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これまでの劇評から…
テアトルフォンテ+U・フィールド主催公演
U・フィールド版『孤独な老婦人に気をつけて―砂漠・愛・国境―』への劇評・・・江森盛夫氏「第二次シアターアーツ」2007年冬号より
この上演は、まるで悪夢のような脈絡が判然としないマテイ・ヴィスニユックのとっつきにくい劇世界を井上・森屋が共同で立ち上げた、U・フィードと客演のプロの俳優とワークショップで選ばれたアマチュアの俳優たちとのコラボレーションによる、意欲が初々しくみなぎるうねりを創出した興趣に満ちた二時間半の舞台だった。
マテイ・ヴィスニユックはルーマニア生まれの作家だが、共産党政権下で全ての戯曲が上演中止の扱いを受け、フランスへ亡命した。以来、フランス語で作品が書かれ、二十カ国で上演されている。日本でもモルドヴァのヴィジェーヌ・イヨネスコ劇場によって『チェーホフ・マシン』、フランス人俳優オリビエ・コントの一人芝居『年老いたクラウン』が上演され、高い評価を受けた。U・フィールド版は短編戯曲集『孤独な老婦人に気をつけて』の十五の短編から八篇を抜粋して構成したものだ。もともと完結した短編戯曲というより断片を集積した戯曲集であって、作者はその断片を上演する側がどのように構成するかは指示せず、上演する側の意思に任せること意義を見出している。順番を固定しない断片こそ世界の全体像や本質へ通じる扉なのだと考えているからだ。
冒頭に予言者の女たち六人が登場する。彼女たちが客に呼びかける。私たちは昏睡状態に置かれているのではないでしょうか、記憶の穴に隠れている蟹のように…。それがいつか必ずくる大地震で昏睡から目覚め、本当に目を開けてこの世界を見るでしょうと…。そして舞台にベッドが置かれる。一組の夫婦の愛の交わりの後のけだるい情景で、夫婦の交わりのあとの砂漠のような索漠感についての会話のシーンがある。直後にそのシーンを切って車椅子に乗った老人が舞台を横切る。老人は夫婦の夫の父で、息子に車椅子を押させる。このシーンは断続的に現れて、老人はオレは今日絶対に死ぬのだと言い張っている。あと、聖処女と代理母の話、物乞いたちの物乞いの法則の話(孤独な老婦人は物乞いに話しかけ無駄な時間を使わせるから気をつけて)などのシーンが出現して、ゲリラの少年の話と続き、死んだ兵士の帰還のシーンに詰められる。将軍と兵士の群れ。舞台には死んだ兵士たちの人形が天井からぶら下がっている。放置され個人として特定されない死んだ兵士たちの怨念のうめき。様々なタイプの死に方をした兵士たちは将軍にきちんと列挙されることを訴える。この死んだ兵士たちと将軍のシーンがこの舞台の中心になり山場だ。最後に連隊付き料理長の提案で全ての死者はフードプロセッサーを通ることになり、兵士たちと将軍はフードプロセッサーをに向う。彼らは粉砕されパテに加工され、それで巨大なケーキを造り、遺族にその一切れを配られる。そのあと国境を越えたい赤子を抱えた女たち群像が重なる。車椅子の老人は念願かなってその日に鉄道自殺を敢行して自らの魂の尊厳を守った。
小さな個人や、夫婦の孤独、愛の砂漠や親子や老人の孤独の痛切だ微妙なエピソード群と巨大な戦争による死んだ兵士たちのシーンがダイナミックに重ねられて、できる限り地震に近い強度に接近させて演劇によって昏睡から覚醒させる試みだった。特に死んだ兵士たちのシーンをくどいくらいのシュールな描写で井上・森屋の演出が、生動感に溢れた悲喜こもごもな面白いシーンに仕上げたことが、この舞台の成功の要であり、戦争の無意味な残忍性を触感させた。また、戦争という大きな物語に対比させた車椅子の老人の一個人の生涯をはらんだ物語を想像させる断片が強い印象を残した。老人を演じた土井通肇の存在感が際立った。また、将軍に扮した七海大洋も面白く、U・フィールドの俳優たち、特にワークショップで鍛えられたアマチュアの俳優の初々しい演技、それが渾然一体になって見事な群集劇を成立させた。バラバラの断片を一つの有機的な世界に作り上げたこの舞台は作者マテイ・ヴィスニユックの期待に応えているだろう。高額のチケット代をとって毒にも薬にもならない芝居が上演されている現状で、この公演がたった二日間しか上演されないのは本当に残念だ。
第1回アトリエ風味公演『女中たち』への劇評・・・江森盛夫氏「第二次シアターアーツ」2004年秋号より
Uフィールドが中野MOMO B1稽古場という狭い空間でジャン・ジュネ作『女中たち』(演出/井上弘久)を上演した。
この集団は太田省吾主宰の転形劇場の出身者が主体で、ほぼメンバーは中年だが、演劇との関わりが半端でない
地味だが堅実な活動を続けてきて秀作を産んできた。いままでは自分たちの創作がテクストの中心だったが、
今回はジュネの名作に果敢に挑んで見事な成果をあげた。日本でもこの作品は度々上演されたが、何か観念的、
装飾的で上演主体が空回りしているような舞台が多くても、なにせ名作だからつまらないともいいきれぬ消化不良の
体験がおおかった。
『女中たち』は姉ソランジュ、妹クレールの二人の姉妹の「奥様と女中ごっこ」ではじまる。奥様の留守に姉と妹が交 互に「奥様」と「女中」を演じて、奥様の衣裳や化粧品を借用し、普段の「奥様」と「女中」の関係を最大限に誇張して 演ずる。奥様は限りなく美しく、やさしい。女中は醜く、悲惨だ。この絶対的な壁は演じてゆくうちに女中たちの奥様へ の憎悪を極限までつのらせ、ついには奥様を殺害しようと企てる。
しかし「女中たち」の奥様と女中の関係は階級や身分の差による怨恨が原因ではない。ジュネ自身がテクストの序 で書いている。この芝居は「召使の運命についての弁護ではない。家事使用人の組合があると思うし、それは私たち には関係がない」と。だがこの命懸けの「奥様と女中ごっこ」は「美」の体現者である奥様が女中たちから存在を剥奪 するいうようなメタフィジカルな命題だけで成立しているわけでもあるまい。この舞台で「ごっこ」ゲームを沸騰させ、サ スペンスをみなぎらせたのは、森屋由紀(クレール)、北村青子(ソランジュ)が羨望や憎悪を内蔵した自分の生身の 身体を軸にしたイマジネーションでテクストを演じた、生きたからだ。もっと壮麗な舞台を現出させる可能性を秘めた テクストだろうが、翻訳劇にありがちな解釈臭や空疎な部分が微塵もなかった。奥様を演じた迫公秀(小林千里とダ ブルだが、小林のほうは残念ながら観られなかった)の女装での演技も、酷薄さをちらつかせた奥様のやさしさ、美 しさを十分承知させた。それとクレールとソランジュの企てを危地に陥れてしまい、自分たちの愚かさを露呈する目 覚まし時計や電話器の使用のケアレスミスのきわだった効果も印象的。そしてラストの「ごっこ」の果ての力つきての 敗北で毒を飲むクレールに眼差しをむけるソランジュ(北村)の異様な微笑みは忘れがたい。ようするに井上の演出 はジュネの磁場を作動させるのに成功したのだ。その磁場さえ作動すれば吸引されてくるものの選別は重要ではな い。またこの磁場はブルジョア国家を棄てて、パレスチナにへばりついた晩年のジュネの傑作『恋の虜』の感触に近 い。
第21回公演『夢は緑野を〜Calling You U』への劇評
◆Uフィールドで演劇はいかに生きのびているか
宇野邦一(立教大学教授・仏文学者)
いまあらゆるテクノロジーやメディアに包囲され、また戦争や経済をめぐる激動に翻弄される世界の中で、
演劇という、ただ生身の存在と言葉だけを成立要素とする表現には、どんな意味がありうるのか。Uフィールド
の舞台を観ながら、いつもそれを考えてきた。
Uフィールドの演劇は、ほぼ常連といっていい俳優たちが、俳優たちの一人である井上弘久のシナリオを演
じるという形をずっと守ってきた。その主題は、いつも多かれ少なかれ<家族>であった。家族はいつも危い
ところにいて、誰かがいつも漂流しはじめ、幻想的な旅をする。しかしその行き先は、近くの公園であったり、
誰かの過去であったり、通勤途中の電車であったりして、決してドラマチックな旅ではない。ほんの少しの脱出、
崩壊、狂気が、この演劇の十分真剣な探求のテーマなのだ。つまり、家族そのものが劇場であり、その劇場は
いつも微妙な均衡、不均衡の間で揺らいでいて、その劇場をもう一度演じることで、俳優たちは新しい家族、
家族なき家族を作りだす。こうして、Uフィールドで長い間演じてきた俳優たちの時間そのものが、また次の演劇
のモチーフになっていくのだ。
Uフィールドの演劇は、あらゆる装置を駆使し無理をしてでも観客を動かし、驚かし、笑わせ、泣かせるような
演劇性とはほど遠い。それはむしろ、ありふれた人と人との間のわずかなずれ、動揺、感動を静かに見つめ、
そこにたえず演劇を発見し、その演劇をさらに演じ、俳優たちによって演じられた時間からまた演劇を作り上げる
という緻密な作業の過程そのものなのだ。優しく、静かな表情を基調としているが、一方で、妥協のない一貫した
探求の姿勢を持続している。それは演劇以外のなにものでもないが、その探求は演劇の外の生に開かれている。
このことを貴重と思ってきた。
◆ほどほどに。
平 田 俊 子(詩人)
Uフィールドの『Calling You U〜夢は緑野を』という芝居のタイトルからすぐに連想されるのは、「旅に病んで夢は
枯野をかけ廻る」という芭蕉の有名な俳句だ。このタイトルが芭蕉の句をふまえているのかどうか知らないが、
一方は草木が枯れ果てて寒々とした野原、一方は緑が青々と茂った野原。どちらをかけ廻りたいかは人それぞれ
だけれど、フツウに考えると緑野を選ぶほうが楽しそうだ。
この芝居には病気の男が出てくる。といっても旅先ではなく、病院にいる。老いた父であるこの男が入院したのを
きっかけに、一男三女のきょうだいが久しぶりに実家に集まる。そこからこの芝居は始まる。それぞれ優しいパート
ナーもいて幸せそうなきょうだいたちだが、リストラや老人介護といった問題を抱えている。姉の婚約者を妹が奪った
というすさまじい過去もあるらしい。
こう書くと重苦しい芝居を想像しがちだが、Uフィールドの芝居は不幸を増殖させることはしない。現実は現実として
見つめつつ、どこか楽観的だ。ま、生きてるといろいろあるよ、生きるってことはたくさんの問題にぶつかることかも
しれないね、けどせっかくだから生きてる間は元気にやっていこうよ、死んだら元気じゃなくなるかもしれないし。
というふうに朗らかだ。だから「枯野」じゃなくて「緑野」なんだな。
フツウの人たちのフツウの暮らし、それをUフィールドは丁寧に描く。そしてフツウの暮らしの中にこそ実にさまざま
なものが詰まっていることを見せてくれる。
大人過ぎず、子ども過ぎないUフィールドの芝居。両方のいいところを持ち寄ったみたいに、ほどほどに大人で、
ほどほどに子どもだ。たとえば『夢は緑野を』の断食芸人の場面の遊びっぷりにそれを感じる。カフカの短編でも
知られる断食芸人だが、日本にもいたのか。それともまるっきりフィクションなのか。真に迫った演技に圧倒されなが
ら、わたしは空想と現実の間をしばらくいったりきたりした。
第20回公演『風よ、声よ、光よ〜Calling You』への劇評・・・佐藤康平氏「テアトロ」2002年1月号より
実存在の一状況が論じられたこの視点、この哲理に基づいて書かれた台本によって演じられている芝居の
感はする。
Uフィールドの芝居には食事のシーンがよく出てくる。
『これは作家の中に無意識のうちに刷り込まれた究極の家族の姿。(中略)そこでは食べ物と一緒に他の何か
が噛み下されているのかもしれない。』(演出家の記述)
つまりは、哲理・実存的見極めに至らせるまで実験心理学的な道のりもあるとしているかのようだ。
普通そこまでは考え至らせないのが通常だが、その垣根をどんどん超えた考察をめぐらせつつ突っ込んでいく。
男2(井上弘久) ええ、そうです。おなかが減ったなんて、それこそ誰にだってある。(略)
男1(迫公秀) つまり、我々はですね、しみじみと「腹が減ってるなあ」と感じることで、自分たちが、
今、ここに、こうしているんだということをですね、つまり、紛れようもなく、ここに、
こうしているんだということを、その… (台詞より)
なんて芝居のテーマを謳いあげ(こなれていないのが気になるが)、あちこち攻めあげている。浮浪者、風呂
にも入っていない連中が、腹がすいて腹が鳴っている様を聞かせてなんとか存在の確かな証明をしたいと
腹を突き出してみせるなど芝居の愉快な仕掛けで観客を引き込みながら、笑いにまかせて、自分たちの
言いたい肝心なところを出してしまうなど、巧みな劇的展開、劇化も心得ている。
よくもこうした難しい論理性の上に芝居を載せて表出してきたものだと思うが、それは、書き手に厳とした視点が
整理され備わっているからなのだろう。
それは、登場人物が自らの名を持たず、男1、男2、女などで登場人物の性格いらぬ邪魔にならぬよう
仕組まれているのを見ると解る。
今後に成果結ぶことを期待したい。
第19回公演『そして、今は』への劇評・・・江森盛夫氏「噂の真相」2001年1月号より
…舞台に登場するのは、男4人、女が5人、皆生活に疲れ、日常に倦んだ40代周辺の男女だ。
開幕、舞台に二組の布団が敷いてあり、男1と女1が布団に入っている。男は少年時代に体験した漆黒の闇と
満天の星空を思い出し、そのことを呟きながら豆電球を消して暗闇をつくりだす。
次のシーンからは日常生活の風景となり、白木の箱の配置で、電車の車内、会社のオフィスと場をつくる。
白昼のルーティーンワークのシーンは幻想の世界に急転する。車椅子の男、匂いで女を捨てる男、死んだ女の
穴から生える芽を囃す女たち…等々、異様な風景が展開されてゆく。
平凡な日常を夢という削岩機でわけいり、夢の不条理なダイナミックスを浮上させ、生の根源を開示する作業。
これを中年の役者群が自分の蘇生を賭けて、演劇でしか表現できない世界として展開する。
演劇への願望と信頼への動機の強度が、そのトーンのみなぎりが観客を共振させ、演劇の生活の中での必須
性を感じさせた。