二五番まで収載されています。

 鎌苅さんも指摘されていますが、これだけ長大な鯨歌は全国的にも珍しいかも

しれません。江戸時代、ヒト・モノ・カネが賑やかに行き交い、流通経済の

拠点だった堺の地ならではの“全国総集版鯨歌”のおもむきも感じられます。

 以下、全歌詞を転載させていただきます。(ママ)は、疑問があるが採譜のままの

意味。原文に従いました。

 

    堺出島浜伝承唄 くじら音頭   (作者・成立年代不詳)

 一 堺住吉(コラセ) 三社か四社かさ

   表三社で 裏と四社(マカセ)

 二 四社の前でと(コラセ) 扇をひろめ(ママ)

   扇めでたや 末はんじょう(マカセ)

 三 鯨とろとて(コラセ)綱まですいて 

   くじら熊野へ みなかえる(マカセ)

   *冒頭の解説でも述べましたが、鎌倉時代末期出島沖に鯨が現われ、総出で

    網を編んだが、鯨は忽然と消えた。消えた鯨は紀伊熊野権現の使者と考え、

    浜で踊ったのが出島の鯨踊りの始まり、という伝承を反映した歌詞。

                               (引用者注)

 四 出島浜にて(コラセ) 鯨がとれて

   今はうれしや 宮詣り(マカセ)

 五 堺あんりゅう町(コラセ) 浪花の松は

   天に押されて 地で開く(マカセ)

 六 沖に見えるは(コラセ) 鯨の船か

   小高か たいじか宮崎か(マカセ)

   *冒頭の解説でも述べましたが、「小高」「たいじ」「宮崎」は、当時、

    沿岸捕鯨が盛んだった紀州(和歌山)の3つの捕鯨基地。−和歌山県

    東牟婁郡古座川町(ひがしむろぐん・こざがわちょう)・東牟婁郡

    太地町(ひがしむろぐん・たいじちょう)・新宮市三輪崎(しんぐうし・

    みわさき)のことだと思われます。(引用者注。同趣旨の原注あり)

 七 前のろくろは(コラセ) かがすをはえて

   鯨まくまで ひまがいる(マカセ)

   *「ろくろ(轆轤)」は、鯨の引き揚げや解体のとき、人の力で回し綱を巻き取る

    装置。「かがす」は網用の太い綱。(引用者注。末尾“くじら語”リスト参照)

 八 目出度目出度の(コラセ) 若松さまよ

   枝も栄えて 葉も茂る(マカセ)

 九 あきの宮島(コラセ) まわれば七里

   浦は 七えびす(マカセ)

 十 沖のかもめに(コラセ)潮時とえば

   私や立つ鳥 波にとえ(マカセ)

 十一 沖のとなかの(コラセ) 三本竹よ

    うまづ(ママ)竹かや 子が出来ず(マカセ)

    *「となか(門中)」は、瀬戸・海峡の中。(原注)

 十二 うまずだけでは(コラセ) わしやなけれど

    潮にもまれて 子がさかぬ(マカセ)

 十三 とろりとろりと(コラセ) 船漕ぎ立てて

    春は詣ろや 伊勢さまに(マカセ)

 十四 堺住吉 名所がござる(コラセ)

    角(かく)の鳥居に それ橋か(マカセ)

    *「それ橋」は「反り橋」。昔の大阪の発音か。(原注)

 十五 和歌の浦には(コラセ) 名所がござる

    一にごんげん 二に玉つ島(マカセ)

 十六 つつじ椿は 野山を照らす(コラセ)

    せみの子持ちは 村照らす(マカセ)

    *「せみ」は背美鯨。「村」は「浦」とも、(原注)

 十七 さがみ(相模)横山(コラセ) てるての媛は

    つまの小栗と 二度添える(マカセ)

    *「てるての媛(ひめ)」は、「照手姫」のこと。

     照手姫と小栗判官(おぐりはんがん)のお話については、

     →「川柳のページ」の【照手姫】をご覧ください。

 十八 播州高砂(コラセ) 尾上の松は

    枝も栄えて 葉も茂る(マカセ)

 十九 ひい(比井)のからこ(唐子)の(コラセ) 中手(かて)の磯は

    根からはえたか 浮島か(マカセ)

 二〇 沖に見えるは(コラセ) 鯨の山か

    こざかたいぢか みやざきか(マカセ)

    *六番の歌詞と似ていますが、「鯨の船」が「鯨の山」、

     「小高」が「こざ」に変わっています。

 二一 沖に見えるは(コラセ) 鯨の山か

    陸へのぼせば 黄金山(マカセ)

 二二 堺出島の(コラセ) 船持(神社)さまは

    出船入船 お守りなさる(コラセ)

 二三 竹になりたや(コラセ) お江戸の竹に

    お江戸御番所の とゆ竹に(マカセ)

 二四 えびす大黒(コラセ) いずみの国のさ

    西と東の 守り神(マカセ)

 二五 浪の花咲く(コラセ) かすみの海で

    沖で鯨が 潮を吹く(マカセ)

 

 [鯨のもりつきのかけ声。歌詞五番ごとに入れていく]

   一国二国三国一の大せみ

   取りすまして よいよーい よや よや やあやあやー

   やよせ やよせ やれつけや

      <鎌苅一身『堺出島浜・鯨まつり−堺泉州三大奇祭−』

             (『堺泉州19号』堺泉州出版会)>

 

 鎌苅さんからのお便りに、

「本年度、住吉大社へ昭和29年以来の本格的な復活をしたいと企画して

おります」とありました。出島のみなさまの念願が実り、1954(昭和29)年

以来半世紀余ぶりに、伝統の大鯨が5キロの道のりを練り歩く勇姿が蘇ることを

願ってやみません。

 鎌苅さん、資料のご提供ありがとうございました。

 なおこれまで、この歌の曲名を『くじら踊り歌』、祭りを「くじらまつり」と表記して

いましたが、鎌苅さんに従い、『鯨踊り音頭』「鯨まつり」に改めました。

                              (2011.2.5)

 

 祭り復活に熱意を燃やし続けた鎌苅一身さん(湊駅前東通り商店会会長・郷土史家)

はじめ地元の方たちの念願が、ついに実って、「堺出島浜鯨祭り」は2011年夏、

57年ぶりの復活を遂げました。

 7月24日(日) 12メートルあまりの竹組みの「大鯨」が、出島漁港から

住吉大社まで5キロの道中を練り歩き、奉納されました。

 当日、堺を訪れ大鯨を目の当たりにされた呼子鯨組(佐賀県唐津市)の八幡崇経さんから

メールをいただきました。

「良い天気で、強い日差しが照りつけるなか、11時の神社到着から大鯨を見ることが

 できました。12mの巨大な鯨さんは、住吉さんの太鼓橋をゆっくり渡って本殿前へ。

 そのあと、本殿前で奉告祭と鯨踊りの芸能が披露されました。

 住吉大社の神職の話によりますと、江戸時代は鯨の後ろに銛打ちの船が4隻ついたそうで、

 長崎・万屋町の鯨の潮吹きを思い浮かべました。そういえば、この辺の太鼓台は、

 長崎で云えばココッデショの起源とされたりもしています。呼子の生島家は泉州の

 出身という伝えや、中尾家が大阪に出入りしていたともいわれていますので、

 文化的な交流があったのではないか…。妄想をめぐらせながら拝見していました」

 八幡さん、ありがとうございました。

 このあと、大鯨は1週間、本殿近くに展示されました。

 そして、8月1日(月)住吉大社を出発した「お渡り行事」に参加。800メートルの

大行列に加わって堺まで練り歩き、伝統の「出島浜鯨祭り」の復活を祝いました。

 「大鯨」が練り歩いたのは、明治以降これまで4回しかなく、今回が5回目。

湊西自治連合協議会や堺魚連など、地元の方たちの尽力で、1954(昭和29)年

以来、57年ぶりの快挙が実現しました。

 詳しいことをお知りになりたい方は、堺市の湊駅前一心堂書店 鎌苅一身さん

072−241−4105 まで。   (2011.8.6)

 


                  ◇

【山口県】

●『鯨唄』        山口県長門市仙崎(ながとし・せんざき)

 

  夢を見たナー 目出度い夢を(サイサイ)

  背美を枕に子持前エー(アドコデモトッタリ)

  子持前に 大がちよりかかる(アサイサイ)

  これも御神の御利生かえ(アドコデモトッタリ)

 

 *山口県長門市仙崎は、薄命の天才詩人金子みすゞ(1903(明治36)〜30(昭和5))

 の故郷で、明治まで伝統捕鯨が行われていました。往時を歌ったみすゞの作品『鯨法会』

『鯨捕り』は、よく知られています。(→ 『鯨さんの詩』「詩・歌」

*「背美」(せみ)は背美鯨。体長約16メートルのヒゲクジラで、速度が遅く、

潜る深さが浅く、しかも死んでも沈まないという、捕鯨対象としては絶好の鯨のため、

日本近海でも18世紀から盛んに捕獲されました。特に日本近海に進出した

欧米捕鯨船による乱獲が激しく、日本近海のセミクジラは激減しました。

背美(鯨)

*「子持」(こもち)は親子連れの鯨のこと。捕鯨の対象として最上です。ただし、

鯨捕りの人たちは、必死に子どもをかばう親の姿を目の当たりにして、ただ捕獲するだけ

ではなく、鯨の親子をねんごろに弔うことも忘れませんでした。(→ 子持ち鯨

*「大がち」の意味は不明です。前後の関係から、大物といった意味かと思われますが、

 ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

 *「御利生」(ごりしょう)は、「神仏から受ける恩恵。ごりやく」<『広辞苑』>

  (→ 御利生

 

●『鯨唄』        山口県長門市油谷向津具(ながとし・ゆやむかつく)

 

 祝いイエーアエー目出度のサーヨイヤサー

 若松サーイヨー様じゃ

 イヨーサーヨーエヨーエーエーヨイヤサーアー

 枝も栄えるヨイヤサー葉も (後略)

 

*祝いの席などでよく歌われる民謡「目出度目出度の若松様よ 枝も栄えて葉も茂る」

  (あるいは「祝い目出度の…」)の歌詞は、全国各地に広まっていて、花笠音頭・

  伊勢音頭などにも歌われています。鯨歌でも各地で祝歌に取り入れられています。

(→ 若松様

 

●『祝え目出度』     山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

祝え目出度の ヨイサー 若松様よ

枝も栄える ヨイヤサー 葉もしげるよ

竹になりたや ヨイヤサー 薬師の竹に

通栄える ヨイヤサー しるし竹よ

納屋のろくろに ヨイヤサー 綱くりかけてよ

大せみ巻くのにゃ ヨイヤサー ひまもないよ

三国一じゃ 綱に今年は大漁しよ

 ヨカホエ

 

 *長門市通(かよい)は、山口県の日本海側に位置する長門市青海島(おうみしま)の

 東部にあります。「通浦」(かよいうら)と呼ばれて昔から漁業で栄え、かつては

鯨組が組織され「長州・北浦捕鯨」の本拠地でした。

「長州・北浦捕鯨」は、通浦のほか瀬戸崎(現在の仙崎)・川尻を基地に、規模の大きい

網掛突取式捕鯨(→ 網掛突取式捕鯨)を行い、四大捕鯨漁場の一つである「西海」漁場

(山口県から長崎県にかけてひろがる漁場)の一角を占めていました。

通浦の鯨組の人たちの鯨に対する思いは格別でした。鯨の胎児を埋葬した「鯨墓」、

鯨に戒名をつけた「鯨鯢過去帖」(げいげいかこちょう)などに、その優しい思いを

見ることがでます。

また、一般にめでたい席で歌う祝い歌は、手を叩いて歌いますが、通の鯨歌は鯨の

恵みへの感謝と、鯨の死を悼む気持ちを表して、手を叩かず「揉み手」で歌います。

うるわしい民情のシンボルとして今も「鯨唄保存会」によって歌い継がれています。

(→ 長門市通

<ホームページ『古式捕鯨の里 通』 http://member.hot-cha.tv/~htc09819/ など>

*この歌も前の歌同様、出だしは「祝え目出度の若松様」(わかまつさま)ですが、

(→ 若松様)「松」から「竹」、さらに「背美鯨」の大漁と、おめでたづくめを

歌い上げます。

*「しるし竹」は、「羽指」(はざし。勢子船の指揮をとる銛師。→ 羽指)が

鯨漁期の前に寺に籠ったあと、竹やぶから切り出す縁起の竹。幟旗(のぼりばた)や

印旗(しるしばた)にしました。(→ 印竹

*「納屋のろくろ」「大せみ」は、<『殿中踊』和歌山県新宮市三輪崎>などにも

でてきましたが、納屋場(作業場。納屋場)に据えつけた大きな轆轤(ろくろ。

轆轤)に捕獲した背美鯨背美(鯨)をつないで、浅瀬に引き上げました。

*「三国一」は、インド・中国・日本の三国で一番のこと。昔は世界一を意味しました。

(→ 三国一

 

●『さても見事な』    山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

一 さても見事な 通の網よな

  せみの大がちが寄りかかる

  今年ゃ 寄りかかるな

  座頭の大がちが寄りかかる

二 今宵祝えで 明日はせみを懸けてな

これも祝えの 御利しょかな

今年ゃ 御利しょかな

これもあなたの 御利しょかな

 三 納屋のろくろにゃ 綱くりかけてよ

おせみ巻くのにゃ ひまもない

今年ゃ ひまもない

子持ち巻くのにゃ ひまもない

 三国一のじゃ 網にあしたは 朝懸けしよ

ヨカホエ

 

*ここまでワンポイント解説で取り上げてきた“くじら語”の総集編の観がある歌です。

  末尾の“くじら語”リストもご参考に。

   せみ:→ 背美鯨

   大がち:長門市仙崎の『鯨唄』で書きましたように、大物といった意味合いでは

ないかと思われますがはっきりしません。

   座頭:→ 座頭鯨

御利しょ:ごりやく。(→ 御利生(ごりしょう)

納屋:作業場。(→ 納屋場(なやば)

ろくろ:多人数による人力綱巻き取り装置。(轆轤(ろくろ)

三国一:世界一 。( 三国一

 

●『夢を見ようよ』    山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

夢を見ようよ 目出度い夢を ヨイヤサー

せみを枕にゃよ 子持ちを前に ヨイヤサー

旦那盃ゃよ 飲む段に立てたるよ

あかね鉢巻は誰じゃ ヨイヤサー

 

誰じゃござらぬよ 旦那様若衆 ヨイヤサー

せみを懸けにゃ来たよ

浜辺に大座頭を巻き据え置いて サーサィ

とかく通は幸せじゃ ヨカホエ

 

*「せみ」は背美鯨。「子持ち」は親子の鯨のこと。鯨捕りの人々にとって、どちらも

最大の恵み、最高の獲物でした。(→ 背美鯨 → 子持ち鯨

 「大座頭」は大きな座頭鯨。背美鯨に次ぐ獲物とされました。(→ 座頭鯨

*「旦那」は鯨組の組主(組を率いる頭)を親しみを込めて呼ぶ敬称。鯨歌にしばしば

登場します。次の歌では、題名になっています。(→ 旦那様

 

●『旦那様』       山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

旦那様常にはあがらずとも

今日のこの御酒を一つ引きうけて

あがれよお客様 ヨイヤサー

様がお差しなら 六つも七つも引きうけて

あがれよお客様 ヨイヤサー

しづがみはこいしく

おせみさま まだ沖に ヨイヤサー

あすは南堂で朝懸けしょ ヨカホエ

 

 *「しづがみはこいしく」は、漢字で書けば「賤が身は恋しく」。

  「賤」(しず)は、「いやしいこと。身分の低い者。<『広辞苑』>

  自分をさげすんで呼ぶときに「賤が身」と言いました。ここでは、遊女が自分を

指していることばでしょう。

 *「南堂」は、山口県長門市通(かよい)の東端、つまり青海島(おうみしま)東端の

海岸の地名です。

 *「朝懸け」は、朝、鯨を網に掛けて捕ること。(→ 懸ける

 

●『朝のめざめ』     山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

朝のめざめに サーヨイヤサー

イヨ山見をすれば イヤ大せみは

浮いて来る間によ

子持ちは寄せくる サーヨイヤサー

イヨ羽差しは勇む イヤ捕らにゃかなわぬ

懸けにゃかなわぬ サーヨイヤサー

イヨー通の沖で イヤ懸けて殺して

懸けて殺して サーヨイヤサー

イヨー通の浦へ イヤ漕げとよいならば

漕がにゃかなわぬ サーヨイヤサー

イヨ田の浦の浜の いや納屋のろくろにゃ

納屋のろくろにゃ サーヨイヤサー

子持ち巻くのにゃ ソリャソリャ

一じゃいの また一じゃいの

朝も懸けたが また懸ける ヨカホエ

 

 *「山見」(やまみ)は、山など高い所から、魚群などの動きを見張ることを言います。

  網掛突取式捕鯨(→ 網掛突取式捕鯨)では、「山見」は重要な仕事で、海を一望に

見おろす小山や岬の崖に小屋などを建てて、漁期中数人の山見方(山見をする人)が

常駐して沖を見張りました。鯨を発見すると、狼煙(のろし)を上げて、納屋場

(→納屋場)や、待機している勢子船に通報し、さらに、鯨の種類や進行方向などを、

苫(とま。むしろのようなもの)を掲げて伝えました。これを合図に勇壮な鯨捕りが

海上で繰り広げられました。(→ 山見

*この歌では、上記『さても見事な』と同じように、“くじら語”が次々にでてきます。

 末尾の“くじら語”リストも参考にしてください。

   大せみ:大きな背美鯨。(→ 背美鯨

   子持ち:親子の鯨。(→ 子持ち鯨

羽差し:はざし。勢子船(せこぶね)を指揮する銛師(もりし)。(→ 羽指

懸けにゃかなわぬ:「懸ける」は、鯨を網に掛けて捕ること。(→ 懸ける

納屋:作業場。(→ 納屋場(なやば)

ろくろ:多人数による人力綱巻き取り装置。(轆轤(ろくろ)

一じゃいの また一じゃいの:「一つ、また一つ」と威勢よく数える掛け声。

ここでは、轆轤(ろくろ)で浜辺に巻き上げる鯨を「一頭、また一頭」と

数えている。(→ 一じゃいな(の) また一じゃいな(の)

*「朝から山見をしていると、大背美も子持ち鯨もやってくる。

勢子船の羽指は、なんとしても掛けて捕まえると勇む。

ここ、通(かよい)の沖で掛けて捕まえ(船につないで)

通浦(かよいうら)へ漕いでいかねば。

田の浦の浜にある、納屋のろくろに 子持ち鯨を巻く。

一頭 また一頭 朝も捕ったが また捕るぞ」

  といった、威勢が良く、縁起が良い歌でしょうか。

 

●『思うことは叶う』   山口県長門市通(ながとし・かよい)

 

思うこたよ叶う ヨーノサ ヨイヤサー

末は鶴と亀とが ヨイヤサー

ヤレ祝えのものじゃ ヨーノサー ヨイヤサー

良かれ良かれと ヨイヤサー

ヤレ通は良かよ ヨーノサー ヨイヤサー

いつも捕るのが ヨイヤサー

ヤレ通のよ 網じゃ ヨーノサー ヨイヤサー

飲めよ大黒 ヨイヤサー

ヤレ唄えよ恵比須 ヨーノサー ヨイヤサー

金のふくさに ヨイヤサー

やれ金箱そえて ヨーノサー

ソリャソリャ 一じゃいの 一じゃいの

宝打ち出す槌じゃもの ヨカホエ

 

 *縁起の良いことば尽くしで歌い上げた「祝い歌」です。

  「末は鶴と亀」「飲めよ大黒 唄えよ恵比須」「金のふくさに金箱」「宝打ち出す槌」

と、おめでたいことばが並びます。(→ 恵比須・恵比寿・蛭子(えびす)

  「ふくさ(袱紗)」は絹の小形のふろしき。贈り物などの上に掛けたり、茶の湯で

使ったりする。<『新明解国語辞典』>

<ここまで、海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』より>

 

●『見嶋組鯨唄』     山口県萩市見島(はぎし・みしま)

 

拍子よく 蝉や坐頭の三番叟

とうとうとれる白子の吉左吾 佐用殿百猿

見嶋組あゝら目出たの三番叟

おゝきな魚を千山来も取る 西の市人

<日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房

『見島と鯨』多田穂波編 >

*「見島」(みしま)は山口県萩市の北北西45キロの日本海にある島です。

人口約1000人。古くから大陸との交易で栄え、江戸時代は九州の鯨組の

捕鯨基地として賑わいました。松島与五郎(見島与五郎とも。のち深沢与五郎)・

中尾組(呼子)・益富組(生月)などが入漁しました。

見島で最初に捕鯨を行ったのは、1704(宝永元)年、肥前(佐賀)から

入漁した松島与五郎で、当時の主流であった突取式捕鯨(→ 突取式捕鯨)に加え、

簡単な網も併用し成果をあげました。与五郎と行動をともにしていた妹(妾と

いう説も)阿千(お千)が、蜘蛛の網からヒントを得て、網の改良を与五郎に

進言したところ漁獲頭数が急増したと言います。この漁法が、のちに九州に

持ち帰られ、西海の捕鯨を盛んにしたとも言います。

<日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房

『見島と鯨』多田穂波編 >

*蝉や坐頭:「蝉」(せみ)はセミクジラ。「坐頭」(ざとう)はザトウクジラ

三番叟(さんばそう):歌舞伎で幕開きに行う祝儀の舞。

おゝきな魚:鯨

しかし「白子の吉左吾」「佐用殿百猿」「千山来」「西の市人」など、

理解できないことばが並びます。残念ですが、歌の意味は分かりません。

 

『みしま鯨唄』      山口県萩市見島(はぎし・みしま)ほか

 

見島鯨ハ誰がかけそめた 組の旦那のかけそめた

竹になりたや御山の竹ニ 旦那さかえる印竹や

納屋のろく路に綱くりかけて

蝉をまくのにひまもない 子持まくのにひまもなや

 

 *“くじら語”が次々にでてきます。“くじら語”リストも参考にしてください。

  かけそめた:漢字で書けば「掛初た」。「掛ける」は鯨を捕獲すること。

   「掛初た」は、「初めて捕った」の意味。

旦那:鯨組の組主(組を率いる頭)を親しみを込めて呼ぶ敬称。(→ 旦那様

印竹(しるしだけ):「羽指」(はざし。勢子船の指揮をとる銛師。→ 羽指)が

漁期の前に寺に籠り、竹やぶから切り出す縁起の竹。幟旗(のぼりばた)や

印旗(しるしばた)にしました。(→ 印竹

納屋:作業場。(→ 納屋場(なやば)

ろく路:「轆轤」(ろくろ)のこと。多人数による人力綱巻き取り装置。

  納屋場に据えつけた轆轤に捕獲した背美鯨をつないで浅瀬に引き上げました。

轆轤(ろくろ)

   蝉:背美鯨(せみくじら)。(→ 背美鯨

   子持ち:親子の鯨。(→ 子持ち鯨

*上に記した歌詞は、もとの文献どおりに引用したのですが、

「見嶋鯨ハ誰がかけそめた 組の旦那のかけそめた 竹になりたや御山の竹ニ」と、

「鯨ハ」「竹ニ」の2か所の助詞がカタカナ表記になつています。

鯨歌の歌詞で、掛け声や語尾を伸ばす所でのカタカナ書きはたくさん見られますが

助詞のカタカナ書きは珍しい。 なぜでしょうか?

 

 【「みしま鯨唄」の変化】

「見島鯨は誰が掛初(そめ)た」で始まる鯨歌(『みしま鯨唄』)は、各地で

歌われてきました。西海(九州沖)などで「見島鯨」といえば、見島の方から南へ

回遊してくる鯨のことで、見島鯨がたくさん回遊してきて大漁になることを期待して、

各地で「みしま鯨唄」が歌われたようです。

この結果、『みしま鯨唄』は地域によって少しずつ変化し、さまざまの歌詞で

歌われるようになりました。例えば、

小川組]    見島鯨ハ誰が掛初た  組の旦那がかけ初た

竹に成たや御山の竹に 旦那栄える印竹

納屋の轆轤に綱くりかけて 蝉を巻くのにひまもなし

子持まくのにひまもなや 三国一じゃ、はいやはい

 

通浦鯨歌] みしま鯨誰がかけそめた 組の親父がかけそめた

水が呑みたやおさんの手から 顔のえくぼのたまり水

帯になりたやおさんの帯に ひるは細腰じゅるりと〆て

夜はとかれて添寝する ヨカホエ

*「おさん」は、「お千」(松島与五郎の妹)のこと

 

<この項、日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房

『見島と鯨』多田穂波編 >

 


                ◇

【高知県】

土佐(高知県)には、江戸時代から明治末年頃まで、県東部の室戸岬の漁港、

「浮津」(うきつ。室戸市浮津)と「津呂」(つろ。室戸市室戸岬町津呂)にそれぞれ

鯨組がありました。

 まず「浮津浦組」の鯨歌から。

 

●『鯨舟の歌』      高知県室戸市浮津(むろとし・うきつ)

 

三国一ぢゃ 子持取りすました

  でかしたでかした 明日はでかした

  大きな大背美を捕った

 

  嬉し目出度の思ふこたかな

  いやとったりや ともさで

  末は鶴亀 五葉松

 

  重ね取りよする 浮津浦組よ

  いやとったりや ともさで

  親も取りそへ 子もそへて

 

  今日も背美取る 明日も取る

  いやとったりや ともさで

  明後日は旦那で 金かける

 

  三国一ぢゃ 子持取りすました

  でかしたでかした 明日はでかした

  大きな大背美を捕った

 

  いや組の栄は 久方の子持連魚を

  日々に来て 押し寄せて 寄せて

  突き取るはざしかこ 何時迄も何時迄も

  旦那栄える 浦屋もにぎはうかな浮津浦  (以下略)

<『室戸市史』所収 『鯨の郷・土佐』(高知県立歴史民俗資料館)より。

『第3回室戸開催の記録 日本伝統捕鯨地域サミット』(室戸市・日本鯨類

研究所)により一部修正>

 

*子持ち鯨(→ 子持ち鯨)や、大きな背美鯨(→ 背美鯨)を捕ったという喜びの歌。

祝歌です。ほとんどのことばが、すでに出てきましたのでお分かりいだけると

思います。

*「五葉松」(ごようまつ)は、針形の葉が5本ずつ集まって出るヒメコマツなどの

松のこと。縁起の良い松とされ、庭の植木や盆栽として愛される美しい松です。

「浮津浦」は、現在の室戸市室戸岬町内の捕鯨で栄えた浦。

「浮津浦組」は、その鯨組の名。

「浦屋」(うらや)は、海辺近くに住む「浦人」(うらびと)の家々。(→ 浦屋

「はざしかこ」は、「羽指」(はざし。勢子船に乗る銛師。→ 羽指)と

「水主」(かこ。船乗り、水夫の古語。→ 水主)のこと。

 

<海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』> にも、「浮津浦組」の

『鯨船の唄』が収録されていました。『室戸市史』所収の歌詞と、かなり相違がありますので

転載・紹介します。

 

●『鯨舟の唄』      高知県室戸市浮津(むろとし・うきつ)

 

三国一じゃ子持ち捕り済ました アでかしたでかした

 ソリャ明日はでかした ア大きな大背美をとった

  ソリャオン和歌の ア大浦から アヨーイ ア焦がれて来 ソリァ来たか

   アソレモエーンエーンエーンエー アヨーイ

  ア様は嬉しゅや アヨーイ アもろ共に 嬉し目出度の ア若松様よナー

   ア枝もヨー ソリャ 栄える ア葉も茂る

 

ソーリャ枝もナーヨーシ ア枝もヨー ソリャ 栄える ア葉も茂る

イヤ旦那様の鯨舟 ソリァ浮津の甚五郎が造りたや

突き候背美のソリァ 子持ち突き候エ

イア旦那様の神楽さん ソリァ如何なる日を見て据えたやら

捲き候背美のソリァ 子持ち捲き候エ

イア旦那様の油納屋 ソリァ如何なる日を見て建てたやら

練り候背美のソリァ 子持ち練り候エ

イヤ鉢巻鉢巻 茜鉢巻ゃ浮津浦組よナー ソリャ

親も獲り添え ア子も添えてオモシロイ ソリャヨーカロ

ソリャ大背美は 舟に寄りかかる寄りかかる

ヤあわの中のひよどり エイヤシャリシャリシャリソリァ

一国二国三国一じゃ子持ち捕り済ました

ア三国一じゃ子持ち捕り済ました

<海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』

『第3回室戸開催の記録 日本伝統捕鯨地域サミット』(室戸市・日本鯨類研究所)に

より一部修正>

 

 

 

 

 一方、「津呂組」の鯨歌については、荒木公敏さんから以下の3曲を教示いただき

ました。

 

●『三国』  高知県室戸市室戸岬町津呂(むろとし・むろとみさきちょう・つろ)

 

三国一ぢゃ子持獲りょすました

でかしたさア でかしたさア

あすはでかした大けな大たろ大獲りぢゃ

祝えごりょしょにまず背美獲ろや

これも祝いのごりょしょかぇ

 

重ね獲りょする津呂浦の組は

親も獲りそえ子もそえて

前の轆轤(ろくろ)へカガスをはえて

子持ょ巻くのにひまがない

そりゃまた一ぢゃ子持獲りょすました

でかしたさアでかしたさア

あすは大けな大たろ大獲りぢゃ

 

*三国一:「三国」はインド・中国・日本。昔の日本人にとっての全世界だった。

今なら世界一と言うところ。(→ 三国一(さんごくいち)

子持(こもち):親子連れや胎児を持った鯨は最上の獲物とされましたが、

親子連れを捕獲しようとすると、母親は必死に子どもをかばい離れない。心を鬼に

して捕獲するのですが、信仰心の厚い漁師たちは墓や供養塔を建てて、母子鯨を

ねんごろに弔いました。(→ 子持ち鯨(こもちくじら)

大けな大たろ:「大きい獲物」のことでしょうが、「大たろ」については

よく分かりません。ご教示ください。

ごりょしょ:御利生。神仏から受ける恩恵。ごりやく。

(→ 御利生(ごりしょう)

轆轤(ろくろ):鯨の引き揚げや解体の時、人力で回し綱を巻き取る装置。

(→ 轆轤(ろくろ))多人数による人力綱巻き取り装置。

カガス:網用の太い麻綱のこと。(→ かがす

<「土佐津呂組捕鯨聞書」桂井和雄

日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房> によりますと、

鯨歌『三国』は「カバチアゲ」(初鯨)のときと、胎児を抱えた鯨や

子連れの鯨を捕ったとき(子鯨供養)に歌ったということです。

初漁が上がった時は『カバチアゲ』をした。鯨を解体して5日か7日

などに勢子と羽差29人が集まり、浜の4つのろくろの東から2番目の

ものに、『苫(とま。ムシロのようなもの)の標(しるし)』を、

山見のセミクジラの様にテンビ(合図の印:天竺木綿の布)に巻いて、

ろくろに、チロリン(8合入りの鉄製の酒器)のお神酒と、シラゲ

(洗米)を沖向けに供える。これは『竜宮さま』に供えるのである。

この時『三国』の唄をうたい、後で羽差だけが下納屋で酒を飲んで

お祝いをする。これがすむと捕鯨事務所で、主だった関係者・役員

60人くらいが酒宴を開いた。

胎子持や子持を獲ると「子持祝い」をした。これもカバチアゲと

同じようにろくろに苫(とま)を上げて『三国』をうたった。

この時は鯨の供養を意味していた」(故福井貞太郎翁の話)

*どのようなとき、どのようにして鯨唄が歌われたか、その一端が

うかがえる興味深い話です。

なお「カバチ」は鯨の頭、頭の皮。「カバチアゲ」は、その年に

初めて捕獲した鯨のこと。(→ カバチ(アゲ)

   「羽差」(はざし。「羽指」とも)は「勢子船」(せこぶね。

キャッチャーボート)を指揮する銛師(もりし)。(→ 羽指

 

●『和歌』 高知県室戸市室戸岬町津呂(むろとし・むろとみさきちょう・つろ)

 

そりゃアわかへくる時ゃえりかけござれ

わかの女郎すはえりにつく

亀が舞する鶴たつ島に

お宮詣りの下戸(げこ)の祝(しゅく)

たけになりたやお山のたけに

旦那栄えるしるしなり

 

*「和歌(わか)」「下戸」は、意味がよく分かりません。

*上記古老の話の続きに、

「『三国』と『和歌』は歌い終わるまでに一時間も掛かるので

平生はうたわない」(故福井貞太郎翁)と、ありました

 

●『組の栄え』高知県室戸市室戸岬町津呂(むろとし・むろとみさきちょう・つろ)

 

組の栄えはひらかたの

子持つれ魚(いお)日々にきて 押寄せて

かけて突き獲る羽差舟子

右は彼の津呂組それまた一ぢゃ

子持獲りょすました

明日はでかしたでかしたさア

大きな大たろ大獲りぢゃ

 

*さらに、前出古老の話の続き。

「それから肩ぬきしてうたう唄は『組の栄え』で、この頃は大盃をほして

動けないくらいになった」(故福井貞太郎翁)

*ひらかたの:「末永く」といった意味でしょうが、どこからきたことばか

不明です。

子持つれ魚(いお):すぐあとに出てくる「子持」も同じ意味。

   羽差舟子(はざし・ふなこ):「羽差」(「羽指」とも。勢子船(せこぶね)を

指揮する銛師(もりし))と「舟子」(水夫。「水主」(かこ)とも言った)

(→ 羽指(はざし)  水主(かこ)

大たろ:よく分かりません。

<この項「土佐津呂組捕鯨聞書」桂井和雄

日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房>

 


                  ◇

【佐賀県】

『日本語散歩87話 「呼子」4訪記』(10.4.3)にも書きましたように、

佐賀県の最北端、玄界灘をのぞむ唐津市呼子町(からつし・よぶこちょう)は、今は

イカ漁で知られますが、江戸時代は5キロ沖に浮かぶ小川島(おがわしま)を基地に

鯨捕りで栄えました。江戸時代「鯨組」による大規模な捕鯨が行われ地元の「中尾家」に

よって鯨捕りは一大産業に発展しました。(筆者が所有する鯨絵巻『小児乃弄鯨一件の巻

(上村家本)』は、この小川島の鯨捕りの模様を描いたものです)

現在も朝市通に残る「旧中尾家住宅」は、鯨組主の往年の栄華を物語る壮大な屋敷で、

唐津市の重要文化財に指定され復元・整備の工事が進められています。工事は今年度中に

完成し、来年(2011年)からいよいよ一般公開される予定です。

 呼子の沿岸捕鯨は戦後間もなく幕を下ろし、数々の「鯨歌」も、小川島の女性有志に

よって一部が歌い継がれてきたほかは余り聞かれなくなっていましたが、1979

(昭和54)年、小川島で「小川島鯨骨切り唄子供保存会」が結成され、小川島の

小学生を中心に活動が始まりました。

 さらに2006(平成18)年、呼子町で財団法人伝統文化活性化国民協会の

補助事業として「呼子町伝統文化こども教室」が始まり、これらの活動を通じて、

かつて鯨捕りに従事した男たち・女たちが祝い事や仕事のとき歌った「鯨歌」を

後世に歌い継ぐ努力が続けられています。

ここでは、地元で鯨文化の継承・保存に尽力されている“現代の鯨組”「呼子鯨組」の

代表で、「呼子町伝統文化こども教室」の指導にも当たっている八幡崇経さんの

採録資料から、有志によって現在まで伝えられてきた鯨歌3曲と秀島鼓渓の『北溟観漁行』

(ほくめいかんりょうこう)に記録されている江戸時代の『波差志(はざし)の唄』、

さらに『小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)』で見つけた「羽指踊」の歌詞を紹介します。

 

●『鯨骨切り唄』      佐賀県唐津市呼子町小川島

(からつし・よぶこちょう・おがわしま)

 

1 アー 小川山見から ソーライ こう崎見れば

     こう崎ゃ セミのいお ソーライ 沖ゃ ナガスよ

   ア セミのいお こう崎ゃよ

     こう崎ゃ セミのいお ソーライ 沖ゃ ナガスよ

     アーよう切る、よう切る

 

2 アー おやじ舟かや ソーライ 万崎沖で

     ジャイを 振りゃげて ソーライ ミト招くよ

   ア 振りゃげて ジャイをよ

     ジャイを 振りゃげて ソーライ ミト招くよ

     アーよう切る、よう切る

 

3 アー ミトは 三重がわ ソーライ その脇ゃ 二重

     セミの子持ちは ソーライ 逃がしゃせぬよ

   ア 子持ちは セミはよ

     セミの子持ちは ソーライ 逃がしゃせぬよ

     アーよう切る、よう切る

 

4 アー 沖じゃ 鯨とる ソーライ 浜では さばく

     納屋の旦那さんは ソーライ 金はかるよ

   ア 旦那さんは 納屋でよ

     納屋の旦那さんは ソーライ 金はかるよ

     アーよう切る、よう切る

 

5 アー 納屋のロクロに ソーライ 綱繰りかけて

     セミを巻くのにゃ ソーライ 暇もないよ

   ア 巻くのにゃ セミをよ

     セミを巻くのにゃ ソーライ 暇もないよ

     アーよう切る、よう切る

 

6 アー 漕がにゃ かなわぬ ソーライ 小川の浦で

     今日は 大漁の ソーライ 祝い酒よ

   ア 大漁の 今日はよ

     今日は 大漁の ソーライ 祝い酒よ

     アーよう切る、よう切る

 

鯨歌には『祝いめでた(大唄)』『思うこと叶う』『年の始め』など、

   祝い歌系統のものと、『轆轤(ろくろ)巻き唄』『骨切り唄』など作業歌系統の

ものがありますが(<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』>)この歌は、後者に

属する典型的な歌の一つと言えるでしょう。

*「骨切り唄」は、骨納屋で油を煮出しよくするため骨を細かく刻む作業の時に

唄いました。後述の、江戸末期の小川島捕鯨を記録した『北溟観漁行』には、

「骨納屋(ほねなや)にハ大勢の婦女骨を削ルに唄を謡ふて人を使ふ。唄を止レば

削り止ム也。其中(そのなか)に唄上ゲの者先に謡ひ初れば衆人謡ふて削ル。能々

(よくよく)調練揃たり」

と、歌に合わせて、作業がテキパキと進められていく様子を述べています。

*こう崎:「荒崎」「土器崎」。また古い地図や文献には「尾崎」とも。

呼子側から玄界灘に突き出した岬。現・唐津市屋形石。

  セミのいお:セミクジラ(→ 背美鯨

ナガス:ナガスクジラ。ただし江戸時代、ナガスと呼んだのはシロナガスクジラで、

現在のナガスクジラはノソと呼ばれていました。(→ 長須鯨

アーよう切る、よう切る:骨を削る掛け声。

万崎:まんさき。小川島北東部の岬。

おやじ舟:「おやじ」は沖での船団の指揮官。

ジャイ:「采(ざい)」=「采配」のこと。おやじが振って指揮をとりました。

(→

ミト:鯨を追い込む鯨網のこと。本来は、鯨網の中心を指す。3枚の網を左右に

ずらして張るため、中央部分は三重になる。

「ミトは 三重がわ … その脇ゃ 二重」は、その様子を歌ったものでしょう。

また、「おやじ舟かや … ジャイを 振りゃげて ミト招くよ」は、鯨網を

沖合に張る「双海船」に向かって「親父船」が采配を振って指図している様子。

セミの子持ち:子持ちの背美鯨。最上の獲物とされました。(→ 子持ち鯨

納屋:捕獲した鯨を運んできて解体する作業場(→ 納屋場

納屋のロクロ:納屋場で、鯨を引き揚げたり解体したりするとき、人力で回し

綱を巻き取る装置。(→ 轆轤(ろくろ)

 

●『轆轤(ろくろ)巻き上げ唄』 佐賀県唐津市呼子町小川島

(からつし・よぶこちょう・おがわしま)

 

1 沖じゃ鯨取る、浜ではさばく、ヨーイヨイ、

納屋の旦那さんな、こりゃ金はかる、ヨーイヨーイヨイヤナー、

ドートー、エンヤ巻いた、エンヤ巻いた、巻いた、巻いた

 

2 ツツジ椿は野山を照らす、ヨーイヨイ、

セミの子持ちは、ヤレ納屋照らす、ヨーイヨーイヨイヤナー、

ドートー、エンヤ巻いた、エンヤ巻いた、巻いた、巻いた

 

3 祝いめでたの若松様よ、ヨーイヨイ、

枝も栄える、こりゃ葉もしげる、ヨーイヨーイヨイヤナー、

ドートー、エンヤ巻いた、エンヤ巻いた、巻いた、巻いた

 

*これも作業歌です。納屋場で「轆轤」を巻くとき「エンヤ巻いた、エンヤ巻いた…」と

調子を揃えて綱を巻いた様子が彷彿と浮かんできます。

*祝いめでたの若松様よ:祝いの席などでよく歌われる民謡「目出度目出度の若松様よ

枝も栄えて葉も茂る」(あるいは「祝い目出度の…」)の歌詞は、全国各地に

広まっていて、花笠音頭・伊勢音頭などにも歌われています。鯨歌でも各地で

取り入れられています。(→ 若松様

 

●『鯨お唄い』       佐賀県唐津市呼子町小川島

(からつし・よぶこちょう・おがわしま)

 

1 思うことは、ソリャ叶うたよーの、サーヨイヤサ

末は鶴亀、亀ヨイヤサ

 

2 ヤーレソリャ、祝いのソリャアーものじゃようの、サーヨイヤサ

  鶴が舞う舞え、舞うよーヨイヤナ

 

3 ヤーレソリャ、この屋のソリャアー、上でようのサーヨイヤサ

  よかれよかれぇー、ヨーヨイヤサヤーレソリャ

  この先ゃソリャよかれよの、サーヨイヤサ

 

4 三国一じゃアー、これから先は、鯨も大捕れしょアーヨカホイ

 

*前2つの歌とは異なり、祝い歌系統の鯨歌です。「思うことは、叶う」「末は鶴亀」

「鶴が舞う」など、縁起の良いことばが並びます。

*「三国一」インド・中国・日本の三国で一番のこと。昔は世界一を意味しました。

(→ 三国一

 

『波差志(はざし)唄』   佐賀県唐津市呼子町小川島

(からつし・よぶこちょう・おがわしま)

 

  ミシマクジラハ タカカケソメタ クミノタンナカ カケソメタ

ナヤノロクロニ ツナクヒカケテ セヒヲマクノニ ヒマモナヤ

サテモミコトノ ヲクミノアミヨ セヒノコモチカ ヨリカカル

タケニナリタヤ ヲヤマノタケニ ダンナサカエル シルシタケ

                 <秀島鼓渓(寛三郎)『北溟観漁行』>

*『北溟観漁行』(ほくめいかんりょうこう)は、1827(文政10)年、

唐津藩浦川の庄屋、秀島寛三郎(鼓渓)が、小川島を訪ね、捕鯨の様子を見聞した

ときの記録です。セミクジラ2頭を捕獲する現場を見ることができ、その様子や、

そのあとの解体・祝宴の様子を詳細に述べています。末尾に

「波差志頭(はざしかしら)湊浦(みなとうら)良太夫・勘太夫 曰く」として、

このような『波差志(はざし)唄』の歌詞を、カタカナ書きでおさめています。

漢字かな交じりに書き直すと、

見島鯨は 誰が掛け初めた 組の旦那が掛け初めた

納屋の轆轤に 綱くいかけて(繰りかけて?) 背美を巻くのに 暇もなや

さてもみことの 御組の網よ 背美の子持ちが 寄り掛かる

竹になりたや 御山の竹に 旦那栄える 印竹

*波差志(はざし):勢子船を指揮する銛師(もりし)。ふつう「羽指」「刃刺」と

  書きます。(→ 羽指

ミシマクジラ:見島鯨。『みしま鯨唄』(山口県萩市見島)の項で述べましたように、

「見島」(みしま)は山口県萩市の北にある日本海の島で、江戸時代、九州の

鯨組の捕鯨基地として賑わいました。呼子の中尾組も、生月の益富組などと

ともに入漁していました。このため、「見島鯨は誰が掛初(そめ)た」で始まる

『みしま鯨唄』が、九州各地で歌われるようになりました。西海で「見島鯨」と

いえば、見島の方から南へ回遊してくる鯨を指します。(→ 【山口県】

 

●『羽指踊(はざしおどり)』

佐賀県唐津市呼子町小川島(からつし・よぶこちょう・おがわしま)

 

  いわひ目出たの若松さまよ。枝も栄へる

葉もしげる。三國一しやあすは

あみに大がけしよ

 

  竹に成りたやお山の竹に。旦那栄へる

葉もしげる。三國一しやあすは網に

大がけしよ。

 

  納屋のろくろに綱くりかけて。子持

巻くのハひまもなや。あすはあみに

大がけしよ。

<『小児乃弄(しょうにのもてあそび)鯨一件の巻(上村家本)』>

 

*捕鯨絵巻『小児乃弄(しょうにのもてあそび)鯨一件の巻(上村家本)』の

最終場面は、一仕事終えた羽指(はざし)たちが祝杯を上げ、見事な筋骨を

見せて鯨歌と踊りを披露している陽気な「羽指踊」の光景です。その末尾に

「おんど并うた品々あれとも其一二を挙て左ニ記す」(音頭と歌はいろいろ

あるが、その一二をあげて以下に記す)として、この歌詞が書き記されて

います。

*すでに出てきたことばばかりですので、お分かりいただけると思います。

いわひ(祝い)目出たの若松さまよ:祝いの席などで歌われる民謡「目出度目出度の

若松様よ枝も栄えて葉も茂る」(あるいは「祝い目出度の…」)の歌詞が、

鯨歌に取り入れられたもの。(→ 若松様

三國一:世界一に同義。(→ 三国一

大がけ:大漁。(→ 懸ける

お山の竹:毎年、鯨漁期が近づくと羽指が竹やぶに入って、竹を切り取り、

縁起の良い「印竹(しるしだけ)」として用いました。印竹は鯨を捕獲した際に

その合図として勢子船に掲げる旗で、鯨の種類によって船内の立てる場所が

異なり、遠くからでも獲物の種類が判別できました。(セミクジラの場合は

舳先に立てたようです。(→ 印竹

納屋のろくろ:納屋場で、鯨を引き揚げたり解体したりするとき、人力で回し

綱を巻き取る装置。(→ 轆轤(ろくろ)

 

              ◇

  以下、再び <海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』> から

 引用させていただきます。

 

【長崎県】

●『正月唄』       長崎県平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう)

 

年の始めの門の松サーヨイヤサー 年の始めの門の松サーヨイヤサー

年はふけても若の浦ハイヨー 風根魚間の松風よアー沖に来る大背美様よ

背美組よなテーテーハーハハイヨー 朝がけ捕ろぞな

 

重ねがけしょうよみさき浦 ヨイヤサー 名所続けよ生月は サーヨイヤサー

名所続けよ生月は 一国二国三国一じゃ

祝うて一同が捲かれますぞ ハイヤオイ

 

*「平戸市生月町」(ひらどし・いきつきちょう)は、長崎県北部にある島(町)。

隠れキリシタンの島として知られます。

江戸時代、組織的な伝統捕鯨は全国に広がりましたが、中でも房総(千葉県)・

紀州(和歌山県)・土佐(高知県)・西海(さいかい。山口県の長門、佐賀県の

肥前、長崎県の平戸・五島・壱岐・対馬など)が四大漁場として栄えました。

西海における捕鯨の始まりは、1624(寛永元)年、生月島東隣の多久島

(度島)を根拠地に、紀州の突組が行った突取式捕鯨だとされます。

生月島で捕鯨が本格的に始まったのは1725(享保10)年、館浦(たちうら)

の畳屋(のちの益富)又左衛門正勝らによる突組の操業からでした。

益富組は、やがて根拠地を、島の北部の「御崎浦」(みさきうら)に移し

網掛突取式捕鯨を行える規模になります。さらに壱岐・五島・対馬などに進出、

日本一の規模を誇る鯨組に発展しました。(→ 平戸市生月町

*「若の浦」「風根魚間」は、よく分かりません。

「若の浦」は、全国に同じ地名があり、よく知られているのは、和歌山市南部の

湾岸一帯、古来からの名勝地の呼び名「和歌(の)浦(若の浦)」です。

「風根魚間」は、歌によって「かざね魚ま」というかな表記もあります。

ともに、地名でしょうか。ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

  「朝がけ」「重ねがけ」の「かけ」は「懸ける」。「鯨を網に掛ける」ことでしょう。

(→ 懸ける

「みさき浦」は、上記、生月島の「御崎浦」。益富組の納屋場がありました。

 

●『祝い目出度』      長崎県平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう)

 

祝い目出度の サーヨイヤサー 若松サイヨー様じゃい

サーヨヨエーアヨイヤサー

枝も栄える ヨイヤサー 葉も茂るよ ソリャサー

 

竹になりたや サーヨイヤサー 大山のサイヨー竹にゃ

サーヨヨエーアヨイヤサー

旦那栄える ヨイヤサー しるし竹アソリャサー

 

納屋の轆轤に サーヨイヤサー 綱打ちサイヨー掛けて

サーヨヨエーアヨイヤサー

大背美捲くのにゃ ヨイヤサーひまもない

三国一じゃ 祝うてこの船ゃ 背美の子持ちば朝がけしょ

ハイヤオイ

 

*「若松様」は、<『鯨唄』山口県長門市油谷向津具> でも述べましたように、

 祝いの席などで歌われる民謡。「祝い目出度の若松様よ 枝も栄えて葉も茂る」

  という歌詞は、各地に広まっていて、花笠音頭・伊勢音頭などにも歌われています。

鯨歌でも各地で祝歌に取り入れられています。(→ 若松様

*以下、おめでたずくめのことばが並びます。

しるし竹:印竹。鯨漁期が近づくと刃指(はざし。勢子船に乗る銛師)は、

身を清め、竹やぶで竹を切り取って、印竹として幟旗(のぼりばた)や采配

(さいはい)にした。(→ 印竹

納屋の轆轤:「納屋」は、作業場。(→ 納屋場(なやば)

「轆轤」は、人の力で綱を巻き取る装置。(→ 轆轤(ろくろ)

   大背美:大きな背美鯨。(→ 背美鯨

   子持ち:親子の鯨。(→ 子持ち鯨

朝がけ:「懸ける」は、鯨を網に掛けて捕ること。(→ 懸ける

  三国一:世界一。(→ 三国一

 

●『鯨歌』         長崎県平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう)

 

 「羽指歌」

  納屋の轆轤(ろくろ)につなくりかけて

大背美(おおせみ)巻くのにゃ ひまもない。イヨひまもない

子持ち巻くのにゃひまもなや

 

「勇魚捕歌」

年の初めの門の松 サーヨイヤサー

年の初めの門の松 サーヨイヤサー

年は古りても若の浦 ハイヨオ

かざね魚まの松風よ アーソリャ

テーテーハーハー ハイヨオ

朝がけ捕ろそな

鶴は千年歳古りて サーヨイヤサー

鶴は千年歳古りて サーヨイヤサー

年は古りても若の浦 ハイヨオ

かざね魚まの松風よ アーソリャ

お山に来る大背美様よ 背美組よな

テーテーハーハー ハイヨオ

 

*上の『正月唄』で述べましたように、生月島で最初に本格的に捕鯨を行ったのは、

1725(享保10)年、畳屋(のちの益富)又左衛門正勝らによる突組ですが、

この益富又左衛門を書いた小説  <伊坊栄一『西海のうねり』郁朋社> に引用されて

いた鯨歌『羽指歌』と『勇魚捕歌』です。荒木公敏さんが見つけてくださいました。

*すぐ上の『祝い目出度』によく似た歌詞が出てきます。

「納屋の轆轤」の「納屋」は、作業場。(→ 納屋場(なやば)

「轆轤(ろくろ)」は、人の力で綱を巻き取る装置。(→ 轆轤(ろくろ)

  「大背美(おおせみ)」は、大きな背美鯨。(→ 背美鯨

  「子持ち」は、親子の鯨。(→ 子持ち鯨

「若の浦」「かざね魚ま」は、『正月唄』にも出てきましたが、ともに

地名でしょうか。よく分かりません。

「かざね魚ま」は『正月唄』では「風根魚間」と漢字になっていました。

「朝がけ」は「朝懸け」で、「懸け」は鯨を網に掛けて捕ることです。(→ 懸ける

ご利生」は、御利益のこと。(→ 御利生(ごりしょう)

                <この項、伊坊栄一『西海のうねり』郁朋社>

 

●『ケーケーボウズ』(仮題) 長崎県平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう)

 

 ヨイヨイヨーイ

萩の見島のケーケーボウズのケーボウズ

想い焦がれて背美となる

 

*明治時代、生月島の銃殺捕鯨関係者が平戸瀬戸に出漁した際、うたった唄です。

題名が不明のため、仮の題をつけました。

前述しましたように、生月島では1725(享保10)年から、益富組による

本格的な捕鯨が始まり、文政年間(1818−29)頃、全盛期を迎えました。

しかし、以後は漁獲量が次第に減少、1874(明治7)年廃業にいたります。

一方1882(明治15)年から、生月島の一部の捕鯨従事者による銃殺捕鯨が

平戸瀬戸で始まり、戦後の1947(昭和22)年まで続けられました。

<「鯨と鯨組」櫻田勝徳 (『旅と伝説』三元社)> は、「小川島(佐賀県唐津市)

では、鯨の皮の下にある、もう一枚の薄い皮を『衣』と呼び、鯨の前世が和尚で

あったしるしだと言っている」と述べています。

ほかにも、鯨の前世は僧侶という言い伝えはあり、鯨組が栄えても鯨=僧を

殺生するから長続きしないなどとも言われました。民話にもなっています。

「萩の見島」(萩市見島)は山口県萩市の北の沖、日本海にある島で、江戸時代、

九州の鯨組の捕鯨基地として賑わいました。松島与五郎・中尾組(呼子)・

益富組(生月)などが入漁しました。

また西海(九州沖)などで「見島鯨」といえば、見島の方から回遊してくる

鯨のことで、「見島鯨は誰が掛初(そめ)た」で始まる鯨歌『みしま鯨唄』が

各地で歌われました。

(【山口県】の『見嶋組鯨唄』『みしま鯨唄』もご参照ください)

   < この項、中園成生「九州地方におけるクジラ供養」

小島孝夫編『クジラと日本人の物語〜沿岸捕鯨再考〜』(東京書店)

中園成生「平戸瀬戸の捕鯨」 ネット『平戸クジラワールド』

          http://ww7.tiki.ne.jp/~yosizen/seto/seto.htm などによる>

 

 

 ●『勇魚節(いさなぶし)』(別名『エンヤラヤ』) 長崎県平戸市(ひらどし)

 

  月は傾く 平戸の沖で

  勇魚(いさな)取る子の 櫓(ろ)の速さ

   エンヤラヤノヤー エンヤラヤノ

   エンヤラヤノ エンヤラホイノサー

 

  *『勇魚節』(別名:エンヤラヤ)は、もともと平戸・生月・五島などで歌われた

   鯨歌でしたが、<宮川密義『歌で巡る長崎』(長崎新聞社)>によりますと、

   船乗りたちによって全国各地の港に伝えられ、さまざまの替え歌が生まれました。

   平戸地方では『平戸節』と呼ばれ、歌詞の「平戸の沖」が「平戸の瀬戸」に

   変わりました。

   福岡では、「遺恨十年 戦争が二年 勝った誉が 千代八千代」

   「あなた政宗 わしゃ錆刀(さびがたな) あなた切れても わしゃ切れぬ」

   島根では「西郷隆盛ゃ枕は要らぬ 要らぬはずだよ 首がない」などの

   替え歌が生まれました。

   また長崎では名物のチャンポンを歌う俗謡『ちゃんぽん節』(仮題)にも

   なりました。

     すべったかころんだか

     四海楼の前で

     ちゃんぽん一杯

     食わなきゃ 腰ゃたたぬ

      エンヤラヤノヤー エンヤラヤノ

      エンヤラヤノ エンヤラホイノサー

   さらに、『木遣り唄』や『最上川船唄』の一部も平戸の『勇魚節』の

   変化したものと、同書は述べています。

  *<ホームページ『日本の民謡 曲目解説<東京都>』

          http://www.1134.com/min-you/02/k1301.shtml> によりますと、

   東京・大島の『あんこ節』

   「東京 大島は 針金便り 主と私は 文便り」も、当初は「エンヤラヤ」と

   呼ばれ、「長崎の鯨漁の艪漕ぎ唄が大島化したもの」とされます。

   長崎沖で鯨捕りの男たちが歌った『勇魚節(いさなぶし)』が全国各地に広まり、

   今も歌い継がれています。「鯨歌」が海の男たちによって、手を加えられながら、

   どのように全国各地に広まったかを知る、興味深い例といえそうです。

                                (2012.3)

 

以下、再び <海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』> から

引用させていただきます。

 

●『弁財天』        長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

祝う目出度の サー弁財天の浦よな

サー弁財天の浦よな

浦はチョイ七浦七蛭子 お伊勢利生よ

サー明日は座頭ば 懸きょよな

サー子持ちも懸きょな

是もチョイお伊勢の御利生かな

鼻の野首に サー山見をすればな

サー山見をすればな

座頭はチョイ小河原の前に来る

竹になりたや サーお山の竹にな

旦那チョイ栄える しるし竹

懸けた懸けたよ サー持双に懸けたよ

サー有川大組ゃよう 有川大組ゃ 又懸けた

祝ふて三度

 

*「弁財天」(弁天さま)「蛭子」(恵比須さま)と七福神が並び、以下、やはり

縁起のいいことばが並びます。(→ 恵比須

座頭:ザトウクジラ。(→ 座頭鯨

懸きょ(よ)な・懸けた懸けたよ:「懸ける」は、鯨を網に掛けて捕ること。

(→ 懸ける

お伊勢(御)利生:お伊勢様のごりやく(→ 御利生(ごりしょう)

鼻の野首:五島列島の野崎島(長崎県北松浦郡小値賀町。現在は無人島)に、隠れ

キリシタンが祈りを捧げた「野首教会」が保存されています。世界遺産暫定

リストに掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に含まれる教会の

一つです。この「野首」に関係する地名でしょうか。

山見:海を一望に見おろす小山などから鯨を見張ること。(→ 山見

しるし竹:(→ 印竹

持双:「持双船」(もっそうぶね)のこと。「勢子船」(せこぶね)が捕獲した鯨を

 2隻が一組になって船体の間にはさみ、納屋場に運びました。(→ 鯨組

なお、「有川大組」は鯨組の名。

 

●『生歌 はざし歌』    長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

祝う目出度の サー弁財天の浦よな

弁財天の浦よな 浦はチョイ七浦七蛭子

 

一 何とさいたる アーソコタイ 油やら ハイヨ

※御方よ姫子も出てうしゃれ

生歌踊りの祝う面白や ハイヨ

二 明日は吉日 アーソコタイ 生歌打つ ハイヨ

三 淀の四十路の アーソコタイ 水車 ハイヨ

   ※

四 空の星さや アーソコタイ 夜は蛭子 ハイヨ

   ※

五 八巻八巻蔦八巻きを しっかと締めかけて

踊らば容姿の祝う面白や

一国二国三国一じゃ

祝うて今年は 幸せよかろうよ

ハイヤオイ

 

 *「御方よ姫子も」は、奥様もお嬢さまも。

「淀の四十路の水車」は、<『綾踊』和歌山県東牟婁郡太地町>で説明しましたように、

当時、淀の川瀬の水車」など、淀川の三十石舟と沿岸の水車をうたった端唄(はうた)

・うた沢、常磐津(ときわづ)が上方で流行し、鯨歌にも取り入れられたと考えられます。

「蛭子」は、恵比須(えびす)さまのこと。(→ 恵比須

「八巻八巻蔦八巻き」の「八巻(き)」は、鉢巻き。

「一国二国三国一じゃ」は、世界一のこと。(→ 三国一

 

●『年の始め』       長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

一 年の始めの門に松 サーヨイヤサー

  年は経れても和歌の浦

  サァ安中に来る 大座頭さまは新綱ヨナ

  サァ父母 ハーイヨ 朝懸けソーライソーライ

  名所よ続きの有川浦 サーヨイヤサー

  風根魚間の松風よ サーヨイヤサー

二 鶴は千年の年経れて サーヨイヤサー

  年は経れても和歌の浦

  サァ野首に来る 大座頭さまは新綱ヨナ

  サァ父母 ハーイヨ 朝懸けソーライソーライ

  名所よ続きの有川浦 サーヨイヤサー

  風根魚間の松風よ サーヨイヤサー

三 蛭子よ続きの有川浦 サーヨイヤサー

  年は経れても和歌の浦

サァ魚待ち来る 大座頭さまは新綱ヨナ

サァ父母 ハーイヨ 朝懸けソーライソーライ

名所よ続きの有川浦 サーヨイヤサー

風根魚間の松風よ サーヨイヤサー

 

懸けそよ続きの有川浦

サァー 三国一じゃ

祝ふて今年は 幸せよかろうよ ハイヤオイ

 

*『年の始め』の題名どおり、お正月に歌った祝歌。

長崎県の冒頭にあった、平戸市生月町の『正月唄』と似た歌詞が随所に出てきます。

年は経れても:年を経ても(年はとっても)。平戸市生月町の『正月唄』では、

「年はふけても若の浦ハイヨー」と歌っています。

和歌の浦:地名ですが、詳しいことは分かりません。<『正月唄』長崎県平戸市生月町>に

書きましたように、全国に同じ地名があり、よく知られているのは、和歌山市南部の

名勝地です。

大座頭さま:(→ 座頭鯨

朝懸け:朝、鯨を網に掛けること。(→ 懸ける

有川浦:地名。鯨組「有川大組」がありました。組主は江口甚右衛門。

風根魚間:歌によって「かざね魚ま」というかな表記もありましたが、意味は不明。

野首:<『正月唄』長崎県平戸市生月町>で述べましたように、五島列島の野崎島

(長崎県北松浦郡小値賀町。現在は無人島)に、隠れキリシタンが祈りを捧げた

「野首教会」があります。この「野首」に関係する地名でしょうか。

蛭子:恵比須(えびす)さま。(→ 恵比須

三国一:世界一。(→ 三国一

 

●『旦那様』        長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

旦那様の鯨船

如何なる大工が造りしぞ

※座頭ばなーよし座頭はんのほいよ ハイヨ

座頭ば懸け揃え(以下、※繰り返し)

旦那様の御家には

如何なる御蛭子供えしぞ

旦那様の神楽さん

如何なる月日に据えたやら

旦那様の油納屋

如何なる製造備えしぞ

一国二国三国一じゃ

ここの御家は末が末まで 繁昌しましょうよ

ハイヤオイ

 

*「旦那様」:これまでにも出てきましたが、「鯨組」の組主を親しみを込めて呼ぶ

  敬称です。(→ 旦那(様) → 鯨組

座頭(ざとう):(→ 座頭鯨

 御蛭子:恵比須(えびす)さまのこと。(→ 恵比須

神楽(かぐら)さん:鯨を陸に引き上げる轆轤(ろくろ)のこと。

(→ 神楽(かぐら)さん 轆轤

 油納屋:捕獲した鯨は、鯨の処理場である「納屋場;なやば」」に運び、皮・肉・骨・

内臓に切り分けたうえ「大納屋」「小納屋」「骨納屋」などの加工場に運んで

処理しました。「油納屋」もその一つ。鯨油は鯨肉と並んで、鯨がもたらしてくれる

恵みの中でも最も貴重なものでした。

一国二国三国一:世界一。(→ 三国一

 

●『祝い目出度』      長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

祝う目出度の サーヨイヤサー

若松さいよ様じゃよ サアヨイ サーヨイヤサー

枝も栄える ヨイヤサー 葉も繁るよ

ソリャ 今年ゃ幸せ サーヨイヤサー

思ふた事ちゃサイヨ 叶うよ

サーヨイ サーヨイヤサー

末は鶴亀 ヨイヤサー 五葉の松よ

ソリャ 竹に成りたや サーヨイヤサー

お山のサイヨ 竹によ サーヨイ サーヨイヤサー

旦那栄える しるし竹よ

ソリャ 一じゃいな 又一じゃいな

祝うて今年は 幸せよかろうよ

ハイヤオイ

 

*山口県長門市通の『鯨唄』『祝え目出度』にもありましたが、祝いの席などで

歌われる民謡「目出度目出度の(祝い目出度の)若松様よ 枝も栄えて葉も茂る」

  の歌詞は、全国各地に広まっていて、花笠音頭・伊勢音頭などにも歌われています。

鯨歌でも各地で祝歌に取り入れられています。(→ 若松様

*この歌では、「祝う目出度の若松さいよ様じゃよ」に始まって、「鶴亀」「五葉の松」、

さらに「竹」「しるし竹」と、おめでたいことばが並びます。

五葉の松(ごようのまつ):針形の葉が5本ずつ集まって出るヒメコマツなどの

松のこと。縁起の良い松とされ、庭の植木や盆栽として愛される美しい松です。

しるし竹:「羽指」(はざし。勢子船の指揮をとる銛師。→ 羽指)が鯨漁期の前に

寺に籠ったあと、竹やぶから切り出す縁起の竹。幟旗(のぼりばた)や印旗

(しるしばた)にしました。(→ 印竹

 

●『網の目締歌』      長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

アーつつじ椿はナーエー

※ホーラエー ヤーラエー

アー野首を照らすナーエー

 ※

アー座頭の子持ちはナーエー

アー納屋をてらすナーエー

 ※

アー親は百までナーエー

 ※

アー子は九十九まで

 ※

アー孫は白髪の生えるまで

 

*網の目締唄(あみのめしめうた):鯨歌のひとつ。網の整備をする際、網目を締める

作業の時に唄われました。(→ 網の目締唄

野首:<『正月唄』長崎県平戸市生月町>で述べましたように、五島列島の野崎島

(長崎県北松浦郡小値賀町。現在は無人島)に、隠れキリシタンが祈りを捧げた

「野首教会」があります。この「野首」に関係する地名でしょうか。

 

●『神戻りの歌』      長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

ハーヨイトヨイヨイ

一 おやじ船かなズイノーヨー

  野首の沖で采を振り上げ

  ノーヤ 網船(みと)招く

ハーヨイサヨイヨイ

二 網(みと)は三重側ズイノーヨー

  その脇ゃ二重 逃がしゃせまいぞ

  ノーヤ 座頭の鯨(いよ)

   ハーヨイサヨイヨイ

三 明日は良い凪ズイノーヨー

  沖までじゃやらぬ 座頭の子持ちは

  ノーヤ 端(へた)で捕る

ハーヨイサヨイヨイ

 

*采(ざい):采配(さいはい)のこと。木棒の先に布や紙をたくさんつけたもの。

「親父」(沖合の指揮官)が振って作業の進行を指揮します。

  みと:本来は、鯨網の中心を指す。西海漁場で行われた網掛突取式捕鯨では、3セットの

   網を左右にずらして弓なりに張るという創意工夫があった。中央に張った網の後に2番

   3番の網の一部を重ねつつ、左右にずらして張るので網の中央の部分(みと)は三重になる。

   この歌では「網」と「網船」をいずれも「みと」と言っています。(→ みと

座頭:(→ 座頭鯨

 

●『轆轤巻の歌』      長崎県南松浦郡新上五島町

(みなみまつうらぐん・しんかみごとうちょう)

 

  ヤットセー ヤットセー

一 飲めよ大黒 歌えよ蛭子 ヨイヨイ

   中の尺取りゃノウ福の神

ヨーイトー そら巻け そら巻いた

ヤットセー ヤットセー

 

二 沖にゃ鯨捕る 端(へた)には剖く ヨイヨイ

納屋の旦那衆は ノウ金はかる

ヨーイトー そら巻け そら巻いた

ヤットセー ヤットセー

 

三 今年ゃ幸せ 思うこちゃ叶う ヨイヨイ

末は鶴亀ノウ五葉の松

ヨーイトー そら巻け そら巻いた

ヤットセー ヤットセー

 

*轆轤巻(ろくろまき):轆轤(ろくろ)は、鯨の引き揚げや解体の時、人力で回し

綱を巻き取る装置。浜辺に鯨が運ばれてくると、ろくろを使って鯨体を半分ほど

濱に引き上げます。厚い皮脂はろくろを使って剥がし、大きな肉塊の引き剥がしにも

ろくろを使います。

轆轤巻き唄は、鯨を岸辺に引き上げ解体する際この轆轤を巻くときに唄った鯨歌です。

(→ 轆轤(ろくろ)  轆轤巻き唄(ろくろまきうた)

尺取り(しゃくとり):「酌取り」のこと。宴会で酒の酌をする人<『広辞苑』>

納屋:(→ 納屋場) 

旦那:(→ 旦那

五葉の松(ごようのまつ): 『祝い目出度』などで述べましたように、針形の葉が

5本ずつ集まって出る美しい松。縁起の良い松とされています。

<ここまで、海棲哺乳類研究所編『WHALES & DOLPHINS IN JAPANESE SONGS』より>

 


 

 次は、長崎県の沖に浮かぶ壱岐(いき)と対馬(つしま)に伝わる鯨歌です。

 

 ●『納屋手歌』(なやてうた)      長崎県壱岐市(いきし)

 

  夫組(そのくみ)は 冬組春浦(ふゆぐみはるうら) 勢美(せみ)座頭(ざとう)

  長須(ながす)児鯨(こくじら)花出しや

  子持連魚(こもちれんぎょ)白長須(しろながす)

  勢子持(せこもち)に立羽立(たちはたつ

  七尋物(ななひろもの)に雑物(ざつぶつ)や 扨(さて)名所は数多し

  觜(はし)囀(さえずり)に山臚(さんりょ?)

  衣(ころも)黒皮(くろかわ)敷(しき)胴身(どうみ)

  赤身(あかみ)臓(はらわた)骨(ほね)筋(すじ)髭(ひげ)

  立羽(たっぱ)尾刷毛(おばいけ)とう[*革ヘンに「堂」]握(にぎ)り

  唯輪(?)たけりに貝(かい)の元(もと)から肝(きも)までも捨(すて)りなし

  旦那(だんな)手代(てだい)に別当役(べっとうやく

  帳役(ちょうやく)若衆見習(わかしゅうみならい)

  勘太郎(かんたろう)追(おい)を最初也(さいしょなり

  親父(おやじ)役人(やくにん)惣支配(そうしはい

  勢子(せこ)の羽指(はざし)に持双(もっそう)や 流し沖番水主(かこ)の者

  舳押双海(へおしそうかい)行列は

               山見(やまみ)注進(ちゅうしん)天秤(てんびん)と

  麾(き)の模様に 依(より)そかし

  手柄仕勝(てがらしがち)の羽矢(はや)万(よろず)

                         一・二の銛(もり)は大事なり

  剣切(けんきり)手形(てがた)仕課して 頭漕(とうそう)より浜(はま)までは

  誠(まこと)に勇ミ敷(いさみしき)働(はたらき)なり

                          浜は大納屋(おおなや)西東

  勘定(かんじょう)樽屋(たるや)道具納屋(どうぐなや)

  鍛冶屋(かじや)大工(だいく)に釜懸(かまがかり)

  大切(おおぎり)小切(こぎり)煎粕(いりかす)

  魚切部屋(うおきりべや)の飯焚(めしたき)や

  田島(たじま)の納屋(なや)の前細工(まえざいく)

  小取(こどり)日雇(ひやとい)に立番(たちばん)や

  夜廻(よまわり)不寝(ねず)の大鼓番(たいこばん)

  轆轤場(ろくろば)虎落(もがり)内札(?)は

              坪場(つぼば)魚棚(うおたな)苫塵(とまちり)

  呉竹杭(くれたけくい)に縄筵(なわむしろ)

                船は碇(いかり)帆(ほ)梶(かじ)柱(はしら)

  持双柱(もっそうはしら)八挺櫓(はっちょうろ)

  手柄褒美(てがらほうび)の羽指歌(はざしうた)

  関東胡麻(かんとうごま)の誥出し(たけだし?)

  道具(どうぐ)浜売(はまうり)仕替物(しかえもの)

                       実に蓬莱(ほうらい)の山そかし

  <『壱岐名勝図誌巻之二十三』 http://mtv17.ninpou.jp/zusi/kasu/kasu03.htm >

 

 *一読、たいへん風変わり、異色の鯨歌ですが、いつもお世話になっている鯨研究家、

  荒木公敏さんが、全部の歌詞に読みと注解をつけて、送ってくださいました。

  メールに曰く、

  「壱岐の『納屋手歌』が捕鯨用語集みたいで面白く、不明な部分もありますが、

   説明をつけてみました。漁期・鯨種・鯨の部位・鯨組の役職名・操業状況・

   作業場の紹介・作業唄までが唄になっています。

   生まれて初めて見る漢字もあり、間違いもあると思いますが…」

  というわけで、荒木さん苦心の注解を、元歌の各行ごとに紹介します。

  黒字は、元歌と読み。緑字が注解です。読みも荒木さんによりました。

  元歌の赤字は、荒木さんにして、不明の箇所だそうで…。

  「鯨歌」のページ末尾の「“くじら語”リスト」も参考にしてください。

                             (2011.8.6)

 *2011年9月、荒木さんから注解2か所について修正が届きましたが、

  筆者の体調不良で掲載がのびのびになっていました。

  訂正箇所は、3行目の「白長須」と、4行目の「立羽立」で、以下の注解は

  訂正済みのものです。荒木さん、長々とお待たせして申し訳ございませんでした。

                           (2011.11.26)

 

  夫組(そのくみ)は 冬組春浦(ふゆぐみはるうら) 勢美(せみ)座頭(ざとう)

    鯨組は 冬組(下り鯨漁)と春浦(上り鯨漁・春組とも言う)

    背美(セミ)鯨 座頭(ザトウ)鯨 

  長須(ながす)児鯨(こくじら)花出しや

    長須(ナガス)鯨 児(コク)鯨 はなやかだ(捕鯨の花だ)?

  子持連魚(こもちれんぎょ)白長須(しろながす)

    子持連れ鯨 白長須鯨(江戸時代は長須と呼ばれていた)

    *シロナガスクジラは明治に入ってからの呼び名としていましたが、『鯨史稿』

     『鯨魚覧笑録』『小児乃弄鯨一件の巻』などにシロナガスクジラの説明がありました。

     「ナガスに2種あり白長須鯨とニタリクジラ」とあります。

     壱岐や唐津地方では江戸時代からシロナガスクジラの呼び名がありました。

  勢子持(せこもち)に立羽立(たっぱたて)

    勢子付き 立羽立(交合)

    *「立羽立(タッパタテ)」:春の彼岸頃にあり、鯨交合のときは雌雄(メヲ)

      横になりて頭を合せ下になりたる立羽にて水を切り、上になりたる立羽

      各一つを立つ故に立羽立と云、水面に精水夥く浮くなり此時は舟近づけても

      逃去らず心易く捕ふることは壱岐辺の海にありと云。<『鯨史稿 巻之三』>

  七尋物(ななひろもの)に雑物(ざつもの)や 扨(さて)名所は数多し

    七尋鯨(ナナヒロ鯨。「一本」と数える背美鯨)・雑もの(背美鯨以外の鯨)

    さて、鯨の名所(名称)は数多い

  觜(はし)囀(さえずり)に山(さんりょ?)

    觜(腮)・囀(舌)に 山(頭部)の皮 臚(リョ・ロ/かわ・つらねる)は、

    所務皮(沖合従事者の取り分、神社等への供物)のことか?

  衣(ころも)黒皮(くろかわ)敷(しき)胴身(どうみ)

    衣(黒い僧衣に似ている皮) 黒皮 敷の皮(腹の皮) 胴の身(胴周りの皮肉)

  赤身(あかみ)臓(はらわた)骨(ほね)筋(すじ)髭(ひげ)

    赤見(赤肉) 臓(はらわた)骨 筋 (ラケット・弓などに使用する)

    髭(ヒゲ板。ゼンマイなどに使用する)

  立羽(たっぱ)尾刷毛(おばいけ)とう[*革ヘンに「堂」]握(にぎ)り

    立羽(胸ひれ) 尾刷毛(尾びれ。尾羽とも) トウ?

    握り(胴と尻尾の間の細い部分)

  唯輪(?)たけりに貝(かい)の元(もと)から肝(きも)までも捨(すて)りなし

    唯輪(たった一つ)? たけり(ペニス)に 貝(かい)の元(メスの交接器)から

    肝臓まで捨てる所がない

  旦那(だんな)手代(てだい)に別当役(べっとうやく

    旦那(組主) 手代(代人) 別当役(支配人)

  帳役(ちょうやく)若衆見習(わかしゅうみならい)

    帳役(日雇世話役) 若衆見習いは

  勘太郎(かんたろう)追(おい)を最初也(さいしょなり

    勘太郎(鯨肉泥棒。カンダラとも)追い払いが最初なり 

  親父(おやじ)役人(やくにん)惣支配(そうしはい

    親父(羽指の頭) 役人 惣支配(総支配人)

  勢子(せこ)の羽指(はざし)に持双(もっそう)や 流し沖番水主(かこ)の者

    勢子船(せこぶね)の羽指(勢子船に乗る銛師)に

    持双船(もっそうぶね。捕獲した鯨を左右から支えて運ぶ2隻一組の船)

    沖の見張り(「沖番」は探鯨船) 水夫(かこ)

  舳押双海(へおしそうかい)行列は

               山見(やまみ)注進(ちゅうしん)天秤(てんびん)と

    船首を両方向に放した網舟行列

    山見(鯨見) 注進(捕獲報告) 天秤(斤量計で重さを計り帳簿に記録)

  麾(き)の模様に 依(より)そかし

    麾(連絡旗)の模様による(沖の船は幟(のぼり)で鯨の種類を示した)

  手柄仕勝(てがらしがち)の羽矢(はや)万(よろず)

                         一・二の銛(もり)は大事なり

    手柄を得るのは、早(ハヤモリ。追い脅す軽いモリ)と、万(ヨロズモリ。

    鯨と船をつなぐモリ) 一番モリ(最初に当ったモリ)・二番モリが大事

  剣切(けんきり)手形(てがた)仕課して 頭漕とうそう)より浜(はま)までは

    とどめの剣切り 手形包丁での鼻切り 頭(一番船親父)の注進から浜まで

  誠(まこと)に勇ミ敷(いさみしき)働(はたらき)なり

                          浜は大納屋(おおなや)西東

    誠に勇ましき働きなり

    浜には西東の大納屋(鯨組の大加工場・作業場・製品資材倉庫)

  勘定(かんじょう)樽屋(たるや)道具納屋(どうぐなや)

    勘定場 樽屋(樽は、油を入れるタル) 道具納屋

  鍛冶屋(かじや)大工(だいく)に釜懸(かまがかり)

    鍛冶屋(モリ作りなど) 大工に 釜係り(油を採る)

  大切(おおぎり)小切(こぎり)煎粕(いりかす)

    大切 小切 煎り粕(油を絞った粕)

  魚切部屋(うおきりべや)の飯焚(めしたき)や

    鯨切り場(魚は鯨のこと)の飯炊きや

  田島(たじま)の納屋(なや)の前細工(まえざいく)

    備後田島出身の網大工(技術集団)の前細工(製網場での網準備作業)

  小取(こどり)日雇(ひやとい)に立番(たちばん)や

    小取(取次) 日雇い 立番(番雇)

  夜廻(よまわり)不寝(ねず)の大鼓番(たいこばん)

    夜回り 不寝(ねずばん)の太鼓番(轆轤巻きや骨きり作業の際、太鼓で拍子をとった。

    鯨骨切り唄・轆轤(ろくろ)巻上げ唄がある)

  轆轤場(ろくろば)虎落(もがり)内札(?)は

              坪場(つぼば)魚棚(うおたな)苫塵とまちり)

    轆轤(ろくろ)場(人力のウインチ。太鼓に合わせてろくろを回した)

    虎落(垣根) 内札(場所の名札?)

    坪場(つぼば。壺場。油をこの倉でくみ出し樽詰めにする)

    魚棚(鯨身の一時保管場所)

    苫塵(苫葺きの塵置き場?)

  呉竹杭(ごちくくい)に縄筵(なわむしろ)

                船は碇(いかり)帆(ほ)梶(かじ)柱(はしら)

    呉竹(ハチクの別名) 杭に縄筵 船の碇(錨) 帆 梶(舵)柱

  持双柱(もっそうはしら)八挺櫓(はっちょうろ)

    持双柱(鯨を二隻の船に吊るす柱) 八挺櫓(櫓八本漕船)

  手柄褒美(てがらほうび)の羽指歌(はざしうた)

    手柄褒美の羽指歌(祝い歌)

  関東胡麻(かんとうごま)の誥出し(たけだし)

    関東胡麻(黒胡麻) 誥出し(勇ましい様、はじける様子)

  道具(どうぐ)浜売(はまうり)仕替物(しかえもの)

                       実に蓬莱(ほうらい)の山そかし

    道具 浜売り 仕替え物(リサイクル品)

    実に 蓬莱(富士山・熊野山など霊山・仙境の異称)の山のようににぎやかだ

   <参考資料:

   『壱岐名勝図誌巻之二十三』mtv17.ninpou.jp/zusi/kasu/kasu03.htm

   『小川島鯨鯢合戦』『勇魚取絵詞』『壱岐島の鯨組用語集(野本政宏著)』

   『鯨取り絵物語(中園茂生・安永浩著)』『西海のくじら捕り(立平進著)』>

 

 *いやあ、たいへんな労作。超大作! 荒木さん、お疲れさまでした。

  ありがとうございました。

  赤字部分の解釈について、どなたかご教示いただければ幸いです。

 


 以下、壱岐(いき)と対馬(つしま)の鯨歌。

 <野本政宏編『西海の鯨唄』(壱岐郷土館)> から、引用させていただきます。

 

●『祝いめでた唄』    長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

  祝いめでたの若松様よ 枝も栄える 葉も茂る

 竹になりたや お山の竹に 大主栄える白しょ竹

これの柱に綱くりかけて お金まくのに ひまもない

三国一じゃ 祝うて仕合せ叶うよ ハイヤー オイ

 

<山口県長門市『鯨歌』『祝え目出度』> <長崎県平戸市『祝い目出度』>などと同じく、

「目出度目出度の若松様よ」(花笠音頭・伊勢音頭など)の系統の祝い歌です。

*若松様:(→ 若松様

大主:鯨組の組主を指すのでしょうか(→ 鯨組)。はっきりしたことは分かりません。

白しょ竹:白い竹、あるいは縁起の良い「印竹(しるしだけ)」→「しろしょ竹」か。

(→ 印竹

三国一:(→ 三国一

 

●『思うこと叶う』    長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

大主さん仕合せ 思うこと叶うた

末は鶴亀 五葉の松 ハイヤー オイ

 

 *大主さん:鯨組の組主か(→ 鯨組)。

 五葉の松(ごようのまつ):針形の葉が5本ずつ集まって出るヒメコマツなどの

松のこと。縁起の良い松とされ、庭の植木や盆栽として愛される

美しい松です。

 

●『建築祝い』         長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

  さても見事な新宅作事 大工手業な金業な

  金の床ぶち 黄金の柱 小判雨戸に 銭すだれ

  小判雨戸に 銭すだれ ハイヤー オイ

 

*新築祝いに披露する祝い歌です。

おめでたづくめのことば、豪華な調度に対する(大仰な)ほめ言葉で

歌い上げています。

 

●『中唄』                   長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

さす盃に花が咲く 花も黄金の花が七重咲く

さして上げて しのだの水は鯉の酒

飲まばや伊勢の天目で がぶがぶとさし上げて

さいとりさしは よいもさす

さし上げて お泊まるならば この宿に

女郎も裏屋にゃ 風呂もたて揃えて

若君様のお乗りの船は 月にたて波風静かに

乗りすまそうよ ハイヤー オイ

 

*しのだの水:「信太の森」の水。

「信太の森(篠田の森。しのだのもり)」は、大阪府和泉市(いずみし)信太山に

ある森で、浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』の

題材にもなった「葛の葉(くずのは)」の伝説で知られています。

信太の森の白狐が「葛の葉」という女性に化けて安倍保名(あべのやすな)と結婚し、

子どもを儲けたが、正体を知られ、

「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して、古巣に

帰ったというお話で、信太の森には、樟(くすのき)の大樹の下に、白狐がすんだ

という洞窟があります。 <以上『広辞苑』などによる>

山口県長門市通(かよい)の鯨歌『姿節』には、、「恋しくば 尋ねきてみよ…」の

一節がとり入れられています。<『長州捕鯨考』>

*鯉の酒:<『川尻浦の鯨歌・中の歌三』>では、「恋の酒」となっています。

*伊勢の天目:伊勢から来た天目茶碗。

「天目」は「茶の湯に用いる抹茶茶碗の一種。浅くて開いた擂鉢(すりばち)型で、

口のところが少しくびれている。中国浙江省天目山の仏寺から伝来」<『広辞苑』>

日本で作られた天目茶碗では「伊勢天目」「瀬戸天目」などが知られています。

このうち伊勢天目は、産地を示すのではなく流通経路に関係がある呼び名で、

「伊勢から来た天目」の意味ではないかと考えられています。(<『西日本新聞』>)

盃でちびちび、ではなく「伊勢の天目でがぶがぶ…」 ずいぶん飲み応えがあった

でしょうね。

*さいとりさし:刺捕さし。「刺捕(さいとり)」「鳥刺(とりさし)」とも言います。

  鳥黐(とりもち)を塗り付けた「刺捕竿(さいとりざお)・鳥刺竿(とりさしざお)」で

鳥を捕る人のことです。江戸時代は、鷹匠(たかじょう)のもとでの餌の小鳥を

捕まえました。

もち竿を持った「刺捕さし(鳥刺)」のふるまいを真似た「鳥刺舞(とりさしまい)」

(「鳥刺し踊り」「刺捕さし」とも)が、伝統芸能として各地に伝わっています。

「さいとりさしは よいもさす」は、刺捕さし(鳥刺)は、鳥だけでなく酔いも刺す

といった意味でしょうか。

なお、『生月勇魚捕唄(いきつきいさなとりうた)・六番唄』では、

    しの田の水はよいの 酒飲まばや

伊勢てんもくで ガブガブと

さいとり差しは よいをさす  <野本政宏編『西海の鯨唄』>

  『川尻浦の鯨歌・中の歌三』では、

篠田の水は 恋の酒呑まばや

    伊勢ての奥で がぼ がぼとヨイ

鳥さしは酔いさす       <『長州捕鯨考』> などの歌詞が見られます。

 

●『新造船祝い』      長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

新造造りて 新造作りて イヨ 浮かべてみれば

沖の鴎(かもめ)の 沖の鴎の イヨ 浮き姿

沖の鴎は 沖の鴎は イヨ 背美(せみ)じゃと思うて

納屋のロクロに 納屋のロクロに イヨ 綱くりかけて

背美をまくのにゃ 子持まくのにゃ イヨ ひまもない

ハイヤー オイ

 

 *背美:(→ 背美鯨

  納屋:(→ 納屋場

ロクロ:(→ 轆轤

子持(こもち):( 子持ち鯨

*新しい鯨捕りの船ができたのを祝う歌です。

さっそく捕獲した鯨を納屋場に引き上げる。

轆轤(ろくろ)に綱をつけ背美鯨を引き上げる、子持の鯨を引き上げる。

次から次に鯨が浜に引き上げられ、作業に追われる…。

 

●『明日はよい凪』     長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

明日はよい凪 明日はよい凪 イヨ 沖まじややらぬ

磯のもぎわで 磯のもぎわで イヨ 魚をとる

船頭せきゃるな 船頭せきゃるな イヨ 若衆もせくな

魚のさかりゃ 魚のさかりゃ イヨ まだならぬ

新造ゃたまにゃ 新造ゃたまにゃ イヨ 綱くりかけて

魚をまくのにゃ 魚をまくのにゃ イヨ ひまもない

ハイヤー オイ

 

*磯のもぎわ:下の勝本町勝本浦の『ハザシ唄』では「藻ぎわ」と表記されています。

藻が生えた海岸に近い場所、といった意味でしょう。

魚のさかりゃ:魚の盛り。ここでは、鯨漁の最盛期を指す。

  魚をまくのにゃ ひまもない:鯨を引き上げるのに追われている

 

●『津茂里(つもり)』        長崎県壱岐市芦辺町諸吉

(いきし・あしべちょう・もろよし)

  東山から仕合せ山が 大主さんに ころびかかれば

  ころべよ尺八ゃ こちよれまくら

 やほえてよしよもや 背美の魚

 背美と はざしは もろはくだるま

 仲のよいこた 人知らぬ 明日もござるなら

 もてきてたもれ 山の小松に いちごをすえて

 

 さまは末代 わしゃ一期(いちご)

 親父ゃ百まで 子は九十九まで

 髪にゃ白髪のはえるまで

 髪にゃ白髪のはえるまで ハイヤー オイ

 

*2行目「ころべよ尺八ゃ こちよれまくら」

3行目「やほえてよしよもや」

4行目「もろはくだるま」

6行目「いちごをすえて」など難解な歌詞が続出し、筆者はお手上げ状態です。

ご教示いただければ幸いです。

*大主さん:鯨組の組主か(→ 鯨組)。

背美:(→ 背美鯨

はざし:(→ 羽指

さまは末代:鯨組主や客などを指すとき、略して、ただ「様(さま)」と呼ぶときが

あります。例えば、

あがれよお客様 ヨイヤサー

がお差しなら 六つも七つも引きうけて <『旦那様』山口県長門市通>

 

●『ハザシ唄』       長崎県壱岐市勝本町勝本浦

(いきし・かつもとちょう・かつもとうら)

さても見事な旦那衆の網よな

背美が寄りてくる 子持は寄せてくる

背美のおうがち おうがけしょ

親父船かよ半ばに寄せよ

子持は寄りてくる ハナゲの沖よ

 

采を振り上げで イヨ 網戸(みと)招く

みとは八重張りそのわきゃ二重

沖の手張りはみな一重

 

ともに苫(とま)釣りおもてにしるし

背美はぢゃれもの イヨ みと指いて

みとにやかぶせて 剣で殺して

よろづでとめる もつそにかけて

漕げとよいなら 漕がねばならぬ

田ノ浦の浜に納屋の轆轤に

綱つり掛けて背美を巻くほど

目出度旦那衆仕合せよかろよ よかおい

 

明日はよい風 沖まじゃ出さぬ

磯の藻(も)ぎわで大がけしょ

 

魚(いお)ぞ魚ぞ 名烏山見(ながらすやまみ)

沖の鯨舟目も見せぬ

背美はあとより子を連れて

明日は旦那衆は大がけしょ

 

 *壱岐市勝本町勝本浦は、壱岐捕鯨の中心の一大基地でした。

勝本浦には土肥鯨組主屋敷跡、永取組屋敷跡、原田組屋敷が現在もあり、

鯨組関係の文化財や鯨唄も残っています。<野本政宏編『西海の鯨唄』による>

*背美(せみ):(→ 背美鯨

子持(こもち):( 子持ち鯨

おうがち おうがけ(大がけ):大物を捕まえる。大漁、の意味と思われます。

親父船:鯨捕り船団を指揮する船。指揮官を「親父」と呼びました。

采(ざい):采配(さいはい)。木の棒の先に布や紙をつけたもので、親父が振って

作業を指揮しました。(→

網戸(みと):本来は鯨網の三重になった中心のことを言いましたが、ここでは

 鯨を捕る網のこと。(→ みと

ともに苫(とま)釣り おもてにしるし:

艫(とも。船尾)に苫(とま。むしろ)を吊り、おもて(船首)に印(合図のしるし)。

「鯨を発見した時には、船尾に苫旗を上げるようになっていた。舳先に印旗を

上げるのは、背美鯨を確認した時の目印だった」

<『日本伝統捕鯨地域サミット・第2回生月』>

よろづでとめる:「よろづ」は「萬銛(よろずもり)」のこと。

「よろづでとめる」は、鯨をしとめること、あるいは、萬銛が刺さった鯨と

鯨船の間の綱がぴんと張って鯨を確保した状態になることか。

もつそ:持双船(もっそうぶね)。捕獲した鯨を納屋場に運ぶ船。(→ 鯨組

納屋:(→ 納屋場

轆轤(ろくろ):(→ 轆轤

磯の藻(も)ぎわ:藻が生えた海岸に近い場所。

 

●『瀬田の鯨組唄』(うちかけ踊り唄)

長崎県対馬市上県町瀬田(つしまし・かみあがたまち・せた)

国は対州(たいしゅう)よ 城下というて

城下町には 亀谷(かめや)さんがござる

もとのくらしを おもうぞうなさる

非人ことづて なされたくらし

おおかみさまに おねがよあげて

おもたかのたよ 鯨組をなさる

冬は茂江にてしょばいなさる

春は廻(まわり)に 納屋うちかけて

金のびょうぶに きんらんまくら

金のたらいで ちょうずをなさる

やまにいくぞや おいさまおい

 

*対馬は、西海捕鯨の基地の一つで、対馬領巌原城下の亀谷卯右衛門が鯨組を組織し、

「鯨亀谷」「鯨大尽」と称されました。また、他領からも深沢組をはじめ多くの

出組がありました。<野本政宏編『西海の鯨唄』による>

*対州(たいしゅう):対馬(つしま)国。

おもうぞうなさる:意味不明です。

おもたかのたよ:思た叶うたよ(思いが叶ったよ)、でしょうか。

きんらんまくら:次の歌には「金襴(きんらん)まくら(=金襴枕)」とあります。

「金襴」は、錦(にしき)の布に金糸で模様を織り出したもの。贅沢な織物の例え。

 

●『廻の鯨組唄』      長崎県対馬市豊玉町廻

(つしまし・とよたままち・まわり)

麦は穂が出る 鯨組はもどる

なにを頼りに 麦とりいれよか

亀谷さんのくらしをやれ

乞食非人に まさつたくらし

そこでお上に願いをあげて

願いかのうて 鯨組をなさる

春になったら廻にござる

廻りや花よと納屋うちかけて

 

亀谷さんのすまいを見やれ

金の屏風に 金襴(きんらん)まくら

金のたらいで ちょうずをなさる

金の茶碗で 御飯をあがる

 

そこで一の別当さん手許につれて

あがる山見は寺崎山見

三里眼鏡で四方を見れば

はるかの沖には子持ちが見ゆる

それを見るより苫つりあげて

三六隻皆漕ぎいでて

池田もたれに網うちはりて

みとは三重がわ そのわきや二重

 

そこで子持がみとうちかぶる

一にけんぎり 二にはやたてて

刃刺しやとびこみ 胴なわいれて

新造もっそに早からみっけ

さあさ漕ぎやれ寺崎さして

そこで別当さんが語り出す

廻 唐州が皆あつまりて

からすみたよな かんだらなさる

 

そこで別当さんが語り出す

打つな叩くなちょうちゃくするな

人をのろえば 鯨がとれぬ

 

*対馬市豊玉町廻は、対馬を代表する鯨組の基地で、亀谷卯右衛門をたたえた鯨唄が

伝えられています。<野本政宏編『西海の鯨唄』による>

*金襴(きんらん)まくら:金襴枕。「金襴」は、錦(にしき)の布に金糸で模様を

織り出したもの。贅沢な織物の例え。

金の屏風を飾り、金襴枕で休み、金の盥(たらい)で顔を洗い、金の茶碗で食事する。

   鯨組主の百万長者ぶりを歌っています。

別当さん:鯨組納屋場の役職。「大別当」(納屋総支配人)・「別当」(小納屋ごとの

支配人)がいました。 <『西海のくじら捕り』>

山見:( 山見

子持ち:(→ 子持ち鯨

苫(とま)つりあげて:山見で鯨を発見すると、むしろ旗を高く掲げ、浜辺で

待機している勢子船などに知らせました。

みと:鯨を捕る網。(→ みと

一にけんぎり 二にはやたてて:

けんぎり」は「剣切」。網掛突捕式捕鯨では、銛を数本、鯨に打ち込んだ後、鯨に

剣を突き立て海水を臓腑に入れて、仕とめました

「はや」は「早銛(はやもり)」のこと。鯨を追ったり、捕獲したりするのに使う銛には、

「早銛」と「萬銛(万銛。よろずもり)」があり、このうち萬銛は、銛頭だけで重さが

5キロを超え、鯨を捕獲し勢子船と結びつけるのに用いました。これに対し、早銛は

銛先が0.5キロ程度の軽い銛で、鯨を網に追い込むのに使う補助的な銛でした。

<『鯨取り絵物語』・『西海のくじら捕り』など> (→

刃刺し:勢子船(せこぶね)に乗る銛師(もりし)。(→ 羽指

胴なわいれて:羽指が鯨に泳ぎ着き、潜って胴に縄をかける。

もっそ:持双船(もっそうぶね)。捕獲した鯨を納屋場に運ぶ船。(→ 鯨組

からすみたよな:(盗みが上手な)カラスみたいな。

かんだら:鯨の解体・運搬の際に鯨肉を盗むこと。もちろん、犯罪行為なのですが、

地域住民への「お裾分け」として大目に見られていたようです。(→ かんだら

ここでも「打つな叩くなちょうちゃく(打擲)するな。人をのろえば 鯨がとれぬ」

と歌っています。

 


 

“くじら語”リスト

〜 このリストは、荒木公敏・上村博一の共編です。

 

『鯨歌』には、現代の私たちには分かりずらいことばが、たくさん登場します。

わが国の「鯨文化」は、海の恵みの鯨を余すところなく利用させてもらうが、

ねんごろに弔うことを忘れないという、欧米にはない日本独自の文化です。ただの

“ハンティング”ではありません。

自然の恵みを享受する一方で自然を畏れ崇めるアニミズム・自然観に裏打ちされた

いかにも日本的な文化だと筆者は考えています。

「鯨文化」の粋を受け継ぐ『鯨歌』を、読み解くためのガイドブックを目指して、

“くじら語”リスト作りに手をつけました。

まずは「鯨歌」に現われる、分かりずらいことばを一つずつほぐすことから始めて、

できれば鯨歌にとどまらず、語彙の範囲を広げていきたいと願っています。

このリストは鯨研究家、荒木公敏さんに全面的な協力をいだいて制作しています。

荒木公敏・上村博一の共同編集です。

説明文中、例にあげた鯨歌はいずれも、この『鯨さんの詩(うた)・鯨歌』のページに、

収載したものばかりです。

なお参考文献は各項説明文末尾に<  >を付して記したほか、

『鯨さんの詩』(見出し)に、一覧を掲げてあります。 (09.8.1更新 上村記)

                          (10.3.6最終更新)

茜鉢巻(あかねはちまき):赤い鉢巻。茜(あかね)は、蔓性の多年草で根から染料をとった。

茜色は、赤のやや沈んだ色。祝いの席などで緋縮緬(ひぢりめん。真っ赤なちりめん)と

ともに身につけた。<『広辞苑』など>

例)「鉢巻鉢巻 茜鉢巻ゃ浮津浦組よナー

親も獲り添え 子も添えてオモシロイ」<『鯨舟の唄』高知県室戸市室戸岬町>

網掛突取式捕鯨(あみかけつきとりしきほげい):「網取式捕鯨(あみとりしきほげい)」

とも。日本最初の組織的な捕鯨は、16世紀後半、安土桃山時代当初の頃に始まった

「突取式捕鯨」であった。尾張(おわり。愛知県西部)知多半島先端の愛知県南知多町

師崎(もろざき)で7〜8隻の船が銛(もり)で鯨を突いたのが始まりとされる。

 紀伊国太地(たいじ。和歌山県太地町)でも、1606年、師崎から突取式捕鯨を

伝授された和田忠兵衛頼元が「突組」を興し突取式捕鯨を行っていたが、1675年、

頼元の孫、和田覚右衛門頼治が、網に鯨を追い込んで銛で突く「網掛突取式捕鯨」を

開発した。画期的な漁法の開発で、太地の技術は全国に広がり、江戸時代中期から

後期にかけて、東は房総(千葉県)や磐城(福島県東部から宮城県南部)、西は長門

(山口県西部・北部)土佐(高知県)・西海(さいかい。佐賀県の肥前、長崎県の平戸・

五島・壱岐・対馬など)などで沿岸捕鯨は全盛期を迎える。房総・紀州・土佐・西海が

四大捕鯨漁場とされる。<大隅清治『クジラと日本人』による>

四大捕鯨漁場のうち、おもにツチクジラを対象にした房総では突取式捕鯨、紀州や

西海では網掛突取式捕鯨が発達した。(→ 鯨組

網の目締歌(あみのめしめうた):鯨歌のひとつ。網の整備に際して、網目を締める作業の

時に唄われた。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

魚や鯨を捕獲する網は、まず縄で四角の「目」をたくさん作り、目の四隅を次々に

結び合わせて大きな網を作る。鯨捕りの網の「目合」(目の大きさ)は80センチ以上

あったといわれる。材料は、初めはわらだったが、のち麻に変わった。

「網の目締歌」は、縄を編んで網を作り上げる作業のときに歌われた。なにしろ

巨大な鯨を捕獲するのである。網目が解けないよう、結び目を強く頑丈に、

締めなければならない。歌で気合を入れ力を込めて編み上げた。

例)<『網の目締歌』長崎県新上五島町>

綾踊(あやおどり)綾竹(あやだけ)両手に持って踊る踊り。静岡・千葉・和歌山

などに現在も伝わる。<『広辞苑』>  砧踊(きぬたおどり)

綾竹(あやだけ):踊りの小道具・楽器として、また、曲芸にも使った竹。竹に色紙を巻き

端に房をつけたり、中に小豆を入れたりする。綾織竹(あやおりだけ)とも。

          <中園成生『くじら取りの系譜』/『広辞苑』>

一じゃいな(の) また一じゃいな(の)

 鯨歌によく現われる歌詞の一つ。例えば、

「納屋のろくろにゃ サーヨイヤサー

子持ち巻くのにゃ ソリャソリャ

一じゃいの また一じゃいの

朝も懸けたが また懸ける ヨカホエ」<『朝のめざめ』山口県長門市通)>

「旦那栄える しるし竹よ

ソリャ 一じゃいな 又一じゃいな

祝うて今年は 幸せよかろうよ」<『祝い目出度』長崎県新上五島町>

 前者は、捕獲して轆轤(ろくろ)で浜辺に巻き上げる子持ち鯨を「一つまた一つ」、

後者は縁起の良い印竹(しるしだけ)を「一本また一本」と数える。次から次に

良いことがありますようにという願いをこめて。

浦(うら):入江・海辺・浜のこと。伝統捕鯨の基地は、捕獲した鯨の 解体・陸揚げ・

加工に都合の良い入江・浜、つまり「浦」が選ばれた。現在も、伝統捕鯨の地の多くに

「浦」がつく地名が残っている。

例)和田浦(安房)、太地浦・古座浦(紀州)、浮津浦(土佐)、通浦・紫津浦(長州)、

  御崎浦・館浦(生月)、有川浦・柏浦(五島)

捕鯨の町では、古くから「鯨一頭捕れば七賑わう」ということばがあった。鯨一頭が

いかに多くの人々に幸をもたらしたかを物語る。

以下の「浦千鳥」「浦屋」のほかに、「浦」のつくことばに、

 浦風:海辺を吹く風、浜風。

 浦方:漁村、また漁村の住民。佐賀県唐津市呼子町の愛宕神社では、大鈴の綱の

    飾り木に「奉納・浦方繁昌」の文字がある。

 浦里:海辺の村、漁村。

 浦波:海辺にうちよせる波。

 浦西:うらにし。秋冬にふく北西風。

 浦回(廻):うらみ。曲がりくねった入り江。<『日本語大辞典』講談社>

浦千鳥(うらちどり):海辺・浜辺の千鳥。浜千鳥。千鳥は古来、日本人に親しまれてきた

鳥で、詩歌にも数多く歌われている。鯨歌には浦千鳥がしばしば登場する。

例)「沖で潮吹きゃヨーエー 浦千鳥

組の エイハア 栄えを千代と鳴く」<『鯨おどり』和歌山県新宮市三輪崎>

浦屋(うらや):海辺近くに住む「浦人」(うらびと。漁師・海女・潮汲など)の家々。

 例)「突き取るはざしかこ 何時迄も何時迄も

    旦那栄える 浦屋もにぎはうかな浮津浦」<『鯨舟の歌』高知県室戸市室戸岬町>

 

恵比須・恵比寿・蛭子(えびす):(イザナギノミコトの子で、足が弱いという

蛭子(ひるこ)の称という)七福神のひとり。風折烏帽子(かざおりえぼし)に

狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)姿でタイを釣り上げた像に作る。商家で守護神

として信仰する。<『新明解国語辞典』>

「恵比寿は七福神の一つであり、海の彼方から人に福をもたらすといわれ、沿岸部では

漁業の神として祀られ、また内陸部においても商売繁盛の神として広く信仰されている。

沿岸漁業者や捕鯨者がクジラやイルカを恵比寿と称して崇める理由には、二つの側面が

ある。一面として、沿岸漁業者にとってクジラは、沖からサカナの群れを岸に追い込んで

漁業を助けてくれる有り難い存在ということである。…もう一つの面は、『クジラ一頭を

捕れば七浦賑わう』といわれているように、クジラは海の彼方から浜辺を訪れて、自らを

犠牲にして捕獲されることにより、人に多くの富をもたらしてくれる有り難い存在として、

捕鯨を営む地方で崇められてきたことである。…昔、壱岐の捕鯨場の一つに『恵比寿の浦』

があり、鎮守の社に恵比寿を祀っていた。」<大隅清治『クジラと日本人』>

例)「飲めよ大黒 ヨイヤサー

ヤレ唄えよ恵比須 ヨーノサー」<『思うことは叶う』山口県長門市通>

   「サー弁財天の浦よな

浦はチョイ七浦七蛭子 お伊勢利生よ」<『弁財天』長崎県南松浦郡新上五島町>

かがす網用の太い麻綱(ロープ)のこと。あみかがす。綱。

神楽(かぐら)さん:ろくろのこと。(→ 轆轤

<『日本伝統捕鯨地域サミット』日本鯨類研究所>

例)「旦那様の神楽さん 如何なる日を見て据えたやら

捲き候背美の 子持ち捲き候エ」<『鯨舟の唄』高知県室戸市室戸岬町>

懸ける(かける):鯨歌にしばしば現われることば。「朝懸け」「重ねがけ」などの表現も

ある。

例)「今宵祝えで 明日はせみを懸けてな

これも祝えの 御利しょかな」

「三国一のじゃ 網にあしたは 朝懸けしよ

ヨカホエ」  <以上『さても見事な』山口県長門市通>

背美組よなテーテーハーハハイヨー 朝がけ捕ろぞな

重ねがけしょうよいさき浦 ヨイヤサー」<『正月唄』長崎県平戸市生月町>

 「懸ける」は「鯨を網に掛ける」の意であろうが、「漁に懸ける」という気持ちも込めて

「懸ける」と書き表したのではないだろうか。

 他にも、

懸ける <『夢を見ようよ』/『朝のめざめ』山口県長門市通>

<『弁財天』長崎県平戸市生月町>

<『年の始め』/『旦那様』長崎県新上五島町> など。

  朝懸け <『旦那様』山口県長門市通>

<『祝い目出度』長崎県平戸市生月町> など。

水主(かこ):「水手」とも書く。船乗り、水夫の古語。「か」は「楫(かじ)」、

「こ」は、「人」の意。「加子」(<『鯨・イルカの民俗』(三一書房)>「船に乗り

櫓を押すことを掌るものなり」)・「舸子」(<『長州捕鯨考』>の表記も。

また「猟子」(りょうし)・「船子」(ふなこ)などの呼び方もあった。

 例)突き取るはざしかこ 何時迄も何時迄も

    旦那栄える 浦屋もにぎはうかな浮津浦」<『鯨舟の歌』高知県室戸市浮津>

カバチ(アゲ):「カバチ」は鯨の頭、頭の皮のこと。「カバチアゲ」は、

その年の鯨の初漁のこと。また、初漁で捕った鯨のこと。

「初鯨が上がると『カバチアゲ』をした。勢子や羽差が集まり浜のろくろに

チロリン(8合入りの鉄製の酒器)のお神酒とシラゲ(洗米)を、

沖に向けて供え『三国』の唄をうたう。その後、羽差は下納屋で酒を

飲んでお祝いをした」(故福井貞太郎翁)

<「土佐津呂組捕鯨聞書」桂井和雄

日本民俗文化資料集成『鯨・イルカの民俗』三一書房より>

『鯨さんの詩』(鯨歌)の、高知県室戸市室戸岬町津呂『三国』をご参照ください。

砧(きぬた)(1)(「衣板(きぬいた)」の約)布地をやわらかくしたり、つやを出したり

する ために用いる木槌、打つときに布をのせる木(石)の台。また、木槌で打つこと、

打つ音を いずれも「砧」と言う。「砧打ち」は女性の秋・冬の夜なべ仕事だった。

<『広辞苑』/『新明解国語辞典』>

 (2)鯨を網に追い込むとき勢子船(せこぶね)の「かんぬき」(舟のへさきの手前にある

横桁)や船べりをたたく棒のこと。<熊野太地浦捕鯨史編纂委員会『鯨に挑む町』/

濱光治『元禄の鯨』>

砧踊(きぬたおどり):「砧(2)」を表現する踊り。踊りでは、砧と銛を兼ねるように

振り付けされている。<熊野太地浦捕鯨史編纂委員会『鯨に挑む町』/濱光治『元禄の鯨』>

砧踊と唄は紀州太地(和歌山県太地町)に現在も継承されている。踊り手は小石を入れた

長さ45センチ程の竹筒(綾竹)を振り、「今日は吉日砧打ち」という歌詞が入った唄を

うたう。江戸時代前期の小歌踊系統の砧踊が太地あたりに持ち込まれ、その動作が

鯨を追う時に船縁を棒で叩く所作と似ている事から定着したのではないかとされている。

<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』>

鯨歌(くじらうた):「昔捕鯨が行われていた地域には捕鯨の様子を歌い込んだ『鯨歌』が

 残っており、保存会の努力で今も歌い継がれている。また、鯨歌とともに『鯨踊り』も

 受け継がれている。鯨歌には捕鯨操業の開始と終了時および正月などに歌われた『祝歌』

とクジラを解体・処理する際に歌われた『作業歌』がある」

<大隅清治『クジラと日本人』>

 大漁唄の一種。捕鯨祝い唄として儀式唄に近い。<『広辞苑』表記は「鯨唄」>

鯨組(くじらぐみ):海上に張った網に鯨を追い込んで銛で突く網掛突取式捕鯨(「網取式

捕鯨」とも)は、1675年紀州の太地で開発され、17世紀、西日本各地に広まった。

たくさんの船と人手を必要とする大規模な漁法で、各操業地では、常雇いだけでも

300〜500人の人々が毎年数か月間、捕鯨活動に参加していた。

この大規模捕鯨者集団を「鯨組」と呼んだ。当時としては世界でも珍しい大きな企業体

であった。

西海捕鯨(山口県から長崎県にかけて行われていた捕鯨)では、鯨組は中枢である「本部」

捕鯨用具の調整・保管をする「大納屋」(→ 納屋場)探鯨と操業の指揮をする「番船」と

「山見」(→ 山見)、操業に従事する「沖合」、捕獲した鯨の解体と処理に当たる

「鯨始末係」、筋を扱う「筋士」の6つの組織に分かれていた。

「沖合」に所属する船は、網を張る「双海船」(そうかいぶね。約6隻)、鯨を捕獲する

「勢子船」(せこぶね。約25隻)、捕獲した鯨を納屋場に運ぶ「持双船」(もっそう

ぶね。約6隻)など約40隻であった。

<高橋順一『鯨の日本文化誌』・大隅清治『クジラと日本人』>

鯨文化(くじらぶんか):ふつう、捕鯨文化(ほげいぶんか)と呼ばれる。桜美林大学

国際学部の高橋順一教授は、捕鯨文化とは「鯨という資源を利用するという生業

(あるいは産業)活動を中心に形成された文化。鯨という生物的資源を発見し、捕獲、

処理加工し、その産物を分配して、消費するという諸活動のすべてを含み、それらを

機能的に関連づけ活動全体を効果的かつ安定的に維持継続していくための諸知識・

諸技術・価値観・信仰・集団組織と諸制度・諸慣習が、有機的に統合された文化。

この日本型の捕鯨文化は、遅くとも江戸時代初期までにその基本が形成され、

網取り式捕鯨の成功とともに西日本各地に伝播して、高度に発達した」<『鯨の

日本文化誌』>と述べている。

自分たちが暮らす海辺に回遊してくる鯨を捕獲し、貴重な蛋白源にし油を採り、

さまざまな細工物にまですべてを利用させてもらう。そのうえで霊を敬い、ねんごろに

祀って感謝する。─ 合理的な欧米人には理解できない心の回路、考え方かもしれない。

稲作民族である日本人は「自然」を敬い畏れ、自然と寄り添って生きてきた。人は

「いのち」を日々の糧とする。しかし、いただく「いのち」も、自分も、すべてが

自然の一部であることを忘れない。“鯨文化”とは、そのような「自然観」

「アニミズム(自然崇拝)」のうえに、伝来の知識・技術・信仰・しきたりなどを

結集した日本独特の文化であろう。<上村>

五島列島(ごとうれっとう):長崎市の北西海上にある、南から福江・久賀(ひさか)

・奈留(なる)・若松・中通(なかどおり)・野崎・小値(おじか)・宇久(うく)

などの列島の総称。長崎県五島市・南松浦郡・北松浦郡・佐世保市などに属する。

200あまりの島からになり、近世、キリシタンが潜んだ地として知られる。江戸時代、

生月島(長崎県平戸市生月町)などとともに、西海捕鯨の基地として栄えた。

(→ 平戸市生月町

子持ち鯨(こもちくじら):親子連れのクジラを捕獲しようとすると、母親は必死に

子どもをかばい離れない。それを知りながら、心を鬼にして捕獲する。また、クジラを

捕獲して解剖すると、腹の中から胎児が出たりする。信仰心の厚い漁師たちはクジラを

哀れみ、祟りを恐れた。クジラを弔うための墓や供養塔が建てられ、種々の宗教行事が

現在に伝わっている。 <大隅清治『クジラと日本人』による>

親子で泳ぐ鯨は捕まえやすく(子鯨を捕獲すると親鯨はいったん逃げても帰ってくる)

最上の獲物とされた。<『日本伝統捕鯨地域サミット』日本鯨類研究所>

例)「背美を枕に子持前エー

子持前に 大がちよりかかる」<『鯨唄』山口県長門市仙崎>

御利生(ごりしょう):神仏から受ける恩恵。ごりやく。<『広辞苑』>

鯨歌の歌詞によく見られる。

例)「子持前に 大がちよりかかる

    これも御神の御利生かえ」<『鯨唄』山口県長門市仙崎>

   「今宵祝えで 明日はせみを懸けてな

これも祝えの 御利しょかな

今年ゃ 御利しょかな

これもあなたの 御利しょかな」<『さても見事な』山口県長門市通>

サー弁財天の浦よな

浦はチョイ七浦七蛭子 お伊勢利生よ」<『弁財天』長崎県新上五島町>

 


采(ざい):采配(さいはい)のこと。木棒の先に布や紙をたくさんつけたもの。

「親父」(沖合の指揮官)が振って作業の進行を指揮する。

<『日本伝統捕鯨地域サミット』日本鯨類研究所>

 例)「野首の沖でを振り上げ

      ノーヤ 網船(みと)招く」<『神戻りの歌』長崎県南松浦郡新上五島町>

座頭(鯨)(ざとうくじら):ヒゲクジラの一種。体長15メートル。胸びれが長いのが

 特徴。「このクジラが水面に浮上するときの形が、琵琶(びわ)を背負って歩く

『座頭』に似ているところから、その名が連想されてつけられた。座頭とは琵琶を弾じ、

歌い、語る盲目の法師のことである」<大隅清治『クジラと日本人』>

例)「浦はチョイ七浦七蛭子 お伊勢利生よ

サー明日は座頭ば 懸きょよな」<『弁財天』長崎県新上五島町>

なお、江戸時代の捕鯨絵図 <『小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)』> では、肥前国小川島

(佐賀県唐津市呼子町小川島)周辺で捕れる鯨のうち、背美鯨(せみくじら。この絵巻

では「勢美鯨」)を第一に上げ、座頭鯨(この絵巻では「雑頭鯨」)は、雑物の中では

上ということであると記している。「勢美を一本とするのに対し雑頭は七合(7割)」

とも記され、獲物としての評価はセミクジラに比べると、かなり低かった。

三国一(さんごくいち):「三国」は、昔、インド・中国・日本の称。昔の日本人に

とっての全世界。したがって「三国一」は世界一のこと。<『新明解国語辞典』>

例)「船は着いたや五カ所の浦にサ いざや参らん伊勢様へ

   ソリャ 一国二国 三国一じゃ」<『殿中踊』和歌山県新宮市三輪崎>

「一国二国三国一じゃ 子持ち捕り済ました

三国一じゃ子持ち捕り済ました」<『鯨舟の唄』高知県室戸市室戸岬町>

ほかに、

<『さても見事な』山口県長門市通>

<『正月唄』/『祝い目出度』長崎県平戸市生月町>

<『生歌 はざし歌』/『年の始め』/『旦那様』長崎県新上五島町> など

椎皮叩き唄:鯨歌のひとつ。網の整備に際して、防腐用に網を染めるための椎の木の皮を叩く

作業の時に唄われた。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

尺取り(しゃくとり)<『轆轤巻の歌』長崎県新上五島町>に

 「飲めよ大黒 歌えよ蛭子(恵比寿)中の尺取りゃ 福の神」という歌詞がある。

 「尺取り」は「酌取り」(宴会で酒の酌をする人<『広辞苑』>)のことであろう。

印竹(しるしだけ):毎年、鯨漁期が近づくと刃指(はざし。「羽刺」とも)は、秋の

 彼岸に合わせて三七・二十一日、寺に籠り、満願の朝、井戸の水で身を清め、裏の

竹やぶに入って、必要な本数だけ竹を切り取った。竹は縁起の良い「印竹」として、

鯨組の幟旗(のぼりばた)や印旗に用い、根は、指揮船の采配(さいはい。地域により、

ほかの呼び方もある)の柄にした。

<福本和夫『日本捕鯨史話』/森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』/関門民芸会『長州捕鯨考』

北島磯舟『捕鯨王国』>

例)「竹になりたや ヨイヤサー 薬師の竹に

通栄える ヨイヤサー しるし竹よ」<『祝え目出度』山口県長門市通>

背美(鯨)(せみくじら): ヒゲクジラの一種。体長16メートル。

「このクジラには背鰭(せびれ)がないので、背中が美しいクジラとして、その名が

つけられた。一方、このクジラの英語名を right whale といい、ヨーロッパでは昔

このクジラが捕鯨の主対象であり「正統なクジラ」という意味でその名がつけられた」

<大隅清治『クジラと日本人』>

「捕鯨技術がそれほど発達していないとき、最初に捕獲対象として狙われるのは

遊泳速度が遅く、死んだ時に水に沈まないクジラである。死んだときに海上に浮く

代表的なクジラは、セミクジラ、ホッキョククジラ、マッコウクジラなどである。

18世紀から20世紀初頭にかけて、北太平洋の西側まで進出してきたアメリカが

日本近海で捕獲したのは、マッコウクジラ、セミクジラだった。アメリカの捕鯨船が

やってくるまでは、日本近海のセミクジラは1万頭ほどいたと見られている。今は

それが1000頭程度まで激減しており、資源状態が危ぶまれたままである」<小松

正之『クジラと日本人』>

泳ぐスピードが遅く、潜る深さも浅く、死んでも沈まないという、捕鯨の対象として

絶好の条件の鯨で、伝統捕鯨では最上の獲物とされた。

 なお、江戸時代の捕鯨絵図 <『小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)』> でも、肥前国小川島

(佐賀県唐津市呼子町小川島)周辺で捕れる鯨のうち、背美鯨(せみくじら。この絵巻

では「勢美鯨」)を第一に上げている。鯨歌にもよく歌われる座頭鯨(ざとうくじら。

この絵巻では「雑頭鯨」)や長須鯨(ながすくじら)などとの比較では、「勢美を一件」

とするのに対し「雑頭は七合(7割)」「長須は魚の好悪を見て定める」などとし、

背美鯨に最も高い評価を与えている。

例)「沖の長須にヨーエー 背美問えば
    背美は来る来る後へ来る」<『鯨おどり』和歌山県新宮市三輪崎>

旦那(様)(だんなさま):鯨歌にしばしば歌われ、「旦那様」を歌の名にした鯨歌も多い。

  鯨組の組主(組を率いる頭)を親しみを込めて呼ぶ敬称。

 当時の鯨組の組主がいかに富裕であったか(豊漁・不漁によって厳しい浮き沈みはあった

ようだが)西海捕鯨の基地の一つ、佐賀県唐津市呼子町の鯨組「中尾組」の組主について、

「中尾様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俚言が残る。

当時の唐津藩主を凌駕した鯨組組主の繁栄ぶりを偲ばせる。

例)「旦那様常にはあがらずとも

今日のこの御酒を一つ引きうけて」<『旦那様』山口県長門市通>

千筋(ちすじ・せんすじ):マッコウクジラ頭部の脳油を包む「メロン体」周囲の繊維束。

長さ3メートル以上に達する強い腱のような組織で、ゼラチンの原料や、軟式テニスの

ラケットに張るガットに用いられた。江戸時代には、木綿の実から採り出した精製して

いない綿を、はじき打って不純物を取り除く「綿打弓」の弦に用いた。

「ちすじ」と読むのがふつうだが、捕鯨業界では「せんすじ」とも。

例)「子を思う親のちすじのつよければ うてどもきれぬはた弓のつる」

鯨の親子の愛情(「血筋」)を、「千筋」の強さに例えた狂歌)

突取式捕鯨(つきとりしきほげい):日本で最初に組織的な捕鯨が行われたのは、安土

桃山時代が始まった元亀(げんき)年間(1570−73)。尾張(おわり。愛知県西部)

知多半島先端の愛知県南知多町師崎(もろざき)で、7〜8隻の船が銛(もり)で

鯨を突く「突取式捕鯨」で鯨をとったのが始まりとされる。ここが産業としての

捕鯨発祥の地とされるが、尾張だけでなく、この頃、伊勢(三重県)から熊野(三重・

和歌山両県南部)にかけて突取式捕鯨が発達していたと考えられる。

 紀伊国太地(たいじ。和歌山県太地町)では、1606年、師崎から突取捕鯨を

伝授された和田忠兵衛頼元が「突組」を興す。日本の伝統捕鯨の本格的な始まりだった。

師崎の捕鯨は程なく衰退するが、「突組」は太地を中心に紀伊から志摩(三重県東部)に

かけて発展した。

太地の突組は1675年、頼元の孫、和田覚右衛門頼治が網に鯨を追い込んで銛で突く、

画期的な網掛突取式捕鯨を開発し、日本の沿岸捕鯨は全盛期を迎えることになる。

<大隅清治『クジラと日本人』/中園成生『くじら取りの系譜』/

太地五郎作述『熊野太地浦捕鯨乃話』など>

突きん棒(つきんぼう):長い柄をもつ銛竿(もりざお)。また、それを用いる漁業。

 海面近くを泳ぐカジキ類などを、船上から銛を使って突きとる。<『広辞苑』>

 北海道から青森・岩手にかけての三陸沿岸や和歌山、沖縄などでは、道府県知事の

許可を受け、突きん棒漁業でイシイルカを捕獲している。長い棒の先に銛をつけ、

綱をつけて船の舳先(へさき)から投げ、イルカを突き刺して捕獲する。

沿岸捕鯨もそもそもは規模の小さい突きん棒漁業から始まり、17世紀、安土桃山

時代初めに、組織的な突取式捕鯨に発展した。

例)「何と咲いたよ エー枕箱 目覚めに目を覚ます

サー突いたかじょう チョイとツチの子持を突いたかじょう」

<『突ン棒』静岡県沼津市戸田>

ツチクジラ:北半球のみに生息するハクジラ。体長13メートル。口の部分が突き出て、

頭部の形が稲わらを叩く槌(つち)に似ていることから、この名がついた。

伝統捕鯨の町のうち、現在も北海道網走市・宮城県牡鹿町・千葉県和田町・和歌山県

太地町の4か所を基地としてツチクジラ・ゴンドウクジラなどを対象にした小型捕鯨が

行われている。

IWC(国際捕鯨委員会)の分類では、シロナガスクジラ・ナガスクジラ・セミクジラ

背美鯨)・イワシクジラ・ザトウクジラ(座頭鯨)・コククジラ・ミンククジラなどの

ヒゲクジラ10種と、マッコウクジラ・などのハクジラ3種を「大型鯨類」として捕獲を

制限する管理対象にし、その他の鯨は「小型鯨類」として管理対象にはしていない。

ツチクジラは「大型鯨類」のミンククジラ(体長8メートル)より大きいが、小型鯨類に

分類され、IWCの管理外になっていて、日本では水産庁の許可のもと、これらの地域で

捕獲されている。ツチクジラは、日本沿岸では古くから捕獲の対象になってきたが、

IWCの管理基準を定める国際捕鯨取締条約は、当時欧米人だけで作られ日本が捕獲して

いた鯨についての知識がなく、このような結果になったとみられる。

<大隅清治『クジラと日本人』/小松正之『クジラと日本人』/

高橋順一『鯨の日本文化誌』>

例)「何と咲いたよ エー枕箱 目覚めに目を覚ます

サー突いたかじょう チョイとツチの子持を突いたかじょう」

<『突ン棒』静岡県沼津市戸田>

長須(鯨)(ながすくじら):体長約23メートルの巨大なヒゲクジラ。鯨類の中で

シロナガスクジラ(白長須鯨)に次いで大きい。シロナガスクジラ、ナガスクジラ

ともに世界中の海に生息し、ともに体の大きさから古くから捕鯨の対象にされた。

<小松正之『クジラと日本人』/高橋順一『鯨の日本文化誌』>

江戸時代「長須鯨」の名は現在のシロナガスクジラにつけられ、現在のナガスクジラは

「のそ」と称されていた。「長須」の「須」は「簀子(すのこ)」のこと。この鯨の

下顎から腹にかけてアコーディオンの蛇腹のようになっている。数十本の平行に走る

通称「畝」(うね)が簀子に似ているところから、この名がついた。

<大隅清治『クジラと日本人』>

また、長須鯨ほど大きくないが長須鯨に似た「畝」を持つイワシクジラ・ニタリクジラ

なども捕獲され、長須鯨の子鯨とされていたことも考えられます。

例)「沖の長須にヨーエー 背美問えば
     背美はエイハア 来る来る後へ来る」<『鯨おどり』和歌山県新宮市三輪崎>

長門市通(ながとし・かよい):山口県の日本海側に位置する長門市青海島(おうみしま)の

東部。「通浦」(かよいうら)と呼ばれて昔から漁業で栄え、かつては鯨組が組織され

「長州・北浦捕鯨」の本拠地であった。

「長州・北浦捕鯨」は、通浦のほか瀬戸崎(現在の仙崎)・川尻を基地に、規模の大きい

網掛突取式捕鯨(→ 網掛突取式捕鯨)を行い、四大捕鯨漁場の一つである「西海」漁場

(山口県から長崎県にかけてひろがる漁場)の一角を占めていた。

 通浦の鯨組の鯨に対する思いは格別であった。今に伝わる、鯨の胎児を埋葬した「鯨墓」、

寺に祀られた「鯨の位牌」、鯨に戒名をつけた「鯨鯢過去帖」(げいげいかこちょう)、

毎年行われる「鯨回向」などに、その優しい思いを見ることができる。

また、一般にめでたい席で歌う祝い歌は、手を叩いて歌うが、通の鯨歌は鯨の恵みへの

感謝と、鯨の死を悼む気持ちを表し、手を叩かず「揉み手」で歌う。うるわしい民情の

シンボルとして今も「鯨唄保存会」によって歌い継がれている。地元の小学校・中学校の

総合学習でも生徒が学ぶ。

<ホームページ『古式捕鯨の里 通』 http://member.hot-cha.tv/~htc09819/ など>

納屋場(なやば):捕獲した鯨は、多数の勢子船(せこぶね)で持双船(もっそうぶね)を

曳いて鯨の処理場である「納屋場」に運ぶ。納屋場では轆轤(ろくろ)で鯨を浅瀬まで

引き上げて解体し、皮・肉・骨・内臓を切り分けたうえ「大納屋」「小納屋」「骨納屋」

などの加工場に運んで処理した。<大隅清治『クジラと日本人』から>

 『小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)』は、江戸時代、唐津国呼子(佐賀県唐津市呼子町)

沖に浮かぶ小川島(おがわじま)を基地に行われた大規模な網掛突取式捕鯨の様子を、

イキイキと描いている。捕獲した背美鯨を、勢子船に曳かれた2隻の持双船が両側から

はさむようにして「納屋場」がある小川島に運び、浜辺に引き上げたうえ、切り取った

巨大な皮脂を、大きな轆轤(ろくろ)で剥がして、引き上げる作業が克明に描かれている。

例)「納屋のろくろにゃ 綱くりかけてよ

おせみ巻くのにゃ ひまもない」 <『さても見事な』山口県長門市通>

「イヨ田の浦の浜の いや納屋のろくろにゃ

納屋のろくろにゃ サーヨイヤサー

子持ち巻くのにゃ ソリャソリャ

一じゃいの また一じゃいの」 <『朝のめざめ』山口県長門市通>

羽指(はざし):「刃刺」「羽差」とも。勢子船(せこぶね)に乗る銛師(もりし)。

 銛を打ち、捕った鯨を船に結びつけるなど、危険で熟練を要する。<『広辞苑』>

 鯨組の船は、例えば西海(さいかい。九州の捕鯨漁場。沿岸捕鯨四大漁場の一つ)の

 場合、一つの組で約40隻を数えるが、このうち鯨を網に追い込み、銛を打って捕獲する

勢子船(せこぶね)が約25隻と半分以上を占める。ほかに、鯨の前方に網を張る

「双海船」(そうかいぶね)約6隻、捕獲した鯨を納屋場(なやば)に運ぶ「持双船」

(もっそうぶね)約6隻などがある。勢子船は、現代の捕鯨で言えばキャッチャーボートに

当たり、羽指は、キャッチャーボートの砲手であり船長であった。羽指は舳先(へさき)に

仁王立ちになって勢子たちに指図し、鯨を網に追い込む。銛を鯨に打ち込んで弱らせ、

最後に一人の若羽指が海に飛び込んで鯨にまたがり、鼻孔に包丁で穴をあけて

(「鼻切り」)綱を通す。さらに鯨の腹の下に潜って綱を回し持双船に渡して、巨体を

確保する。羽指は沿岸捕鯨の主役であり、海のヒーローであった。 

<大隅清治『クジラと日本人』/高橋順一『鯨の日本文化誌』による>

例)「イヨ羽差しは勇む イヤ捕らにゃかなわぬ

懸けにゃかなわぬ サーヨイヤサー」<『朝のめざめ』山口県長門市通>

羽指踊(はざしおどり):祝い唄系統の鯨唄は羽指踊と一緒に唄われる。締太鼓と唄に

 合わせて羽指達が円を組んで踊るもので、西海系捕鯨図説の多くには、一連の作業の

 工程を描いた最後の方に羽指踊の場面が登場する。上半身を脱いで両手を上げる様子は

 力士の土俵入りのようにも見えるが、傍らで締め太鼓が叩かれていて音曲に乗って踊って

 いる事が分かる。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう):長崎県北部。平戸島(ひらどじま)の

北西にある島(町)。面積16.6平方キロメートル。隠れキリシタンの島として

知られる。

安土桃山時代の1570年代、尾張(おわり。愛知県西部)や、伊勢(三重県)・

熊野(三重・和歌山両県南部)沿岸などで始まった組織的な伝統捕鯨(突取式捕鯨

 網掛突取式捕鯨)は江戸時代全国に広がったが中でも房総(千葉県)・紀州(和歌山県)

・土佐(高知県)・西海(さいかい。山口県の長門、佐賀県の肥前、長崎県の平戸・

五島・壱岐・対馬など)は四大捕鯨漁場として栄えた。西海における捕鯨の始まりは、

1624(寛永元)年、生月島東隣の多久島(度島)を根拠地に、紀州の突組が行った

突取式捕鯨だとされる。

生月島で島民を主体にした捕鯨が本格的に始まったのは1725(享保10)年、

館浦(たちうら)の田中長太夫と畳屋(のちの益富)又左衛門正勝による突組の操業

からであった。突組はやがて畳屋の単独経営となり、組の根拠地も島の北部の

御崎浦(みさきうら)に移された。1733(享保18)年、組は網掛突取式捕鯨を

行える規模に成長し、経営の安定に成功する。益富組は、壱岐・五島・対馬などに

進出して、日本一の規模を誇る鯨組に発展した。

<中園成生『平戸瀬戸の捕鯨』(インターネット)などによる>

捕鯨文化(ほげいぶんか):→ 鯨文化(くじらぶんか)

骨切り唄(ほねきりうた):鯨歌のひとつ。骨納屋で油を煮出しよくするため骨を細かく刻む

作業の時に唄われた。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

益富組(ますとみぐみ):→ 平戸市生月町(ひらどし・いきつきちょう)

みと:本来は、鯨網の中心を指す。西海漁場で行われた網掛突取式捕鯨では、3セットの

 網を左右にずらして弓なりに張るという創意工夫があった。中央に張った網の後に2番

 3番の網の一部を重ねつつ、左右にずらして張るので網の中央の部分(みと)は三重になる。

 例)「網(みと)は三重側ズイノーヨー

    その脇ゃ二重 逃がしゃせまいぞ」<『神戻りの歌』長崎県南松浦郡新上五島町>

山見(やまみ):魚群などの動きを陸上の高所から見張ること。また、その役の人。

<『広辞苑』>

 「漁期に入ると捕鯨者たちは探鯨を開始する。網捕り式(→網掛突取式捕鯨)の場合、

  探鯨は海を一望に見おろす小山や岬の崖上に作られた探鯨台(山見)から行う。

そこには漁期中数人の山見方が常駐し、常に沖を見張っていた。鯨を発見すると

山見はすぐに狼煙(のろし)を上げて、大納屋(→納屋場)および沖に出て待機して

いる勢子舟と浜で待機している他の作業舟に通報する。さらに、鯨の位置、種類、

頭数、進行速度と方向等の情報を、信号旗を使って伝達する。」

                          <高橋順一『鯨の日本文化誌』>

<『小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)』>は、長崎県唐津市呼子町沖の小川島で

繰り広げられる捕鯨の様子を描いた絵巻だが、絵に先立ち序文で、勇壮な鯨捕りの

様子を描写している。その一節に、

「相図(あいず)の苫(とま。スゲ・カヤなどをこものように編んだもの)引上ぐれバ

  山上の羽指(勢子船に乗る銛師。→羽指)険阻(けんそ)をはせ下り

  山下の水主(かこ)碇(いかり)をおこし纜(ともづな)を解ひて…」

 山上でムシロのようなものを高く掲げ鯨の接近を知らせた、と述べている。絵では、

狼煙(のろし)と苫(とま)の両方を描いている。

例)「朝のめざめに サーヨイヤサー

イヨ山見をすれば イヤ大せみは

浮いて来る間によ」<『朝のめざめ』山口県長門市通>

轆轤(ろくろ):多人数による人力綱巻き取り装置。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』/

『鯨魚らん(金覧)笑録』(9基のろくろが描かれている)>

鯨の引き揚げや解体の時、人力で回し綱を巻き取る装置。

<『日本伝統捕鯨地域サミット』日本鯨類研究所>

「鯨が運ばれてくると処理作業が始まる。ろくろを使って鯨体を半分ほど濱に引き上げ、

最も熟練した解剖夫が長い柄のついた大包丁で最初の切り込みを入れる。厚い皮脂は

ろくろを使って剥がされ、大きな肉塊の引き剥がしにもまたろくろが利用される。

そのやり方は電動ウインチが使われる今日でも踏襲されている。」

<高橋順一『鯨の日本文化誌』>

例)「納屋のろくろにゃ 綱くりかけてよ

おせみ巻くのにゃ ひまもない」 <『さても見事な』山口県長門市通>

「イヨ田の浦の浜の いや納屋のろくろにゃ

納屋のろくろにゃ サーヨイヤサー

子持ち巻くのにゃ ソリャソリャ

一じゃいの また一じゃいの」 <『朝のめざめ』山口県長門市通>

<小児乃弄鯨一件の巻(上村家本)>の小川島納屋場の場面にも、ろくろが描かれています。

轆轤巻き唄(ろくろまきうた):「鯨歌」のひとつ。鯨を岸辺に引き上げて解体する時の

轆轤を巻く作業の際に唄った。<中園成生・安永浩『鯨取り絵物語』(弦書房)>

若松様(わかまつさま):祝いの席などでよく歌われる民謡「目出度目出度の若松様よ

 枝も栄えて葉も茂る」(あるいは「祝い目出度の…」)の歌詞は、全国各地に広まっていて、

花笠音頭・伊勢音頭などにも歌われている。鯨歌でも各地で祝歌に取り入れられている。

 「若松様」の語源は、山形県天童市の若松寺(じゃくしょうじ)、福島県会津若松市・

 福岡県北九州市若松区などの地名、さらに、縁起の良い若松(わかまつ。生えてから

あまり年がたっていない松。正月の飾りなどに使う小松)など諸説がある。

例)「祝いイエーアエー目出度のサーヨイヤサー

   若松サーイヨー様じゃ」<『鯨唄』山口県門市油谷向津具>

  「祝え目出度の ヨイサー 若松様

枝も栄える ヨイヤサー 葉もしげるよ」<『祝え目出度』山口県長門市通>

「祝い目出度の サーヨイヤサー

若松サイヨー様じゃい」<『祝い目出度』長崎県平戸市生月町>