No.011 違和感和音の絶妙
Stevie Wonder / Innervisions (1973)

 コード感というものを意識して音楽を聴く人間が果たしてどのくらいいるだろう。多少なりとも音楽の知識がある人や楽器を扱える人は、和音という概念を把握しているだろうし、念頭に置きつつ接することもあるだろう。しかし“音楽を聴く”という行為にバックボーンとなる音楽的知識など必要ない。リスナーは漠然と、あるいは何気なくという感覚で音楽に接することが圧倒的に多いはずだ。曲を聴いて「暗い感じの曲」と感じることはあっても「このAマイナーが」と、Aマイナーという単語を引き合いにだす人はそれなりの知識があっての場合。曲の雰囲気やイメージを決定づける要素の一つとして和音(=コード感)というものは存在してはいるものの「どのような音階の組み合わせによって奏でられているものなのか、などということは普通はわからないし、また意識もしない」ということである。

 だが人間とは不思議な生き物。そういった専門的知識がなくても無意識のうちに「正しく感じ取ること」は可能だったりするのだ。「ここでBフラットに転調し」とは思えなくても「ここで転調した」というニュアンスがなんとなくわかるものだ。

 和音=コードというのは、異なる音階の複数の音が同時に発せられた瞬間に奏でられる「音のかたまり」である。この「かたまり」を構成する一つ一つの音の要素については知識がないと知り得ない。しかし、例えばカラオケで他人が歌っているのに便乗して「ハモる」という行為が自然とできたりするのが人間だ。うまく「ハモる」のに特別な訓練は必要ない。このことは、いかに人間が様々なパターンの音楽と接しているか、あるいは楽曲のニュアンスや構造そのものを無意識のうちに感じとって理解しているか、ということを証明しているとも言えるわけで、生活の中に音楽との接点が数多く存在していることを物語っている。

 プロの作曲家はこのような人間の普遍的な心理構造を逆手にとって「ツボをおさえた」和音を使った楽曲をつくることができる。心地良さのバロメーターすなわち快感度指数が高いものを意図的にあるいは作為的に作ることができるのである。「普遍的価値」を「作為的につくる」。実はこの「作為的」というのがポイントで、だからこそ、人類の歴史上、新しい音楽が常に生み出され続けているのである。その能力の進化こそが、ポピュラー音楽の進化なのだ。

 能力の進化は「ツボをおさえた」楽曲をつくりだすが、同時に「ツボのおさえ方」をも進化させる。「違和感」による「快感」である。普遍的快感ともいうべき「コード」感の組み合わせではなく、ちょっとした「ズレ」を導入することで「違和感」をもたらす。しかし、その「違和感」は決して不快感ではなく、新しい「ツボ」として機能する。

 盲目の天才、スティーヴィ−・ワンダーは、あらゆる対象から様々な視点で語られる極めて稀有な存在である。全ての楽器をこなし、魅力的な声で歌い、宗教的でもあり、そして何よりも盲目であるという存在。その存在そのもののあらゆる要素が、表現される音楽の評価に密接に関連しあっており、そしてその視点は十人十色である。

 『Talking Book』『First Finale』と合わせて70年代名作三部作の一つである本作は、まさにスティーヴィーの“違和感タッチ”が全開の傑作である。1曲目「Too High」からその連続である。目くるめくコード感に違和感が快感になる絶妙な瞬間。どこをどう切り取ってもクリエータースティーヴィーの非凡さが怒濤のごとく発揮される。スティーヴィーの作品中、僕のフェイバリットな一曲「Golden Lady」に至るまでの曲の配置も素晴らしい。70年代が生んだ奇蹟の一つとして、完成度は群を抜いている。……Thank You For the Music。

 80年代以降、スティーヴィーは名作とよばれる楽曲を数多く生んだ。世界的大ヒットも生んだ。が、そこに「違和感」を感じ得ることは多くはなかった。あの70年代のクリエイトがまるで嘘であるかのように。「違和感」を無くした「天才」は普通の天才になった。しかし、それは音楽的見地だけでは語れない彼という「存在」がもたらした結果なのかもしれない。

 名盤は永遠だ。だが能力は変化する。万人にとってそれが必ずしも「進化」であるとは限らない。

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