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C's Ukiyo-e Museum |
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ページの浮世絵講座 |
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| 平安堂のカフェ「ぺーじ」で行っている浮世絵講座の概要を綴るコーナーです。回を重ねる毎に好評との声をいただくようになっています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平安堂・カフェ「ぺえじ」 第三回浮世絵講座 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆講演者 長野浮世絵研究会 代表者 川原廣美 ◆期 日 平成18年9月15日(金曜日) ◆時 間 午後7時から8時30分まで ◆場 所 平安堂長野店3階 カフェ「ぺえじ」 |
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山本勘助隻眼(せきがん)の秘密 −川中島合戦において縦横に活躍した勘助の肖像と、武田黄金伝説との関わり− 戦国時代、武田家で活躍した軍師山本勘助は、川中島合戦を描く浮世絵の中では、「一騎打ち伝説」の武田信玄、上杉謙信と並んで、かなり頻繁に描かれています。そして、その絵姿の多くは片目の醜男となっています。 これは、武田家の軍学書とも言うべき『甲陽軍鑑』に「山本勘介はさんざんな醜男で、その上に一眼、指も不自由で足も不自由であった」旨の記述があることから、それが底本となっていることが想像されます。また、人形浄瑠璃・歌舞伎においても、勘助は隻眼の人物として脚色されていますが、これも同様の理由によります。あまりの縦横な活躍のため、勘助の実在を疑う考えもありましたが、北信濃の武将市河家より発見された文書によって、「山本菅助」なる人物がいたことは確実視されています。しかし、だからといって、「菅助」が浮世絵等に表現される「勘助」像通りであったとはにわかには断定できません。 浮世絵等は江戸庶民の娯楽の対象です。したがって、勘助の人物像に仮託された庶民伝説や共通認識を探る必要があります。そこで、第一に考えなければならないのは、『甲陽軍鑑』の言葉を借りれば、「片目」「五体不虞」とされる勘助の容貌・容姿です。 実は鍛冶・鉱山開発に係わる人々には、片目(あるいは、片手、片足)の神である天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)を祀る考えがあります。おそらく、勘助の風貌から江戸庶民が想像するのは、鍛冶・鉱山開発に従事する人物像です。これを一つの前提とすると、そこから、山の地理に詳しこと、武器等の金属精錬技術に明るいこと、それを敷衍すれば、天文地理や軍学に優れる人物像が浮かび上がってきます。また、周辺知識として、孫呉の兵法にも親しんでいたかもしれませんし、鍛冶・鉱山開発者のネットワークの力で、南蛮の鉄砲技術をいち早く知っていたかもしれません。 このような人物であれば、武田信玄は「三顧の礼」をもって勘助を武田家に迎えたはずです(歌川国芳『東海道五十三対 御油 山本勘助草庵』)。そして、一つに、金山の開発を進め軍資金をつくる実働部隊として、また一つに、地理に詳しい知識を応用し城攻め部隊として、その活躍を大いに期待したはずです。 百足(むかで)の旗差しを背負う初鹿源五郎に勘助が戦の指示をしている浮世絵があります(歌川国芳『川中嶋大合戦 謙信の車懸りを見た勘助備を立て直す図』大判三枚続)。戦場で、伝令隊である「百足衆」に直接指示を出す勘助の姿は、平時には、百足に象徴される「黄金」を掘り出す「金堀衆」の姿を裏に想像させます。 勘助隻眼の理由は、甲斐源氏代々の金山開発の環境から生まれた伝説というのが、私の山勘(?)です。 |
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| 資料:浮世絵黄金伝説 軍師山本勘助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平安堂・カフェ「ぺえじ」 第二回浮世絵講座 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆講演者 長野浮世絵研究会 代表者 川原廣美 ◆期 日 平成17年7月15日(金曜日) ◆時 間 午後7時から8時30分まで ◆場 所 平安堂長野店3階 カフェ「ぺえじ」 |
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旧暦浮世絵講座 『武田・上杉両将の和睦対面はなぜ五月十五日?』 川中島合戦を描く浮世絵の中に、武田信玄と上杉謙信との千曲川を挟んでの和睦対面図があります。これは、両雄の一騎打ちを描く浮世絵と並ぶ、代表的な構図作品で、対面は永禄元年五月十五日に行われたとの書き入れがあるのが普通です。(資料1 資料2) もし、私たちに旧暦の知識があれば、五月は梅雨時で川の水量は決して少なくなく、川幅も十分あることが想像できます。つまり、両陣営の間に適切な距離があることが推測されるのです。また、十五日は満月ですから、対面前後の夜は十分な月明かりが予想され、対面に乗じての闇討ちはしにくいという状況がまた推測されるのです。 ちなみに、五月をさつきと言いますが、これは、一説には、「さ=稲」の意で、すなわち、田植えの時期に当たります。当時は、武田、上杉いずれにしろ、兵農分離されておらず、故国へ戻って農業に従事しなければならなく、もとより、和睦の条件は整っていたということができましょう。 このように、旧暦にとって、月や日には具体的意味があり、私たち日本人は、長らくこのような時節感に富んだ暦の中で生きてきました。季節の流れと地域の生活感を尊重した生き方を、今日、スローライフと呼びますが、実は、その基本的時間軸ともいうべきものが、自然の季節感を大切にし、日本人の生活感に大変適合した「旧暦」(きゅうれき)と呼ばれる暦なのです。 明治六年に導入された、太陽暦たる新暦とは異なって、旧暦は日本で長く行われてきた、太陰太陽暦の一種です。月が地球を一回りする約29.5日を一月として、一年を×12で354日としますが、地球が太陽を一回りする一年365日との差11日分が出るため、それを約三年で一月分として修正します。(実際は、それでは約三日ほど修正し過ぎるので、19年に七回の調整を図ります。)このような複雑な修正を加えるのは、季節のずれを是正し、季節感に合った(あるいはそれを目指した)暦にしようとの努力からです。 旧暦では、一月から三月を春、四月から六月を夏、七月から九月を秋、十月から十二月を冬としますが、一年が十三ヶ月となる閏月(30日分)をどこに入れるかが非常に重要となります。たとえば、平成十六年は閏二月がありましたから、春が四ヶ月続き、暖冬傾向が伺われ、平成十八年は閏七月がある関係で、秋が長く、残暑が予想されます。新暦では、このような季節感がわかりません。 そもそも、江戸庶民文化・浮世絵も、明和二(1765)年、鈴木春信等が考案した「大小絵暦」(だいしょうえごよみ)から絵だけを独立させて、「東錦絵」(あづまにしきえ)の名前で売り出されたことに始まります。このように、浮世絵の出発点に旧暦があったことを考えれば、浮世絵を通して江戸文化を理解するためには、旧暦を知る必要があるのは当然の理です。 浮世絵を旧暦で読み解くことによって、明治の新暦導入以来、私達日本人が失ってしまった自然と一体的に生きる文化の知恵や歳事を見つめ直すことができるだけでなく、同時に、成熟したスローライフの姿を過去の江戸時代に見出すこともできるのです。 桃の花の咲かない「桃の節句」、滝のぼりどころか青空にたなびく「鯉のぼり」、六月の梅雨時を水無月と呼ぶこと、七月七日の七夕の意味、中秋の名月(八月十五日)だけは旧暦で行う理由などなど、全て時間軸を旧暦に置くことによって簡単に説明でき、一端途切れてしまったかのように見える日本の各種風習が合理的意味をもって生き返ってくるのです。
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| 旧暦浮世絵拡大版参照 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平安堂・カフェ「ページ」 第一回浮世絵講座 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆講演者 長野浮世絵研究会 代表者 川原廣美 ◆期 日 平成17年1月28日(金曜日) ◆時 間 午後6時半から8時まで ◆場 所 平安堂長野店3階 カフェ「ぺえじ」 |
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浮世絵師安藤広重はいなかった! 広重が『安藤広重』と呼ばれるようになったのは明治以降のことで、広重存命中の江戸時代には、歌川派の絵師として『歌川広重』と呼ぶのが正式な呼称です。もちろん、いくつかの斎号、たとえば、一幽斎あるいは一立斎などの使用はありますが、安藤広重と呼ばれたことも、自らその名称を使用したこともありません。 ただそれだけのことならばよいのですが、歌川広重が安藤広重になってしまったが故に、広重当人が想像もしなかった事態を招いてしまったようです。その事例が、代表作東海道五十三次(保永堂版)の制作に関して、このシリーズが広重が京都まで旅をしたスケッチに基づいて描かれたとされたことでした。そのため、しばしば、実写と合わない風景、構図の誤り、季節の相違など、さまざまな矛盾が指摘されるようになり、ついには、東海道五十三次(保永堂版)は広重のオリジナル作品ではないとまでいわれることもありました。 これは、広重を欧米的な風景画家と同一視する誤解から生じてきており、それは安藤広重と呼ばれた悲劇です。もとより、広重は江戸後期浮世絵界を席巻した歌川派の一絵師であり、作品制作は、当然、歌川派の絵師としての範囲内で行っておりました。すなわち、版元の企画に基づいて、用意された資料やあるいは歌川派の共有財産となっていた下絵資料などを使用して、各宿場風景を描き上げていく手法で、しかも、歌川派内では主流ではない広重の立場から、制作については、主流であった国貞(三代豊国)などに比べ、あまり良い条件ではできなかったと推測されます。したがって、使用する色の少なさや彫りの甘さなどがあるわけですが、そのことがかえって、大胆な構図性を長所とする、従来にはなかった広重の風景画を誕生させました。広重の浮世絵の特徴は、広重を安藤という一個人ではなく、歌川派の一絵師と理解することによって、初めて正確に理解されます。 欧米で高く評価される広重ですが、風景画家・安藤広重はいなかったのです。浮世絵師・歌川広重と理解することによって、私達が見落としていた広重の本当のおもしろさが身近に感じられるはずです。 なお、葛飾北斎は、歌川派の絵師ではありません。したがって、歌川派がほとんどの仕事を受ける江戸では良い仕事が得にくく、小布施など各地に赴いたり、 歌川派がしない仕事をせざるをえず、逆にその状況が、北斎作品の独創性に磨きをかけたことはまちがいありません。 |
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| 参考資料:広重雑感 豊国雑感 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| NPO長野浮世絵研究会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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