最新情報

教会案内

牧師紹介

今週のメッセージ

ノアズアークチャーチスクール

アクセスマップ

Eメール

4月24日 ヨハネ11章20節~29節

「わたしを信じる者は死んでも生きる」 具志堅昭師

主のご復活おめでとうございます。私たちの人生に救いの道を開くため、人となられた神は、この罪に満ちた地上に介入してこられました。私たちの身代わりとなって、十字架にかかり死んでくださいました。その後、三日目に死に打ち勝ち、よみがえられました。私たちのためによみがえられたのです。私たちもこの肉の体は一度、死ななければなりませんが、キリストのようによみがえります。天国においてよみがえります。死のない、苦しみのない、衰えることのない体によみがえります。キリストがその初穂となって復活されたのです。ですから、復活のない福音は考えられません。復活のないところに希望はないのです。

いろいろな宗教があり、いろいろな教えがあるなかで、罪の身代わりの死があり、滅びから永遠への復活があるのは、イエス・キリストだけです。このお方は私たちに霊の癒し、心の癒し、体の癒しをもたらす、今も生きておられる神様です。復活されたイエス様はあなたが心から呼び求める時、瞬間にあなたのそばに来られ、あなたの人生の歩みを確かなものとされるのです。**



4月10日 第一ペテロ4章7節~11節

「苦難の中を生きる」 守部喜雅氏

本日は、命の水計画の守部喜雅氏をお迎えできたことを心から感謝します。毎年来て下さり、中国のキリスト者の信仰に学ばせていただいています。困難の中でも前進している彼らの信仰に、信仰とは何か、キリスト者はどう生きるべきか、いつも考えさせられます。特に今回は、東日本大地震があり、多くの人々が命を失い、家を失い、財産を失いました。地震、津波、被爆という、折り重なる試練の中、いまだ先行きが見えない現状の中で、日本の教会がすべきことは何なのか、キリスト者として何ができるのか、中国のキリスト者はこのような時、どういう反応をするのだろうかなど、いろいろ考えさせられます。

聖書の中に御言葉の飢饉が来ることが預言されていますが、私たちが、本当に一番にすべきことは、時が良くても悪くても福音を述べ伝えることであり、この日本のために祈るべき時が来ているのではないかと考えさせられるのです。イザヤもエレミヤもイスラエルの罪を自分の罪のようにして悔い改めをいのりました。私たちはこの日本のため悔い改めを祈ることと御言葉の種を蒔き続けることを怠ってはならないのです。**



4月3日 出エジプト記19章5節~6節

「神の声に聞き従う恵み」 具志堅昭師

私達の神様は生きておられる神様、人格を持っておられる神様、人と交わる神様であります。神様は常に語っておられる神様です。神様の語りかけを聞き分けることができるなら、神様は私たちを祝福の道に導かれます。今日の御言葉には①神の宝となる。②祭司の王国となる。③聖なる国民となる。という約束があります。なのに私たちはなぜ神の語りかけがわからないのでしょうか。

まず①罪のために霊の耳が閉ざされて聞くことができません。②サタンの惑わしと覆いによって正確に聞くことができません。③肉の思いが強くて神様の声をきこうとしません。ですから、主の声を聞きたいという飢え渇きが与えられるように祈りましょう。悔い改めて神の声を聞く器をきよめましょう。神の声を正確に聞けるように御言葉を毎日ディボーションし、御言葉を通して内なる思いを吟味しましょう。ラジオを聴くにも電源を入れ、スイッチをonにしダイアルを合わせボリュームを上げる手順があるように、手順を踏めば主は語られるのです。**



3月27日 歴代誌I 28章1節~10節

「思いを読み取られる主」 具志堅昭牧師

神様は戦死としてダビデをお立てになりました。そして、神の宮の建築のためには、その息子、ソロモンを選ばれました。神様は、一人一人を主の働きのために選んでおられます。ダビデも、神の宮の建築を考えましたが、神様はそれを許しませんでした。それぞれが神様の何かの働きを担っており、その働きを全うする力を主が与えて下さるのです。

ソロモンは神に選ばれておりましたが、だからといって、自動的に用いられたのではありません。主の命令を守ることと、主の命令を求めることが条件でした。御言葉を守ることと、御言葉を求めることと言っても差し支えないでしょう。御言葉は私たちの心を変え、祝福を受けやすい状態にしてくれます。御言葉は、私たちを神に出会わせて下さいます。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えることができるように祈りましょう。

主は、私たちの思いを読み取られるお方です。真実に主に向かうなら、主は私たちを大きく用いて下さるでしょう。神様があなたに特別な計画を持っておられることは明白です。あとは私たちに飢え渇きがあるかということです。**



3月20日 使徒の働き11章19節~21節

「主の御手のもとにある人々」 具志堅正都師

震災の起こった11日(金)私は淀川キリスト教病院のチャプレンとの懇談、ホスピス見学のため大阪におりました。訪問を終え、一段落し同行者とともに食事をとっている最中に地震が起こりました。大阪の震度は大きくはありませんでしたが横揺れが長く続きました。それから空港に向かい人々がテレビに釘付けになっている姿を見、わたしも同行したメンバーも起こっている出来事に衝撃をかくせませんでした。

被災地にいる人々の上に主のあわれみ、支えと回復を祈るばかりです。メンバーの一人は世の終わりを意識させられると話していました。私たちがこれまで誇っていたもの、人間的に頼りにしていたもの、保障だと信じていたものがことごとく砕かれる瞬間でもありました。もちろん、私たちの見ているものは一部分です。そのすべての全貌はわかりません。しかし今の困難な時代にあって霊的な目を覚まして、とりなすものとして歩む使命があります。この時であるからこそ主が働いてくださり、この国の天の窓が開かれ人々がへりくだり神様のもとにたちかえる時であり、主の御手がのばされる時であることを信じましょう。**



3月13日 イザヤ書1章14節~17節

「信仰を行動に」 東風平巌宣教師

東風平巌宣教師は、皆さんご存知のとおり、OBCから送り出されたネパール宣教師です。先生はネパールの地に入り込んでいき、教育面で活躍し、宣教で仕え、さらにはエデンプロジェクトという国を変える大きな働きをゼロからはじめ、拡大させてこられました。何においてもそうですが、新しいことを「始める」古きを「変える」働きを「定着させる」ということは、ものすごい忍耐と祈り、信仰と確信が必要だと思います。先生のお働きの証と御言葉のチャレンジが頂けることを感謝します。自分を変えるために古い皮袋を捨て去り、新しい価値観にシフトされ、主の働きを始め、定着させるために期待してまいりましょう。

このたび、チャーチスクール中1メンバー3名の修学旅行先として、ネパールの地が導かれました。東風平先生にお世話になります。霊的にも人格的にも成長して戻ってくることを楽しみにしております。私たちも世界に目を向ける時、世界は動き始めます。そして世界に目を向けるあなたが変わりはじめ、あなたの立っているところも変わるのです。そうです、今、日本は変わらなければならないのです。**



3月6日 ヨハネによる福音書15章7節~8節

「実を結ぶ創造的な信仰」 具志堅昭牧師

神は、実を結ぶように私たちを造られました。バナナの木は、バナナの実を結ぶのが自然であるように、私たちも実を結ぶように造られているのであれば、実を結ぶことが自然なのです。実を結ぶ方法をこの箇所は教えています。

まず一番目に、キリストにとどまることです。とどまるとは過去形でもなく、未来形でもなく、現在進行形です。あなたの心にキリストは宿っておられますか?とどまるということは、とどまらせる何かがあるはずです。それが信仰です。信仰によって、キリストを我がうちにとどまらせる。それによって平安がきます。私達の神様は交わりの神様です。いつも内におられる神様に語りかけましょう。それが不断の祈りとなります。

二番目にキリストの御言葉がとどまることです。ここでいう「とどまる」とは単に暗唱していることを言うのではありません。暗唱は頭にとどまっているのですが、実を結ぶためには心まで下ろさなければなりません。三番目は実を求めることです。心に確信が来ますか?それがしるしです。**



2月27日 使徒の働き 10章34節~48節

「神の選びと御言葉と聖霊と」 具志堅昭牧師

人が救われるということは、この地上で最大の奇跡であります。癒しも成功も反映も一時的な奇跡であり、表面的な奇跡であり、部分的な奇跡であります。しかし、救われるということは、私たちの存在が神の所有とされることであり、神の所有とされることは永遠であり、不変であり、完全であります。救われるということが、どんなにすごいことなのか、いつも静まって思いめぐらすべきでしょう。この地上生活に振り回されると、思いがこの世的になって、神の子としての素晴らしい人生に気づかないまま終わってしまう可能性があるからです。

今日の聖書の御言葉は、神に救われるとは、まず、神の選びの中にあることであり、選びは、神の憐みであることを教えています。ふさわしくない者、汚れた者たちが神に呼び集められて、神によってきよめられたら、その人は赦された者となり、きよいのです。第二に、神によって集められた者たちは御言葉を聞き続けることによって聖霊を受けました。御言葉は奇跡を生みます。御言葉には力があるのです。第三に、聖霊を受けると力を受けます。御言葉を体験し、実を結ぶ人生と変えられていきます。**



2月20日 使徒の働き 13章2節~3節

「働き人を送り出す教会」 城間祥介牧師

本日は、沖縄バプテスト連盟の講壇交換日にあたり、当教会には、宮古バプテスト教会名誉牧師の城間祥介牧師をお迎えすることができました。感謝します。

城間先生はOBCの中においても、ベテランの先生で、これまで沖縄のキリスト教界の歴史を作り上げてこられました。特に宮古教会において、牧会のみではなく、地域に根ざし、地域に仕え、地域を建てあげていく教育者としての働きも加わり、宮古教会は地域と共に成長していきました。これまでも多くの人材を世に送り出しておられます。城間先生ご夫妻の長年の働きが、豊かな実を結ばせています。現役を引退された今も、その培われた経験と賜物を活かし、多くの教会や地域において、主の働きをなされております。

今朝、敬愛します城間先生を通して、深みのある研ぎ澄まされた御言葉を頂けることを光栄に思います。主からのチャレンジを受けて、泡瀬の皆さんがますます主の働き人となり、宣教の器となられることを心より期待しております。終末時代に生きている私たち、いつ主の時が来ても後悔することがないよう、整えられてまいりましょう。**



2月13日 ピリピ人への手紙1章1節~11節

「義の実に満たされている者となれ」 具志堅昭牧師

一粒の種が地に落ちれば、そこから芽が出て、花が咲き、やがて豊かな実を結びます。イエス・キリストが人となられて、この地上に降りてこられ、私たちの救いの種となって、十字架にかかり死んでくださいました。それによって、すべての人が生きるようになりました。イエスの死は私たちの罪のための身代わりの死です。イエスの死によって、全ての人々の全ての罪がゆるされるのです。

イエスは3日目によみがえりました。そのよみがえりの力は、私たちに永遠の命をもたらすものです。イエス・キリストを信じ、彼と共に生きるということは、彼に接木(つぎき)されることです。罪のゆるしと永遠の命が私たちにつながれるのです。キリストにつながれている者は、この地上で義の実を結びます。キリストが今も生きている神であることの証し人となるためです。

私たちの身に起こることが、すべて福音を前進させることに変わっていきます。その信仰に立つ時、あなたを敗北させるものは何一つありません。悲しみや困難に負けることなく、キリストに身を捧げ続ける者となりましょう。イエスにならって実を結ぶ種となってください。**



2月6日 ヨハネによる福音書17章18節~23節

「一つとなる祝福」 具志堅昭牧師

一昨晩、ヘンリー・グルーバー師を招いての聖会を終了後、例年のごとく、先生は集った方々のために丁寧に祈ってくださいました。家族ごとに並び、先生の励ましを頂き、祝福の祈りを受けるその姿は感動的でした。家族が一つとなり、同じ神様を礼拝できることほど、大きな祝福はありません。家族の主にある一致は、何にも勝る宝であると思います。

しかし、主が中心の家族は聖霊によって一つとなり、永遠の命につながっている神の家族なのです。その意義は大きいです。家族が主によって礼拝し、働きを共にし、祝福を祈り合えるなら、そこには神様が臨在されるのです。すなわち主の偉大な御業を見ることができるのです。

同じく、教会の一致、これも霊的に大きな意義があります。同じ主を礼拝し、同じビジョンに向かい、祈りの手をあげて前進していく時、教会というノアの箱舟は大きく力強く前進していくのです。一致を通して奇跡も起こります。**



1月31日 第一コリント15章17節~22節

「復活信仰に立てる恵み」 具志堅昭牧師

聖書は私たちに良い教えを与えます。その教えは私たちの生き方に大きな変革をもたらします。しかし、聖書の優れたところは、「教え」だけではありません。「教え」以上のものがあるのです。それは、キリストの復活です。

「教え」は私たちにどう生きるべきか道を示します。私たちに罪がなければ、それも有効かもしれません。しかし、私たちはすでに罪人であり、罪の重力に捕らえられている者であります。私たちに必要なのはどう生きるべきかという「教え」だけではなく、「罪の赦し」、「救いの現実性」であります。それは、キリストの死からの復活によって実現しました。もし、キリストがよみがえらなければ、私たちの信仰は空しいのです。 「教え」だけであれば、釈迦や孔子でも良かったのです。しかし、私たちを救えるのは、聖人、偉人ではなく、死に打ち勝ってよみがえられたキリストにあるのです。真理が私たちを救えるのです。

復活されたイエス・キリストは今も生きておられ、私たちのために祈られ、信じるものに聖霊を送られ、私たちを導いておられるのです。イエス様は信じる者の心の中におられるというのは、詩的な表現でもなく、象徴的表現でもなく、単なる心理的願望でなく、紛れもない事実なのです。なんと素晴らしい神のこの世への介入でしょうか!!**



1月23日 イザヤ書60章1節~22節

「祝福の門が開かれる時」 具志堅昭牧師

2節にあるように、やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっていると言える時代の中に私たちは住んでいます。しかし、そんな時代にあっても、クリスチャンは守られ、神の栄光があらわされるとしるされています。クリスチャンの存在が世の慰めとなり、模範となります。あなたがいつも輝いているからです。神様につながっていれば、どんな時代が来ても恐れるにはおよびません。むしろ神様が働かれる証しが顕著になるでしょう。

あなたの上に天の門、祝福の門が開かれ、昼も夜も閉じられることはありません。神様と共に歩むなら、最も小さい者でも大きく豊かに用いられるようになるのです。時が来れば、主がそれを速やかにして下さいますから、明確に神様の所有とされますように。神様の所有とされるために、イエス・キリストを救い主としてあなたの人生に受け入れること、イエス・キリストを礼拝する人生を選び取ること、聖書の御言葉によって養われることが、重要なことです。永遠の命に至る道は一本しかありません。あなたのために流されたイエスの血によるあがないの道だけです。**



1月16日 詩篇124篇1節~8節

「神がもし味方でなかったら」 具志堅昭牧師

神は私たちの命を造られたお方ですから、いつも私たちの味方です。もし神が私たちの味方でなければ、サタンの攻撃をまともにくらっており、とっくに命はなかったでしょう。生きていたとしても、毎日が地獄であり、何の希望も見出せなかったことでしょう。中には、神に頼らなくても上手くやれると過信し、神様や救いは必要ないと受け入れることを拒む者もいることでしょう。

しかし、聖書が言っていることは、神を信じるものは、試練があっても耐えられない試練は与えない。全てが最善に変えられていき、肉体の命が終わっても、永遠の命が保障されており、永遠の幸せに向かって生きている。しかし、神を受け入れない者は、今、幸せでも、今、成功していても、それはいつまでも保障されているものではないし、いつか消え去っていくものである。肉体の死を迎えても、霊は死ぬことはできない。永遠の死を苦しみ続ける。一時的な成功や平和に安堵して神の救いを受け入れないということは、霊的に盲目であると言わざるを得ません。本当の幸せとは物質的なことではなく、神が共におられ、私たちの味方であるということです。**



1月9日 エレミヤ書29章10節~14節

「祝福を受ける信仰」 具志堅正都牧師

愛する兄弟姉妹が、祈り待ち望んでいた。サミル教会宣教チームを迎えての合同宣教が始まりました。互いに影響し合い、福音の種を蒔き、収穫の喜びを分かち合う時、成長の時、祝福の時、奇跡の時となることを信じます。私たちは神の栄光を見ます。

さて、今朝の御言葉は、エレミヤ29章です。背景としては、イスラエルの民が、バビロンに捕囚され、困難で絶望的な状況に置かれている時でした。そのような中で、主はエレミヤを通して、主の言葉を民に伝えます。それは、時が来るならば、主が幸いな約束を果たし、将来と希望を与え、回復されるという言葉でした。また、捕囚された場所(国)においては、その場所の祝福と繁栄を祈ること、主の約束を信じ、主を心から求め歩むことを伝えます。私達がどのような状況の中にあっても、主の御言葉の約束と祝福は変わりません。戦いや困難がないわけではありません。しかし、私達が主に信頼し、期待するならば、必ず勝利します。私達の宣教は実を結びます。主の祝福を受けとるものとして信じて歩みましょう。**



1月2日 第Iヨハネ5章14節~21節

「祈りの力と神の守り」 具志堅昭牧師

あなたのまだ救われていない家族が救われる確信がありますか?質問を変えてみましょう。あなたの家族が救われることは神の御心だと思いますか?もちろんYESですね。であれば大丈夫です。神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さると御言葉は語っています。その約束に対して確信をもたなければなりません。確信に立つ祈りは強力です。あなたに祈られている人は幸せです。また、人のために祈ることができるあなたは幸せです。なぜなら、人のために祈っているあなたのために、神はその人を救い、永遠の命を与えてくださるからです。

祈りは人々に命を与えるのです。死に至る罪を犯していなければ、だれでも祈りによって救いに導くことは不可能ではないのです。死に至る罪とは、聖霊を汚す罪であり、キリストを無知からではなく、知った上で完全に自分の人生から排斥することです。とりなしの力は奇跡を生みます。また、救われた者はキリストにより守られ、サタンは彼らを一切滅ぼすことができません。**



12月26日 エゼキエル書2章1節~10節

「エゼキエルの召命」 具志堅昭牧師

2010年最後の礼拝を迎えました。どういう一年を過ごしましたか?その心次第で2011年が決まるといっても過言ではありません。

困難があっても落胆せず前向きに進み続ける、これがクリスチャンらしい生き方と言えます。主の選びの器、エゼキエルの召命をみると、主は、神の栄光に預からせるために、あえて困難の中に置くことがあるのです。困難を前にしてひるんだり、恐れたりするのは神の栄光を見る妨げとなってしまいます。困難に向かって一歩踏み出すのは私たちです。その一歩を踏み出すことができれば、あとの力を与えてくださるのは神様です。あざみといばらがあなたと一緒にあっても、あなたがさそりの中に住んでも、恐れるなと聖書は語っています。むしろあなたの口を大きく開いて、主があなたに与えるものを食べよと教えているのです。

御言葉は私たちを強くします。聖霊は私たちと共にあって、御言葉の実現へと導きます。2011年は2010年で蒔いたものを刈り取ることでしょう。また、2011年に何を蒔くかによって2012年が決まっていくのです。あなたの口は大きく開いているでしょうか。信仰がなくては神様の約束を体験できません。**



12月19日 ルカによる福音書2章11節~12節

「あなたがたのためのしるし」 具志堅昭牧師

神様がこの地上で、何かをなさるとき、そこには必ず意味があります。その意味が解き明かされていく時、私たちは神のご計画と愛の深さに驚かされます。イエスは神の子でありながら、最高の謙遜をもって人の子として生まれてきました。どんな地位を持つ人でも、どぶ掃除をしなければならないとき、それにふさわしい格好をすると思います。イエス様が、馬小屋の飼い葉おけでお生まれになった、それは神の子が、サタンが支配する罪の世界に突入し、命をかけて、我々を救い出す、霊的戦いがこれから始まるという、神様の決心であり、その覚悟が読み取れるわけです。キリストが人となられたのは決して安易なロマンチックストーリーではなく、神の犠牲であるわけです。ある意味では、闇の世界に生きる私たちには、希望の光が差し込んだわけです。私たちはその光に向かって光と共に歩みださなければならないわけです。

インマヌエルなる神の子に東方の博士は黄金、乳香、没薬を捧げました。それは、彼らが、霊的にイエスの生涯を予見してそれにふさわしい贈り物をしたのです。**


12月12日 マタイによる福音書1章18節~25節

「信仰をもって決断する人」 具志堅正都牧師

マタイは、イエス様の御降誕をヨセフの立場から記しています。マリヤと比べるならばヨセフは、決して目立つ人物ではありませんが、父として、神から選ばれた者として、救い主が誕生するという神様の壮大な計画の中で、確かに動かされ、用いられた人でした。また、彼の信仰者としての生き方は、私たちに父なる神様の義と憐れみ、忠実な僕の姿、御霊に満たされたクリスチャンにあらわされる性質を指し示します。ヨセフは、①義と憐れみの人。②愛する人。③主の御声に心開かれた人。④信仰の人。⑤決断の人でした。

アドベントの第三週を迎える今朝、神様がヨセフを選び、ご自身の救いの計画に用いてくださったように、私達を救い選んでくださっている神の栄光をあらわし、待ち望む時としましょう。**


12月5日 ルカによる福音書1章39節~45節

「祝福の人マリヤ」 具志堅昭牧師

イエスを宿したマリヤの声を聞いた時、エリサベツは聖霊に満たされ、エリサベツの胎の子は、体内で踊りました。マリヤは普通の女性でしたが、イエスを宿した時、マリヤも聖霊の人となり、祝福の人となって、周りにも良い影響を与えたのです。私たちもイエスを信じた時、①聖霊が宿ります。②悔い改めた罪が赦されます。③永遠の命が与えられます。④さまざまな試練を通されても、すべてが最善へと変えられていきます。⑤祝福の人となり、よい影響を周りに流します。

私たちは普通の人でも、主が私たちの中にこられた時、主が私たちを変えていくのです。主が来られた証拠は何でしょう。それは、ただイエスを信じること、イエスを愛することそれだけです。しかし聖霊が働かなければ、イエスを信じること、愛することさえできないのです。そして自分の人生を主にゆだね、主を第一とする時、私たちは成長の実を結ぶことができるのです。このアドベントの時、主イエス様を心の中心にお迎えし、祝福の人となる土台を築きましょう。**


11月28日 使徒の働き16章16節~34節

「家族の救い」 国吉守牧師

12月9日は教会組織10周年を迎えます。少し早いですが、記念感謝礼拝を捧げることができることを感謝します。今回、国吉守先生が御奉仕してくださることを非常に嬉しく思います。先生は那覇教会の主任牧師であるだけでなく、OBC、沖縄の超教派、日本の様々な教会の成長のために用いられ、活躍されてきた主の器であります。私たちの教会も、先生の賜物、油注ぎをたくさんいただいて、祝福された新たなるスタートをきりたいものです。

泡瀬教会は1994年3月20日に胡屋教会の伝道所として、20坪程度の事務所を借り、スタートしました。初代牧師、具志堅正位師により積極的な伝道が繰り広げられていきました。その後、先生が辞任され、牧師不在の試練の時期が続きましたが、98年6月に具志堅昭牧師が就任、2000年12月9日に教会組織をし、OBC30番目の教会として誕生しました。2003年5月18日に元病院跡地に会堂移転、さらに3年後の9月24日には新会堂が与えられました。主がしてくださることにさらに期待しましょう!**


11月21日 Iサムエル記17章31節~40節

「主に信頼してあなたらしく仕える」 具志堅正都牧師

イスラエルの代表的な王様にサウルとダビデがいます。二人とも働きの最初、神様からの選びと油注ぎを受けましたが、その人生の歩みはまったく違うものとなりました。サウルは恐れ(民の声、拒絶、失敗への恐れ、嫉妬、恥、自己不安)に縛られて、自滅の道をたどっていきます。恐れに縛られると、本来、私たちに与えられている聖霊の賜物が封じられ、主にあってあなたらしく仕えることができなくなってしまいます。

一方、ダビデは、自らの人生において直面する恐れを乗り越えていく信仰の歩みをしました。今日の本文は、聖書の中でも有名なダビデとゴリヤテの戦いですが、イスラエルの民とサウルが恐れて否定的な態度を示している中、ダビデは、神様が与えた肯定的な経験、主に対する信頼、自分に与えられている武器を用いて、戦いに勝利します。私たちも主に信頼し、恐れを乗り越えてあなたらしく仕える者となりましょう。**


11月14日 マタイ9章18節~38節

「信仰による奇跡」 具志堅昭牧師

聖書には癒しや奇跡の記事が多く記されています。しかし、癒しや奇跡は、そう簡単に起こるものではありません。信仰が必要です。今日の御言葉の箇所はいづれも「信仰」が試されていることを学びます。会堂管理者の娘は死にました。「でも、おいでくださって・・・」という文章が続きます。それが大事なのです。決してあきらめてはならないのです。12年長血をわずらって苦しんでいる女性もイエスの「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えました。そこが大切なのです。ふたりの盲人は大声でイエスのあわれみを求め、イエスは「わたしにそんなことができると信じるのか」という問いかけに「そうです。主よ。」ときっぱり答えました。それが重要なのです。

一方、イエスの奇跡を信じないで、あざ笑った者たちはイエスのミニストリーから外に出されました。不信仰は奇跡の妨げとなるからです。御言葉を悟り、信仰に固くたって素晴らしい神の業を見るものとなりましょう。不信仰の中にいると神の恵みから遠ざけられてしまうかもしれないからです。もちろん最高の奇跡は神との和解による救いです。**


11月7日 詩篇23篇1節~6節

「主の憐みによって生きる」 具志堅昭牧師

私たちは、主の憐みによって生かされています。人生という明日がわからない道を歩んでいますが、羊たちは知らなくても、羊飼いに見守られているように、私たちも主に見守られて生きています。羊飼いが一緒なら、荒野でも羊は豊かに生きられるように、主が共にいて下さるのであれば、この地上でも、豊かに生きることができるのです。明日を恐れずに、主を第一として前進する日々でありたいと思いますが、人間は高ぶりやすく落ち込みやすいのです。すなわち、主を忘れて歩いているのです。私たちは決して主から離れてはなりません。自分を誇ってもなりません。明日を恐れてもなりません。自分は不幸だと思ってはなりません。主は荒野の中でも、そこを祝福の地とすることができるのです。

詩篇23篇は泡瀬教会の信仰告白でもあります。これまでこの御言葉に支えられて前進してきました。主の憐みによって生きる私たち、主の憐みによって前進し続ける教会でありたいと思います。ぜひこの御言葉を暗唱して下さい。**


ページTOPへ   2009年12月~2010年3月   2010年4月~2010年6月   2010年7月~2010年10月