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4/8 オイラ 「道のり」
4/16 オイラ 「小泉さんで変わるのか?」

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2001.4.16 オイラ 「小泉さんで変わるのか?」

日本人の音楽観と、西洋人のそれはいろいろな違いがあります。
リズム感を例に挙げると、日本人はダウンビートで西洋人はアップビートだといわれます。オイラもそう思います。具体的にいうと、日本人はソーラン節「♪ーレンーラン♪」「ヤ」「ソ」のところで手拍子を入れるでしょ?表(おもて)の拍にビートを感じ、しかもそれはダウンのイメージを持っています。西洋人なら「♪ヤーンソーン♪」と、「レ」「ラ」のところで手拍子(あるいは指ぱっちんか?)を鳴らすでしょう。裏拍にビートをとり、しかもアップのイメージを持っているのが分かりますよね?

この話は実は前置きで (^_^;)、しかも奥が深いというか、書きたいことが浅く広くたくさんあるので別の機会にゆずるとしますが、この音楽観の違いを語るキーワードに「農耕民族」と「狩猟民族」という捉え方があります。腰をかがめ、田畑を耕したりクワをつかうのはダウンビートで、狩猟のために馬に乗る彼等はアップビートが身体に染み着いているというもの。

で、今日言いたいのは、それって音楽に限らずに僕らの生活や者の考え方の中に確認できるということです。日本人の生活が西洋化するにつれて、見分けの付かないことが多いのは当然ですが、だからこそ浮き出て感じることがたまにあります。

自民党総裁、イコール日本の総理大臣の選挙は虚しさとはかなさが漂う道化の極致ですが、オイラは選挙のニュースを見るにつけて「やっぱり僕らは農民」と納得してしまう昨今です。

「日本人は集団行動が上手」というのが定説ですが、これは協力したり、譲り合わないと農業がなりたたない由縁とも取れますよね。その昔はみんなで大きな土地に野菜とか作っていたんでしょうから、全員がおんなじことしていないと実りの秋は迎えられない。一方狩猟民族は、誰か1人が大きな獲物を捉えることに成功すれば、その集団はその日を乗り切れる。

だからリーダーの仕事や期待される能力も当然変わってきます。農民にとってリーダーは(リーダーがいたかさえ疑問ですが)、「ここには米を植えよう」とか「君は力持ちだから水運び」とか、働く環境の整備や個人個人の能力を適材適所に配置するような能力が、農民のリーダーには必要だったでしょう。対して狩りの場合は簡単。獲物を捉える能力がある人がリーダー。っていうか王様。王様は結果を残した上でのリーダーなので全員納得でしょう。そして時が経てばサル山のボスザル交代のように力のあるものが次のリーダーになる。

そう考えると農民のリーダーは非常に評価が難しいでしょうね。不作に終わっても「天候のせい」ともとれるし。農民は農民で、言われたとおりに働かないと成り立たないもんね。反感や不服が多少あっても「まぁ、まぁ」と片づけがちな僕らの思考回路は、高床式倉庫が縄文時代に生まれた頃には決定的な文化となっていたんだなぁ。

今の日本(というかほとんどの世界)が西洋の思考回路を標準としている中、総理大臣のイスをめぐるわが国のボスザル決定戦は「まぁ、まぁ」の機運が如実に浮き彫りになっていてさ、なんだか虚しくないですかね。だからといって国民が選挙権を持っていいのか?農民が個性もって発言し出すと大きな実りは期待できないんじゃないのか?とも感じてしまいます。僕らはどこへゆく?ヤーレンソーラン・だうんびーとぉ。


2001.4.8 オイラ 「道のり」


4月にはいってからオイラは毎日のように自由な生活をしています。プーな時間を満喫しているというところでしょうか。3月までは忙しさに追われる毎日が続き、精神的にも自分を見失っている状態でしたので、久しぶりに羽を伸ばしている、そんな状態です。

羽を伸ばす時間があれば、トークも書けたり、自分のしたいことが十分に出来るというのが、忙しい日々を送る人々のある種『夢』みたいなところありますが、オイラの場合そうでもない (^_^;)。ダラダラとしている間に1日が終わってしまうこともよくあるんです。根がとことんだらしない\(^o^)/。逆に自分自身がこのだらしなさに飽きるまで、3年ねたろうを決め込む。

しかしこのだらしなさは、必ず必要な時間。少なくともオイラにとっては最も重要な時間かも知れません。ダラダラしていると見えてくるもの、せっぱ詰まっていないからこそ考えられる事が少しずつ自分をリフレッシュしてくれていきます。 鮮明にみえるまで静かに待ち続ける。これは年を取れば取るほどに難しい作業ですが、なくしたくない時間です。

この10日程度、気力を失ったような日々を過ごすことで、やっと五感以外の細胞が活動的になってくる感覚を覚え始めました。『感性』みたいな崇高なものではなくて、もう少し生活感のあるイントネーションなんだけども、この感覚を大事に培養することで、自分の音楽をもう一度取り戻すきっかけを掴もうとしているところです。

外を歩いていると自然に口ずさむメロディは、そこらのガキんちょが怒鳴っている歌声とそう変わらないレベルです。でもそのひとつひとつを五線に残すと、そこにいろんなバクテリアが張り付いてきてざわめき始めます。多くはカビてくるけど、中にはクツクツと、温度を保ちながら発酵してくる音がある。今のオイラはその発酵してくるかすかな匂いを嗅ぐために、24時間を費やしている。そんな気がします。

自分を取り戻すと先に表現しましたが、正確には自分になるための長い道程を歩いているだけのことでしょう。そしてそれは全ての人々が毎日おこなっていることと変わりなく、でもみんながしていることを自分もすることができるということが、実はスゴイことなんだなぁ!

ブランブランと生きていくのは疲れるけれど、自由人で且つ音楽家で且つ自分のことが大好きで且つ自分のことが大嫌いでいることが、オイラの行きたい道のりだと感じます。そんなへんな春です。皆さんの道のりには何か転がっていますか?


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