昭和56年 今日出海夫妻と
若泉先生は平泉先生を訪問

平泉先生からの書状(家宝)
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母校に地球儀を贈る教授
寄贈式にはマンスフィール
ド大使も駆けつけた。

閑話休題

歴史への証言、それは、沖縄返還交渉の真実を語る「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の著作活動であった。

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春木旭行政書士
宇山会
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久米通賢
巨杉の杜
クーデンホーフ・光子

最近のマイメイド

 平泉 澄先生は霊峰の一本杉に似て、まるで「昭和の北畠親房公」のような芳香漂う先生でありました。それでいて私共にも気さくに声をかけられました。昭和41年から44年の千早の鍛練会では、食事の席がいつも先生の真前でして、ペロリと平らげる私に、先生は時々手付かずの半分を入れて下さいました。
 平泉寺に先生を訪ねたとき、玄関の大額は春嶽公の嫡子松平慶民子爵の筆なる「忠義填骨髄」でありました。丁度、お庭拝観の観光客(名古屋)が来られて、一緒に説明を聞きました。参議院戦の直後でした、名古屋からの一行に、息子さん当選のお礼を述べられるお姿は、親ばかそのもので、ガイドさんも大笑いでした。
 その折、船越正道先生について、「軍籍に身を置く事も無く、真直ぐに学問の道に進まれていたなら、今頃、私などは足元にも及ばぬ大教授であったでしょう。」と言われました。
先生は船越先生に「葬儀の一切」を頼まれていました。昭和49年、その船越先生に先立たれました。その時の先生の弔意電報は「イカズチノ サケタルガゴト オドロキヌ ナミダアフレテ アウサカミエズ」でした。
 昭和51年の御講義始め。当時、私は人生の岐路に在りました。その日の講義は根本通明の「読易史書」。 講堂の板の間に脚の痛さを忘れる頃、「夏虫に氷を説く勿れ、一時に熱き故なり。下士に道を説く勿れ、習俗に束すればなり。」 先生の凛としたお声が静寂の中に響いた。顔を上げると先生と目が合った。先生は幾度も幾度も繰り返し説明された。涙が止め処なく流れたのを昨日のように覚えている。
 そんな先生に、「昭和の橋本佐内」といわれる若泉敬先生を会わせることが出来ないものか、同じ福井なんだが。そう思いつつも、果たせなかった処、図らずも、届いた書簡には、今日出海先生夫妻のオマケ写真まで入って、元気な鯖江での隠遁生活ぶりが書かれてあって、小躍りしました。 その若泉先生は沖縄返還交渉をした張本人でした。
 先生の訃報を聴き、青野克彦先生(現・宇山会会長)と出かけました。勅使を迎えるには余りの積雪、時の勝山市長は鹿島建設に除雪の支援を願い出た。流石の鹿島、一夜の間に15万トンの除雪を終えていました。
冷たき骸の先生は座敷に居られた。宮様からの花輪が二つ、他には何も無く、激動の昭和が鎮まり、先生の餘香が漂うばかりでした。
 平成8年7月23日、若泉先生は66歳。早すぎる旅立ちとなりました。訃報が入り、天良勝宏会員と駆けつけました。「遺言」により邸内には入れず窮していましたら、息子さんが入れてくれました。小さな合掌棚に後嵯峨天皇の宸翰が懸けてあり、橋本景岳(左内)先生のミニチュア像と香炉がありました。毎朝毎夕、「昭和の景岳」を自らの目標として、一歩でも近づかんと祈願していた若泉先生のお姿が蘇るようで、思わず涙がこぼれました。
 昭和41年秋、そぼ降る雨の中、傘をさし掛けたのが奇縁。真黒い瞳が「鷹」のように精悍そのもので、若き「ヤマトの星」は、時の米国大統領補佐官キッシンジャー氏と何時間も国際電話で話されていた。
もう、これらは今は昔の物語となってしまった。

昭和の武蔵・船越正道先生

原爆の碑

 一発の爆弾で広島は壊滅的な被害を受け、その有様は阿鼻叫喚、筆舌に尽くし難い。「原爆の碑」を見れば、それは、もともと、之を書き、之を読む者が日本人であることを前提として始めて、文意が通るものである。無残に焼き殺された被害者の無念は如何ばかりであろうか。パノラマのパネル写真の前に立つとき、涙はトメドなく無く溢れる。「過ちは繰返しませぬから」とあるが、一体誰が、どういう「過ち」を犯したというのか。

 通説によれば、それは、日本人が「戦争という過ち」を犯し、そのために相手国から、原子爆弾を落とされる悲劇に遭遇したのだから、日本人が再び、戦争を仕掛けると言うような「過ち」は「二度と繰り返しませぬ」との意味である。ミョウチキリンだが、これこそ、足掛け7年に亘る占領政策の最大の「成果」であった。
 「我がの顔が、我がの目で見えたら、死んでもいい。」と思うが果てせぬこと。所詮は、世界の良識がどう観ているかである。昭和27年11月5日、インドの国際法博士で、極東軍事裁判(東京裁判)でただ一人「日本無罪」を主唱した、パール判事は広島を訪れ、この碑文の意味を訊ねられた。二度三度と確かめられて、大に激憤されました。そして、近くの「本照寺」にて少時休息、やがて瞑想されて、「大亜細亜悲願の碑」の原文を書かれました。

「激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思を抱いて死んで行った しかし 大地に深く打ちこまれた 悲願は消えない 抑圧されたアジアの開放のため その厳粛なる誓いに いのち捧げた魂の上に幸あれ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って 我は進む  1952年11月5日 ラタビノード・パール」とある。

 それから52年、あいも変わらず「ごめんくさい」詣の日本ではある。「酷過ぎる錯乱の文章」のこの石碑は撤去してアメリカの然るべきところへ、移転するのが良策ではないか・・・・としきりに思うのだが。  

本照寺の境内

パール博士の碑文

ご存知・原爆の碑

原爆ドーム

香川県行政書士会  白井知之先生  

 縁とは不思議なもの、37年住み慣れた神戸から、故郷の丸亀に帰ってきた。予てからやりたかった行政書士の看板を揚げた。事務所の調査に来た当時の支部長は高校の同期生のY氏(今は改名してN氏)であった。Yからは白井先生のことをよく聴いていて、初対面が待ち遠しかった。名刺代わりに、最も尊敬していた平泉澄先生の著書「悲劇縦走」を進呈した。その中には、平泉先生の恩人で明治神宮の宮司をされていた有馬大将(日露戦争で旅順港閉塞作戦を立案・陣頭指揮した有馬良橘中佐で、その作戦で軍神広瀬中佐が戦死された。)のお写真が載っていた。何と、白井先生のご親戚筋に当るとのことだった。
 丸亀藩の時代、京極家に仕えた祖父の関係で、菩提寺の玄要寺の改築落慶法要に京極さんがみえられて、親しくお話した折に、凡人には観られぬ謂うに云われぬ気品というものを、感じていたが、それと同じものを白井先生はお持ちであった。「常人ではない。」 それが偽らざる感慨であった。
貴人は先ず、瞳が澄んでいる。だから判断が正しい。それだけのことが常人には出来ない。
 先日、広島の講習会で連合会の重鎮の畑先生に久しぶりにお会いした。開口一番、「早く戻って戴かないと。」とのことであった。その真意は、未熟の私は口外出来ぬが、どうも香川県支部会でのゴタゴタを指しているようであった。止まれ、その白井先生、名は山下奉文大将の「ともゆき」から採ったというのだから、ますます以って愉快なことになった。
 実は、山下奉文と石原莞爾を神様の如く崇敬する神主がいて、その方と私は「義兄弟の盃」の間柄で、先日来、山下奉文大将がご祭神の「巨杉神社」の修復を密談宜しくやっている最中だった。そうなると、もうアッチコッチで「兄弟仁義」だ。お陰でそのお宮さん、何とか持ち直しているんです。そのお宮さんがあの有名な冠纓神社で、そこの宮司さんが、かの有名な高松藩の儒者・友安三冬の後裔で「由佐の銀木犀」との噂の友安盛敬氏だなんて、口が裂けても云いませぬ。・・・というお噂のコーナーは本日は之にて読みきり。
 

二条城に在る「大政奉還の図」
前列左端に久留米21万石の藩主・
頼咸公の姿(左三つ巴)がある。 

有馬良橘大将

スターリン大元帥にたいする感謝文

「本来ならば、日本帝国主義の犠牲となって戦死のはずが、ソ連参戦によって戦禍より開放され、しかも天皇制ファシスト軍隊の奴隷兵士から民族独立、平和擁護のスターリン戦士として、真の人間に再生してくれた。また、在ソ五ヵ年間、生活万端にわたっていささかの不自由もなく、暖かき配慮をうけ、ぶじ日本に帰国できることは、ソ連およびその輝かしき指導者スターリン大元帥のおかげである。」

 栄養失調でバタバタと倒れ、原生林には無縁仏の土盛りがならび、かろうじて死をまぬがれた者も、地をはうようにして過酷な作業ノルマよ闘ってきたのである。「暖かき配慮」など笑止千万で、世界一の大嘘だが、その感謝文には、つぎの誓いが書かれてあった。
1、帰国後は民主民族戦線の一人一万の組織者となること。
2、ソ同盟の真実を伝えること。
3、いかなることがあっても、ソ同盟に銃口を向けないこと。
       (小松茂朗著「関東軍参謀」P.93)

 上記は昭和24年の春に展開されたスターリンに対する感謝文の署名カンパの内容である。
 停戦・降伏以後、シベリヤに不法に抑留された邦人関係者は一説には100万人を上回るといわれているが、その大半は、ソ同盟の推進する「シベリヤ民主運動」に否応無しに巻き込まれ、果ては同胞相打つ修羅場へと進んだ。やがて、帰国した者の中には、「天皇島敵前上陸」と称して、そのまま、代々木のソ同盟(後に日本共産党と改称)に直行した者も多数いたらしいが、そのシベリヤでの真相は奇しくもV.A.アルハンゲリスキー著「プリンス近衛殺人事件」で明らかとなった。
これは北のソ連による『刷り込み』の手口であるが、南のアメリカに因る『刷り込み』も巧妙に行われた。いわゆる占領期間中に於ける占領政策である。

 クラウゼヴィッツの『戦争論』というのがある。ナポレオンとの戦争を一大転機として、プロイセンで刊行された『戦争論』は瞬く間にヨーロッパを席捲した。明治の日本では、外遊中の森鴎外がこれを和訳して山形有朋のブレーンの西周(にしあまね)に送り付け、それを基に、『軍人勅諭』が誕生した経緯がある。
 各国の軍事と戦略の理論に甚大なる影響を与えた『戦争論』には3柱がある。
「第一、敵の戦力は撃滅せらるべし。第二、敵の国土は占領せらるべし。第三、敵の意志は屈服せらるべし。」である。
 ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、中華民国の蒋介石、中共(共産党)の毛沢東、北の金日成もこの理論の実践者であった。
 アメリカの陸軍士官学校(ウエストポイント)を主席で卒業したマッカーサーも例外ではない。そのまま、日本占領に使用し、再び日本が『米国の脅威』とならぬように、あらゆる『牙』を抜いた。それは第三柱の「日本の意志は完全に屈服せらるべし」の実践に他ならない。その結果として今日の「ビクビク日本」が出来たのである。北のスターリン感謝文と同様、『一億総懺悔』という『誓い』も生まれた。「不戦の誓い」(原爆の碑)も生まれた。
 『文明の利器』というのがある。野蛮と文明の識別には『教』を用いる。それをリトマス試験紙代わりに使う。クラウゼヴィッツの『戦争論』を奉じるものは文明国であり、奉じぬ国は野蛮国となる。
 文明とは早い話が『車』である。ハンドルを右に回せば右に進み、左に回せば左に進む。一のペダルを踏めば速度が速くなり、二のペダルを踏めばブレーキとなる。赤子でも判る単純明快なる理論である。『戦争論』がアダム・スミスの「国富論」やマルクスの「資本論」に匹敵する文明の「大著」と謂われる所以である。このカラクリが判れば、戦後の『自虐史観』からの脱却は早いだろう。
 また、ここが判れば、『靖国問題』に何故、中共(共産党)や朝鮮(北も南も)が騒ぐのかが理解できる。それが判らぬ国会議員や総理大臣を選出するのは、国民の資質の問題であって、マッカーサーの言う如く、「日本人は未だ12歳」なのかも知れない。

桑原寿二 著 『賢人が見つめた中国から抜粋

 三国志に展開する虚々実々の駈引は、マルクス語に翻訳すれば、まさしく、統一戦線と統一戦線の戦いである。西安事件は統一戦線の見事な成果である。(P.22)
 統一戦線は、レーニンの提起したテーゼである。が、上述のようにそれをより精密に、より体系的に組織化したのは中共である。理由は、中国の古来からの虚々実々の術策外交を現代に翻訳すると、統一戦線になるからである。つまり、その点では中国の方が先輩であり、体質化されたお家芸なのである。
 その彼らに強国秦を軸に旋回した戦国時代と、強国ソ連を中心にした現代とがオーバーラップして映じていよう。強国秦に対する牽制作として、蘇秦は東方六国を縦(南北)に合する策、すなわち合従策を立て、それに対し、張儀は、秦の立場から横に連ねる連衡策で臨んだのである。周知の合従連衡の策とは、このように、ずばりそのものの統一戦線と統一戦線の丁々発止のやりとりである。(P.244~245)
 統一戦線と一点集中主義は切り離せない、そのいう意味は、ある主要目標(近代化)、ある主要敵(ソ連)を明確に確立し、その目的達成のため、その他のすべてをそこを中心に系列化することだと説明しておいた。
 主要目的(近代化)達成のためには、修正主義化や資本主義国との握手などかまっちゃおられない、主要敵(ソ連)から身を守るため、日米との妥協は当然だという、極めてマキャべリスティックな考え方である。
 これを中国の伝統的な術策にあてはめれば、「夷を以って、夷を制す」ということになろう。夷は、夷なるゆえに、その双方とも「我々とは」思想、観点を異にする。しかし、主要な夷を打倒するため、他の夷と手を結ぶのは当たり前だということである。(P.245)これが統一戦線の真髄である。
 「中国の方がソ連よりも平和愛好的だと人は言う。それはまちがいだ。中国の歯が出そろってないというだけのことだ」とソルジェニーツィンは言う。“弱き中国”だから・・・・の平和愛好姿勢にすぎないということである。そして大意、つぎのごとき見解をそえている。
 西側は、第二次大戦でソ連を味方とし、それがソ連の今日の強大化への跳躍台になった。と同じように、「共産中国を味方とすることは、自殺的な政策である。かりに大戦で西側が勝ったとしても、こんどは西側の援助で歯の出そろった十億中国の世界制覇を押し止める力は、世界のどこにもすでになくなっているであろう」(タイム誌、二月十六日号)。
 統一戦線とは、歯の出そろっていない弱者が、歯が出そろうまでの戦略的な仮の住居である。こんどは、熊以上に手のおえない獅子になるぞという亡命者の経験的警告を無視してよい理由は一つもない。(P.246)

恐怖の対日政治工作

資質の問題

 平成13724日、ハノイで中共の唐家セン外相(*1)が田中真紀子外相に、靖國問題に 触れて、「やめなさいと厳命(言明)しました。」と言ったとか???言明が厳命であるかないのかよくは判らぬが、あの時 、田中真紀子以外の者 にも同様の無礼があったろうかと、ふっと思う。
 昭和47年10月11日、お父上の田中角栄総理と大平外相 は鳴り物入りで『日中国交回復調印』に乗り込んだ、 その時、曲者・周恩来は「角栄さん」に一枚の色紙を贈る。(以下は「安岡正篤に学ぶ人物学」より抜粋 ) それを貰って糠喜びする田中総理(当該著書には4人の記述があるが、3人は田中総理が貰った ことになっていて、あと1人は大平外相が貰ったことになっている。因みに、大平外相である場合は、総理には毛沢東から『楚辞集注』を貰ったことになっている。)一行であった。その色紙には「言必信 行必果」と墨してあった。「これは全く、私のことを言ってくれている。この通りだ。」そう喜び、後にはこれが、マスコミでも報道された。
 安岡正篤先生(立派な方ゆえ敢えてそう呼ばせて戴く))はこれを聴かれて、「誠にけしからんことだ。これは周恩来の痛烈な皮肉だ。」と怒られた。何故か、そこで先生は、『論語』子路篇第十三の二十を読まれる。

「子貢問ヒテ曰ハク、如何ナルヲカ斯レコレヲ士ト謂フベキ。子ノ曰ハク、己ヲオコナフニ恥アリ、四方ニ使ヒシテ君命ヲ辱シメザル、士トイフベシ。曰ハク、敢ヘテ其ノ次ヲ問フ。ノ曰ハク、宗族孝ヲ称シ、郷党弟ヲ称ス。曰ハク、敢ヘテ其ノ次ヲ問フ。ノ曰ハク、言必ラズ信、行必ラズ果、けいけい然(*2)タル小人ナルカナ。抑々亦以テ次ギト為スベシ。曰ハク、今ノ政ニ従フ者ハ如何。子ノ曰ハク、噫、斗しょう(*3)ノ人、何ゾ算フルニ足ラン。」

 つまり、どういう人が人物かと聞いたら、「自分のことを行うには恥があり、君主の命令で四方に使徒とゆきて、君命を損なわない。これが第一級の人物だ。」と言われるから、「では、その次はどういう人ですか。」と問えば、「親戚中が孝行な人だと言い、郷里の人々が悌順な人だと言う者、これが第二級の人物だ。」 「では、その次は。」
「言うことも信、やることも果、でも川原の石と同じく、コチコチの小人だ。」との説明である。
 つまり、「貴方は、三流(けちの田舎者)の人間だ!」とせせら笑ったのだ。
だから、「一国の大人(総理若しくは大臣)ならば、破るか、突っ返すかをなすべきであった。」そうすれば、「いやいや、これは私自身のことを申したまで。と恭しく引き下がったであろうに。」と悔やまられたそうである。

 あの時、田中総理は真紀子お嬢様を同伴されていた。『主敵』(日本は次敵)アメリカに留学されていたというから尚のこと、「この馬鹿親にして馬鹿娘」と往なされた。この国では古来、馬鹿と言われたら、末代まで祟る。挽回は難しい。
29年ぶりに娘は外務大臣としての「処女航海」であった。そして、決まり文句の『中華節』の礫を喰らった。
ああ!!矢張り」と慨嘆したのは私だけだろうか。

水よく船を浮かべ、水よく船を覆す』と謂われる。よくよく支那(中共)を知らないと、足元を掬われる。

                注釈  { *1=王+施  *2=石+頸-頁  *3=竹+小+月 } 



五臓六腑

 錆は拭き取れるうちはいいが、放置すれば腐食が進行して本体に深い傷を残してしまう。
 日本の歴史は、黄河文明が発祥した支那6千年の歴史から比べると、子供と大人以上にまだ浅いもの
だとツクヅク感じ入る。
 支那で発達した『漢方医学』のなかで『五臓六腑』(正しくは”五臓六腑奇恒の腑”というらしい)というの
がある。これについて 故・司馬遼太郎が興味アル話をしている。(以下は、司馬遼太郎が語る日本・未公
開講演録T P.120より抜粋)
 江戸中期の京都の漢方医・山脇東洋がある日、「五臓六腑」の「図」に疑問を抱いた。カワウソ(人体と
よく似た構造だといわれる。)で解剖を繰り返した。「だが、やはりおかしい。」
 粟田口(刑場があった。)で念願の死刑囚の解剖をしたところ、「五臓六腑の図」の間違いを確信した。その日から彼はルネッサンス人(レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのこと。解剖に立会い、解剖図を残している。)になった。
 一方、本家の支那はどうか。「儒教と陰陽五行」の国だ。
 明の時代、此処にも偉い医者がいて、死刑囚の解剖を許可されてやりました。
「五臓六腑の図」と随分違うことに、やはり気付く。だが、此処からが支那の支那たる所以の反応だ。
「確かに違うが、この死者は泥棒だ。泥棒は内臓も違うのだ。」と、落ち着く処に落ち着いた

方や、「ターヘルアナトミア」に発展する『新規日本』。方や、『儒教と陰陽五行』に呪縛された『錆付いた支那』の悲劇と相成る。
今、「ミサイルの部品を大八車で運ぶ国」と謂われる支那。「儒教」を脱ぎ捨て、「毛沢東の共産主義」を標榜する国へと変わった。
が、
一人「朝鮮」のみは未だ、頑なに『儒の国』を継承している。
「テポドンの部品をネコ車で運ぶ国」・北朝鮮のルネッサンスはマダマダ遠い、「司馬遼太郎様の夢の又夢」であろう。

呆れた警察
 ことのついでに。
 四国・丸亀という街は『野蛮と文明』が正に凌ぎを削る街と視た。何故かと言えば、文明の利器たる車を乗るのはいいが、いきなり右側を走行したり、右側に平気で駐車しても警察官は知らんぷり。勿論、最近盛んに云われる「携帯電話」も架けながらOKだし、改造マフラーもお構い無しだからだ。
  瀬戸内海を渡ればこれ程「緩い」のかと呆れたが、年寄りにイワスレバ、丸亀警察は管内で迷宮入りの事件が多いのだそうだ。だから嘗められて、京阪神あたりから、『ピラチンもどき』(チンピラ・闇金など)が続々と遣って来てる。そう謂えば、駅前の「○X喫茶店」で大きな声で、明かに「ヤバーイ」話をしていても、所詮、警察官の数が足らないから首も廻らぬ始末。
 これが、戦前、名うての「丸亀12連隊」と11師団(当時は丸亀市であった。)を産んだ勇者の土地なのかと疑いたくなる。(マレー攻略戦での部隊選出は山あり川ありの地形を想定して、通常兵ではことたらず、勇猛果敢な善通寺と広島宇品から抽出されている。)
 かといって、海の向こうがいいと言うのではない。
 明石での話。
 震災の翌年の12月23日の夜。少し酒が入って、車を発進した。後ろにパトカーが付いている。それがいきなりサイレンと共に車のまえに割り込んで、停止を命じた。
パトカーの中に連れ込まれて、尋常でない尋問をされた。そこで2人を相手に「歯向かい」申し上げた。丁度、「泣くコも黙る」中坊公平弁護士事務所に訴訟を依頼してあったころで、事務所に「SOS]を発進した。丁度、「△○弁護士」が出て、「警察官の名前を聴いておけ」とのことで「お名前」も控えた。すると、運転してるのは、ついいましがた、警視庁から派遣された応援部隊の一員だという。それが始めての街で運転してるというのだ。おまけに汚い(そう感じた)ダッシュボードから風船をつまみ出して、「これを吹け」と言う。それで、「消毒済みとの表示もないもので病気にでもなったらなんとする。」と拒めば、警視庁は拳銃に手を架けた。愈々私は怒って、「酔っていると疑うならば、外に出て、お二人同時にかかって来い。私が負けたら、酔ってることを認めよう。」そう言い切った。
 困りました。そんなこんなで1時間経過して、風船球を吹いた。結果は出ません(もう醒めている)。2人のパトカーは私を車外に放り出すと師走の街に大急ぎで消えていった。
 次の日、警備士(警察OB)に言われて、「御詫び」に伺うことにして、H県警にパトカーの車番と警察官の名前を申し出た。返事は「該当車両も該当係員も当H県警には居りません。」とのことだった。「なーんだ。ドッキリ・カメラだったのか。」
 もう一つ。
 グリッコモリッコ事件(敢えて事件名は伏せる)の時の呆れた話。
 あの頃、「どんな情報でも、お寄せ下さい。お願い!!」ということだった。それで私は、『ソックリさん』を通報した。
検察庁も警察も、「これは、33パーセント以上の確率や。」と騒ぎたてた。Nという刑事(暴力団対策係の名刺だった)が来て、「これは75パーセント以上や。」と言いつつ嬉しそうに帰っていった。
それから、10日ばかりして、N刑事はしょんぼりとやってきた。「シロでした。」というのだ。何故と聴いて驚いた。
「本人の実兄がA警察のおエラさんです。」からシロなんだというのだ。それで、「こんなことでは、犯人は百年たっても捕まらんでしょうな。」と言ったもんだ。
 案の定、H県警では、3億円強奪事件、5億円強奪事件と連続のミスマッチに見舞われた。そこに、かの有名な「首切り事件」が起きる。当時の首相は橋本。異例中の異例の「大ハッパ」を検察に号令したもんだから、トコトン大慌てで少年を逮捕して幕引きとした。
だが、どうも『無理』が引っかかる。少年Aのことだが、私は未だに、「犯人は外にいる。」と信じて疑わない一人である。

船越家歴代の墓所
鳥取県倉吉市清谷にあり、天皇家よりもなお古い。

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呆れた行政

 呆れたシリーズ。またまた丸亀市のお話。吉本新喜劇を観るようだ!
県道33号線(昔は国道11号線でした。)、蓬莱橋西詰の有名な骨付鳥『一鶴』の
看板から西に進めば、古びた歩道橋がある。この地点から丸亀市の中心街(?)
に入り、道路幅が幾分か広くなっているのが判る。
この交差点以東を拡幅しようとする国(善通寺国道事務所)の計画があるらしい。
オボロゲながら申すのは、説明する係員は何方も名刺を出さず、名乗らぬからで
ある。
 工事に伴い、立ち退きの家屋が発生する。その中の1軒に竹馬の友の実家が該
当していた。おまけに、母親は『独居』なのである。
立退きの話に、心細い母と娘(伊丹在住)はオイラに立会いを要請した。
遣って来た係員はA1の図面を押し広げ、「不可欠な工事」であることを力説した。
その中に交差点を斜めに横断する歩道橋が加筆されていて、それまで、「隣の空
き地に移動すれば工事に支障が無い」とされたその空き地すら、工事の範囲となるから「立退いてくれ」との説明であった。
 暫く聴いていて、あまりの『無神経』に驚いて、質問をしました。「何故、斜めの歩道橋?」
地元の「城北小学校からの要望」だという。(あとで近所を聴いて廻ったが、そんな要望はなく、学童の減少で困っているのが実情であった。)
そこで、埒があかないから、『提言』を申し上げた。
「今更、昇降設備もない、長スパンの歩道橋では、学童もお年寄りが”揺れて”困るだろう。歩道橋の架橋についてはサンハイツ南の住専管理機構の差押え物件の払下げを願い、此処に真直ぐに架橋するのが順当で、昇降設備がないならば、トンネル構造としてはどうか。」
「ぎゃー!!」とばかりに帰りまして、その後、何の音沙汰も無く、「あの話は財政難の折、断ち切れとなった。」とのもっぱらのお噂なんです。
 その交差点改良工事が当然行われるというので、2・3年前に、先行して、付近の取り付け道路の改良(?)工事が丸亀市主導で行われた、らしい。これがまたまた、『吉本新喜劇』のような内容なんです。
問題の、竹馬の友の実家は玄関を出ると、やおら、72センチの距離で20センチの段差が出来て、施行業者はコンクリートをなぶりつけて「ハイそれまでよ!」と誤魔化した。(三軒両隣も同じく、ハイそれまでよ!である)
これで、おカー様が元気ならば良かったのだが。おカー様は命がけの労災病院で大手術を2回もやって、その経過も事の他よろしく、S病院に転医して、「後2日で退院」という『妙見宮』のお祭の日、「外泊許可」を貰って、竹馬の友のT子と「親子水入らずの久しぶりっこ」のその日。おカー様は表の〒ポストを見に行こうとして、『なぶりつけのコンクリートの角』に躓いて転倒、頭部を打ちつけ、『骨盤骨折』で麻田総合病院に緊急入院した。
 どう観ても杜撰な施行(オイラは神戸ではこの道37年のプロである)にいきり立ったオイラは市の職員を現地に呼びつけて抗議申し上げた。
それで、尊敬する『小野健一』市議ともども現地の「補正」について「立会」をしたのが平成16年12月15日午前9時30分であった。そして、「年明けの10日以降から施行するべく手配します。」とK氏(例に洩れず名乗らず名刺を出さず)は約束をしたが、今日(1月20日)に到るも、工事はなされず、市庁舎に伺って面談すれば、マンガ(計画図面)すら描いていないとのこと。おカー様はリハビリを終えて、まもなく帰宅、今度こそ「ご帰宅」遊ばれるというのにこの不始末はどうした事か。此処の『ノー天気な市長』は間もなく2町の合併を実現するらしいが、「迅速なる行政の対応」が『資質として無理』な丸亀、ますます、『吉本新喜劇』を繰り返すなら、新規加入される方々にとって、迷惑な話ですなあ!!
(この件については、2月7日AM10時に決着して、近々、改修工事が行われることとなりました。)

先生方の目玉はやっぱり節穴ですか?
 銀座のネオンが未だ煌々と瞬いていた頃、銀座の超有名クラブ(部活でないぞ!)に『悲鳴』というのがあった。其処のママさん(お母様ではないぞ!)が退職して、その金叩いて、銀座の「W宝飾」で超特大のダイヤの指輪を買った。当時の値は150万円。そのママさんは華道・茶道・柔道・空手・英語検定・算盤何でも御座れで、〆て百段に近かった。何処とも無く「実業界に打って出ては!」との声援に応えて、先ずは財宝の換金を始めようとした。 自宅のお蔵には現役時代の勲章、そうです、国会議員の先生方からの贈り物が山の様に積まれていた。それらの桐の箱には、「国会議員○X馬鹿男・中国△◇視察の土産」とか何とか墨してあった。
 当時の「お宝鑑定団員」がイロンナ光学器械や何やらを使って、3日掛かって選り分けた。ジャーン!!殆んどが紛い物ツマリ、偽物。早い話が、ニセモノ。
 困った女将は先頃購入の例のダイヤの指輪を差し出す。だが、之も、本来なれば、磨り潰して研磨材にスルベシの粗悪品であったというのだ。
 もっと凄いお話。満州で日本で始めてのファッションショウを開いたという「オタナ」のこと。敗戦のドサクサに有り金叩いて翡翠に換えて帰国した。それでも、未だ財 は豊で、トアル公爵様の豪邸を買われて住んだ。そうこうする内に、昭和45年頃傾きかけた。そこで、秘蔵の翡翠を処分することになった。ここでも、「あっと驚く、為五郎うー。」であった。何と、当時(昭和20年)としては貴重な、「塩化ビニールの塊」であった。 そんな話がよくあるんです。
 日本人には「宝石」との文化というものが無く。真偽を見分ける眼というものが皆目、育っていないということだ。
お隣の支那。『弁偽学』という学問があるのだ。うらを返せば、ニセモノだらけだから、其処から本当の正しきものを見分けられなければ生きて行けないというお国の事情というものが、フテブテシイ商売人をつくるのだ。
 それに掛かれば、国会の先生方もメクラ同然である。
 あれからモウ30年、銀座は変ったが、先生方のご息子の議員様のお目目はやっぱり節穴なんでしょうね。

大東亜聖戦大碑』建立祝賀式典(平成12年8月4日)参列雑感

 
我国はポツダム宣言を受諾して、聯合国に対して、「条件付き降伏」をしたものの、当時の国民感情としては、「物量では負けたが、精神では勝っている。」というのが大方の見解であって、未だ勢いがあった。しかしながら、それらの痩せ我慢も、根こそぎ粉砕されようとは、誰も考えなかった。
軍事占領のため、聯合国最高司令官マッカーサーがやって来た。彼は来るべき大統領選への出馬を射程に入れていたから、日本の大改造には辣腕を発揮して、早々に母国に凱旋する必要があった。
 マッカーサーのアメリカという国は、南北戦争で、世界で始めて、全面戦争を経験した国家であった。「勝者は道徳的に正しく、敗者は悪い。」として、南部連合の大統領ジェファソン・デェヴィスは辱められて惨殺された。この戦争史観がヨーロッパに逆輸出されて、昭和3年の「戦争放棄ニ関スル条約」(パリ不戦条約)となった。
 「不戦条約」はやがて、戦争には、自衛戦争とそうでない侵攻戦争があって、「侵攻戦争をすることを犯罪として、その責任を戦時の政治・軍事の指導者に個人的に追及できる。」というトンデモナイ理論にまで展開させて、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という論拠が構成された。
 無条件降伏したドイツに対するニュルンベルグ裁判は、この「二つの罪」によって裁かれたのである。マッカーサーは条件付き降伏をした日本に対してもこの原則をそのまま適用しようとした。
 先ずA級戦犯から28名を選抜して、これらの者が「共同謀議」をして侵攻戦争を計画・準備・実施したとコジツケテ「平和に対する罪」を構成した。ところが、何処を捜してもアウシュビッツも殺人工場もなく、他民族を独立させたことがあってもデタラメに虐殺したという事実もない。そこで「南京虐殺事件」をデッチアゲて「人道に対する罪」を構成した。
 降伏調印のミズリー号の艦橋にはためいた星条旗は、ペリー来航の時のプレミアであった。これを思えば、それより始まる茶番劇が、勝者による敗者に対する軍事裁判が、所詮は、聯合国の報復裁判であろうことは、十分に予測出来たであろう。
 土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章、板垣征四郎、木村兵太郎、広田弘毅の7名の起訴は4月29日、判決があって、絞首刑が執行されたのが12月23日、この期日選定は何を語るのか。またその遺骸は極秘に焼却され、洋上投棄されたのである。東条被告は、「敵に殺されるのは、戦場で死ぬのと同じ、軍人としては、むしろ本望」と言い残している。
 裁判という荒療治が済めば、総仕上である。マッカサーによる言論統制が実施された。それは30項目にも亘って、厳しく言論活動を禁止することであった。例えば、マカーサーが新憲法を起草したことは批判してはならない。アメリカ・イギリス・ソ連・中国を批判してはならない。日本の戦争遂行を弁護してはならない。神国日本と言ってはならない。大東亜戦争という言葉の使用はいけない。等々、厳しい検閲がおこなわれ、空中分解しかけた日本人の頭脳へは、連日連夜に亘る、占領軍からのラジオ放送「真相はこうだ」が叩き込まれ、「太平洋戦争史」がドラマ化され、新聞にラジオに、そして映画にと浸透していった。所謂、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(徹底した洗脳工作)が次から次へと注入されていったのである。
 7年3ヶ月に及ぶ占領政策の集大成は何といっても『原爆の碑文』であろう。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」とある。この碑文を見たパール判事は非常に憤慨されて、広島市内の本照寺にてこう書き遺された。
 「激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思を抱いて死んでいった しかし大地深く打ちこまれた 悲願は消えない」「抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓にいのち捧げた魂の上に幸あれ ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む」とある。
 それから50年、日本を取り巻く国際情勢も大きく変った。にも拘らず、聯合国憲章の第107条にはあいも変わらず、「旧敵国条項」が現存し、昭和27年の平和条約の第11条には、「聯合国側の軍事裁判の裁定はそのまま効力に変更なし」とあって、歴代内閣くも、現官僚も未だに、これらの桎梏から解放されていない。
 なるほど、情報開示の嵐の中で「極東国際軍事裁判」の弁護資料をも手にすることが出来るが、「自虐史観」を改めるべく、声を大にしても、警鐘の書をいくら世に出そうとも、それらは所詮、気休めに過ぎなかった。強き意思は、やはり碑に刻まねば駄目である。劉少奇は「南京虐殺記念碑」に30万人と刻し、「もう決まったものだ」と豪語した。我々はこれからは、「大東亜戦争の世界史的意義はもう決まっている」と言うことが出来る。
 大東亜聖戦大碑の建立は、戦後の世代に計りがたい「自信」を与えてくれる。これで「背筋がスッと立った」という感じがするのである。草地貞吾先生はじめとする関係諸氏のご尽力に、篤く御礼申し述べる次第であります。(文責:春木旭)

何故、今更、「国民新党」であるか。歴史認識が異常ですな!!

 「郵政民営化法案」が参議院で否決されて、小泉総理は”伝家の宝刀”である「衆議院の解散」を上程し可決された。自由民主党はマタマタ「分裂」の危機(?)を迎えた。この時、造反議員である綿貫・亀井以下は新党を立ち上げた。その是非は議論千派で如何でもいいが、その名前が「国民新党」と聴いて、呆れてしまった。
 小泉はそれら造反分子に”刺客”を差し向けるというではないか。そうだ、容共・反共闘争で離反した王兆銘に刺客(テロ集団)を送ったのは、同じ孫中山門下の蒋介石であった。だから、余計に思うのである。
 歴史を紐解けば、昭和11年12月12日、所謂「西安事件」が起った。陝西省延安の僻地に逃げ込んだ中共軍を張学良が追い詰めるが、何故か張は動かない。督戦に赴いた蒋は張の通敵に因って逮捕監禁されたのである。
 その後は「国共合作」が行なわれ、昭和12年7月に盧溝橋(マルコポーロ橋)事件が起き、廊坊事件、広安門事件と続き、7月29日には酸鼻な通州事件(中国保安隊による邦人2百余名虐殺)が起き、8月は大山勇夫海軍中尉が虐殺され、隠忍自重の我が軍も、8月14日の第三艦隊旗艦「出雲」が爆撃されるに至って、支那事変へと突入したのだ。
 日本は支那(国民党政府+中国共産党)の謀略にズルズルと嵌まり込んでしまったのではないか。
 その「国民党」を想起せしむ「国民新党」を何故、今、呼称するのか。余りにも直情的な発想に吐き気がするのは、私のみであろうか。
 日本は「敗戦」以来”まだまだ60年”ではないか。古参議員の中、綿貫は明らかに”戦中派”であろう。
 忌まわしき「国民党」に翻弄された我々の父母の世代を振り返る時、60回目の『終戦記念日』(8月15日は正しくは停戦の日)の余韻覚めやらぬこの時節、非常識極まりない命名に、「やはり、歴史認識がない」と言わざるを得ないのではないか。
 砺波といえば、過っての大本営の辻 正信参謀が頭に浮かぶ。辻さんと如何係わりあったのか、「砺波運輸」の総帥にして「井波八幡宮」の宮司であり、先の衆議院議長である。(河野洋平様が議長になる時代ですぞ)
 「平成の黄門様」と誰が呼んだのやら、「印籠」まで拵えたと聴く。 黄門様と”ワ・狸”とを一緒にされたら困ります。方や我国の歴史的「国宝」級人物である。
 「綿貫もええ加減にせよ!」と言いたい。

高松市長さーん間違ってマース!!

 本年8月23日、高松文化センター(平和祈念室との表示でした)を訪ねましたら、「広島原爆展」が開催されていました。これ等の事実の前に、慄然とし、襟を正さざるを得ません。但し、所謂「原爆の碑文」の内容についての大いなる疑問は益々深まるばかり、一体、誰が、どんな過ちを犯したのでしょうか。焼き殺された人か、焼き殺した者か。
 続く部屋には大きなパネルがありました。「日本の侵略の歴史」です。パネルに嵌めこまれたテレビ画面から、怪しげな「解説」が絶え間なく流れていました。記載内容の大きいものは次の通りでした。

“日本の軍国主義と大陸侵略”
1929(昭和4)年に起った世界恐慌は、日本の経済をどん底に追い込み、この危機
を打開するため、日本は中国大陸への進出を強めた。
19319月、日本軍(関東軍)
が柳条湖事件(満州事変)を起こし、翌年、「満州国」をつくり、日本がその実権
を握った。
1932年の515事件、1936年の226事件を経て、軍国主義の風潮が高
まった。
1937年の盧溝橋事件をきっかけに日本は、中国への全面的な侵略を始めた。
“三光作戦”
日本軍は華北の抗日拠点を焼きつくし、殺しつくし、奪いつくした。これは三光作
戦(焼光・殺光・搶光)として非難された。

“南京大虐殺”
南京占領の際、日本軍は、多数の中国人を暴行・殺害する残虐行為を繰り返したが、
日本国民には、この事実を知らされなかった。

 三光作戦とありましたが、「光」を「空っぽ」つまり、「・・・しつくす」とする概念は日本語にはありません。
帝国陸軍の作戦用語に「三光」などありません。『中共述語語彙集』では、共産党軍による地主への「清算(粛清)闘争」のスローガンとして、「分光」「吃光」「用光」(分けつくす、食べつくす、使いつくす)があり、『中国人民述語辞典』では、「三光」(搶光・焼光・殺光)が国民党軍による人民殺害の悪政スローガンであると書かれてあります。
 岡村寧次(後の支那派遣軍総司令官)は、「清」の軍隊が出した、過っての「禁令」(不焚・不犯・不殺)を踏襲し、「焼くな・犯すな・殺すな」と訓令したとは聴いています。それを、中国側が逆利用・宣伝したものでありましょう。
 私の恩師の草地貞吾先生(平成12年死亡・98歳・関東軍作戦参謀・陸軍現存最古参)が言うのだから間違いありません。
先生は、中国からの”無理難題”に総理以下が難渋するとき、いつも、「私に、行かせろ。江沢民に私が説明しよう。私以上に、当時の支那を知る者は居ないのだ。」と言われていたのですから。
 その先生は、「南京占領」直後の市内を視察しています。「虐殺の痕跡など無かった。」と証言されました。
 最近、「南京事件”証拠写真”を検証する」(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著)という本で、東京裁判で検察側資料として提出された「証拠写真」の一切は、偽物であったことが白昼に晒されたこととなりました。
 もう、戦後60年、「還暦」ですよ、もう、聯合国から押し付けられた「歴史の呪縛」から「さようなら」をして、”正しい歴史”を子供たちに伝えなくてはなりません。
このパネルの前で、若い母親が幼子に、「おじいちゃんおばあちゃんの頃は、周りの国に悪いことばかりしていたのよ」と語っていましたが、それで、貴殿の「歴史教育」はまともですか。
 昨年は、市役所のロビーでの「戦争写真展」(正式呼称は忘れた)に於いて、「関東軍は5**回もの領空侵犯を続けるなどして、実質は戦争状態が続いていた」との記述に疑問を感じて、展示責任者に出典根拠を求めましたが、責任者には「忘れました」で済まされたことがありました。 この掲示も同様にして、根拠の無いものでしょう、早々に撤去されることを希望します。

問題のパネルです!!

以下は大東亜戦争の『宣戦の詔書』 つまり、「開戦の詔勅」である。『終戦の詔勅は此処(     )です。 

上はご存知大東亜戦争の「宣戦詔書」である。(国立図書館に保管されている)
下左は開戦時に官公庁と地方の役所に配布されたものであり、
下右は軍隊の連隊以上の司令部に下賜されたものであり、この度、丸亀市在住の中嶋英文氏から寄贈されたものである。右の標紙の金箔の上には『聖戦の詔勅』と墨されている。

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

冬季オリンピック(2006)トリノ大会

荒川静香選手(プリンスホテル)が金メダル。華麗なる演技の陰には黙々と練習に明け暮れた彼女のひたむきな情熱がありましたね。見事の一言。ショートプログラムを終えての練習風景をテレビで観ていて、今から34年前の札幌オリンピックの「妖精」ジャネット・リンを思い浮かべました。滑って尻餅をついても満面の笑顔で最後まですべったあの「妖精」、ドリルで穴を開ける様な、氷を引っかくような滑りの多い中、彼女の滑りは「スーイスイ・スーイスイ」そのものでありました。その自然な滑りを荒川選手はお持ちでありました。また、今日のビールマンスピンのご本尊であるデニス・ビールマン(スイス)はあの「鳥篭」のようなスピンを引提げて優勝をさらったのもついこの間の様に思い出しました。それにしても、荒川選手はその二つをお持ちであった。此れでは、鬼に金棒ですわ。とにかく素晴らしい。表彰台で「国歌」を口ずさんでおられた。これまた立派の一言。年老いた母(89歳)も絶賛でした。大和なでしこは今も健在なんやね。(H18・2・24)りんどう

妖精ジャネット・リン

デニス・ビールマン

 上の写真のうち、左の写真の中の左はご存知「教育勅語」(明治23年10月)である。
その右は「戊申詔書」(ぼしんしょうしょ)である。日露戦争勝利の後、個人主義や社会義思想が浸透して来た。更なる「去華就実」を国民に求める為に明治41年10月に第二次桂内閣が提議して明治大帝が発布されたものである。
 「雨峰」河合一男謹書の二幅一体のものであり、その包装には「第9112」と書かれてある。
 右上は歩兵第22連隊(松山)に明治38年10月16日(ポーツマス条約の後)に賜った「勅語」である。
 何れも、丸亀市在住の史学研究家・中嶋英文氏の提供である。

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「戊申詔書」
朕惟フニ方今人文日ニ就リ月ニ將ミ東西相倚リ彼此相濟シ以テ
其ノ福利ヲ共ニス朕ハ爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇シ列國ト與ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ恩ケイ恩澤ヲ共ニセムトスル固ヨリ内國運ノ発展ニ須ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去リ実ニ就キ荒怠相誡メ自疆息マサルヘシ
抑我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト我カ光輝アル國史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ寔ニ克ク恪守シ淬礦ノ誠ヲ輸サハ國運発展ノ本近ク斯ニ在ニ朕ハ方今ノ世局ニ処シ我忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚籍シテ
維新ノ皇獣ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ對揚セムコトヲ庶幾フ爾臣民其レ克ク朕ガ旨ヲ體セヨ  御名 御爾  明治四十一年十月十三日

持つべきは朋友(平成18年5月始)

 極東軍事裁判(東京裁判)で日本は「好戦的な侵略国家」として断罪された。その様に謂われ、その様に教えられ、その様に信じて来たが、果たして左様であるか。
 安価で海外に出られる昨今、それは最早、聯合国(アメリカ以下の敵対国家)の『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』の結果であったと結論付けることが出来る。
 裁判を報道した当時の切り抜き帳が再び、
中嶋英文氏(旧姓:山地)から寄贈されました。貴重品ゆえに、加えて保存は難しく、なれど出来るだけ多くの方に閲覧して貰う為にも、本年5月27日の「宇山会」総会に出席された「日本をまもる会」会長で、「大東亜青年塾」塾長の中田清康氏に寄贈致し、塾のライブラリーで永久保存して頂くこととなりました。塾長から丁重なる感謝の言葉を頂きました。朋友よありがとう。何時も有難う。
 当時の生々しい「記事」を読みながら、従容として絞首台に進んだ方々の、「篤き心」に、我々は如何報いるか、其れを自問自答しているのです。
 

S20815

 今年(平成18年)も金沢の「聖戦祭」に出席した。東京からは草地先生の奥様と憧れの「阿羅健一」先生が 来られた。この方は所謂「百人斬り訴訟」を支援する会の「会長」だからマスコミも煩いし、「まもる会」や「護持会」の定宿では窮屈なんでしょう、何たって男前だから目立つのです。それで大抵、私達「宇山会」の方に泊まられる。今年は露天風呂で心ゆくまでお話出来て、実に愉快でありました。
 夕食の時に草地夫人から昭和53年5月の靖國神社の松平永芳宮司から草地先生に電話が入り、急ぎ神社に駆けつけた時の「徒ならぬ空気」について説明があり、「左も有りなむ」と得心しました。
 草地先生が昭和31年末に帰還された時の詩、「天皇の国に帰る」の曲を披露しましたら、好評でしたので、此れから編曲をして「世」に出したいと考えております。
 私が10月末にインドネシアに行くと言ったのを覚えておられたのか、阿羅先生は御著「ジャカルタ夜明け前」を送って下さった。そして、丁寧な書簡が挾間っていました。
 
『前略 金沢では、いろいろ面白い話を承り、有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございます。そのとき話のあった原田熊吉中将の顕彰碑は、ぜひとも建立していただきたいと思います。幕僚型で、部下に任せていたのが、仇になったのかもしれませんが、松井大将は信頼していましたから、立派な軍人であることに間違いありません。平成のはじめから、私もインドネシアには十年ほど行き、日本軍がいかに立派で、アジア開放につくしたか、肌身に感じました。そのとき見聞したことを一冊にまとめました。残部が手元にありましたにで、ご参考までにお送りします。そのときは、原田中将まで手が回らず、記録を残すことは」しませんでした。いまとなっては残念に思います。ところで、八月十五日、靖國神社で戸塚さんに会いました。金沢のことなど話していると、草地先生への思いを綴った本を春木さんが責任者となって進めているから、私にも書くように、と話がありました。そのような話が進んでいるのなら、書かねばならないとおもっています。早々 阿羅健一  平成十八年九月五日』

  背中は草地夫人
左より、阿羅先生、五師、船坂
右より、濱野夫妻(関西防会長)、
今里先生(宇山会副会長・京都産大教授)

再び「戊申詔書」
 明治41年、その年の干支(えと)は「戊申」。この年に発布された「詔書」であるので「戊申詔書」という。
日露戦争後、急速に台頭し始めた自由主義・個人主義、更には社会主義の「潮流」に危機感を抱いた桂太郎内閣が制定したもので、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して「国富増強」にあたることを念願し、
同年10月半ば頃から、各地の「機関」に写真の如き装幀で「下賜」(かし)されたものである。
 本「戊申詔書」は丸亀在住の朋友「中嶋英文」氏が広島県で偶々入手したものを寄贈戴いたものである。
                                   
                                    平成18年9月23日 秋季皇霊祭  狂雲 拝受

忘れ得ぬ師の面影 
                    私の破天荒な人生の「不思議な出会い」をお話しましょう。

杉浦重剛

平泉 澄 先生

岩畔豪雄先生

岸 信介

目下製作中!!ご期待ください。

船越正道先生

草地貞吾先生

若泉 敬先生

大石義雄先生

雪冤靖忠霊
                 
                      『同志』とは“志を同じくすること。また、その人”とある。(広辞苑)
       「香川県行政書士会」中讃支部の中嶋元支部長は「丸亀高校」の同期である。高校3年の写真(左) は「全てに
         ハニカム」御曹司に観えた。当時は「山地」と名乗っていた。
         あの頃の私は、生徒指導教官と何時もブツカル「問題児」であった。
       語彙の不足と表現力の無さの為に、毎度、母親が高校へ泣きを入れて「一件落着」してたけど、今ならば、校長
         以下を逆に「説諭」することも出来るのだが、と思わずにはいられない。私は「質実剛健」の気風の「丸高」に入っ
    たが、其処は、東大受験の「予備校」の態でしかなかった。

 
 その後、彼が如何青春を生き、人となったかは預り知らぬが、平成14年、老母の待つ故郷「丸亀」に戻り、「行政書士」の事務所を開設した時、「事務所の検査」に来たのが、支部長の彼であった。名前が変わっていたから思い出そうにも思い出せず、其の晩「卒業アルバム」を見て思い出した。
 彼の家には夥しい数の「蓄音機」があった。其れを「養老院」などで鳴らして年寄りを慰問しているという。勿論、「軍歌」と「唱歌」である。なかなか出来るものではない。
 インターネットによる「オークション」が得意で最近は、私に「戊申詔書」、最近では「極東軍事裁判(東京裁判)」に纏わる“新聞切抜帳”を届けてくれた。余りの「感激」に「何故?」と問うてみたら、

先の大戦で多くの逸材が亡くなった。其の中でも“戦争裁判”で謂れ無き罪に刑死した1,068名(1,180余名との説もある)の“無念”を何とか晴らしたいと思って居た所、お前のホームページを見て、同じ感慨を覚えた。」からだと云うのだ。
 それで、我々の先輩で「丸中」(丸高の前身)の原田熊吉先輩(陸軍中将、ジャワ軍第二代司令官、シンガポール・チャンギーで絞首刑)の話をしたら、涙を零して聴いてくれた。
 独りよがりの利己主義と独善主義が多い「団塊の世代」の中で、本当に「祖国の将来」を憂いて、『先人の恥を雪(そそ)』ことに“命懸ける”同志が身近に居ることを頼もしく思っている。

A級戦犯の汚名”を着た「大島浩陸軍中将(元駐独大使)」は東條以下の処刑の翌日、

妖雲鎖獄朔風腥 昨夜三更殞七星 暴戻復讐還太古 雪冤何日靖忠霊』と詠んだ。

「妖雲獄を鎖して朔風腥(なまぐさ)し、昨夜三更に七星殞(お)つ、暴戻の復讐で太古に還(かえ)る、冤を雪(そそ)ぎ何れの日か忠霊を靖んぜん。」

 英国のチャーチルは、先祖に当たる「モールバラ公」の汚名を雪ごうと5年余の歳月を掛けて大冊4巻(各巻600、計2400ページ)の伝記を書き見事恥辱を雪いだ。それで、昭和28年政治家としては初の「ノーベル文学賞」を受賞した。
 極東軍事裁判(通称:東京裁判)の不当性に目覚め、私達の「両親の世代」が命も青春も擲って戦った先の大戦(大東亜戦争)を静かに見直す『時期』に来ているのではないか。

 また、この「沈思黙考」なくしては、「北朝鮮」問題も「中国」と「韓国」の言いがかりもその根幹は理解出来ない筈だ。
 私は残された寿命の中で、敬慕して止まぬ「山下奉文大将」、「松井石根大将」及び「原田熊吉中将」の恥辱を雪ぎ、そしてバリ島の「三浦襄」の再評価を図りたい。
  それは、国際化する我が親族(英、独、仏等5カ国)の中で、『クーデンホーフ』(超倫理)を主唱して止まぬ私の覚悟でもある。

          平成19年  紀元節                       久米狂雲 謹呈  
マイメイド

英国:アーノルド・
ジョセフ・トインビー博士

「第2次世界大戦によって、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したと言わざるを得ない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにした点である。」

昭和513月末、故郷を二人で出奔(駆け落ち)して神戸に着いた。夜露を凌ぐのに某神社の軒先を拝借しようと決意したが、住まいは青野先生(現「宇山会」会長)が確保してくれた。高砂市の荒井神社宮司の廣瀬先輩に「式だけは挙げておけ」とも言われたが、余裕は無かった。すると「俺がやったるから出て来い!」との命令で、新妻ともども伺った。
友人数名だけのささやかな「結婚式」だった。おまけに写真屋が言うには、「ショーウィンドゥに飾らせて貰えるなら写真、衣装一切タダにします」。それにものった。
後々、恐る恐る見に出かけたら、おおきな写真が飾ってあった。何となくコッパズカシかったが、紛れも無く私達であった。人の情けに涙した日々、あの頃の思い出である。

昭和56年元旦の「月刊千早」の関頭に平泉澄先生の「初陣の門出」が載っていた。(以下その侭写す)

『千早の子よ!我等は御同様、千早の俊坂を登り、崇高なる先人の遺跡をたづねて、心を清め、志を養って来た。それ故に、お互いに千早の子と呼んで良いであらう。さても千早の子よ。敢へて問ふ、汝は日本の国を愛するか。すでに志を立てて千早に登り、その崇高なる遺蹟にぬかづいたのであるから、此の問は全く不必要であり、無意味であるに違ない。その不必要にして、一見無意味なる問を、敢へて発したのは、若し果たして国を愛すと云ふならば、今日の国情を見て、重大なる判断と、真剣なる決意とが、要求せられるからである。即ち今日の日本は、往年の日本にくらべて、見る影もなく衰へて、その気品、その威厳を失ってゐるのである。外見から見れば、その領土は、四周悉く削り去られて、百年前の寂しき姿に戻り、その削り取られたる曾ての領土を足掛りとする外国の脅威に、日夜気を配らねばならないでは無いか。商工業は盛大であって、経済大国と誇称するものの、資源の不足は重大なる弱点であって、一朝どこかに事起れば、精勤の工場もお手あげになるであろう。明治以来百年の歴史を素直に見て来れば、国の悲運、其の精神、其の道義の退廃、泣かざるを得ない。それ故に発したのが、前の問だ。汝は果して愛国の人であるか。
 もし果して、真に愛国の人であるならば、現在の国情に於いては、汝は憂国の士でなければならない。愛情があれば、国の健康を気づかひ、その養護につとめる誠意がある筈だ。
 もし此の誠意があるとすれば、汝の行動、その日常生活は、世間一般の人とは、当然ちがって来る筈だ。世間並みのくらしをして、煙草をくゆらせ、酒をのみ、のらくらしてゐるのでは、愛国も、憂国も、あったものでは無い。
 一つの提言をする。結婚式、今風のやり方、改めたら、どうだ。今日流行の結婚式、押すな押すなの盛大、神前の式も十五分位で片付けて、あとの披露宴、学友のふざけた暴露談、お互の徳を傷つけこそすれ、何の益もない話に興じて、御馳走に御土産の贅沢、平均して大抵三四百万円、卒業してから数年の収入全部を使ひはたして了ふと云ふ。
此のやり方を一変して、客人を少数にして費用を節約し、模範とすべき恩師先輩を選んで教訓を乞ふ事、昔の武士の元服の式と同じくしたら良いではないか。結婚は一生の重大事、新郎も新婦も、同一の理想と決意とを抱いて、新なる門出をするのであるから、それは向上の一関節であり、初陣に向ふ若武者の覚悟が無ければならぬ。
 愛国の人は、当然憂国の士でなければならぬ。憂国の志ありとすれば、当然救国の策を立てねばならぬ。然るに、おのれ自ら濁流の中を泳ぎ廻ってゐては、救国の策など、立てられぬでは無いか。一切はおのれ自身の生活規律より始まる。』


 厳しいお達しである。だがそれは全て真理である。私たちは“承詔必謹”して実践せねばならない。この感激は今も昔も色あせることは無い。平泉先生との出会いを私は今も「至極の喜び」と感じ、敢えて「清貧」に生きている。

平成2079日                           久米狂雲 記

小野良介先生

倉吉市東昭和町のケアハウスひまわりで静養中の元京都産業大学理事長の小野良介先生は平成20年9月8日午前、死去されました。平成19年11月3日母校での「二期生の集い」には倉吉から元気に参加され、我々に『白洲次郎』を熱く語られた。
苦難の末に大学を創設しても決してそれに固守せず、常に「カントリー・ジェントルマン」を貫き通されたその姿は、船越正道先生と共に鮮やかに蘇る。「良い物を長く着なさい。結局安くつくよ」。先生は上から下まで総て「ベルサーチ」だった。遠く離れても大学の行末をいつも心配されていた。去る5月25日、お借りしていたご本を返しに行き、またまた話し込んで先生は昼を食べずに済まされた
思えば、未だ聴かせておきたい事が山程あったのでしょうね。でも先生、大丈夫。心安らかに昇天下さい。 黄泉の国では船越も大石も若泉も草地も岩畔も岸も居られるから、賑やかにやって下さい。そして必ず平泉先生に宜しく。もっと「ダンヒル」を差し入れた方が良かったかなあ・・・旭(H20.9.11)

知覧特攻平和会館

 昭和41年、京都産業大学の学生であった私は、当時の大谷政敬教授から「特攻隊の遺文集」を薦められて4年間かけて読破した。あの時から40年の歳月が流れ、「知覧」を見たいとの願望は大きく膨らんでいた。
 折りしも、病魔に冒されて大手術をする友が居てその前日、「退院出来たら“知覧”に連れてって欲しい」と頼まれ、「きっと行こう」と約束したことがあった。
 その友は無事元気で退院し、1年後の経過も良好で今回の「知覧」行きが実現した。

 平成201012日、四国丸亀から陸路、国道九四フェリーを経由して、宿泊地の“霧島ロイヤルホテル”に到着した。夕食では支配人石倉 保氏からの心づくしの白ワイン(ドイツ産)が差し入れられ、温泉にも浸かってその夜はぐっすり眠った。
 翌朝、630分には温泉で沐浴し、7時朝食、830分にホテルを出発して、「知覧」に向った。

 知覧に入ると『知覧特攻平和会館』に続く街路の両端には夥しい数の「石灯篭」が並んでいた。この事は当地の人々が此処を「神域」だと看做している「証」であり、厳粛な静寂が辺り一面に漂っているように思えた。
 会館は沢山の参観者で溢れていた。交通不便なことを承知で此処を訪れるこれ等の人々の目的は唯一つ、「特攻」なる歴史の真実を見たいが為であろう。
 私は夥しい数の遺影の全部と対面した。凛々しい面立ちの写真の澄んだ瞳に何度も圧倒されそうになった。 「三角兵舎」にはザット20名が起居出来ると診た。そこに起居して「面壁九年」、飽かず天井を眺めて、ある日突然、命令下達を受けて出撃するのだ。
 これ等の特攻隊員には一点の私心なく、毫末の残悔なく正に晴天白日、その美とその尊に合同帰一して莞爾たる大往生をして悠久の大義に生きたことを私は確信した。

 脇に逸れるが、20名で思い浮かべたことがある。慶応4年(明治元年)の泉州堺で、土佐藩兵がフランス軍艦水兵との小競合いで水兵10余名を殺傷するという国際事件が惹起した。 
 フランスは直ちに残忍過酷な要求を提示し、明治新政府は周章狼狽した。我国は是も非もなくフランスの要求を甘受するより他に策は無かった。かくして箕浦猪之吉含む20名の処刑(切腹)が決まった。 
 明治元年
223日、泉州堺の「妙国寺」に於いてフランス国使臣の面前で20名が次から次へと屠腹して行く事となった。その先頭は箕浦猪之吉25歳、呼びあぐれば「おおっ」と答えて悠々割腹場に着く。その姿英姿颯爽、泰然として座す。検視官に目礼し、三宝を引寄せ、短刀を右手に、並み居る仏国使臣をハタと睨み、徐に衣を開き、短刀逆手に取るや忽ち左の脇腹に深く突立て、その後十文字に切裂いた。介錯人は抜く手も見せず斬りつけたが手元狂って項(うなじ)の上部を掠めた。浅手なれば猪之吉は「静かに静かに」と声を掛けた。介錯人は気を苛立て再び斬るに、首は「カッ」と音して前に垂れたが未だ落ちず、鮮血淋漓として満身朱に染まった。猪之吉は大声を発し、「未だ死なん、斬るべし斬るべし」と叫んだ。介錯人は三回目にしてやっと首を斬り落した。悲惨にして豪快、この光景に仏国使臣は色を失った。
 かくて順々に12番目の橋詰愛平の順番となった時、正面の仏国使臣は俄かのザワメキ。やがて慌しく逃げるが如く式場を立去る気配。驚いたのは世話掛の外国事務局判事の五代才助、愛平の切腹を暫し待たせて仏国使臣の後を追い駆ければ、「かかる壮士を無惨に殺すは心外。死者は仕方なし。残る者は無事である様に執り計られたい」との言葉残して逃げ去った。
 愛平以下の8名は何故に腹切らせぬかと息巻いたがもう後の祭。それで一切は氷解した。
 国際紛争を日本武士道の見事なる切腹によって解決した堺の“妙国寺事件”。それは新生維新日本の外交の一試金石であった。そしてその貴重な砥石となったのは純忠無雑他念なき土佐人士で、これが無言のうちに、新生明治日本の外交の推進力となったことは改めて言うまでも無い。(草地貞吾先生の「続辞世名鑑」より抜粋・一部修正)

 同様に、大東亜戦争終局の「特攻」戦法は世界を震撼させた。その余波で、我国は敗戦国として何ら嘲笑を浴びることも無く寧ろ端然と、しかもか細き「自衛隊」の後ろ楯すら無く、世界に冠たる「全方位外交」を展開し得て、小笠原・沖縄までも返還せしめた。この偉業に携わった方々(小谷秀二郎、若泉敬)の原動力は何といっても「特攻」精神(一生懸命)であったことを私はよく存じている。
 戦は生命を惜しむ方が負け、命知らずの方が勝つことは自明である。先の大戦で日本が敗れたことによっても、「特攻」そのものの威力は豪も減衰してはいない。今日に於いてもこの気概根性あってこそ国家の防衛は成立する。死をも恐れないという精神気魄が無くなったら国家の防衛はお手あげであるからである。

 さて、私達の知覧見学と時を同じくして、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」発祥の地フィリピン・マバラカット飛行場跡では大阪「関防会」(関西防衛を支える会、濱野晃吉会長)の一行が「慰霊祭」の真っ只中にあった。
 此れまでの“日本悪玉侵略戦争史観”に彩られた不謹慎な慰霊祭を一掃して、真に友好的な現地慰霊祭を実現したいとの参加者の素朴な願いが必ず成就するように私は「特攻平和観音像」(秘仏“夢ちがい観音像”の謹鋳像)に祈った。

 昭和1910月第一航空艦隊司令長官の大西滝次郎は神風特攻隊を編成し、その第一陣出撃にあたり、

今や日本はまことに危険である。しかもこの危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。どうか、成功を祈る。・・・・
 皆はすでに神である。神であるから欲望は無いであろう。が、もしあるとすればそれは自分の体当たりが、無駄で無かったか如何か、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることも出来ないし、知らせることも出来ない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞に達するようにするから、そこは安心して行ってくれ。しっかり頼む

と声涙ともに下る切々たる決別の訓示をなしたこと耳目に新しい。
故にこそ、停戦後の軍令部官邸の一室で大西中将は古式通の割腹自決を遂げたのであり、その遺書には、

特攻の英霊に曰う。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死をもって旧部下とその遺族に謝せんとす。

とある。されば、陸海軍特攻隊の英霊各位の魂魄と信条は、

  身は仮令、南溟に砕屑(さいせつ)しようとも 魂は蘇り甦りて 必ず御身らを護らむ

と私なりに総括するのである。


【万世特攻平和祈念館】

郷土・四国の香川県(詫間)に在った海軍の特攻基地から出撃した『零式水上偵察機』と同じものが展示されているとの情報を得て、「知覧」から更に脚を伸ばした。

 一階にはその『零式水上偵察機』が展示されていた。金毘羅様の「御札」も確認出来た。
 二階の展示室を見て歩く内に、一枚の遺文に釘付けとなった。

思ひ出すのは幼い頃の母の背中よ水色星よ ほたる飛ぶ飛ぶ畦道の 遠い祭の笛たいこ

 第64振武隊 陸軍少尉 岸田盛夫(少飛13・京都府出身)大人之命の一首である。
 生きていればきっと素晴らしい童謡作歌にも為れたであろうその高き感性に私は虜となった。
 幼い日、私もお風呂の行き帰り、母の口ずさむ「雲なき美空にきらめく光 ああ洋々たる銀河の流れ・・・・」を母の暖かい背中で聞きながら満天に煌く蒼い星を眺めた記憶があるからだ。

ロシアの文豪ツルゲーネフ(18181883)に「勇敢なる雀」という次の短編がある。

「私は猟からもどって庭の並木道を歩いていた。犬が私の前を駆けて行く。と、犬は歩みを小刻みにして、行手に何か獲物でも嗅ぎつけたらしく忍び足をはじめた。見ると並木道の行手には、まだ嘴のまわりの黄色い小雀がいた。頭には柔毛(にこげ)が生えている。並木の白樺を風が激しく揺すぶるところから見れば、小雀は巣から振り落とされたのに違いない。やっと生えかけた翼を拡げたまま、じっと身じろぎもせずにいる。犬はそろそろと歩み寄った。すると不意にま近かの梢から胸毛の黒い親雀がまるで石つぶてのように犬のすぐ鼻先に落ちてきた。それも総身の羽を逆立てて、見るもあさましい形相をして、懸命にあわれな声をふりしぼりながら、歯をむきだした犬の口めがけて二度ばかり襲いかかった。
 親雀は小雀の命を救おうとしたのだ。身をもって小雀をかばおうとしたのだ。けれどもその小さな体は激しい恐怖におののき、諦声(なきごえ)は次第にかすれて途切れ、ついに気を失って倒れてしまった。その身を犠牲にしたのである。雀にしてみれば、犬の姿はどんなに大きな怪物に見えたことであろう。それにもかかわらず親雀は高い梢に安閑としてはおれなかったのだ。意志よりも強い何ものかの力が親雀に身を投げ出させたのだ。
 犬は立ち止まって、じりじりと後ずさりをした。彼もこの力に打たれたものと見える。私は当惑している犬を急いで呼び返し、粛然とした思いでそこを立ち去った。
 どうか笑わないでほしい。私はこのけなげな小鳥の前に、その愛の発露の前に粛然として襟を正したのである。私は心のうちに思った。愛は死よりも、死の恐怖よりも強し、それによってのみ、愛によってのみ、生活は支えられ押し進められるのだと。」

この短編を読み終わり、死んでもなお小雀を取られまいと小雀の上に折り重なって倒れている親雀の姿を想像する時、私達もまた粛然とせざるを得ない。
 子の危機に遭遇すれば鳥とても大きな敵に敢然と挑むのである。60余年前、大東亜戦争の末期、国家存亡の危機的状況に際して、愛する人のため、愛する家族のため、愛する祖国のため、「火達磨」となって敵艦隊に突入した「特攻隊員」のあの激烈敢闘こそは「人間愛」の発露であったとツルゲーネフも言うに違いない。

「生きていたならきっと祖国の発展に青雲の志を燃やして飛翔したに違いないこれ等の先達は、祖国の危機に臨み、筆を捨て一切の私情を捨てて、操縦桿を握り南西諸島に押寄せる敵艦隊に昂然と挑み散華した。」

 この尊き「先達」の敢闘偉業に対して、私達は満腔の感謝を捧げ、子々孫々に語り継ぎたい。

 尚、「万世特攻平和祈念館」係員の馬場女史にはその節、誠意溢れる説明に私達は感動しました。帰郷後も私達の素朴な質問に丁寧に答えて下さり感謝で一杯です。此処に篤く御礼申し上げます。    (了)

平成201015日                       春木 旭 合掌



上は陸軍の一式戦闘機
右は零式水上偵察機

左は二式飛行艇
当時は世界最高の機能を装備していた。
香川県詫間基地(海軍)からは二式と
零式水上偵察機も特攻で出撃した