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C's Ukiyo-e Museum |
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講演会報告 |
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| 長野浮世絵研究会が行った講演会のなかで、私たち研究会の活動方向を示唆する話、あるいは浮世絵の見方など入門的情報をピックアップして報告します。 | |||||
| 須坂市教育委員会主催 浮世絵に見る風林火山・浮世絵講座 | |||||
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| ◆講演者 川原廣美 市民の浮世絵美術館主宰 県カルチャーセンター講師 ◆期日 平成19年9月22日(土曜日) ◆時間 午後2時から3時30分まで 場 所 旧上高井郡役所 (TEL. 026-245-5559) |
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浮世絵「風林火山」
各種企画展において川中島合戦の浮世絵を見る機会は増えましたが、浮世絵という観点からの解説は意外に少なく、史実説明の便宜とされていることが多いようです。言うまでもなく、浮世絵に描かれた内容は、川中島合戦の歴史的事実を単純に絵画的に表現したものではなく、描かれた当時の庶民に慣れ親しんだ『物語』が前提にされており、したがって、当時の大河ドラマともいうべき『物語』を知らないと浮世絵自身をよく理解できないことになります。 上の作品は、歌川国芳(一勇斎)の川中島合戦を題材にした大判三枚続の浮世絵で、右の上杉謙信が名刀「長光」をもって愛馬「放生月毛」にて単騎襲う場面です。左では本陣にて武田信玄が床机に座し、軍配で攻撃を避けようとしています。中央では、原大隅の守が槍で謙信の愛馬の膝を悩ますというところが描かれています。一騎打ちの伝説です。 風林火山の旗のもと北進する武田信玄と毘沙門天の化身上杉謙信との攻防は、『三国史』の本朝版としての役割を果たし、したがって、軍師山本勘助の存在など、三国史風にアレンジされていると理解することが必要です。時代の規制がなければ、豊臣秀吉の方が三国志のアレンジとしては人気があるのですが、残念ながら、幕府の取り締まりのため浮世絵の題材にはできません。 浮世絵の詞書きには、川中島合戦の端緒は、村上義清等北進の武士団が上杉謙信に失地回復を願ったのに対して、謙信が「義」を守って信濃に出兵したと書かれていることが多いです。これは、天保の改革直後の事情を考えると、「忠孝」を浮世絵制作の中心に置くべしとの考えに添ったものと考えられます。 しかし、義に厚い謙信は、天保の改革直後、忠義の将として幕府には武士の手本ともいうべき存在であったかもしれませんが、幕末になるに連れて、天皇への忠義のため武田に擬された徳川幕府を討つ将に模され、浮世絵が前提とする物語がいつのまにかすり替えられていきます。幕府に対する浮世絵制作者側の一矢ですが、庶民はその知恵を間違いなく理解したものと考えられます。 |
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| 信濃文学と表現・公開浮世絵講座 : 浮世絵に見る風林火山の物語 | |||||
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| ◆講演者 川原廣美 市民の浮世絵美術館主宰 (北部高校・前PTA会長) ◆期日 平成19年7月11日(水曜日) ◆時間 午後2時15分から3時05分まで ◆場所 長野県北部高等学校(TEL. 026-253-2030) |
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浮世絵に見る風林火山の物語 左は、歌川(一魁斎)芳年『魁題百撰相 上杉輝虎入道謙信』大判錦絵で、上杉謙信が山本勘助の「きつつきの戦法」を見破った図です。注目して欲しいのは、謙信が北部高校のある飯綱町ゆかりの飯縄明神を描いた胴を付けている点です。さて、川中島合戦を描く浮世絵は、武者絵として、芳年の師でもある歌川国芳とその一門によって数多く描かれています。ただし、天保の改革直後は、三代豊国あるいは広重でさえ描くほどですが、これは、一つには、江戸時代の講釈(講談)において川中島合戦など軍記物を題材とする演目が江戸庶民の人気になっていた事情があります。そして、もう一つは、天保の改革それ自身に係わる事情です。すなわち、役者似顔絵や美人絵などに加えられた規制に比べ、武者絵への規制が厳しくなく、制作しやすかったことに尽きます。 浮世絵には、その作品背後に詞書きが入れられていることが少なくありません。これによって、作品内容を簡易に読みとることができるわけですが、敢えて歴史的事実・伝承を描いたことに触れたり、意図的とも思われるような特定の言葉を挿入したりしています。たとえば、川中島合戦に関しては、謙信が「義」を守って信濃に出兵した、あるいは勘助が「忠義」、「君恩」に報じるため討ち死にしたなどいう言葉がそうです。これなどは、天保の改革による規制逃れの方便・予防策も兼ねての表現と理解できます。だから、武者絵は版行しやすいわけですね。 『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』など天保の改革以降の国芳作品には、つとに知られていることですが、幕政を風刺した「判じ絵」としての性格が隠されており、その謎解きがために大ブームとなった経緯があります。この視点からすると、川中島合戦の浮世絵についても、表向きの『風林火山』の物語の他に、もう一つの寓意があることを考えてみる必要がありそうです。 実は、国芳一門の川中島合戦の浮世絵を時代順に並べていくと、典型的な戦国絵巻が少しずつ変化していくことに気付かされます。なかでも、武田上杉両雄の一騎打ちを描く浮世絵では、一見すれば、三太刀七太刀伝説を描いたものと理解できるのですが、それを超えて、大阪夏の陣で徳川本陣を蹴散らした真田幸村の突撃姿を垣間見てしまうのですが、これなどは信州上田の真田贔屓からの感情だけではないと思っています。つまり、江戸庶民も幕政に一矢を報いたい思いがあり、上杉の七五の桐が豊臣の五三の桐に見えるのです。 少なくとも、芳桐をトレードマークにした国芳の奮闘を思うと、個人的には、謙信の一騎打ちは国芳が絵筆一本で幕府町奉行所に切り込む姿と重ね見たい思いです。 |
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| 信濃文学・公開講座:地域と浮世絵 | |||||
| ◆講演者 長野浮世絵研究会 代表者 川原廣美 ◆期 日 平成18年7月10日(月曜日) ◆時 間 午後1時30分〜2時20分 ◆場 所 長野県北部高等学校 |
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戸隠の鬼女・紅葉 浮世絵には、能あるいは歌舞伎舞踊の『紅葉狩』を描く作品があり、とくに、歌川(月岡)芳年は、幕末から明治時代にかけて、ほぼ同じモチーフで何点も描いています。(下記の明治二十三年の作品では、盃の中に鬼の顔が描かれています。) 『紅葉狩』では、美しき姫「更科姫」の舞姿と鬼女「紅葉」に変じた荒振る姿、およびそれに応じる平維茂の優雅さと果敢さの対照が見どころです。そして、名刀小烏丸の威徳によって鬼女は成敗されるというわけですが、八幡宮の夢のお告げと皇室ゆかりの名刀というところは、幕末明治の皇室尊重という時代背景には好都合の設定です。これに対して、戸隠や鬼無里の鬼女紅葉伝説では、第六天(魔王)を信仰する鬼女は、千手観音(北向観音)の守護を受ける宝刀によって維茂に切られる結末です。欲界最高の神も仏の法力には及ばないという仏教説話風な構成です。北向観音は善光寺と一対という庶民信仰からすると、戸隠の鬼神も善光寺には勝てないという信州庶民納得の成り行きとも考えられます。 では、戸隠にはなぜ鬼神がいるのでしょうか?仏教勢力との対抗から考えると、戸隠神社の存在が浮かび上がってきます。すなわち、戸隠は、隣の飯縄(神社)と同様、古くからの修験道の地で、多くの山伏と言われる人々がいた地でもあります。ということは、かれらの存在が鬼神の原型となった可能性があります。かりに山伏が鬼神の原型とするならば、つぎに、なぜかれらは戸隠あるいは飯縄を修行の地としたのかが問われなければなりません。 ここにおもしろい事実があります。そもそも、戸隠神社は、天照大神が岩戸に隠れた時に、手力雄命が開けた石の扉が天上から落ちたという天岩戸(落下)伝説を縁起としています。そして、祭神の一つは手力雄命なのですが、手力雄命を祭神とするのは、かって、この地が鉱山地であった可能性を示唆しています。なぜなら、炉を火の神=日の神、天照と見、鉱山開発者は採掘するという意味で、手力雄命と見なし、あるいは手力雄命を祭神として、鉱山開発の成功を願うという論理構造からです。端的に言えば、鉱山地であったが故に天岩戸(落下)伝説が生まれ、手力雄命が祭神となったのです。戸隠の麓には「鑪」(タタラ)、「芋井」(イモジ・鋳物師)という製鉄に関連する地名が現在でも残っています。 山の鉱物資源を求めて人々が集まり、その利権を守るために山岳宗教(修験道)が生まれ、かれらを山伏と呼ぶ一方、その利権と対立する人々からは鬼と呼ばれもし、結局は、時の政治的あるいは宗教的勢力に吸収されていくのです。すなわち、神刀小烏丸、観音縁の宝刀によって、紅葉は成敗され、山の利権は源平あるいは朝廷それ自身のものとなり、山岳修験道は論理的密教修行(仏教)に習合されていくこととなります。 山の開発と簒奪という事実から、鬼の成敗という歴史が生まれ、それを紅葉という女性一人に集約させて、『紅葉狩』の文芸が生まれています。信濃文学としての公開講座ですが、『紅葉狩』成立の背景には、多くの忘れ去られた歴史と事実があるということに気付いていただきたいものです。鬼となった紅葉をどうしても否定しきれない感情があるとするならば、庶民文化浮世絵が無意識の内に拾い上げた、消された歴史と事実の力が原因ではないでしょうか。 |
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| 資料:浮世絵に見る鬼(退治)伝説 | |||||
| 山ノ内町立 志賀高原ロマン美術館 平成18年『浮世絵-入浴タイムス−』展に寄せて | |||||
| ◆講演者 長野浮世絵研究会 代表者 川原廣美 ◆期 日 平成18年6月4日(日曜日) ◆時 間 午後1時30分〜3時30分 ◆場 所 山ノ内町立 志賀高原ロマン美術館 2階 |
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ギャラリートーク・浮世風呂:弓を射って湯に入る? 浮世絵と湯を結びつけるのに良い材料として、式亭三馬の『浮世風呂』をとりあげます。これは、四編九冊からなる滑稽本といわれる風俗小説で、北川美丸および歌川国直が絵を担当しており、前編は文化六年(1809)から版行が始まります。 この中に、手習いをして墨で汚れた子供が寺子屋から下校してくる途中で湯屋に行く場面があり、仲間うちでもおとなしい子が役者絵を友達に渡しながら、「鉄さんヤ、これをおまえに上げよう」「幸さん、おかたじけ。こいっはいいのう。豊国の絵だよ。威勢がいいぜえなあ」という、会話が記されています。子供が豊国の絵をやりとりしていた程、浮世絵は庶民の手に渡っていました。 この『浮世風呂』の頃(文化年間)には、すでに江戸ではあまり見られなくなり、「遠境には用る所あり」とありますが、湯屋の看板に「矢をつがえた弓」を描き、軒先などに掛けることが流行ったそうです。これは、ゆみをいる『弓射る』 と、ゆにはいる『湯入る』とをかけた洒落を意匠したものです。今日の私たちから見ると単なる「言葉遊び」のように思われるのですが、想像以上に江戸庶民は真剣であったようで、また、絵の表現にも、深い影響を与えています。江戸の庶民文化を読み解く際には注意が必要な点です。 その他、武将が弓を射る図は、説話を題材にした浮世絵にも多く見られます。しかし、それを武者絵とのみ考えるのは浅い読みで、時として、「射る」の言葉に他の意味を掛けていることがあります。上に述べた「入る」は典型例ですが、「射る」を「炒る」「煎る」「鋳る」などの意味で使ったと考えた方がよいような場合もあります。大蛇、妖怪、虫の化物あるいは鬼などを弓で射って退治する図の背景には、意外にも単純な言葉遊びがあるように感じています。 徳川家康を祀る東照宮の地、日光を巡って、かって二荒神社(蛇)と赤城神社(百足)の争いがあったそうですが、二荒山の大蛇に優勢であった赤城山の大百足は、結局、片目を矢で射られて退治されたと言われています。これも、百足を「炒る」あるいは「鋳る」と考えれば、百足=金属は水(蛇)には強いが火には弱く、熔け出るという現象をいっていることになります。 (百足が金属資源の意味であることは、山本勘助の黄金伝説参照。) そもそも、庶民は話(言葉)を通して、いろいろな情報のやり取りをしています。それをどういう文字で表現するかは教養の問題で、結果として選ばれた言葉にあまりに拘泥せず、その音の響きに耳を傾けた方が本来の意味にたどり着けるのではないでしょうか。 ![]() 庶民文化浮世絵は庶民の「話言葉」の中において理解すべきであるという提案です。 さて、入浴の作品展に寄せてのギャラリートークですので、一つ、『開化温泉の図』と題する、左図を見ていただきましょう。このアニリンレッドを要所に使った明治の赤絵は、女性が入浴する様を描くものですが、手拭いの端を口にくわえ、肌襦袢(浴衣?)と腰巻きをまさに取ろうとする瞬間です。この直後、女性は、口の手拭いをはらりと落として、体を隠します。風情ある仕種ですね。 お口直しの作品紹介でした。 |
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| 講演会報告2 | |||||
| NPO長野浮世絵研究会 | |||||
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