[難民とは何か]
「作家・徐京植さんの語りから」
「『難民』とは何か。それは『国民』の対立概念である」─。在日朝鮮人を「半難民」と位置付け、その立場から、いまだ清算されない日本の歴史的責任を問い続けている京都市出身の作家、徐京植(ソキョンシク)さんは、こう語る。21世紀になっても依然として続く「戦争と難民の世紀」を、私たちはどう克服することが出来るのか。日本の敗戦から58年目となる今年8月、徐さんが京都市内で語った内容を紹介する。 【要約・中村一成/『毎日新聞』京都版03/8/14-23】
★第1回 ★第2回(「帰還権」主張が持つ意味) ★第3回
★第4回 ★第5回(一方的に国籍否定)
★第6回 ★第7回(生き方としての「祖国」)
[難民とは何か]1 作家・徐京植さんの語りから
私は51年に京都で生まれました。祖父が28年に朝鮮から日本に渡り、太秦で生活を始めた。これが我が家の在日の始まりです。私は現在、東京で暮らしていますが、50年余りの人生のうち、40年近くを京都で過ごしました。今日は「朝鮮とパレスチナ」を通して、「難民」という問題について考えます。なぜ朝鮮とパレスチナという問題設定が可能なのか。おそらく朝鮮とパレスチナという問いかけの裏には、日本とイスラエルという問題がある。日本とイスラエルのどこが似ているのかということが問題の土台にあります。
難民問題は日本国や日本国民の外側にある問題ではありません。私は、在日朝鮮人というのは難民、あるいは半難民であると主張しています。近現代の歴史を通じ、日本がその責任において作った存在が在日朝鮮人です。難民とは、外からやって来たり外に行くものばかりではありません。難民とは何か。私は難民の反対語は「国民」だと思っています。国民の枠から追放されたものが難民である。難民を考えることは国民を考えることにつながるのです。
日本国民の多くは、自らが日本国民であることを客観化、相対化することが苦手です。国民であることが天然自然で、生まれながらの、あるいは歴史の起源からずっと続いているように考えている場合が多いように思います。しかし、国民という概念や政治的位置が作り出されたのは、そんなに古いものではない。近代国民国家という言葉に表れているように、それは19世紀半ば以降に作り出されたものです。近現代の歴史は国民の歴史であると同時に難民の歴史でもあります。
最近、ラジ・スラーニさんというパレスチナ人と対談をしました。49年、ガザに生まれたパレスチナ人です。67年の第三次中東戦争以来、イスラエルが武力占領しているのが、ガザとヨルダン川西岸です。そのガザで生まれ育ち、人権弁護士として貧しい同胞のパレスチナ人のために活動しています。彼の一族はたどれる限り、800年前からガザに暮らしているという。しかし、48年、イスラエルが建国され、多くのパレスチナ人が難民となり、彼らの元々住んでいた家や、耕していた土地がイスラエルに強制収用される。彼のおじいさんの土地も95%が取り上げられたそうです。
彼には旅券がありません。旅券を持っている者は、発行国の外交保護の対象であって、何か問題があった時、国が保護してくれる。どこどこの国家の国民であることを証明してくれるのが旅券です。でもそれがないのです。何かトラブルに巻き込まれたりした時、外交保護や面倒を見てくれる政府がない。だから彼は、国際機関が発行する通行許可証を持って日本に来た。それは実は、朝鮮籍者も同じです。
朝鮮籍は北朝鮮の国籍ではない。日本国の外国人登録上、朝鮮籍という記号で呼ばれているだけなのですね。朝鮮籍者は日本から外に出る時、韓国の旅券も日本の旅券も取れない。北朝鮮とは国交がない。ですからもう一度、帰って来たら日本国に入れてやるということを書いた再入国許可証をもらい、それを持ち、観光や商用や留学に出る。もし、外国で事件に巻き込まれても保護してくれる国はない。ガザから来た彼と在日朝鮮人の一部分は同じ境遇にあります。そんな境遇は、実は現実の世界では例外的でも珍しいものでもないのです。
(注)朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府は、一定条件を満たすと認めた朝鮮籍者らに限って、朝鮮総連を通じ同国の「旅券」を発行している。日本政府など国交のない国はそれも旅券とは認めていない。(毎日新聞)
[難民とは何か]2 作家・徐京植さんの語りから
◆「帰還権」主張が持つ意味
私が驚いたのは、ラジ・スラーニさんがガザから来る道筋でした。南に行ってエジプトに入り、カイロを経由してやってくる。自らが住み続けた場所から日本に行くため、エジプトとイスラエル占領地の境界を越えていく。しかもその間を動く交通手段はイスラエル軍の用意したバスしかない。たとえその人が大金持ちであれ、国会議員であれ、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り、5〜6時間、場合によっては10時間かけて行く。急病人や妊婦でも同じ対応です。大変劣悪な状況に置かれている。こういう日常生活の細部は「難民」という言葉からは分かりにくい。しかし例えば、30分、1時間、満員電車で立たなければいけないだけでも、高齢者、障害のある人、妊婦ならばどれほど辛いことか、しかもそれが日常であり、当たり前のことである。
彼が強調していたことがいくつかありました。一つは帰還権の問題です。47〜48年、イスラエルが建国される過程でおよそ70万人、あるいはそれ以上が難民となって周辺の国々に追放された。こういう人たちは難民のままで2世代、3世代を生きている。その後、子どもが生まれているので今は400万人ともいわれる難民がいます。今、中東和平ロードマップが公表されている。1〜2年の間に中東和平を実現するんだと言われていますが、たぶん、そうはならないと思うのです。
その根拠、いくつかある中で、私が最も根本的な問題と思うのは、帰還権の問題です。難民となった人たちは、本来、自分たちが住んでいた土地や家に還る権利を認めよ、と主張している。こういう声に対して「もう50年も経っているのだから、非現実的だ」ということが言われます。しかしそれは、彼らがなぜ難民になったのかという、歴史の起源を明らかにするための、譲ることの出来ない、道徳的、政治的な要求なのです。
彼によるとイスラエルの関係者は、今まで、47、48年の難民発生について、一度たりとも非を認めたことはない。「あの人たちは自らの意思で出て行った」とか「周辺国が彼らを招いたのだ」との話を作り、そこから1ミリも後退しようとしない。実際に帰還するかどうかは別の問題です。その間の暮らしがあるわけですから。しかし、その権利が正当と認められた後に初めて、難民は自らの意志で自らの居住地を選ぶ権利を有するのです。
逆に言えば、そのことが認められない間は、人権が認められたことにはならない。ところが七十数万人が難民となった原因についてイスラエルが認めようとしないので、この問題は解決がつかないのです。むしろ、その現状に屈服するように、国際的な、ありとあらゆる力がパレスチナの人々にのし掛かっているのが現状です。
引き付ければ、在日朝鮮人はなぜ日本にいるのか。「創氏改名は朝鮮人が望んだ」とか「植民地支配ではなかった」とか「朝鮮によくしてやった」とか、今に至るまで聞こえてきます。最近ではそんなことを言っても、さしたる批判すら受けなくなってきている。ならばなぜ在日朝鮮人がいるのか。ならばなぜ徐京植がいるのか。なぜ京都で育ったのか。自ら望んでそうしたのか、そうではない。植民地支配があったからだという起源の問題なのです。それが帰還権の問題を考える際、日本社会の人が自らの問題として考える、有用な参照法だと思います。
[難民とは何か]3 作家・徐京植さんの語りから
ラジ・スラーニさんの話で印象的だったのは「沈黙の共謀」でした。パレスチナ人が強いられている理屈に合わない不条理を世界は知っている。ずっと知っていた。にもかかわらず、根本的な、パレスチナ人の言い分が聞き届けられるような形で国際社会が動いたことはない。これは「沈黙の共謀」であると。
パレスチナ人作家、ガッサン・カナファーニに「ガザからの手紙」という短編があります。若い、ガザに住むパレスチナ人の主人公が、カリフォルニア大学が受け入れてくれるとの知らせを受ける。「僕はガザが大嫌いだった。ガザの人間が嫌いだった─バラバラな町の何もかもが。病人が灰色絵の具で書き損なった絵を思い出さずにいられなかった」。
瓦礫(がれき)と化したガザ地区、失業率7割という絶望的な状況、難民キャンプには2平方キロメートルの中に、数万人の難民が押し込められ、非人道的な暮らしが日常化し、解放の望みはない。
主人公はクウェートで働いていて、その収入で死んだ兄の家族を支えている。彼は渡米を前に、病院にいる13歳の姪(めい)・ナディアに会いにいく。(病室の鎮痛な空気に緊張するあまり、主人公は姪が欲しがっていた赤いズボンをお土産に買ったと、うそを付く)。「赤いズボンは嫌かい?」と聞いた主人公に対し、寝台に横たわった姪は何かを言おうとした後、白いシーツを指で持ち上げ、イスラエル軍による爆撃で大腿(だいたい)部から切断された足を見せるのです。それから彼には、ガザにあるすべてが、切断されたナディアの足の悲しみに震えているように見えはじめる。そして彼は、ガザにとどまることを決める。
わずか4ページの小説ですが、なぜ彼がガザにとどまり続けるのかが極めてコンパクトに描かれている。ラジ・スラーニさんも大地主の息子で、弁護士です。ガザの外で生きることは可能です。なのにガザで生きていこうと決めている。愚問(ぐもん)だが、なぜかと聞きました。「それがパレスチナ人ということなんだ」と彼は答えました。私は「ガザからの手紙」を読み上げ、君は同じ心境なのではないかと聞いた。彼はそれには答えず、私がカナファーニを知っていることを、ものすごく喜んだ。カナファーニを通じて、東アジアの半難民とパレスチナの難民の間に一つの共感が生まれた瞬間だった。
しかし、話をここで終えてはいけないのは、この作品は56年に書かれたということです。47年前に状況は既にこうだった。そして彼らはこの現実を発信していた。ではその後、状況はどうなったのか。むしろ一層、悪くなっている。ラジ・スラーニさんは当時、まだ2歳です。彼は生まれて以来、ずっとこの状況で生き、死ぬことをおそらくは心に決めている。それを思う時、改めて「沈黙の共謀」が重く、あるいは鋭いとげのように聞こえてきた。我々は知らなかったのか。そこで行われていることを知らないのか。そうではない。知ろうとしなかったのだ。そこで行われている不正について、声を上げ、行動したのか。そうではない。そして今、この瞬間にも数百万の人々が、私たちの世界で難民的生を生きているのです。
私は、彼がガザから来たことに特別なものを感じます。ガザという地名は20世紀後半、この地球上で公然と行われている不正義の象徴の一つである。南アフリカや、チリのサンチアゴもそうだった。世界にそんな場所はいくつもあるが、ガザは半世紀以上、そういう不正義が続いている場所として我々が想起しなければならない場所なのです。
[難民とは何か]4 作家・徐京植さんの語りから
在日朝鮮人はなぜ難民、半難民なのか。10年、日本は当時の大韓帝国を併合する形で植民地化した。朝鮮人は何の断りもなく、丸々日本国臣民、日本国籍となった。当時、中国やロシアに住んでいた朝鮮人も。しかも日本国籍離脱は許されなかった。植民地支配に抵抗する朝鮮人が中国籍やロシア国籍だと、外交問題に発展するからだ。あるいは、中国側に日本国籍を持つ臣民が生じたとして、保護名目で領事館の設立を要求し、中国進出の足掛かりにするためだと言われています。
日本国民の枠組みは最初から決まっていたものではない。その時点でおそらく二千万人足らずの朝鮮人が、ある日、強いられた取り決めで日本国民の枠の中に引きずりこまれた。国民は自明ではない。それが有利と考えたためにそうされた。しかも離脱を許さない。国籍、国民の枠自体が一つの牢獄として機能することがあり得るのです。国民であることは保護のみを意味しない。枠組みに引き込み、自らに都合よいものに作り上げていく。それが朝鮮植民地化の中で起きたのです。その過程で朝鮮人の朝鮮語は否定され、「国語」、日本語を使えといわれた。朝鮮人は当初、徴兵の対象外だった。自らが抑圧し圧迫し、かつ抵抗心を失っていない人々を戦場に連れて行く自信が持てなかったのです。そして37年以降、皇民化教育をして、皇国臣民に作り変えることをやった。これが「内鮮一体」の元での教育です。結果、24万2000人余りの朝鮮人が軍人、軍属として動員され約1割が死亡した。
45年、日本の敗戦は解放を意味するはずでしたが、朝鮮人はサンフランシスコ講和条約(52年発効)まで日本国籍者として日本の法律に服することを強いられた。例えば民族学校の弾圧。日本の法令に服すべき存在なのだから、民族教育など止めて、日本の学校に通えという事です。一方で47年5月、外国人登録令を出し「外国人とみなす」とした。この二重基準。登録令はなぜ出たか。一つは解放後の朝鮮半島情勢を巡るものです。そして、朝鮮半島から日本に来る朝鮮人を取り締まる必要性が出た。一旦、朝鮮に帰り、戻ってくる朝鮮人を水際で阻み、送還するためだ。これは難民的生そのものです。
我が家はその段階で17年間、京都に住み、働き、貧しいなりに一定の財産を作っていた。当時230万人とも言われる朝鮮人が日本にいた。ようやく日本の植民地支配から解放されて自国が独立するのだから、帰ろうする人は多かった。でも、約60万人が残った。私の家の場合、祖父は戻り、父は残った。なぜ日本を批判するのに日本に残ったのか。実は日本がいいのだろう、とよく言われる。でも、人間の生きるリアリティーに即して考えて頂きたい。
その時点で朝鮮と日本は一つの領域だった。そこに行き、帰るのは、日常的なことだった。国境線に分断され、なおかつ国交すら結ばれず永(なが)の別れになると想像する人はむしろ少数です。自分は帰り、故郷の様子を見てくる。そこで生活が成り立つようならお前も帰って来いと。父はその時、20代前半の若者です。6歳の時に祖父に連れられ、日本での生活の方が長い。日本で自分なりの仕事をして、先に帰った家族に仕送りする。そして家族みんなで暮らせる場所を探し求めて行く。かつ、祖父や父が日本に来たのは、日本国籍を持つ者として、日本国の植民地支配の結果として同じ日本国の領域内の朝鮮から内地に来た。そんな状態で家族の一部が朝鮮に帰り、一部が残る。これは自然なことで非難されることは何も無いと私は考えます。
祖父に連れられて、父のまだ小さな弟や妹も、当時の朝鮮に帰ります。還るとそこは、政治対立が激しくなり、今にも朝鮮戦争が始まりそうだった。弟は大変な苦労をし、生きるために、兄の暮らす日本に戻ろうとした。それを密入国として阻んだのが外国人登録令です。叔父は、漁船のエンジンルームに3日間、隠れて、密入国者として日本に来ました。
[難民とは何か]5 作家・徐京植さんの語りから
◆一方的に国籍否定
(密入国した)叔父は隠れて暮らしました。発覚すれば強制送還。だから日本の学校には通えない。叔父のような滞在資格のない人は朝鮮学校に行くしかない。社会主義思想や主体思想を支持しているかは関係ない。そこしか居場所がない。おそらく(40年代後半ごろ)当時、20万人かそれ以上が不法滞在者として存在していました。そして、朝鮮人は一種の難民状態に置かれた。
民族が独立し、民族的権利として教育権などを主張すれば、「日本国民である」と否定される。一方では、外国人登録法という遮断壁を設けた。父は当時、24、25歳です。「お前はまだ日本国籍だ」、しかし「明日、外国人登録をしろ」と。しないと存在を不法とされ、最悪、強制退去とされる。
役所に行けば国籍欄のある書類を渡されます。では何と書くのか。当時、まだ朝鮮に国はない。だから「朝鮮」と書いた。それは国家ではなく、出身地であり、民族です。その時に記した記号としての朝鮮が続いているのが外国人登録上の朝鮮籍なのです。
やがて、多くの人が韓国籍に切り替える。65年、日本と韓国の国交が正常化した。既に敗戦から20年。それほど長い間、国交が結ばれなかった根本は何か。それは日本が植民地支配という歴史的事実を認めなかったからです。
それは帰還権、歴史的起源の認識にかかわる問題だった。日本政府は終始、日韓併合は国際的に合法との立場を崩さなかった。曲がりなりにも、日本国が植民地支配という言葉で過去の関係を認めたのは、やっと95年の村山内閣です。でもあの談話も、道義的にまずかったが、法的には有効、とのものだった。これは今も日本国の立場です。
そして02年9月17日、日朝首脳会談が行われました。その後、拉致問題や核問題のためにほとんどの人が想起すらしませんが、平壌宣言第二条には、植民地支配によって朝鮮の人に多大な苦痛を与えた、心から反省する、とある。だがそこで何が行われ、どういう被害を与えたのか。どう償って新しい関係をつくるのかという議論は何も行われていないし、行われそうもないのが現状です。
朝鮮人の国籍喪失は52年に宣言されました。その決定にどんな朝鮮人も関与していない。サンフランシスコ講和条約そのものに、旧植民地臣民の国籍に関する規定がない。講和には韓国政府が代表の参加を求めたが拒絶されました。
させるべきではないと強く主張したのは当時の吉田茂首相です。戦後処理を決める講和条約だが、日本は米国や中国と戦った。しかし、韓国とは戦争をしていない。さらに吉田首相は「朝鮮人の大半は共産主義者であり、犯罪予備軍」との書簡を何回も送っています。
当時、冷戦のただ中で、その主張が米国を動かしたことが考えられる。もちろん、北朝鮮の代表は出席していない。ソ連も中国も、もちろん在日も。ただ52年4月、法務省民事局長の通達で、私たちの国籍は一方的に否定され、無権利状態にされた。
例えば、国民健康保険に加入できるようになったのは60年代末です。国民年金に加入可能となったのは82年。公務員への採用もほとんどありませんでした。「国籍条項」があるためです。「公権力の行使または国家意思の形成への参画に携わる公務員となるには日本国籍を必要とする」。こういうことが53年、政府見解として示された。つまり52年の国籍はく奪で権利を否定し、53年にその政治的な根拠を宣言しているのです。
[難民とは何か]6 作家・徐京植さんの語りから
国民であることを自明のことと考える。そして「国民には基本的人権がある。しかし、外国人が制限されるのはやむを得ない区別」とする。ここにあるのは「国民主義」と私が呼ぶものです。
朝鮮人が国民健康保険に入れないのは仕方ないという。でも医療を受ける権利は普遍的権利ではないのか。朝鮮人は52年まで日本国民だったし、そうしたのは日本政府でした。敗戦後には、極めて素早く在日朝鮮人を切り捨て無権利状態に置き、嫌なら日本国籍を取りなさいとする。この発想を国民主義というのです。これは近代国民国家の中で作られてきた、そして、いまや克服されようとしており、克服されねばならない一つの考え方なのです。
例えばラジ・スラーニさんという自らの国を持たない人間。この人間だけは、不安定な身分証明しか持てない。この人間だけは、親せきが住んでいるヨルダン川西岸に行くのにも検問を通らねばならない。それは仕方がないことなのか。国民である自分たちはその権利が保護されているからよかったのか。ここを考えることが難民問題を考えるということなのです。
私は京都で生まれ育ちました。70年代、大学を出ても日本で定職はなく、韓国では軍事独裁政権が非民主的な体制を固め、自身の家族は政治犯という閉塞(へいそく)的な時代を生きていました。その時、私はパレスチナ人と出会いました。ラジ・スラーニという具体的な人物といった意味でなく、パレスチナ人という存在を、自らにとって極めて重要な、自分自身が何者であるかとの問いを解く鍵を与えてくれる存在として知った。
そのきっかけとなった大事な人物が作家、ガッサン・カナファーニでした。強い印象を受けた作品が二つあります。一つは「太陽の男たち」。パレスチナ人はイスラエル建国に伴う難民化で非常に苦しい生活を強いられた。しかし石油の出るクウェートには仕事がある。そこでパレスチナ人たちがクウェートで働こうとする。しかし勝手に国境線を越えると不法移民となる訳です。
でも、その状態はいつ、誰がつくったのか。それは第一次大戦の戦後処理で英国とフランスが領土を山分けしたからであり、クウェートは60年代に英国が作らせたのです。境界が無かった時、そこへ行くことは当たり前のことだった。人民たちの生活は境界線とは関係なく続いていた。
そのため彼らは生きる道を求め、業者に頼み、タンクローリーの空のタンクに隠れ、不法に国境を通過しようとする。おそらく4〜5分で通過できる。それは、タンク内で生きていられる限界でもあるのです。灼(しゃく)熱の砂漠でタンクに隠れている状況を想像して下さい。ところがその時、国境の役人がくだらない、卑猥(ひわい)な冗談を言って時間が空費される。そのため中にいた人たちが蒸し焼きになって死んでしまう。
小説では、ようやく大丈夫なところまで来て運転手がタンクを開けると、中で男たちが死んでいる。「どうしてお前たちは中からたたかなかったのか」「どうしてお前たちは黙って死んでいったんだ」と、運転手が嘆くのが小説の末尾です。これはパレスチナ人の運命そのものを表象する作品と言われている。どうしておれたちは黙って蒸し焼きになっていくんだ。せめて声を出そうということです。
これを読んだ時、ああそうかと他人事として読めなかった。まさにそれは12、13歳の時、漁船の船底に隠れ、唯一の生きる道を求めて兄を訪ねて来る私の叔父でした。この人がなぜ密入国者とされねばならなかったのか。なぜ不法な存在とされるのか。そして、こういう存在こそが在日朝鮮人だという私の思いが響き合ったのです。カナファーニは、蒸し焼きになって殺されようとしていく人間、理不尽に不法な存在とされてしまった人間、そしてパレスチナ人の自画像を描いたのです。
[難民とは何か]7 作家・徐京植さんの語りから
◆生き方としての「祖国」
「太陽の男たち」に加え、もう一つ重要な作品は、67年の第三次中東戦争以後の状況を描いた「ハイファに戻って」という作品です。48年、イスラエルが建国され、主人公夫婦は(故郷ハイファを追われ、ヨルダン川西岸で)難民となって暮らしている。ところが第三次中東戦争で、西岸がイスラエルに占領されたため、皮肉な結果として、およそ20年後、彼らは故郷を訪問する。するといつか帰ろうと思っていた家には、東ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人の女性が住んでいる。その人もホロコーストという大きな物語を背負い、そこに住んでいる。
更に悲劇的なことには、難民となる過程で生き別れになった息子(長男)がその女性に育てられ、イスラエルの国民として成長している姿に会う。そこで主人公たちは、もはや思い出の中の家や土地すらも無くしたことを痛切に感じるのです。
同時に、難民キャンプで育っている次男にとっての祖国とは何なのかと考える。そして彼は、「こうしたすべてのことがあってはならない場所が祖国である」との考えに至るのです。祖国とは、どこかの土地、建物、何らかの政府という意味ではない。こういうすべてのことがあってはならない未来のことを、私たちは祖国と呼ぶのだと。
なぜ大変重要な作品かと言えば、これはパレスチナ人の民族的な、歴史的に正当な権利を主張していると同時に、彼らの描く祖国というものを、ある土地や政府に結び付け、ましてや血統に結び付けて語るのではなく、ある政治的な決断、生き方の事として指し示していることです。
強いて言えば、このような選択に迫られた時にとる、ある道徳的な選択、それを祖国と呼んでいるのです。苦しみを強いられている。理由のない苦難を強いられる側で生きる生き方こそが、祖国を目指すという生き方なんだと。
これが70年代に私自身が、私にとっての祖国は何だろうと悩み苦しんでいた精神の放浪に一つの示唆を与えました。在日朝鮮人の大半は、今もこのような精神の放浪を続けています。なぜか? 彼ら在日朝鮮人が日本で暮らすことになった起源、そしてその歴史的な正当性を誰も教えないからです。それを隠ぺいしようとする力の中で生きている。だから「自分は誰なのか」という問いを絶えず自らに提起するほかない。
そのように作られている社会で、自らの歴史的由来を学ぶ機会もないまま在日3、4世が「君、何でここにいるの」「嫌なら国に帰ったら」と言われて育っている。「難民である」ということ、難民にとっての祖国というものはこういうことなんだということを私に教えてくれた、それがこの作品なのです。
難民についてなぜ我々が考えるのか。これは、19世紀後半から作られた近代国民国家という枠組みが、民主主義とか男女同権といった極めて優れた概念、人類の誰もが享受するはずの概念を作り出す一方、同時にそれは特定の国民の特権であるとの制度「国民主義」を作ってきたということなのです。
難民の歴史と国民の歴史は裏表のものとして、この100年間を貫いているのです。アルバニア、あるいはクルド、あるいはボスニア・ヘルツェゴビナ、あるいはパレスチナ、アフガニスタン。こういう人たち、難民は日本の外にいるのではありません。日本も国民形成と国民主義の中で、まさに在日朝鮮人という難民を自ら作り出し、自ら抱え、そして日本にやってくる難民たちを最も熱心に水際で叩き落としている国なのです。
こうした難民たちの文学や営みから私たちが学ぶべきことは何か。それは100年間の自明な思い込み、その特権構造を自ら回避することなしに、それから先の時代には行けないということです。我々が国民主義というものに縛られてきた1世紀を過去の物にするためには、こうした難民たちからもっともっと学ばなければならない。
【終】
(2003年8月9日に立命館大学で行われた講演を基に構成。要約者・中村一成。『毎日新聞』京都版に同年8月14〜23日連載。要約者の許可を得てここに公開)
うさちゃん騎士団ここにあり!