江戸人の生活 (役人・庶民・吉原遊郭など)
[0120]      07.02.28
 
【 江戸の職業】
 
 細かく分ければ300以上もの種類が有ったそうです。
 
 古典落語や川柳には、これまでに登場した職業以外にまだ色んな職業が出てきますが後の残りは後半の
 
 吉原遊郭の説明を終わらせれば大抵の川柳・破礼句・落語は分かりますので
 
 これ以上の職業の細かい説明はもう止めます。
 
 落語などにたまには出てくる職業名だけを羅列しておきます。
 
 餅屋、糊屋、古道具屋、桶屋、八百屋、豆腐屋、茶屋、団子屋、鰻屋、どぜう屋、甘酒屋、水茶屋、
 
 居酒屋、煙草屋、骨董屋、油屋、植木屋、貸本屋、染物屋、花火屋、鍛冶屋、口入屋(職業斡旋屋)
 
 酒屋、古着屋、飴屋、紙屋、畳屋、履物屋、足袋屋、眼鏡屋、扇屋、書道塾、剣道塾、寺子屋などなど、
 
 店を構えている商売
 
 
 次は、固定した店は持たず、自分の芸や腕だけで歩きながら稼いでいる職人達など
 
 願人坊主(乞食坊主)、鳥追い、座頭、駕籠かき、紙屑買い、幇間(太鼓持、男芸者)、野太鼓、、大道芸、
 
 大工、棟梁、左官、船頭、芸者、蹴転(けころ)、魚売り、玉子売り、塩売り、ところてん売り、扇売り、
 
 飴売り、茶碗売り、蕎麦売り、富籤売り、女髪結い(注文で出張する)、医師、火消し、羅宇屋(キセル修理)
 
 うどん屋、蕎麦屋、唐茄子売り、豆腐売り、などなど
 
 以上のいずれかが古典落語や川柳・破礼句に出てきます。
 
 職業の話しはこれで一応は終わりとし、明日から吉原遊郭の後半に移ります。
 
[0119]        07.02.27
 
【 江戸の職業】
 
「四つ目屋」B
 
 多くの薬の中でも有名なのは、長命丸、女悦丸、帆柱丸、地黄丸の4つの薬。
 
 長命丸は感度を鈍らせる薬。女悦丸は其の逆作用薬。帆柱丸にはヨヒンビン成分が含まれていますから
 
 現在のバイアグラみたいな作用をしたのでしょう。以上は即効薬。
 
 反して地黄丸は腎虚を防ぐ目的で毎日の朝・昼・晩、息永く飲み続ける事で
 
 体そのものを強健にさせる薬です。
 
 あれだけ栄えた四つ目屋も「天保の改革」の(1841年に老中の水野忠邦が始めた)豪奢禁止令により
 
 急速に衰えたものと見え、記録に残らなくなってしまいましたし、同時に「人情本」も消え去りました。
 
 更に吉原遊郭も急速に寂れて行きました。江戸時代の終わりを暗示しているようです。
 
 川柳にはこれ等の薬の名前がよく出てきますので、
 
 これ等の名前を知っていないと川柳の意味が分かりません。
 
 バレ句を味わうには誰しも通らねばならない一通過点です。
 
[0118]         07.02.26
 
【江戸の職業】
 
 「四つ目屋」A
 
 この店の名前の由来は先祖が近江から来た「佐々木」なる姓を持つ男でした。初代の名は忠兵衛。
 
 佐々木の家紋は「丸に四つ目」と言い、まん丸の中に枡状の四角形が四個描いてありました。
 
 この店の開祖の佐々木忠兵衛は自分の家紋の名前から「四つ目屋」と称しました。
 
 江戸本店や大阪支店の店前には、この「四つ目」印を大きく浮かせた広告布切れを飾って
 
 これが大変に目立ったそうです。
 
 江戸一の人気店で全国的に名が知られ初めて江戸へ来た田舎者は必ず此処へ立ち寄った、と言います。
 
 商う商品は張型と媚薬です。有名な媚薬は4種類ありその内、塗る薬が3種類、飲み薬が一つです。
 
 この店の分類は当時の書物には正式には「女小間物細工所」となっており、

 薬より道具の方が本業の様でした。ここが不思議で面白いところです。
 
 張型は水牛の角または鼈甲で作られており片頭と双頭の二種類がありました。
 
 薬は塗り薬が殆どで飲み薬は一種類だけです。塗り薬の原料は種々雑多なものが混ぜてあります。
 
 ケシの実、ジャコウ、樟脳、丁字、阿芙蓉、蟾酥など、これ等を混ぜ合わせ最後に
 
 蜂蜜で丸め固めて丸薬にして販売されていました。
 
 塗り薬の種類は大変に多く10種類以上もありましたが、特に有名なのが「長命丸」と言う塗り薬です。
 
 長命丸だけは二枚貝の中に入れられて売られましたがその意味は不明です。
 
 これ1個の売値は56文でした。
 
 使用する半刻前にこの丸薬を舐めて溶かし、それをを自分の息子の頭に塗ります。
 
 
[0117]       07.02.25
 
【江戸の職業】
 
 「四つ目屋」@
 
 川柳(特に破礼句)には数多く登場する大切な店なので、これを避けて通る訳には行きません。
 
 「四つ目屋」は両国米沢町(現在は中央区東日本橋二丁目)に在った店の名前で
 
 張型(女性客)を中心に塗り薬(男性客)などを売っている「未成年者は入るべからず」の店、つまり
 
 大人のおもちゃを売っている店、つまりアダルトショップの事です。
 
 客層は今の世は男だけですが当時は男女半々位。特に御次や奥女中に人気が有ったようです。
 
 この店の極彩色の引札(ひきふだ)が有名でした。
 
 大阪にも出店を出し、通信販売もやっており全国的に有名でした。 
 
 引札とは江戸中期(18世紀初頭)に現れ間もなく定着したもので、
 
 店の開店披露案内や年末・年始など特別な日に配った広告用チラシです。
 
 銭湯などで貼り付けられた引札には多くは芝居の広告文・絵が書いてありました。
 
[0116]        07.02.24
 
【江戸の職業】
 
「呉服屋」
 
 高級呉服屋として名を知られたのが「越後屋」(開祖は越後出身)でした。
 
 場所は日本橋駿河町。現在の三越デパートです。ここの客は例えば江戸城の中ろうや御次、それから
 
 旗本の奥方や大店の細君など。
 
 中でも上得意客は買い物をすると食事券付きで、店に隣接する食堂で昼飯が振舞われました。
 
 これが現在のデパート食堂の前身です。
 
 勿論一般庶民相手の呉服屋も幾つも有りました。女郎専門店も在りました。
 
 また特別な呉服屋としては、店を構えるのではなく訪問販売専門の商人が居ました。
 
 流行の先端を行く反物をかついで専ら金持の商家や武家のお屋敷廻りをします。
 
 その中では「大丸」と言う大手の商人が居ました。現在の「大丸デパート」の元がこれです。
 
 多くの武家の奥方は外を出歩くのを嫌がったので「大丸」は大変に喜ばれ繁盛したそうです。
 
 今も昔も繁盛する商人はお客のニーズを良く調べていました。
 
[0115]       07.02.23
 
【江戸の職業】
 
「両替人」B
 
 金は4進法ですから1両は四分、一分が四朱、・・・と変化しますが、銀は10進法です。
 
 一貫目=1000匁(もんめ)。 一匁=10分。 一分=10厘 と変化します。
 
 金貨は町民には殆ど無縁で、三井や松坂屋や鴻池など余程の大店(おおだな)の旦那でないと
 
 目にする事はまずありません。金は殆ど武士が使うものでした。
 
 対して銀貨は町民が通常手にし、目にする貨幣でした。
 
 と言うのは物の売り買いや日銭は必ず銭(胴・鉄など)を使いますので手元に銀貨しか持っていない時は
 
 それを両替商へ持ち寄り手数料を払って銭貨に交換して貰いました。
 
 金と銀との交換率は江戸時代を通じて絶えず変動していましたが、その値は一両=50〜60匁内でした。
 
 こんな訳で両替屋は必ず天秤が置いてあり金・銀・銭の目方を量りました。
 
[0114]       07.02.22
 
【江戸の職業】
 
「両替人」
 
  A「質屋」(しちや)
  
  江戸っ子はこれを「ヒチヤ」と訛って発音しました。
 
  現在でも東京下町に住む古い東京人はヒとシの区別が下手です。
  
  質屋には @本質 とA 脇質 の二種類がありました。
  
 @ の「本質」は信用を最優先するレッキとした質屋で何かを質に入れる時は
 
   本人と保証人の両方のハンコが必要でしたが質屋もまたその代わりに質札を発行します。
 
   交換率は低く抑えられていますし保管期間も長い。
  
 A の「脇質」のほうはハンコは要りませんが手数料は高いうえ保管期間も1ヶ月と短く
 
   後は自由に流されてしまいました。その代わり手っ取り早い。
  
   落語や川柳に良く出てくる質屋は殆どがこの「脇質」です。町中に在りました。
 
   こうした脇質の手数料は1〜2%が標準。中には高利貸しを営んで巨利を得た商人も出てきました。
 
   1両に付き60〜80文の間、江戸後期の一文は現在の15円〜16円位。
 
   江戸時代の貨幣の取り扱いと金・銀の同時併用が問題を複雑にさせていました(明日、説明します)。
     
   明治になると両替屋は「銭屋(ぜにや)」と名前を変えました。
   
   脇質は裏長屋の貧乏人達にとって何時でも相談に乗ってくれる有力な助っ人でした。
 
[0113]       07.02.21
 
【江戸の職業】
 
「両替人」
  
 @「札差」
 
   江戸の約2万人の旗本・御家人の財布の元は大川前の御米蔵にしまってある米です。
   
   旗本の55%、御家人の99%は「蔵米(くらまえ)取り」と言い、彼等は「札差(ふださし)」
   
   という両替人から米をお金に換えて生活していました。
   
   毎年、全国からお米蔵に集まるお米の量は約37万石にのぼります。
   
   札差はお米をお金に換えて武士に渡しますし、次にその米を米問屋に渡す中継ぎも
   
   兼ねていました。最初の武士へお金を渡す時は米百俵につき金一分、後の米問屋に
   
   米を渡す時は金二分と手数料が江戸時代を通して決まっていました。
 
   大きな札差は109軒あって、それら全ては大川沿いのお米蔵の近く(蔵前)に住んでいました。
   
   武士はお金が必要となれば一年に3回(2、5、10月)ここを訪れお金を手にしました。
   
   最初、吉原遊郭で遊ぶ客は武士に決まっていましたが、こうした商人が江戸時代の初期
  
   より次第に実力をつけると共に豪勢で派手な生活をし始め、江戸末期では吉原遊郭での
   
   最上級のお客さんは武士に代わってこうした町人達でした。
 
[0112]      07.02.20
 
【江戸の職業】
 
「銭湯」Gー9
 
 以前にも書きましたが、江戸時代は徹底したリサイクルシステムの考えが浸透しており
   
 およそ「無駄」は無いように心がけていました。
   
 世界のどの国にも無いこの「勿体無い」という考え方が江戸250年の間に日本人の心の奥深く染み
   
 通ったのです。所が戦後の高度成長期を迎えた頃から国民はこの美徳を捨て去り、逆に
   
 「捨てることは良いことだ」というマスメディア・コマーシャルに踊らされて今ではこの美徳は
  
  見る影もありません。
 
  (今はスーパーで只でくれるビニル袋がもうじき有料になる運動が起きてきたのは大変に良いことです。
   
  あれはエントロピーを大きく増やすだけの代物です)
 
  江戸人は、お互いに相手に対し常に現在では考えられない位の「心配り」をしていました。
  
  例えば、初めてその湯へ来た客(常連客ではない)は柘榴口を潜って湯船に入る時は必ず
  
  「ええ〜田舎者でござい、冷え者でござい」と周囲に声をかけました。
   
  このようなちょっとした心遣いが出来ないと「何だ!あいつは田舎者め、無粋な奴だ」と蔑まれました。
   
  こうした江戸人の心遣い(江戸しぐさ)の例に連いては、これからも気が付き次第、書き入れて行きます。
 
  私が銭湯や遊郭に拘るのは、これ等に関する川柳や古典落語がとても多いからです。
  
  また私自身は江戸の研究家でも何でもなく、ただ川柳や古典落語を理解する為にその分野だけ
  
  特別に調べが深くなっただけの話しで他の分野はそれ程、知っている訳ではありません。
  
  銭湯は、これで一応終わりとします。
 
[0111]       07.02.19
 
【江戸の職業】
 
「銭湯」Gー8
 
 * 書き忘れ
 
   御家人が湯屋に来た時、外した腰の大小は湯屋番がそれを後生大事に番台に預かりました。
 
   寛政三年(1791年)の「寛政の改革」で混浴は禁止され、それ以降は今のように男湯と女湯は
   完全に仕切られ湯屋の入り口も別々になりました。
 
   それまでは二人の三助は男専門、女専門に別れて男湯船と女湯船の間にある
   幅二尺位の仕切りの上に置いてある 「留桶」(=常連客用の桶)を運んだり
   客の求めに応じて肩を揉んだりしました。
 
   遊郭や岡場所へ上がった時、田舎者(特に田舎侍)は陰毛は伸ばし放題でしたが江戸っ子は
   きちんと切り揃えていました。江戸っ子の粋の代表例の一つです。
   さもないと遊郭・岡場所へ行った時、女郎達から「田舎者」と馬鹿にされます。
   ですから男達はそれを嫌って陰毛を普段から小マメに切り揃えていたのでした。
   女性は男達に右習えをしただけ(多分、亭主から言われるのでしょう)です。
    
   「糠袋は湯船の中に入れてはならない」という注意書きが
   どの湯屋の脱衣所の壁に貼り付けてあります。
   糠袋は毎回使い終わると、中身だけを洗い流して持ち帰り、ぼろぼろになるまで使いきりました。
 
[0110]       07.02.18
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー7
 
 * 湯屋の二階
   
   どの湯屋にも二階に休憩所を設けていました。この二階へ上がるには八文余計に支払いました。
   江戸初期、湯屋が出来た頃はそんな部屋はありませんでした。
   所が江戸の町が次第に大きくなると町人も増えそれに比例して湯屋も繁盛します。
   すると如何しても休憩所が欲しくなります。そこで二階に休憩所を設け、其処に囲碁・将棋盤等を置いて
   常連客は湯上りにここで一服しました。この休憩所には三段になった棚を備え付け、錠を付けましたが
   これは現在と同じです。湯屋番は常連客の求めに応じて彼(女)の鍵を渡します。
   この部屋は情報の発信地でもあり、壁には紙に書いた色々な広告が貼り付けられており、客はこれを見て
   何時、何処でどんな芝居があるか、どんな薬が何処で売られているか等を知りました。
   時折、下女がお茶やお菓子をお盆に乗せて運んで来ます。
   こうした風景を書いものが式亭三馬の「浮世風呂」であり「浮世床」です。
   床屋の二階も全く湯屋と殆ど同じ目的のものです。
 
[0109]        07.02.17
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー6
 
  * 客層
 
  湯屋の客層は二種類有ります。
 
   1)常連客: 
         彼等は月に148文の月極めで、その湯屋だけにやって来るお得意さんです。
         (江戸時代の算術は4進法であった事を思い出して下さい)
         彼等には「留桶(とめおけ)」と称する楕円形(小判形)の桶が専用に貸し与えられます。
         客が洗い場に来ると三助がそれを急いで持ってきます。
         寛政の改革までは、留桶には所有者の家紋またはそれに順ずる紋様が付けられたそうです。
         男は1割、女は9割がこのお客でした。

   2)一般客: 
         毎回、大人であれば8文を払ってやってくる常連客以外の客。
         桶は「まん丸」形で現在の桶と同じ形です。
         
  * 入浴代:
        常連客の場合    月に148文出せば何度でも入れますから割り安です。        
        一般客の場合    大人8文、子供6文、乳飲子4文
 
        糠袋は常連も一般も区別なく1個4文(現在の約60円)
 
  * 湯屋番:
        番台に一日中座って客の応対をします。湯屋入り口の男女脱衣所の堺、
        つまり入り口の中央にあり一段と高くなっています。
        湯屋代を受け取る他に重石を授受したり、糠袋を求められればそれを渡したり、
        合間をみてちょっと番台から降りて下駄や草履を整えたり、またお客に対しては、
        適当な挨拶をしたりで大変に忙しくまた如在無い人でなくてはならず、
        古典落語「湯屋番」に出て来るような若旦那には到底務まる仕事ではありませんでした。
        正月明けの最初の日の「初湯(または若湯)」には、常連客が「おひねり」をくれました。
        少なくても3文、多くて12文(銅銭1枚が1文)を白い紙でくるんだものです。
        その額は客と湯屋番の付き合い年月や客の懐具合で決めていました。
        客の数は多いのですから(特に女性客)湯屋番にとっては年に1回の嬉しいボーナスでした。
 
[0108]       07.02.16
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー5
 
 * 柘榴口(ざくろぐち)
 
  江戸の湯を理解するにはこれが不可欠です。
  私達はガラス戸を当たり前の様に思い銭湯で脱衣所と洗い場の堺には当然にそれが有ると
  無意識に思いがちですが、江戸の湯屋にはそれがありません。洗い場と脱衣所の間は何も無く
  スッポンポンです。そのままにしておくと湯は急速に冷えてしまいますので、湯船の入り口に
  「柘榴口」と称する湯気をなるたけ逃がさない様にする「仕切り板」が上から降りていました。
  図を見るとしゃがんで湯船へ入ろうとしていますから恐らく床面から1m位の高さまでの
  上方は仕切られていました。ですから湯船の中は昼間でも殆ど真っ暗でした。
  これを知らないと古典落語もこれを扱った川柳も理解できません。
 
 * 三助
  
  風呂釜を焚いたり床を洗ったり、頼まれればお客の背中を洗ったり叩いたり揉んだりする下男の事です。
  普通は二名居りそれぞれ男湯、女湯を担当しました。 
 
 * 洗い場
  
  床は木材でしたからいつもヌルヌルして滑りやすいのです。放置して置くとお客さんが
  滑って転んで怪我をするので湯が終わる暮れ五つ以降は必ず三助が「ささら」という
  竹と硬い木の棒を麻縄で所々を結んだ物に砂を付けてごしごしこすってヌルヌルを
  洗い落とすのが日課でした。
 
  (参考) 「ささら」は越中・五箇山地方に伝わる伝統的民謡「こきりこ節」にも使われています。
        ここでの踊りや楽器は室町時代から伝わっている日本最古の田楽踊りで当時の「田楽」の姿を
        そっくり残した形とされています。
 
[0107]       07.02.15
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー4
 
 男女混浴ですから脱衣所は今の様に仕切り板は有りませんが
 自然とそれぞれ二グループに分かれて脱衣しました。
 当時は当然に石鹸は有りません。何を使ったかというと「糠(ぬか)袋」を使いました。
 小さな三寸角くらいの木綿の布袋の中に米糠を入れたものです。
 凝った女性はそれに大豆の粉や鶯のフンを混ぜたものを使いました。
 
 洗う時には軽石を現在でも使いますが当時は女性の必需品であり女性は湯屋へ行く時は必ず持参しました。
 一方、男は軽石を使う事はありませんでした。何故かは知りません。
 ですから男が湯屋へ行く時は糠袋も持たず必ず手ぬぐい一本で出かけます。
 
 現在は自分の陰毛は伸ばし放題で手入れはしませんが当時は手入れをするのが常識でした。
 手段は男と女で違います。
 男の手入れ場所は湯屋に限ります。どの湯屋にも丸い小さな硬い石が幾つも常に用意してあり、
 男客が湯屋へ訪れると黙っていても湯屋番が石を二個渡してくれます。
 それを持って洗い場で下を向いて長いと思われる陰毛を二つの石でコンコンかち合わせて叩き切ります。
 この石を「重石」とも称しました。
 一方、女性は湯屋でなく、自宅で一人になった時、長いと感じる陰毛を適当な長さに焼き切ります。
 男女どちらも自分の陰毛の毛の長さを整えるのが常識でした。現代の頭の毛並みの扱い方です。
 江戸人のお洒落は陰毛にまで及んでいました。
                                            古典落語「湯屋番」
 
[0106]        07.02.14
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー3
 
 まず最初に皆様にお詫び致します。それは昨日のこの欄で書いた「花川戸助六」は間違いで正しくは
 「幡随院長兵衛」です。昨日の夕方、自宅の湯へ入り(据風呂ではありません)湯船に体を沈ませた途端
 つい口に出た言葉が「お若えの、お待ちなせえ・・・」。ここで、ン?オヤ?!と気がつきました。
 それは朝投稿した文章に「花川戸助六」と書いてしまった事に漸く気が付いたからです。
 御存知の通り幡随院長兵衛は花川戸の侠客ですが謀殺されたのは「助六」ではありません。記憶違いです。
 「お若えの・・・」は鈴が森で幡随院長兵衛が白井権八を呼び止めた時の言葉でした。
 彼は確かに旗本の湯殿で謀殺されました。
 一方、花川戸助六は「助六由縁江戸桜」に出て来る侠客で幡随院長兵衛とは無関係です。
 目だけでなく大脳の方も着実に老化現象が忍び寄ってきているのでは無いかと心配です。
 湯の中で一瞬「今からでも直そうかなぁ」と思ったのですが、するとそれ以前に読んだ人と
 それ以降に読んだ人の双方に失礼に当たると思いそのままにして、今朝、皆様にお詫びする事に
 しました。朧な記憶だけで原稿を書いてはいけないと痛感しました。
 「・・・遅かりし由良助・・・」。また芝居がかってきました・・・。
 
 普通の江戸町民は据風呂を置く場所も無いような狭い所に住んでいましたし第一、肝心の水も無いので
 銭湯へ行くしかありませんでした。
 銭湯が開いているのは「明け六つから暮六つ」までです。始まるのはこの通りですが、本当に仕舞うのは
 六つではなく五つでした。暮れ六つと言うのは釜に火をくべるのを止める時間です。
 早めに仕舞うのは、火の点検に時間を割いて出火を防ぐ為でした。
 
 江戸開府以来約200年も男女混浴で、これを「入り込み湯」と称しました。今では考えられないことです。
 それだけ江戸っ子はあくせくせず飄々と心が豊かだったのしょう。これに関する川柳が幾つかあります。
 でも流石にこれは風紀を乱すと言うので寛政の改革(江戸末期)で混浴禁止となってしまいました。
 
 毎日訪れる客層の順番は大体決まっています。
 まず朝の一番風呂にやってくるのは深川(辰巳)や新橋の芸者衆、男なら朝帰りの遊び人、
 昼頃はそこらのおかみさんや子供・乳飲み子、隠居や店の丁稚小僧達が順繰りでやって来ます。
 夜は主にその日の働きを終えた外周りの職人達や店の手代、番頭、旦那、それから隠居や大家さんなどです。
 (大工等の職人仕事の仕舞時刻は原則暮れ六つ、帰りしなに日銭を受け取ります)。
 
                                                        古典落語「強情灸」
 
[0105]       07.02.13
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー2
 
 お金持ちの商店の旦那、御家人などは、それなりの広さの家に住みそれなりの収入がありましたから、
 自宅の庭で「据風呂」を焚いて入浴しました。「五右衛門風呂」と同じ格好をしていました。
 早い話し、縦長の樽状のものです。大規模の旅館には据風呂は置いて有りました。
 (平均的な旅館にはこれが無いので宿泊客は街中の銭湯へ行くしかありません)。
 据風呂で若い女性が入浴しているところを男が塀越しに覗いている絵が残されています。
 デバカメは江戸の昔から居ました。
 
 旗本屋敷は据風呂のようなケチなものではなく、大きくて立派な風呂を持っていました。
 歌舞伎で有名な花川戸助六が旗本の水野十郎左衛門宅へ招待され、
 その風呂場で謀殺される場面は有名です。
 
[0104]          07.02.12
 
【江戸の職業】
 
 「銭湯」Gー1
  
 別名を江戸では湯屋(ゆや)、上方では専ら風呂と言いました。
 
 (式亭三馬の「浮世風呂」・「浮世床」は市民の社交場を表現しています。
 私事ですが、私のHPのURLの名前を最初は「浮世風呂」にしようと思ったのですが
 調べてみたら同じ名前のURLが他に既に幾つか有ったので、仕方無く「浮世銭湯」とした経緯があります)
 
 これは落語や川柳ではしょっちゅう出てくる重要な場所ですから、少し詳しく説明します。
 
 江戸の下町は埋立地ですから、よほど深い井戸を掘らないと良い水は得られません。ですから
 江戸下町の旅館・旅籠で風呂(正確には「据(すえ)風呂」→後述)のあるのは余程一流の大旅館でないと
 ありません。銭湯(風呂)へ入りたくなれば市内の大衆銭湯へ行くしかありませんが
 その銭湯さえ、現在のような新鮮なお湯は貴重品ですから余程お湯が汚れない限り、全体の入れ替えは
 しませんでした。如何しても新鮮なお湯が欲しい時は三助に頼んで別に大事そうに保管してあるかけ湯を
 桶に一杯所望することは出来ました。
 
 江戸開府の時は玉川用水などの水を沸かしました。次いで18世紀に入ると神田の井戸掘り職人が考案した
 「掘り抜き」井戸が登場し、その内に大阪より「煽(あお)り」という装置が導入され、これ以降一般に銭湯が
 普及して行きました。19世紀の初頭に上総職人が工夫した「上総掘り」なる井戸掘り方法が考案され
 井戸を掘る効率が一段と良くなり、これ以降、急速に銭湯が一般町民のものとなって行きました。
 天保時代以降は銭湯の数は一町に一軒、つまり少なくとも800軒はあったでしょう。
 
[0103]           07.02.11
 
【江戸の職業】
 
「女髪結い床」F
 
 女性はもともと自分で髪を結うものとされていました。江戸初期は依然として、そうでした。
 しかし三代将軍家光の頃になると漸く世の中が安定してきて色んな商売人が現れ始めました。
 女髪結いもそうした商売の一つに入ります。しかし男髪結いほど目立ちませんでしたし
 女性専用の髪結い床が出来たのは江戸後期です。
 その最大にして唯一の理由は髪結いとは女性なら自分自身でやるものというしきたり・習慣が
 古くからあったからです。
 まず最初に女性専門の髪結いが現れた所は吉原遊郭で、女郎達に人気が出ました。
 人気は次第に岡場所へも移って行きました。
 その頃はまだ武家や町人の女性は自分で結うか家族や下女に手伝ってもらいながら結っていました。
 天保年間(1830年台)になって初めて女性専用の「女髪結い床」が出来ました。
 価格は「一なで」で100文、ちゃんとした髪結いをすれば200文したそうです。
 現在の価格に直せば約1600円、3200円というところでしょうか。
 しかしこれを愛用する女性はそう多くはなく大体が芸者や特別の金持ちの家の女達であり、
 大抵の女性はやはり家で自分で髪を結っていました。
 
[0102]           07.02.10
 
【江戸の職業】
 
「床屋」E
 
 現在は「床屋」と呼んでいますが江戸時代は「髪結(かみゆい)床」と言いました。
 まず男の床屋から説明します。
 
 これには三種類あります。
 
 @ 廻り床・・・高価
   何故か上総(千葉県)国出身が多かったという記録があります。
   これは旗本や大店の旦那など金持ちの家に定期的に招かれる高級床屋です。
 
 A 出床・・・最も安価
   これは路傍や空き地・橋際等で簡単な小屋を建てて営業する床屋です。
   終戦直後もこうした所に真っ先にバラックが出来ました。
 
 B 内床・・・標準的価格
   自宅で営業する床屋の事で現在と同じです。19世紀になって急増しました。
   式亭三馬の滑稽本「浮世床」の舞台はここです。二階建てになっており、一階は髪結い場所、二階が
   囲碁・将棋などが置いてあり一種のサロン(社交場)の様になっていました。
   これは「銭湯」とそっくりです。お金は髪結いだけなら28文が標準ですが二階へ上がるには
   更に4文のチップを弾んで32文だったそうです。
   
[0101]           07.02.09
 
【江戸の職業】
 
「古道具屋」D
 
 別名を骨董(こっとう)屋とも道具屋とも言います。また俗に「天道(てんとう)干し」とも言いました。
 同じ職業で四つも呼び名が有る商売は珍しい。
 それ程こうした商売を商う商人が多かった事を意味しています。
 往来の横脇じべたに茣蓙筵(ござむしろ)を広げ古道具、古書、荒物、金物等を並べて売っていました。 
 
                            古典落語「火炎太鼓」「道具屋」「名人長二」  
 
 江戸時代は徹底したリサイクルシステムが完成し見事に回転していました。
 色んな修理屋が居ました。 「勿体無い」という感覚を市民全員が共有していました。
 現代のようなポイ捨て・使い捨て文化とは正反対で、これが150年前の江戸人と同じ国民か、と
 もし江戸時代の人がこの世を眺めたら腰を抜かすでしょう。
 
[0100]          07.02.08
 
【江戸の職業】
 
 「小間物屋」C
 
  これは表通りに大きな店を構え商いをするものと、「背負(しょい)い小間物」と言って
  小さな引き出しが幾つも重ねた箱を2段に重ねて風呂敷で纏めて背中に背負い
  裏通りを(=裏長屋を)売り歩く商売です。
  当時の絵を見ると一つの小棚に引き出しが八つ付いており、これを二段重ねで
  背負っています。如何いう呼び方をして売り歩いていたのか興味がありますね。
  畳一畳くらいのスペースの上へ所狭しと並べてる図が見られます。
  商うものは大方、流行の最先端を行くものばかり。
  女性用の櫛、白粉(おしろい)、笄(こうがい)、紅、化粧油、歯磨き粉など
  それこそ各種、雑多なものです。中には艶本を得意とする商売人も居ました。
  川柳や落語に時々出てきます。
  酔っ払いが飲みすぎて部屋の畳の上にどっと飲み食いした物を吐き出す事を昔から
  「小間物屋を開く」と表現しますが、語源はこれです。
                                                 古典落語「うんつく」
[0099]        07.02.07
 
 【江戸の職業】
 
 「魚屋(魚小売店)」B
  
  結論から言えば魚屋は存在しませんでした。エッ!でしょう? そうなのです。
  今流でいう魚屋は一軒とて有りませんでした。
  理由は氷も冷蔵庫も無かったからです。氷は魚よりもずっと高価でした。
  店先に並べて売っていたのでは、すぐに痛んで売り物にならなくなります。
  
  魚は専ら「棒手(ぼて)振り」が天秤棒に担いで大声を出して小走りで売り歩いていました。
  初鰹の場合は日本橋横の魚河岸から黙って急いで贔屓のお客の家へ届けました。
  「カツオ〜かつおっ〜い」と棒手振りが声を出して売り歩くのは「戻り鰹」と言い
  夏が終わる頃でした。他の魚もこれと同じです。
 
[0098]       07.02.06
 
【江戸の職業】
 
「按摩」A
    俗に「座頭」とも言います。 
    盲の按摩は正式には盲官位四段階に区分されていました。
    最高位の1位は「検校(けんぎょう)」2位は「別当(べっとう)」3位は「勾当(こうとう)」
    4位は「城(じょう)」または「一(いち)」と言う名前が貰えます。
    最高位の検校は紫の衣を着る事が許されました。
    尤も、按摩を揉めば誰でもその名前を貰えるおではなく位に応じた「上納金」を
    納めなければなりませんでした。
    紛らわしいのは「市(いち)」と言って上納金を納めずに闇で商売をしている連中です。
    発音が同じなため「一」と聞こえる効果があり、逆に咎められた時の言い訳に使われますから
    勝新太郎の「座頭市」のような人間が居たのです。
    「座頭」に入ると「一名を取る」と言いました。
    城(一)は贔屓の客の家へ訪問する場合と流して歩く途中で見つける客がありますが
    流しの場合は上・下を揉んで48文、贔屓客の場合は百文が標準でした。
 
[0097]       07.02.05
 
【江戸の職業】@
 
  江戸(時代)は会社・企業というものはありませんから武士は別として庶民にサラリーマンは居ません。
  いわゆる「法人」は無いので誰もが「個人」です。
  個人ですから、腕に職をつけて何かの職人になるか何かを売り歩くか何かの店を開くか商売人に
  なることです。
  また先祖から百姓であればイヤでも百姓を続けるしかありません。
  幕府や各大名は百姓が自分の知行地から逃げるのを極度に恐れていました。
 
  江戸と言われるところは意外と農地が多く、以前に私は江戸町内の敷地の割合を武士・寺社・町民で
  6:2:2と書いた記憶があります。それは早く覚えるための極論ですが早く覚える為の便法でした。
  実際は江戸の町(現在の山手線の内側)の中だけで百姓の畑が約3割もあった
  という最近の報告があります。
  それによれば大雑把に言って山手線内側での武家:農地:寺社:町人の割合は
  約4:3.5:0.5:2位と言う資料があり、どうもこれがが正しいようです。

  古典落語に「目黒の秋刀魚」という有名な咄がありますが、目黒は辺り一面が畑と表現されており
  恐らくそれが実態だったのでしょう。

  川柳・古典落語の理解を助けるには吉原遊郭・武家・長屋の状態を知ることが必須ですが
  最も大切なのが町人の商売・職人と町人の生活・習慣を知ることになりますが
  私には少し荷が重過ぎるように思います。しかし何とか頑張ってみます。
  商売や職人の種類は判っているだけでも少なくとも300種類もあります。
  明日から、大切だと思うものだけを幾つか拾って説明します。
  それが終われば吉原遊郭の後半へと戻ります。
 
[0096]          07.02.04
 
【大奥の話】C
 
「御次」
 
 最後に登板するのは「御次(おつぎ)」です。字の如く「中ろう」の次の位に位置する
 「中ろう」予備軍です。(年給は八石三人扶持)
 なるべく御台所の近くに居て仏間の整理や掃除、茶道具や御膳を備えたり湯殿の雑用を
 したりしましたが、中でも大切なのは大奥で何かの催し物をやるときは進んで
 芸を披露することでした。ですから「中ろう」は大抵の芸は出来たと言います。
 
 御次は将軍の目に留まる所でもたまには仕事で顔を出す場合がありあす。その時
 将軍の目に留まり「あのものは何という名か?」などと聞かれたら、脈有りです。
 将軍→御台所→中ろうへと指示が出て、運が良ければ「中ろう」に出世します。
 こうなればもう「お手付き」になるチャンスも大きくなるので将来がパッと明るくなります。
 これを利用して自分の娘を進んで御次に差し出した高級役職が居たのですが話が逸れて
 しまいますので、これで止めます。 
 
[0095]       07.02.03
 
 【大奥の話】B
 
 将軍家は「世継ぎ」が居ないと大変なことになりますから常に少なくとも10人内外の若い女性を
 側に置いていましたが、この将軍に仕える女性のことを「中ろう」と言いました。
 
 それを俗に「側室」と言います。この「側室」には二種類ありました。
 
 一つ目は「お清(きよ)(の方)」です。
 正室である御台所に仕えて身の回りの世話をする「中ろう」のことを「お清(きよ)(の方)」と言いました。
 「清い」とは処女の事でまだ将軍の手が付いていないという事です。
 彼女等は殆どの場合は公家の娘でした。
 声も上品で教養もありますが総じて柳腰で蒲柳の質を持ち短命でした。男としても余り魅力は感じません。
 将軍と朝廷の間で300年間近くも続けられた政略結婚です。将軍の権威を保つためだけの目的です。
 
 二つ目は「お手付き(の方)」とも言い、基本的には旗本の娘で江戸の生まれ育ちで健康で丈夫です。
 将軍の目に留まるか又は「年寄」から指名されたかして将軍の夜伽をした「中ろう」です。
 旗本の娘以外としてまれには将軍が外出した際に、たまたま市中で目にした町人や
 百姓の娘である事もありました。将軍の手が付いたのでこう呼ばれました。
 将軍の子供を宿すと、途端にエラクなりいずれは本来の「正室」を脇にどけて自分がその座を占めます。
 
 「お清」や「お手付き」とは随分と直接的で、あからさまな表現で驚きです。
 
 将軍の子供を宿す女性は「お手付き」に限ります。
 「正室」は浅草の徳川家の菩提寺である東本願寺へ将軍が直接に参拝する時くらいしか外出しません。
 将軍が役職で忙しくて自分が参拝出来ない時には正室に代参をさせますが、
 「中ろう」はその時だけ正室に連いて 外出できましたが、それ以外は一生、外出は許されませんでした。
 窮屈な世界で可哀想です。
 まだ10歳台後半から20台の若い女盛りなのに男から完全に切り離されてしまっていました。
 
 既に記しましたが将軍の夜伽の相手を決めるのは年寄りだけが持つ権限です。
 
[0094]        07.02.02
 
【大奥の話】A
 
 大奥に働いていた女性の総数は江戸末期で約350人でした(当時の記録より)。
 その頂点が「上ろう年寄り」と呼ばれる女性です。
 
 「上ろう年寄り」とは「年寄」を退いた年配女性で京都の公家の娘が殆どでした。
 大奥のことなら一切を知り尽くしています。人数はたったの一人です。
 主な仕事は「年寄」からの相談に乗ってやることですが早い話し、お飾り役です。
 それと殿中での茶会などで将軍や正室(御台所)の接待役をする事でした。
 
 「上ろう年寄」の前の段階とは「年寄」の事です。{「ろう」は大変に難しい漢字です}。

 「年寄」とは大勢の「中ろう{後述}」の中からたった一人だけ選ばれた女性
 (→これを「お清の方」{後述})であり男性が働く「表」の世界のトップを老中とすれば、
 それに対応する「裏」女性界の代表的立場にありました。大奥の実質的な支配者です。
 
 御台所から将軍の諸注文を聞くのが彼女の重大な役目でした。
 中でも今晩のお伽をする「中ろう」を決めるのは将軍からの特別な要望が無い限り彼女が独断で
 一切を取り仕切ってこれを決めていました。
 
[0093]        07.02.01
 
 これで一応役人の話しは終わりとし江戸城内の女性社会に今日から少し触れてみたいと思います。
 そのほうが今後、何かと都合が良いらしいので。
 
【大奥の話】@
 
 よく江戸城の女性達の生活の場所を「大奥」と一括して表現しますが、これについて説明します。
 
 江戸時代よりずっと前から日本は儒教の影響が大きかったので「家」という考えをとても大切に
 して来ました。昔は見合い結婚が当たり前であり、恋愛結婚が公けに認知されるようになったのは
 つい最近の「大正デモクラシー」になってからですから、100年位の歴史しか持っていません。
 
 武家では「世継ぎ」は大問題でした。世継ぎが居ないと下手をすれば知行を取り上げられます。
 そこで武家は「家」を支え家中全員が生存していけるように立ち働く「表」向きの主人と
 その主人が表で安心して働けるように裏で家中を守る「奥(家内)」とで成り立っていました。
 武士同士が会話で妻の事を「奥が・・」と言うのはこれです。これに対して町民は妻の事を
 「女房が・・」と言うのが習わしでした。
 現代のように「カミさんが・・」というような「軽い」(←これは私の偏見か?)言い方はしませんでした。
 
 徳川幕府でも表である男社会と奥である女社会をはっきりと区別しました。
 江戸城内の女社会は「上ろう年寄り」を頂点とする婦女子(奥女中)の世界がありました。
 それを総括して「大奥」と言いました。
 天下の将軍様でもこの世界だけは直接、口出しは出来ません。
 どうしても用事がある時や何か注文を付けたいと思った時は自分の妻に頼みました。
 なお、将軍の妻は「正室」または「御台所(みだいどころ)」と言います。