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1999年12月のトークページです。
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最新のトークはこちら。
12/1
オイラ 「URL変更のごあいさつ」 12/13
オイラ 「タバコスパスパ。夜毎集会」 12/2
オイラ 「掲示板でコミュニケしましょ!」 12/14
オイラ 「年末第九タイコの憂鬱」 12/3
オイラ 「パフォーマンス考」 12/15
オイラ 「ニッポンの未来はYear!」 12/5
オイラ 「ご報告」 12/21
オイラ 「オイラのDecade」 12/6
オイラ 「マレットが教えてくれる」 12/24
オイラ 「クリスマスは恥ずかしい」 12/8
オイラ 「お見舞いお断り」 12/26
オイラ 「年末・暦・季節感」 12/11
オイラ 「キュ、給食だぁ!」 12/28
オイラ 「ウェスト・サイド・ストーリー」 12/12
オイラ 「夢の分析、アナタもいかが?」 12/29
オイラ 「美しい日本語」 12/31
オイラ 「みなさま、よいお年を。」
ただ今12月31日19:00です。NHKのニュースではY2Kについての情報をしきりにながしています。この文章がアップする頃は新年になっていると思います (^_^;)。
今年1年はうんざりもたくさんの皆さんに支えられながら、楽しい想い出をいっぱい作ることが出来ました。本当に有り難うございました。
現在は活動を休止中のためにライヴの予定もないうんざりです。この先の活動に関しては不安と問題もたくさん抱えていることも事実です。今後さらに活発な活動をしていくのか、それとも年に数回のライヴで細々といくのか、オイラの身体が完治していないことも今後の活動にとってマイナスだと思います。
それでも、信念を持ってはじめたユニットです。冷静に、前を向いていけばおのずと次の一歩が踏み出せると信じています。
パーカッションやうんざりの音楽は、年齢の格差を超えて多くの皆さんに喜んでもらえると信じていますし、インストは国境と言葉の壁を越えることもいたって簡単です。唄を歌うのも、それを受け止めるのも全て人。人の心が温かく、ステキな社会になることを願ってやみません。うんざりが、オイラが出来ることを正直に行うことのみが僕ら全員の幸せに繋がると信じてい歩いていきたいと思ってます。
このページではたくさんの失礼な発言もしてきたと思ってますが、ご容赦ください。今後もオイラやメンバーの本音を語るページとして更新していくつもりです。皆さんの声、お待ちしてますね。
よかった今年におとしまえ。みなさん、よいお年を。
年賀状が書き終わり、今日タワーレコードで見つけたKarl Jenkinsの「ADEIMUS」(NHK『世紀を越えて』サウンドトラック)を聴きながらほっと一息ついているところです。
年賀状などを書いていると日本語の美しさや繊細な表現を身につけたいと思いますが、これは至難の業ですね。季節の挨拶や敬語、形式的ではありますが便せんに毛筆でしたためる手紙は日本語を美しく際だたせるのに適した手法だと感じます。年賀状はもはやクリスマスカードと同じ類に分類すべきものになっているので、美しい日本語をのせて贈るという側面は何だか古くさいものにも感じますが、奇麗な日本語を毛筆ですべらせた文章は抽象画のごとき爽やかさで贈られた人の胸に届くのでしょう。
コンピュータ、雑誌、英語などの文化を取り入れることで日本語も日々変化しています。良く考えると、縦書きも横書きも自在な言語って少ないのかも知れません。漢字、ひらがな、カタカナのみならずアルファベットまでも文章の中に吸収していく日本語は、柔軟で無限の表現を可能にするあまり、培ってきた美しさも簡単に置き去りに出来てしまうと思います。
キーボードを使った入力は、手書きの文章にはない新しい可能性と文化を切り開きつつあると思います。オイラはキーボード入力の方が確実に脳と直結しています。皆さんもそうじゃないですか?
手書きの場合、「しょうゆってどんな漢字だっけ?」などと悩むものですが、キーボードではその心配は激減します。そのかわりにふりがなが間違っている場合、絶対に正しい入力が出来ないことになります。日本語は楽譜と同じくらいいい加減なもののようです。一番いい加減なのが「じ」と「ぢ」。
「女性」は「じょせい」です。「ぢょせい」と入力間違いをする人はまずいないでしょう。じゃ、「地震」はどうでしょう?
「じしん」が答えです。でもちょっとおかしいと思いませんか?「ぢしん」でしょ。ホントは。地(ち)が震えるんでしょ?
「その通り」はどうですか?
答えは「そのとおり」。「そのとうり」では誤入力になります(とうぜん「そのとーり」も (^_^;))。もちろんIMによって違うこともあるでしょうが、統一がとれていないまま日本語は変化し続けてきた証です。ワープロ・キーボードの使用で今まで日本語の中でいい加減な扱いを受けてきたふりがなが問題になっていると思います。外来語表記の問題も含め、早急な対応が必要な気がします。でないと検索してもひっかからないデータベースになってしまう。ビバルディとヴィバルディとヴィヴァルディ、ショスタコービッチとショスタコーヴィッチとショスタコーヴィチ、アレレ?オイラのCDデータベースはどうだったっけ?(確か小学校では音楽の作曲家のみ、「ヴ」を使用することが許されているらしいです。)
ネチケットという造語があります。ネット・エチケットのことですね。メールやネット上での発言のマナーのことですが、インターネットの普及とともに確立され、時代とともに変化して行くでしょう。その中で昔の人に負けないくらい美しい日本語を確立していくことは、どうでもいいことではないと思います。未だにHP上で縦書きさえ実現できないアメリカ主導の技術であることに疑問を持ちたいと思います。不自由なコミュニケーションの場であることを理解することが、ネチケットの確立に次の一歩を記すことが出来ると思います。
「○○さんはさすがですね!」この文章も場合によって賛辞・皮肉・敬意・ボケなどと意味が変わりますが、テキストのみの情報ではうまく伝わらない。フェイスマークはネットで生まれたコミュニケーションの潤滑油ですが、これも使い方(というか読み方)次第ではケンカを売っていることになりかねません。
フランス語の美しさを守り続ける、素敵だと思いませんか?ドイツ語には男性・女性・中性名詞で接頭語が変化します。勉強する外国人にはバカげたものに思えますが、それによってドイツ語のもつ独特の美しさが際だつんだと、オイラは感じます。
書(しょ)を芸術の分野にまで押し上げた中国や日本の文化。紙質や墨の濃淡でフェイスマークなんか遠く及ばない表現を可能にした文化。根底からして西洋のテキスト文化とは違う発達をしたことを脳味噌の片隅にいつも忘れず置いておきたいと思います。「うんざり」う〜ん。美しい名前。
1999.12.28 オイラ 「ウェスト・サイド・ストーリー」
ウェスト・サイド・ストーリーを観始めたら、最後まで釘付けになってみてしまいました。テレビ東京で放映していました。ウェスト・サイド・ストーリーはレナード・バーンスタインが曲を担当したミュージカルで、その後映画化され、曲はいたるところでアメリカの代表作として演奏されるようになりました。バーンスタインの凄さが身にしみます。
この映画は当時のアメリカの汚れた部分を浮き出しにしていますが、そのほとんどが今の日本にもあてはまるように感じました。ジェット団とシャーク団の闘争は汚れた社会でもがく若者を描いています。未成年犯罪をとりしまる警官は最悪の人格で描かれ、神奈川県警とヨコハマ暴走族の争いのようにも見えてきました。物語自体はロメオとジュリエットの焼き直しですが、そこには当時のアメリカが匂いたつエッセンスが散りばめられています。
ウェスト・サイド・ストーリーは以前に何度か観ていますが、今日観ていてハマった点は映像の美しさに再度驚かされたことです。昔のアメリカ映画特有の原色のつよい色彩感は、自然な色合いとはほど遠く、まるで全て(俳優から景色の木々まで)がプラスティック製品に見えてくるので、日本人としては受け入れにくいものがあるけれど、今日はその色合いの美しさに気付かされた気がします。
GAP(最近はやりのファッション・メーカー)のクリスマスCM覚えてますか?真っ白い背景の中でカラフルな服を着たダンサーが踊っているもので、CMの間音楽が流れているのみで、せりふが一切ないことがインパクトを持ったCMでした。あのCMの色彩感覚もいつもオイラを魅了してくれましたが、あのセンスはアメリカに脈々とながれる伝統的な色彩感覚から派生していることがウェスト・サイド・ストーリーで再認識させられた思いです。ビタミン・カラーと呼ばれる原色のオレンジやグリーンがこの冬のアイテムとしてアパレル業界を彩っていますが、その色がウェスト・サイド・ストーリーの中でもマリアやアニータによって素敵に着こなされていました。
ウェスト・サイド・ストーリーは全体として暗い映像作りをされています。街にはびこるチンピラ(チンピラでいいのかな?)達の話ですから、地下の倉庫や酒場、夜の場面が多いので当然です。でもその場面場面に映し出される映像は、どこを取っても美しい。もともとミュージカルなのでダンスと歌が散りばめられているので、セット自体が広い空間を持っていることもあるでしょうが、スラム街のくすんだ街並みに映える若者の服装や、貧乏な暮らしをあざ笑うかのような鮮やかな背景などがこの映画を美しく演出していました。
「Coolでいこうぜ!」ジェット団が踊ります。最近はCoolという言葉がよく聞かれるけれど、その言葉が「かっこいい」意味で使われる理由が分かります。日本の「任侠」に似た美学が根底にあるようで、あまり軽々しく使いたくないと思い直しました。
これから深夜を中心にいろんな映画が放映されますね。
正月はフランク境の「喜劇○×旅行」シリーズが一番!と思っていますが (^_^;)最近は放映されません。悲しい。でも「宇宙戦艦ヤマト」が明日、明後日と放映予定なので、クビを長くして待っているオイラです。正月は名作からB級映画までたくさんあります。コタツとミカンでゆっくりしましょう!
クリスマス、大晦日、そして正月と年末年始は今年を振り返り、来年への抱負を抱く季節です。全く昔の人は素敵なことを考えたもんだと感心します。
1年間の季節をよくかんがえてみると、11,12月は一番とりとめのない時季だと思いませんか?秋の紅葉もすぎて、冬に向かって日々寒さが厳しくなるけれど、1,2月あたりの切るような寒さに比べるとやや生ぬるい。5月病というものがあるけれど、今の季節もそれに似た感覚を覚えることありませんか?
でも人間社会では年末まっただ中。今年のうちにやらなければならないことや、来年の準備以外にも気持ちの上で切迫してきます。とても5月ののんびりした気分でいることが出来ないようになっています。オイラのように暇な年末を過ごしている身でさえ、何故だかじっとしていられないような、残尿感のようなもどかしさを感じるわけですから。
多分肉体的には疲れや気だるさが現れるであろうこの時期に、年末というだけで徹夜して仕事をなさっている方もたくさんいたり、寒くて仕方がないのに忘年会と称して仲間と鍋を突っつきあったり。ホント、先人の皆様が考えついたことには感心させられてしまうことが多いですね(感心させられてしまうものだけ残っているから当然ですけど)。
人は自由に生きているようで、自由なだけでは何もできない生き物だと感じます。自分に厳しく、仲間にきびしくしていくことは、人の培った知恵でしょうか。生物的にも社会的にもある程度のいましめとストレスを自分たちに課すことは良いことであることを最近の僕らは忘れかけているのかも知れません。また今年のイヤな出来事もひとまず忘れて、来年からもう一度仕切り直すことが切るから、みんなもう一度がんばれることがたくさんあるでしょう。季節、暦、風習などは、古くさいものではなく、古くさいものにしてはいけないものなんじゃないかなぁ。
そう考えると、来年から始まる祭日移動制度(正式な言い方知りません)はオイラ的には抵抗があります。成人式は第2月曜日とか、体育の日は10月の第2月曜日っていうのは、連休になって嬉しいな。なんていう不埒な景気回復策として取り入れていいものかどうか。効率をあげることに暦さえ縛られはじめているようでちょっと嫌な気分です。5年もすれば慣れちゃうだろうけれどね。でも日本人の季節をとらえる感覚は僕らの宝物だと思います。オイラも無くさないでいけたらなぁ、って感じました。みなさんはいかがですか?
MP3のアップの折りに、いくつかデータをいじっていたら、HPの更新が出来なくなるばかりか、すでにアップしたデータも削除されてしまう羽目になってしまいました。なんとか復旧できました。
クリスマス、みなさんはどうお過ごしでしょうか?
今年のオイラはまだ入院している覚悟でしたので、特に予定もなくのんびりとしたクリスマスになりそうです。それでも毎年この時季は曲を描いていることが多く、今年もつらつらと描いています。うんざり一番の大作である「野性的な七面鳥」の七面鳥はクリスマスに曲が出来た事によるネーミングです。オイラが曲を描きはじめたきっかけは、当然女の子がらみで して(^_^;)、昔むかしの学生時代(あえて小中高大は明言しませんが)に聴いて欲しいと想い創ったのが最初です。 1万円のカシオトーンとドラムでラジカセを駆使して重ね録りしました。3曲創りました。当時のオイラとしては初めての作業だし、約1ヶ月を要したので渾身の出来映えと思いましたが、今思うと顔から火が出るようなシロモノです。アーハズカシー!
ラヴレターは、後から読み返せば確実に恥ずかしいものですが、曲となると手元に譜面やマスター音源が残るので、とってもとっても恥ずかしいものですよ。みなさん気をつけてください。曲を贈ろうなんてことはそれ相当の覚悟が必要ですよ!
オイラの場合結局その娘には渡せませんでした。告白もなんにも出来なかった寒い夜、クリスマスではなかったと思うけど、冬のこの時期の出来事です。土壇場で渡せなかった可愛い想い出がよぎる今年のクリスマスです。
オイラの部屋は非常に寒いです。
暖房の調子が悪いために、靴下ははきっぱなしだし、外出中と同じくらい着込んでいます。今日たまりかねてガスファンヒーターを購入しましたが、この時期配達がこんでいるようで1週間後到着だって。ミレニアムを辞書でひいてみました。[millenium :1000年間、1000年期 黄金時代]
キリスト教において、1000年というくくりはとても神聖なもののようですが、数行の辞書ではよくわかりません。でもミレニアムという言葉には神秘性と祝祭性がありますね。普通の人間が想像できる時間の幅を超越しているからでしょうか?100年のくくりを [century 1世紀]といいます。20世紀から21世紀への通過を経験する我々現代人にとって一番意味のある年代の区切り方だと思います。20世紀の人類の行動は振り返る暇もなく突っ走ってきた時代です。政治、産業、文化。そんなものが捨てられ、作られ、そしてまた捨てられた時代、オイラにはそう映っています。21世紀も最初のうちは20世紀の延長として、交通や通信の発達にともなった情報社会がイニシアティヴをとっていくんでしょうか?
対して10年間を表す言葉として、ディケイド [decade] があります。10個ひとくみとか、10巻セットなどにも使われるようで、ミレニアムからみるととても現実的で親近感のある言葉です。日本でも10年ひと昔と言う言葉で語られる単位ですね。
オイラは今年、このディケイドという言葉がいつも頭のどこかにあった気がします。今までの10年間を振り返る余裕が出来たことと、ちょっと年をとったことが原因です。
この10年間はオイラにとってたくさんの出来事が過ぎ去っていきました(過ぎ去ったという言葉が適当だ)。そして今、これから始まるオイラのディケイドをどうデザインしていくか、静かに深く考えています。一昔前のオイラが感じたり、大事にしていたことを今のオイラが同じように感じているかと言えば、全然違う気がします。根底に流れるものは何も変わらないけれど、行動やアプローチは日々変化しているので、10年も経てば随分と違ったことも考えているようです。成長したとは思えないのが辛いところですが (^_^;)。10年後のオイラがどうなっているかなんて、ナンセンスなことは考えないけれど、オイラの人生の中でこれから始まる10年間は、おそらくもっとも運命的で激動を感じる予感を感じずに入られません。今は嵐の前の静けさにも似た匂いを感じます。
オイラの音楽活動のひとつとして、うんざりを始めました。音楽に対する自分の考えややりたいこと、他の音楽団体に対する疑問や自分が本当に探しているものを見つけるために模索しはじめました。確固とした信念と暗中模索の不安が複雑に交錯したものが、オイラにとってのうんざりの姿です。いつも楽しいことと苦しいことが背中合わせでここまで活動してきました。この先いつまで続くのか、形が変化していくのか、オイラの音楽感と整合性がとれなくなる日がくるのか、見当もつきません。なるようになるだけです。
プレイヤーとしてのオイラに出来ることは、演奏し続けることであることは疑いの余地がありません。自分の可能性を試した10年間をふまえて、これから始まる10年間でオイラの中にある大きなものを捕まえたい。そう感じます。
1999.12.15 オイラ 「ニッポンの未来はYear!」
今日正式に退院してきました。担当医と、お世話してくださった看護婦さんや同室の患者さんには感謝の一言です。
オイラの何処が悪いのか、今までちゃんと言ってませんでしたが、隠すこともないので簡単に発表します。「尿管狭窄による水腎症(カルテによる)」です。
右の腎臓が腫れています。この原因が腎臓から膀胱につながる尿管の一部が狭くなっているという事で、治療とはその狭くなった尿管の一部を治す、あるいは切除するものです。
今回の入院では狭くなった尿管にパイプを通してみることが第一目標でした。これがうまく行かなかった場合、その場でオペとなり切腹作業の予定でしたが、うまくいったために手術は7分で終わってしまいました。で、このまま(今パイプが入ったままになっています)数カ月間の経過観察をして、今後の治療方法を考えていきます。今はまだ異物感があって少し痛みます。
入院するまでは、体力が落ちないか?とか無事仕事に復帰できるかなんてことがすごく心配でした。入院するということがオイラの生活の中で無駄なことというか、停滞するだけの無駄な時間と考えていたわけです。しかしそうではなかった。入院しててもオイラはオイラ。前に進むための時間だと気付きました。
オイラは運良く1週間で退院となりましたが、患者さんの中には半年以上入院されていたり、14歳の女の子が点滴ぶらさげながら病院の中を歩き回ってたりします。半身不随の患者さんたちは、リハビリのために真っ暗なロビーを消灯直前まで歩いたり、運動していました。喫煙室は患者さん同志がお互いを勇気づけたり、愚痴をいいあったり、一番病院っぽくない社交場となっていました。
たしかに病院や入院している患者さんは、一般社会から隔離されていますが、それでもその中にいる人たちにとってはそこが社会であり、人生の場なんです。言葉には力がないけれど、実感がそう言わせています。自分が置かれた社会の中で、いかに自分の生活をみつめるか?きっと健常者の僕ら(今は僕らにオイラ含まず (^_^;))こそ、もっと考えるべき事じゃないかって感じます。
何年も前になるけどKa-GUE時代に、ある養護学校で演奏会を開きました。僕らの演奏を聴く子供達は、身体や心に障害をもっていて、一般の小学校や中学校に通えないために養護学校に来ています。彼等の素直な反応は嬉しいなんて軽いものでなく、演奏出来ることがこんなに幸せなことなのかと改めて教えてくれました。
演奏会の最後に子供達が「島唄」を演奏して、踊りをプレゼントしてくれました。最後は僕らと一緒にもう一度島唄を演奏したんだけど、オイラは彼等の音のもつ力で嬉しくて半べそでした。社会に適合できなくても、それぞれが自分の人生を見つめることが出来れば、きっと幸せな社会が作れると思います。たとえそれが小さな社会だとしてもいい。つきつめればそれは「家族」ということかも知れません。問題はそういうミニマムな社会を受け入れる大きな社会を目指すことじゃないかな?大きな社会のための個人でいることだけでは、民主主義がきいてあきれます。
演歌歌手のCDの総売り上げが、宇多田ヒカルのファースト・アルバム1枚の売り上げにかなわなかったことがニュースになっていましたね。音楽ビジネスは大いに結構だし、必要とされないものは淘汰されるべきですが、音楽でさえヒットチャートというアングルでしか、その価値を推し量ることが出来ない社会は情けないとしか言いようがありません。インターネットやインディーズの台頭が少しずつ音楽界を変えようとしています。
2010年頃になれば、社会福祉や介護問題は「身近なもの」どころじゃなくなっているでしょう。今の日本で50歳をすぎて本当に健康な人などいないのかも知れません。寝たきりになったり、癌と闘ったり、痴呆症のおばあちゃんを世話したり、今とは比べものにならないくらい「小さな、それでも大事な社会」を受け入れていくことになると思います。そのためにオイラが出来ること、それはオイラがどこにいてもオイラの時間だと、その社会を受け入れる意識をもつことだと思います。
もしオイラが車椅子生活になったとしたら、あんな大げさな「階段昇降機」を面倒くさそうに動かす交通機関など死んでも使いたくないと思うよ。もし寝たきりになったって、独りで物思いにふける時間や、絵を描く環境は誰にも侵させたくないと思うよ。看護してくれる人たちへ感謝の気持ちこそあっても「申し訳ない」なんて気持ちだけは持ちたくないよ。
エコロジーだのバリアフリーだの、そんな言葉が時代のキーワードになっている間は全然ダメなんだなぁと痛切に感じる1週間を過ごしました。難しい問題だらけだけど、理想は譲れません。オイラがオイラとして時間を重ねて行くだけです。
一応明日(水曜日)退院することとなりました。
相当覚悟した今回の入院でしたが、あっけないものでした。おかげで年内は予定を入れずに空けておいたけど、全部自由な時間となり、ちょっとウキウキです。今日はクラシックの話でも。
年末といえば第九。ベートーヴェンの交響曲第9番ですよね。おそらく日本人が一度くらいはちゃんと聴いたことのある、クラシック・ナンバー1でしょう(対抗馬は運命とモルダウかな?)。年末になると始まる「第九ラッシュ」。これ日本だけの現象です。海外ではやっていません。大体海外の年末はクリスマスがメインですから、メサイヤとか、バレエのくるみ割り人形が多いんだと思います。なぜ日本では第九を年末にやっているのか?もちろんお客が入るからなんですが、先日大先輩に聞くことが出来ました。ある場所で第九をやったんです(けいこちゃんも一緒だった)が、その時に某オーケストラを定年退職なさった、日本打楽器界の重鎮(っていうか、おじいちゃんですが、オイラはその演奏には尊敬の念を抱いております)の方に聞くことが出来ました。
もともと第九は、N響などの老舗オーケストラがシーズンの最後を飾る演目としてやっていたそうです。シーズンの最後とは、西欧の慣習にならって7月(8月がシーズン最後の月だけど、定期演奏会は7月まで)なので、初夏に第九やっていたんだそうです。考えるだけで猛烈熱い!!で年末はメサイヤなどをやることが多かったそうですが、他のとあるオーケストラが年末に第九をやったところ、大ウケしたらしく、それを他のオーケストラがだんだんと真似するようになって現在に至るそうです。やはり師走には「餅代をかせぐ」のが日本人の感覚でしょう。クリスマスと騒ぐよりも、お正月を無事迎えたいという気持ちが、演奏側と聴衆側で一致したのが第九だったんだと思います。「今年もいい年だったね。来年もいい年になりますように。」っていう年末日本の思考パターンに、第九がバッチリはまったんですね。ただしこの話、大先輩を疑うわけではありませんが、他の説ももろもろあると思います。どれが正しいかは立場により変わるので嘘ではないと思いますが、他の諸説を知っている方は教えてね。
第九はパーカッションにとっても特別な曲で、オーケストラ作品に初めてティンパニ以外の打楽器が使用された曲でもあります。大太鼓・シンバル・トライアングルは、今でもオーケストラ・パーカッションの3種の神器といっても過言ではないでしょう。
でもその頃にとってはものすごいことだったと思います。合唱もはいり、打楽器も入るなんて!打楽器はトルコ軍隊の行進を揶揄していますが、そんなものがもともと貴族の音楽だった管弦楽に入ってくるなんぞ、雅楽にホラ貝乱入するようなもんだとおもいます。そんな離れ業をやってのけたのは、ベートーヴェンが初めて「自分の生き様」を作品に注入したからに他なりません。やはりベートーヴェンは偉大です。しかし、第九はパーカッション・合唱・ソリストは、4楽章になって初めて登場します。最初3曲は何もありません。最近の慣例として、合唱とソリストは2楽章と3楽章の間にステージへ入場することが多く、大体の場合パーカッションの3人もそのときに一緒に潜り込みますが、ときどき「打楽器の方は第1楽章から板つきでお願いします」なんていわれますが、こうなると非常にきつい曲になります。ティンパニは横で頭っから汗水たらして演奏していますが、パーカッションは出番までの約1時間弱、座りっぱなしです。第九の場合3日連続演奏会なんてこともあるので、この辛さといったらありません。いくらいい曲でも限度がありますよ。しかもやっとめぐってきた出番はピアニッシモから始まりますので、神経を使います。うるさくちゃいけないけど決して暗い音は出せない。勝利の軍隊が遠くからやってくるんだから繊細なサウンドよりも空気感のあるサウンドが必要です。
みなさん、もし今年どこかで第九を聴いたり、合唱に参加する機会がありましたら、ぜひパーカッションの3人を温かい目で観察してやってください。
そして、第九は合唱の入っている「歓喜の唄」が有名だけど、この曲の素晴らしいところは全楽章のバランスです。どの楽章も猛烈な個性と主張を帯びているにも関わらず、総てが活きたまま曲を終えるのです。ベートーヴェン以後のクラシックや、それ以外のジャンルの音楽のバイブルといっていいほど内容が濃くて素敵な交響曲です。芸術とか年末とかそんなくくりで聴くのはもったいないし、失礼だとオイラは思うよ。ぜひ「ベートーヴェン君の本気の主張」、心と耳を傾けてみてください。
今日も病院での出来事をば。
喫煙室が1階のロビー横にありまして、ちょくちょく一服しにいきます。普段の生活に比べるとタバコの本数も激減していますが、どうしてもやめるまでの強い意志はありません。
喫煙室には内科・外科などいろんな患者さんが集結します。喫煙しているという事は症状が回復に向かっている人が多いので(これが全員ではないんですけどね。「タバコやめないとマジで死んじゃうよ!」と医者にストップされている方も中にはいるんですが (^_^;))、結果喫煙室は病院の中のコミュニケーションの場として盛り上がります。特に喫煙室の使用が終わる22:00直後は、終電間際の忘年会のような異様な盛り上がりを見せたりします。
東京の病院情報に詳しいひともかなりいて、「(有名な)○×病院の×○科はやめとけ。殺される」とか、集中治療室で植物人間になりかけた方などの話は、リアリティの塊なのでがぜん話は面白い!中には本気だか冗談だか分からないけど、命がけで一服している方も少なくありません。
<事例1>
ジィさんA「手術手術のくり返しでなんにも良くならねぇよ。」
オイラ「タバコいいんですか?」
ジィさんA「タバコくらい吸わないとやってられねェ」
オイラ「でも、止められてるんでしょ?」
ジィさんA「いいんだよ。いっそ死んじゃいたいよ。この歳まで好きなことやって、タバコパカパカ吸ってきたんだからさ、もう悔いはねェ。孫の顔も見れたしよ、これ以上病院で生き続けさせられるのは疲れたよ。」<事例2>
オッチャンA「タバコすって部屋に戻ると看護婦にすぐバレるよ」
オイラ「よっぽど鼻のいい看護婦さんなんですね。」
オッチャンA「違うよ。血圧にすぐ出ちゃうんだよ。すげぇ怒られるから、悪いと思うんだけどさぁ。」
オイラ「じゃぁ、もう吸わない方がいいでしょ」
オッチャンA「オレ肺ガンだもん!(笑)」
オイラ「え!ますますダメじゃぁないですか!?」
オッチャンA「いいんだよ、明日手術で取っちゃうからな。当分吸えないし。こわいのはガンが移店してることだけだな。」
オイラ「・・・(移店じゃなくて転移でしょ)」
オッチャンA「おい、それより牛丼気をつけた方がいいぞ!」
オイラ「どうしてですか?」
オッチャンA「オレの友達1年牛丼食ってたら大腸ガンで死んじゃった!」
オイラ「そりゃ食べ過ぎだぁ!」
オッチャンA「肉の食いすぎほどヤバイもんはないね」
オイラ「・・・(っていうかオッチャンタバコ吸いすぎで肺ガンでしょうが (^_^;))」文章にすると非常にシリアスになってしまいますが、こんな話が笑いと実感を伴って毎夜毎夜繰り広げられるわけです。同じ入院患者でスモーカーという情けない同胞意識が、ここまでシュールな話題を盛り上げているんだと思います。
それでも、医者にも家族にも言えない不安が、この喫煙室に立ちこめる煙と共に換気扇の外へ吐き出されていく感じ、なんともいい気持ちです。みなさんそれぞれに不安や、自分の情けなさや、医者への不満を募らせているんでしょう。1本のタバコを大事に大事に吸い上げて、でも部屋に帰ろうとはせずにウジウジしているおバカなひとたちは、憎みきれないオッサンたちでした。
1999.12.12 オイラ 「夢の分析、アナタもいかが?」
入院生活でもっとも辛いのは夜です。
消灯時間が22:00で、起床時間は6:00。朝はやくてもまた寝ればいいんですが、夜眠れない辛さは病院となると格別の辛さです。病院の夜は人気のない学校の夜に似ています。長い廊下に白い壁、突然苦しみ出す患者さんがいるとそこはもうオカルトの世界です。そんな夜の病院でオイラは毎夜毎夜、目が爛々と輝いております。お気に入りの看護婦さんが当直だと、ちょっとしたハートフルな雰囲気の時もありますが (^_^;)。
個室ではないので、テレビを見ることも明かりを灯して読書することもはばかられるベッドの上で、最近はいろんな事を考える時間に当てることにしました。いくら昼寝をしないように心がけても眠れないんですから。
夢について考えました。ここでいう夢は眠ったときに見る夢のはなし。
いろんな夢がありますよね。現実的な夢からまさに夢のような夢まで、ひとそれぞれに違う夢をみるわけです。で、オイラの夢を分析すると2つのパターンがあることに気付きました。名付けて、
1.参加型バーチャルドリーム と
2.プロデュース型映画監督ドリーム です。「1.参加型バーチャルドリーム」とは大体において自分が主人公で、そこに見える映像はまさに自分の視線のものである夢のことです。高いところから落ちる夢なんてのはまさにこれですね。この夢の特徴はシチュエーションが現実的・非現実的に関わらず、夢の中で主役を張っているオイラのリアクションは、ほぼ普段のオイラと同じであるということです。
「2.プロデュース型映画監督ドリーム」はオイラの視線はまさに映画監督のもので、そこに登場する人物が誰であれ(たとえ自分自身だとしても)俳優さんを思いのままに動かしてストーリー展開を図る立場の夢です。このパターンの場合、多くはドラスティックなストーリー展開で、最後は何が何だか分からない結末を迎えますが、たまに自画自賛するほどに感動的なラストシーンに出逢えます。
「1.参加型バーチャルドリーム」の醍醐味は、まさに自分がもう一つの世界を体験していることですので、登場人物がアイドルだったり、理想のお姉ちゃんだと俄然盛り上がりますが、そんなに創造力に溢れているわけではないのでおおかた知り合いが登場してくるわけです。火山が噴火して逃げまどうなんてことになると、汗ビッショリになりながら逃げまどったり、現実世界で同じ事に出くわしたときに自分がどういう行動をとるのか、本性が現れたりして、まさにバーチャルなひとときですね。
夢とは現実世界で危険が迫ったときに対処するためのイメージトレーニングであるという説がありますが、まさしくこれにあたるわけです。仕事(コンサート)に遅刻してしまい、いそいで開場へ向かい、周りは猛烈に怒っているのにオイラは途中から何事もなかったような顔をしてステージにいる夢をよく見まーす!!大体次の日が本番の夜にみるんだなぁ。「2.プロデュース型映画監督ドリーム」の醍醐味はなんといっても台本!登場人物の一挙手一投足からセリフにいたるまで全て無意識のうちに自分で演出してるわけです。そりゃどこかのドラマで聞いたことのあるような臭いセリフが飛び出ることもあるけれど、「オレにこんな才能があったのか?」と疑いたくなるようなステキなセリフが次から次へと登場人物から吐き出される展開になると、もう至高の悦び!今日この瞬間から夢と現実を入れ替えたくなるようなこともあります。オイラの場合、プラス音楽ものっかってきて、街の不良たちが粋なセリフを吐いて感動のラストシーンに流れるテーマソングは、そのままマッキーに分けてあげたくなるほどのスケールの広さでスタッフロールへと流れ込みます。
まぁ、この手の夢は、起床後1時間くらいは感動の中に酔いしれていられますが、だんだん意識が覚醒すると共にサブさがこみあげ、早く忘れてしまいたくなる類のもんですけどね (^_^;)。それでも感動すんだよなぁ。 黒沢明監督の「夢」なんてもろですよね。そのまんま映画に出来ちゃうんだから羨ましいったらありゃしないです!あの色彩感はオイラの夢にはないなぁ (:_;)。本当はどの夢も、1.と2.の混同で成り立っているわけですが、それでもほとんどは上の分類法で分けることが出来ます。あ、念を押しておきますが、オイラの夢の場合ですよ。皆さんの夢は分析のしようがありませんからね。
そういえば幼稚園のころって、実は一番エッチな夢たくさんみてた気がします (^_^;)。今でも鮮明に覚えているのは、ドラマ「寺内貫太郎一家」だったと思うけど、毎回ラストにマチャァキと浅田美代子が屋根の上で夜空を見上げて唄うの知ってます?あのマチャァキの所にオイラがいて、浅田美代子と一緒に唄ってるの。
んでもってんでもって、最後にチューしてくれたんですよ。唇に!
夢のくせにものすごいリアリティで、目が覚めたら布団の角にむかって口とんがらかせていました (^_^;)。あの日1日体が火照ってました。小学生の頃は悪友達と昨日見たエッチな夢自慢大会とかしてた (^_^;)。なつかしい!と共に人間性でるよなぁ。品も何もねぇ (:_;)!
夢って、いいね。毎日見れたらなぁ!
入院中ですが、なんと今日は外泊許可が出まして、ただいまオイラの汚れた書斎でございます。
今回は、ご心配いただいている方々に途中経過報告をさせていただきます。前回の「お見舞いお断り」が行きすぎていたかもと反省も込めてm(__)m。今回の入院では、2つの治療方法を用意していました。猛烈に簡単に言いますと、
1.メスを入れない回復処置
この回復処置がうまく行われた場合は、数カ月間の経過観察になります。
2.切腹による患部の切除
1.の回復処置がうまく行かない場合、そのままメスを使用したオペ。
ということでした。そして先日手術となりましたが、。今回の入院ではベストの結果となりました。つまり1.の処置が非常にうまくいったという事です。メスを入れる手術となると、手術時間も入院期間も大幅に大きくなるはずでしたが、最初の処置がうまくいったために手術は7分で終わってしまいました。医者もオイラもずっこけるくらい。おかげでオイラは「キズもの」にならず、退院も数日のうちに出来ることになり、土日は担当医がお休みのため (^_^;)、外泊許可がおりました。
これで数カ月間症状が回復するかどうか経過観察となります。が一応はホッと一息つけました。皆さん、いろいろとご心配をおかけしてます。今は右腹にパイプが入っているために患部は痛いけど、じきに慣れるという話です。
手前味噌ですが入院生活をご報告いたします。皆さんが想像しているよりも退屈ではありません。毎日なにかしらの発見や驚きがあります。長期入院を覚悟していたこともあり、逆に忙しい!!本は普段の生活では読まないけど興味のある本を20冊近く用意したのに、まだ3冊しか読破してません。年賀状のデザインなどは全く手つかずだし、曲ネタも8小節書いただけ。あと数日で退院だと言うのに忙しすぎて点滴どころではありません。手術当日は36時間、禁食禁飲禁煙の寝たきりだったし、要するに時間が経つのがものすごく早いかものすごく遅いかのどっちかなんです。
そんななかで楽しみはやはり食事。オイラの入院している病院は新しいので、設備もなかなか充実していますが、食事も美味しいですよ。濃い味のものは望めませんが、毎回毎回少ない予算とカロリーの中で工夫されたメニューが並びます。減塩食を召し上がっている患者の皆さんはいろいろと不服がおありのようですが。
今日の昼はシチューとロールパン、それにサラダがつきましたが、まさに小学校の給食を彷彿とさせてくれました。「休んだ生徒の分争奪ジャンケン大会」のようなイベントがないのが残念だけど、久しぶりにウキウキしたランチとなりました。
どうですか?パンもアツアツで出て来るんですよ!シチューはお肉たっぷりでした。いいのかな?
静岡県には給食レストランがあるらしいです。小学校の教室に小学校の机が並び、メニューはまさに小学校の給食!揚げパン(これは砂糖ときなこがあるらしい。オイラは砂糖しか知りませんが)にソフト麺、牛乳にはミルメーク(知ってます?コーヒー牛乳のもとです)まであるというレストランですが一度行ってみたいなとずぅっと思っていた矢先に今日のお昼だったので、感涙ものでした。
この病院の食事は大きなカートで運ばれますが、このカート、冷蔵庫と温蔵庫をかねていて、ひとつのお盆で左が冷たく、右が温かいまま運ばれてきます。いままで友人の見舞いなどでいくつか病院食を見ましたが、ホカホカの味噌汁や良く冷えた柿が出てくる病院ははじめてです。
これがカートの中身です。
真ん中の白い壁でひとつのトレイが仕切られて、右はホカホカ、左は冷え冷えで病室まで来てくれます。気分は給食の配膳車がやってくる4時間目の終わり5分前と同じ感覚ですよ。
今回同室になっているおじさんは、日本料理屋の板さんで、病状が軽いことも手伝ってよく外出しています。「今日は黒豆仕込まにゃ」などといいながら、日本髪を束ねた奥様と出たり入ったり。オイラは仲良くなった看護婦さんと冗談かましつつ(といっても看護婦さんは8時間の3交代制ですから、ほかの16時間はうるさい看護婦に怒られてますが (^_^;))、たくさんのことを考える時間が持てて、贅沢な時間を過ごしています。
とにかく今回の入院でも、公の場では発表できない赤裸々なことも当然たくさんあり、ここでお伝えできないことにHPの存在意義さえ疑ってしまうほどですが、何にしても人生に後退はないんだなと実感する毎日です。
音楽のことやそれ以外のこと、いろいろと思いをめぐらす毎日です。近々アップしていきますので、「病人のたわごとが!」と目くじら立て立て、読んでください。
オイラは今日より入院生活が始まりました。
先日検査入院をしたおかげで、病院の勝手やイキフンがわかっているので、今日は随分と気楽な入院生活第一日目となりました。明日からは治療が本格的になるので、やや不安です。
今回の入院についても、たくさんの皆さんから温かい励ましのお便りをたくさんいただいてます。この場をお借りしまして感謝申し上げます。
中には「お見舞いに行くから、病院教えてください」などと殊勝なことを申してくださる方もいらっしゃいましたが、オイラは面会をお断り申し上げています。うんざりメンバーにも断りました。オイラのわがままですいません。
お見舞いというのは、病に陥った人を心配する行為ですが、それが必ずしも病人本人のためとは限らないこともあります。今病人中のオイラがこんな事を書くと、非常に失礼かも知れませんが、見舞いというものは、病人が心配で、病人に逢いたいひとがするものです。つまり、病人本人の気分は二の次で、しかも見舞いに来てくれた人に「ありがとう」っていわなきゃいけない。入院生活というのは非日常で、通常とは体も心も違うんです。普段よりも弱っている自分の姿にみんな切なくなりながらも治療に専念するわけです。本当は誰にも見られたくない、自分の姿だと認めたくない容姿をさらけだすことが、入院だったりすると、思います。
「大丈夫?がんばって!」大丈夫じゃないから入院してるし、がんばってるから治療に専念してるわけで、もちろん気持ちが萎えているときに励ましてもらったりすることは尊くありがたいけど、少なくともオイラは「大丈夫?がんばって!」といわれたときに本心で返事をすることが出来ません。
葬式は残されたもののため、残された人が故人を記憶に留めるための儀式だと思いますが、お見舞いは似て非なるものです。オイラがここで申し上げていることは、極端なことかも知れないし、屁理屈だと思うよ。だけど今回オイラは自分の病状に対してそんなに楽観も悲観もしてなく、ごく自然に立ち向かう心づもりなんだけど、まわりの方々が心配してくださることや、お見舞いに来たいっていってくださることで、自分が何をしに病院へ行くのかわからなくなりそうな日々を送っていました。
ちょっと伝わりにくい文章ですが、少しはオイラの思考回路、分かってくれますでしょうか?
マレット・レポートを作成しました。
パーカッショニストにとってバチやマレットは、一体何なのか?これは永遠のテーマかも知れません。もしかしたらそんなことを考えること自体、ナンセンスな話でもあります。
メンバーそれぞれの立場で語ってもらったマレットに対するコメントは、アングルが微妙に異なることを気付かせてくれます。手足の延長としてとらえるか、あるいは道具としてみなすか。
演奏する、唄を歌うという観点で考えれば、どちらも同義語であることになります。自分の体からマレットを含む楽器までの全ての過程は自分自身であると同時に、唄うための道具でもあるということです。
例えば使いにくいマレットがあったとして、他に何もなければそれを使うより仕方ないわけです。何百種類のマレットがあったとしても、そこにある以上の選択肢はありません。あるものの中から自分たちの唄を歌うため、音楽が活きるための演奏をするには、はっきりとしたサウンドが頭の中で想像されていなければいけないわけです。「この曲にはこのマレットがピッタリだ!」ということもあれば、ひとつのマレットで全ての曲にアプローチしなければいけないこともあるでしょう。もちろん音色が同じであることはないけれど、それ以前に想像力がなければ、いいマレットに出逢うこともないし、ひとつのマレットから無限の音色を生み出すことも出来るわけない。
プレイヤーに限らず人間は、自分を見つめることが大事です。「こういう人間になりたい」と思うのなら、長所、短所、思考パターンを把握するところから「じゃ、自分はどうすればいいのか」という疑問と手段が生まれます。この過程をなくしたとき、誰かに似ている自分、誰かの真似だけの自分が出来上がってしまう。
背の低い女の子がマリンバにアプローチする場合、それはマレットを選べばすむ問題ではなく、厚底の靴を履いて高さを稼げばいいわけでもなく、彼女自身の想像力が創造力へ昇華することが、他の全ての要素を彼女自身の唄へ導くんだと思います。手の小さいオイラが、ポンタの真似をしてもポンタ風が出来上がるだけ。体もマレットも楽器もすべて理解しようとする判断力、唄の世界観を広げ突き詰める想像力が、歌う原動力になったら、どんなに素晴らしいことかと思います。
今、オイラの周りにはたくさんのモノ、道具が溢れているけれど、どれだけ理解して使っているんだろうと反省してしまいました。
もっと磨かないといけないところ、たくさんあるよなぁ〜。
先日4日間の検査入院をしましたが、それによってオイラの内臓疾患の原因が分かりました。8日より、その治療のために入院することになっています。この場をお借りしまして皆さんにご報告させていただきます。
入院中は、思うようには電子機器を使用できないので、このページも更新が停滞がちになると思いますが、看護婦さんたちのスキを見計らって (^_^;)アクセス・更新するつもりですので、みなさん方のお力をお借りしながら、このサイトを活発にしていくつもりです。どうかご協力お願いいたします。
さっき帰ってきてテレビのチャンネルをいじっていたら、某ニュース番組で、あるパーカッショングループが演奏していました。途中から見たので名前も国籍も分からない男女4人組が(日本人のような違うような)、まな板の上を両手に持った包丁で叩くという、パフォーマンスグループです。見た方もたくさんいるでしょう。
STOMP(ストンプ)というアメリカのダンス・パフォーマンスが有名になって以来、パーカッシヴなグループがたくさん出てきました。ストンプは身近な道具を楽器に替えてリズムをたたき出し、かつダンスによって盛り上げるカッコいいグループです。某ポテチCMでポテチを食べる音までもリズムに乗せています。
彼等の登場以前から、このようなパフォーマンスはいくらでもありました。特に楽器でないものを楽器として扱うのはパーカッションのお家芸ですよね。
逆に言えばパーカッションのルーツは全て生活用品やゴミに他ならないわけだから、人間としてごくごく自然な発想の上に成り立っているとも言えます。食料とした動物の骨と皮、恵をもたらす森の木。それらを使い音を出す行為からパーカッションは始まっているわけです。茶碗とコップを箸でチンチン鳴らすのとそう変わらない感覚です。恵みへの感謝、豊作祈願、喜び、悲しみなどの感情を音に託してきた歴史です。今日のテレビで放送されたグループは、みなコックの出で立ちで、包丁を使ってのパフォーマンスでした。これは良くあるシチュエーションで、ショウ(音楽に限らず、コントでも芝居でも)になりやすい設定のひとつです。つまりキッチンはもっとも日常的で常識的な場です。日本人的に言えば「女の城」ともいえます。「男の城」であるオフィスなどの仕事場も同様に日常的で常識的な場なので、ショウとして成り立ちやすいシチュエーションです。キッチンには無駄な道具がありません。すべて利用目的がはっきりしています。だからこそ、それらが楽器として演奏されるときに、まるで道具が生き物になったような錯覚を覚えたり、フライパンから「愛嬌」を感じることが出来るわけです。料理を作るという日常的でありふれた行為を素材にして、パフォーマーは観る側に笑いや興奮を提供してくれます。
ただし、ショウには創り手の品格と器量が必要です。「創る側」と「聴く(観る)側」がいて成り立つのがショウですから、創り手は伝えたいことをショウに込めるべきです。伝えたいことをショウの中でメタファー化することで、ショウや舞台は進歩してきました。何も哲学的なことを言っているわけではなく、「おなかから笑って欲しい」それだけでもいいけれど、その目的を実現するための方法や技術、情熱などをどう組み立てるか。そこに創り手の品格や器量が反映されると思います。
さっきテレビで見たグループにはそれを感じることが出来ませんでした。オイラの主観だけど、正直言わせてもらえば、あのようなグループをキャスティングした番組制作者の意図が理解できず、不愉快でした。
彼等(グループの人たち)のパフォーマンスは技術的に稚拙で、「包丁」という道具のもつ意味あいを理解しているとは思いがたいパフォーマンスでした。刃物はペンと並んで人類最大の発明であり、まさに道具の代表です(道具を創り出すための道具です)が、この道具の進歩の裏には「生きる」「死ぬ」「殺す」「殺される」というメタファーも確実にあるわけです。人が生きるために食う行為は、他の生物を殺す行為で、そのための場がキッチンで、そのための道具が包丁です。彼等はその包丁を両手に持ち、津軽太鼓よろしく、目をつむり激しく首を振り、まな板から木片が飛び散る中叩きまくっていました。
パフォーマンス終了後、彼等の周りにはまな板の木クズと、キャベツや人参などの切り刻まれた残骸が残りました。オイラにはその光景が哀しく、むごいものに映りました。
彼等の活動についてオイラは認めたくありませんが、そんな活動をなさっているグループの存在を否定しません。これからもがんばって欲しいと思います。破壊というパフォーマンスで何かを伝えることだって当然出来ます。タイコは戦争のメタファーとして、音楽の中で人々の忘れてはいけない想いを伝え続けています。オイラが感じたのはそうでなく、彼等をピックアップした番組の神経を疑っているんです。
情報化社会といわれる現代です。意味がよくわかんないけど、個人個人に流れてくる情報が膨大な時代であることは確かでしょう。しかし本当にひとりひとりに必要な情報というのはそんなに増えていない気がします。膨大な情報の中から自分の欲しい情報を取り出す手段はそれぞれが持つべきです。ネットが必要だと感じるのならプロバイダと契約するべきです。自分自身の責任で。
でも、メディアの中でもテレビは違う。日本人にとってテレビほど生活を変えたメディアはなく、その影響力は誰もが認めるところです。そのテレビで22:00台の番組となれば、そこに取り上げられるだけであるイメージが視聴者に刷り込まれていくんだからもっと考えて欲しいと思います。有料の衛星放送や深夜のインディーズ紹介番組ならいざ知らず、政治経済、事件を真剣にとりあつかうニュース番組で彼等を出演させたことはおかしい!音楽やパフォーマンスは単なる娯楽と勘違いしているとしか思えない!音楽は思想であり、提案であり、心なのに!!ガングロ茶髪には異議をのたまい、包丁でまな板を切り刻んで悦に入ってもパフォーマンスならば盛大な拍手でCMへいく。自分たちが理解できないことを片方では否定し、片方では知ったふり。
今回は失礼な文章だと思います。気を悪くされた方もいらっしゃるでしょう。番組を最初から見たわけではないので勘違いかも知れませんが、オイラちょっと感情的になってます。間違ってるかなぁ?
1999.12.2 オイラ 「掲示板でコミュニケしましょ!」
今日は思い切って掲示板の設置に着手してしまいました!
以前トークにも書きましたが、掲示板の必要性について疑問を持っていました。今まで設けませんでしたが、皆さんからの要望や、オイラの中でもその気になったこともあり、今回テスト運用に踏み切りました。
このページだけ、サイトうんざりのページとは全然違うデザインなのは、@NIFTYのものをそのまま利用しているだけだからなんですが、折を見て改善、更新していくつもりですので、大目にみてね。
ページタイトルにもしたように、このページで今まで出来なかったコミュニケーションが生まれると嬉しいです。(やっぱ「掲示板」っていう言葉もすきじゃないなぁ。「売ります、買いますコーナー」とか「文通しませんか?」とか「美絵へ。先に行きます。7:30にモアイ像の前でまってる。」みたいな印象あるじゃぁないですか!)
皆さんとメンバーの世間話の場として、またメンバーそっちのけで「V6ってカッコいいよね!」なぁんて盛り上がってくれたら、と思っております。皆さんの発言はオイラが無断で削除することもありません(もちろん管理者として公の場にふさわしくないと思われる発言に関しては、削除いたします)。メンバーに対する苦言でも要望でも構いません。ぜひ書き込んでいってください。サイトうんざりを訪れてくださった方全員のための、コミュニケーション・ボードになるといいなぁ!
実は昨日設置しようとがんばったんですが、どうしても上手く行かなくて (:_;)。
っていうか、これでちゃんと設置されたのかどうか、まだ不安です。
突然でしたが、12月に突入を機にURLを変更いたしました。
プロバイダであるNifty-serveが@Niftyと社名変更のため、今までのmembers homepageはいずれ消滅するだろうし(今のところ通知はありませんが新規申し込みは出来なくなっています)、@Niftyになることで今まで不自由だったCGIなども利用でき、UNZARIのURLも誰かに取られないうちにと(誰も取らないよ (^_^;))、思い切って変更しました。
次期ライヴの予定がたたないオフ期間に、サイトデザインの一新や掲示板の設置などを考えています。
「COOLではないサイト」を目標に作ってきましたが、今後もそのつもりです。
これからもよろしくお願い申し上げます。top |Schedule | Profile | Listening room | Talk | Repertory | Report Guide | Communication| Links