中国地方の名城
| 岡山 | 「☆備中松山城」・「☆岡山城」・「☆津山城」・「☆鬼ノ城」 |
| 鳥取 | 「☆鳥取城」・「羽衣石(うえし)城」・「若桜鬼ヵ城」・ |
| 広島 | 「☆広島城」・「☆福山城」・「☆吉田郡山城」 |
| 島根 | 「☆松江城」・「☆月山富田城」・「☆津和野城」・ |
| 山口 | 「☆萩城」・「☆岩国城」 |
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安芸 広島城 ⇒自治体HP |
別名: | 鯉城・在間城・当磨城・石黒城 |
| 所在地: | 広島県広島市中区基町 Tel 082−221−7512 |
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| 城の種類: | 平城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長4年(1599) | ||
| 築城者: | 毛利輝元・112万石 | ||
| 遺構: | 天守台・石垣・堀・本丸・二の丸 | ||
| 「広島城」は秀吉の五大老の一人となった「毛利輝元」が築いた典型的な平城です。 「毛利氏」は南北朝時代から「郡山城」を居城とする一領主でしたが、「元就」の代になって中国地方の大部分を支配する戦国大名になりました。 「輝元」は「三本の矢の教え」で有名の「毛利元就」の孫であり、中国地方9ヶ国(現在の広島・島根・山口全県と鳥取・岡山両県の一部)にわたる領地を統治するため、天正17年(1589)年、水陸交通の要衝である広島湾岸の「五箇村」と呼ばれる大田川のデルタに築城を開始し、同19年入城した。45棟に及ぶ櫓群など壮大な大城郭でした。 「輝元」は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、西軍側に付いたことから萩に移され、代りに清洲から「福島正則」が入城した。ところが元和5年(1619)「正則」は洪水で破損した城の改築を幕府に無断で修築したという理由で川中島に転封されてしまう。 代って「浅野長晟」が安芸一国と備後8郡の領主として入部し、42万6千石の城下町として以後「浅野氏」が12代250年続いた。 明治4年(1871)の廃藩置県以後、城内には軍の施設が設けられ、日清戦争の際には大本営が置かれました。 昭和20年(1945)8月6日の原爆投下により無残にも全て焼失し、昭和33年現天守閣(5層5階)が復元され内部は歴史資料館になってます。<広島城パンフレット引用> ★近代高層ビルとお堀に映すお城の勇姿とのコントラストが美しい。 「広島」の地名の由来ですが、毛利氏の祖先「大江広元」の「広」と、「輝元」をこの地に案内した「福島元長」の「島」を合わせて「広島」と名付けられたと言われます。また大田川の河口にあるもっとも広い島から「広島」と命名されたとも言われます。 広島城は別名「鯉城」ともいわれ広島東洋カープの名はこれににちなんで付けられました。 |
![]() ♪「秋山の浴を埋むるあさ霧に わが立つ城の四方しろくなる」 (入場券の与謝野 寛の歌) |
備中 松山城 ⇒自治体HP |
別名: | 高梁城(たかはしじょう) |
| 所在地: | 岡山県高梁市内山下 Tel 0866−22−1487 |
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| 城の種類: | 山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 延応2年(1240)・元和元年(1681) | ||
| 築城者: | 秋庭重信・水谷勝宗 | ||
| 遺構: | 天守・ニ重櫓・土塀(重文)・石垣 | ||
| 「松山城」は峻険な山容に造られた、近世大名の居城で旧天守を残す最も高い山城といわれ、また高取城、岩村城と並んで日本3大山城として有名である。 この城の歴史は古く、延応2年(1240)承久の乱での戦功により、有漢郷の地頭として赴任した、相模の「三浦氏」の一族「秋葉重信」が築いたといわれる。 高梁川左岸の急峻な臥牛山大松山に築かれ「高梁城」と呼ばれた。 その後小松山に移り、城としての縄張りは戦国時代、臥牛山全体に拡大していった。なかでも天正2年(1574)に起こった備中兵乱時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたと記録にあり、当時の城主は「秋葉氏」から「高橋氏」を経て、天正年間(1573〜93)の「三村元親」が居城していたが、その大要塞ぶりが想像できる。 ここは山陰道と山陽道を結ぶ要路で、「尼子と毛利」の激しい戦いが絶えなかった。そのため城主もめぐるましく交代が繰り返された。 関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1600)に徳川氏の支配となり、小堀氏、池田氏の後、元和元年(1681)「水谷勝宗」の時、現在の遺構に見られる規模に改修され、近世城郭として大きく整備された。 2層の天守もこの時造られたが、標高480mという高所のため、山麓に根小屋を構え政務は行われた。小天守は現存12天守の一つで重文である。2重2層で珍しい。 城主はその後も浅野、安藤、石川氏と替わり、延享元年(1744)「板倉勝澄」が5万石で入封、以後明治まで続き、廃城となった。・・<参考:日本名城の旅・井上宗和著> ★天守まで山道と石段を歩くので少しきついが、すばらしい城壁の石垣を見ると、疲れも忘れ山上での喜びも格別である。駐車場の売店の方の話だと忠臣蔵で有名な「大石蔵之助」が城代をしたこともあると言う。本当だろうか? ★★H15/3再訪しました。まずすばらしい石塁に2度目ですが、やはり目を奪われます。大手櫓も新装して昔来た時より見違えるように美しくなりました。久しぶりの木造天守、やはりいいですね。二の丸でしたか雪隠跡の遺構をはじめて見ました。ビデオも備えてあり、歴史や復元工事もよく説明してくれます。見学が忙しいのに20分も見ちゃった。 今回はM氏にご教授頂いた裏山の大松山城の遺構の見学に挑戦、石造りの大井戸や大池、竪堀、石塁、一時間以上すっかり堪能しました。こちらは水が実に豊富でして、松山城の水甕のようです。こちらの見学もお勧めしたいです。 |
![]() ![]() ♪「み菩薩の たねをうえけん この寺に緑の松の あらぬ限りは」 <宇喜多秀家の辞世の歌> |
備前 岡山城 ⇒岡山城事務所HP |
別名: | 烏城・石山城・金烏城 |
| 所在地: | 岡山県岡山市丸の内 Tel 086−225−2096 |
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| 城の種類: | 平城 | ||
| 築城年: | 慶長2年(1597) | ||
| 築城者: | 宇喜多秀家、57万石 | ||
| 遺構: | 月見櫓(重文)・西手櫓(重文)・石垣・内堀・門の跡 | ||
| 旭川沿いに、黒い下見板張りの「烏城」の名で有名な岡山城天守閣が聳える。その3層6階の天守は「秀吉」の指導のもと、慶長2年(1597)「宇喜多直家」の子「秀家」が安土城を模して築城したとも言われる。 「岡山城」は最初は更に西にある石山と言う小さい丘の上にあって、「金光宗高」が城主であった。その後亀山城を居城としていた「宇喜多直家」が「宗高」を謀殺してこれを奪い、天正元年(1573)城の拡張改修を行った。「直家」の後を継いだ「秀家」は天正18年(1573)4国を領する57万4千石の太守となり、城の大拡張工事に着手、現在の岡山城の原型を造った。関ヶ原以前の天守閣は5層6階、他に多くの櫓、城門が林立する名城だったという。 その後関ヶ原の戦いで西軍に属した「秀家」は領地を没収され、代って「小早川秀秋」が52万石で入城したが2年後、不運にも継嗣なく病死した。代って姫路城主「池田輝政」の子「忠継」が31万5千石で入封するが早世して、後「池田家」が継いで入り18年間在城して城郭の改築を行った。 寛永9年(1632)「池田光政」が鳥取から入城、以降世襲して明治に至った。 ・・<参考:日本名城の旅・井上宗和著> ★「岡山城」には広島城と並び中国地方の代表的な天守がありました。昭和20年の空襲によって惜しくも焼失したが、3層6階(構造は安土城を真似ているとも、大坂城ともいわれる)の天守が昭和41年に復元されました。最上階は廻り縁を持たない望楼型天守で、外壁は黒塗りの下見板張りである。写真に似た構図が記念切手にもなってます。隣地には有名な日本三大名園「後楽園」があります。 |
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備後 福山城 ⇒福山城博物館HP |
別名: | 久松城・葦陽城 |
| 所在地: | 広島県福山市丸の内 Tel 0849−22−2117 |
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| 城の種類: | 平山城 | ||
| 築城年: | 元和8年(1622) | ||
| 築城者: | 水野勝成(福島正則に代わり新領主となる) | ||
| 遺構: | 伏見櫓・筋鉄門(重文)・鐘櫓・石垣 | ||
| 「福山城」は、瀬戸内制海権を握る重要な地点である山陽道の中央にあたり、西国の要衝になる福山に置かれた。 幕府譜代の重臣「水野勝成」が「福島正則」に代り10万石で入封。元和5年(1619)に5層6階の天守が大坂城にならって、芦田川の河口の常興山に築城された。当時としては、徳川御3家の水戸、和歌山城ですら許されなかった5層の天守はよほど異例の例外的措置と思われる。理由は西国外様大名への備えからの配慮からか。 現在、城は福山駅のすぐ前にある。付櫓を有する複合天守閣で、1層の南北面と2層の東西面を入母屋破風を二つ並べた「比翼入母屋造り」とし、上層には「千鳥破風」と「唐破風」を対比させて設けている。1階から4階までの外壁は鉄板張りで類例がない造りが多い。築城技術の最高水準を駆使した江戸時代随一の建築として評価が高い。また幕府の支援があり、京都「伏見城」から遺構材が運ばれ伏見櫓が建てられている。 最後の藩主は有名なペリー来航時、開国を断行した老中「阿部正弘」であった。 昭和20年の戦災により残念ながら天守など多くを焼失したが、昭和41年以後天守・月見櫓・御湯櫓・鏡櫓・鐘櫓・城塀が次々と復元された。一帯は城址公園となって市民の憩いの場になっている。<参考:日本名城の旅(井上宗和)・城(平井聖監修)> ★再訪しました。お城の前のホテルに宿泊、したところお城が目の前にバッチリ見ることが出来ました。生憎撮影に失敗、リベンジしたいと考慮中です。 |
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出雲 松江城 ⇒自治体HP |
所在地: | 島根県松江市殿町 Tel 0852−21−4030 |
| 城の種類: | 平山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長16年(1611) | ||
| 築城者: | 堀尾吉晴 | ||
| 遺構: | 国重文天守・石垣・堀 | ||
| 「松江城」は慶長16年(1611)関が原の戦いの戦功により出雲、隠岐を与えられた「堀尾茂助吉晴」によって5年の歳月をかけて築かれた湖城である。 現存12天守の一つである。 「吉晴」は最初、月山富田城を居城としたが、山城のため宍道湖畔の亀田山を選び築城した。その後「堀尾氏」、「京極氏」が共に嗣子無く断絶、寛永15年(1638)「松平直政」が信濃松本から18万3千石で入城し、以後松平氏10代230年間を経て維新を迎えている。 「直政」は「家康」の孫で、16才で大阪冬の陣に初陣、その勇ましい戦い振りに敵将「真田幸村」が激賞、軍扇を投げ与えたという誉ある武将である。<松江城パンフレット・日本名城の旅参照> ★本丸にはかって現存重文の5層6階の天守閣のほか6基、二の丸には4基の櫓があった。明治初期天守だけは有志の奔走により保存された。現存12天守のうちでは6番目に古く、大きさは2番目、高さも28mと3番目である。2層の上に3重の望楼を置き、入口に付櫓のある貴重な遺構である。鯱も現存最大。黒い板張りのせいか荘重感がある。山陰唯一の天守として親しまれている。松江は城下町、武家屋敷が良く残り、「小泉八雲」の旧宅と共に観光スポットになっていた。また行きたい。 |
![]() ♪「西へ行く人を慕いて東行く 我が心ぞ神や知るらむ」 <高杉晋作・29歳没> (文久3年、西行を慕って頭を丸めたけれど、自分の心は東に行くのだ)の意 ♪「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 <吉田松陰・30歳没> ♪「蓬生ふ 銃眼の中海光る」 <横光利一・二の丸土塀にて> |
長門 萩城 ⇒観光協会HP |
別名: | 指月城 |
| 所在地: | 山口県萩市堀内 Tel 0838−25−1826(指月公園) |
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| 城の種類: | 平山城 | ||
| 築城年: | 慶長13年(1608) | ||
| 築城者: | 毛利輝元・最後の城主毛利敬親 | ||
| 遺構: | 石垣・堀・天守・/B>長屋 | ||
| 「萩城」は歴史を思えば、名城から外せない。 この地から維新の改革の火蓋が切られた。 多くの有能な志士が輩出したが実に犠牲が大きかった。関が原の戦いの後、広島城八か国を、周防・長門ニ国に削封された「毛利輝元」は慶長9年(1604)この指月山に幕府の許可を取り築城を始めた。4年を経て慶長13年に完成した。 以降、文久3年(1836)「長州藩」は攘夷に際して海防上及び地理的に不利の理由から藩府を幕府を無視して山口に移したが、それまでの13代260年間、ここが毛利氏の政治の中心地であり居城となった。 三方を海にした指月山の標高は143m、山頂を戦闘上の「詰の城」とし、低地に本丸を置いた要害堅固の城である。本丸には現在の天守台の上に望楼式天守の最末期の一つである5層5階の「白亜の天守閣」(松江城と同型)が聳えていたが、明治7年にすべて競売され解体されたという。いま建物は何も無い。 ★「萩城」は城郭としても輪郭が良く残されています。城下町としても数多くの遺構があり、武家屋敷のメッカを形成しています。 小生は小倉城に向かう都合で多くを見れなかったが、いま司馬遼太郎氏の「世に棲む日々」を読んで益々再訪の思いが募って来る。この城で最も膾炙されている人は「吉田松陰」と「高杉晋作」だろう。今度は松陰神社や東光寺の東(江戸)に向いて憤怒の形相を見せるという、亀趺(きふ)なども是非見たいと思う。 ★★H15/3/26再訪、まず指月山に登る、本丸裏手より20分ほどで登城、下りてくる若い外人に出会う。大手の石垣はなんと4直角の折れがある石垣の虎口でした。東光寺の亀趺(きふ)も見ましたが、この寺の500の灯篭が凄いです。近くに松蔭の実家や銅像、松蔭はじめ志士の墓にも詣でることができやっと念願がかないました。 |
因幡 鳥取城 ⇒自治体HP |
別名: | 久松城 | |
| 所在地: | 鳥取県鳥取市東町 Tel 0857−22−8111(市観光課) |
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| 城の種類: | 山城ー平山城 | ||
| 築城年: | 天文14年(1545) | ||
| 築城者: | 山名誠通(さねみち) | ||
| 遺構: | 石垣・堀・城門1棟・三層櫓礎石・曲輪 | ||
| 「鳥取城」は天文14年(1545)因幡守護の「山名誠通」の重臣「武田豊前守」がこの標高364m久松山に築城したのが始まりである。 豊前守の子の「武田高信」の時、因幡支配の拠点となったが、「高信」は毛利氏と結び、永禄6年(1563)「因幡山名氏」の打倒を決意して成功したが、「但馬山名氏」の反撃にあう。山名氏の応援に廻った対尼子戦で「山中鹿之助」らに惨敗した。天正元年(1573)ついに「高信」は城を明け渡し、「山名豊国」は天神山城より鳥取城に移りここを因幡の本城とした。 その後事態の変化は目まぐるしく、「豊国」は毛利側になっていたが、天正年間の「毛利氏」対「織田氏」との熾烈の対立に合い、「秀吉」の誘いに乗じて、哀れにも家臣に城から追われてしまった。 替わりに「毛利氏」から派遣された「吉川経家」は天正9年(1581)二度目の「羽柴秀吉」軍二万の攻撃に会い、世に言う「鳥取の渇え殺し」と言われる飢餓地獄の果て、城兵の命を救うためについに切腹して開城した。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍についた「宮部氏」に変わり「池田備中守長吉」が入城、城の大改修をし、天守を二層に改めた。二の丸には三層の隅櫓を建て天守代用とした。元和3年(1617)には「池田光政」が因幡・伯耆32万石にて入封、さらに城地を拡張して城下町を再編したがやがて移封、寛永9(1632)岡山から「池田光仲」が入封して「池田氏」時代は明治まで続いた。<日本城郭大系参照.> ★ 10合目まで急峻な道を休みやすみ、山頂までようやく辿りつく、そこが山上ノ丸で本丸跡、一段高い所が天守台、ここから「鳥取砂丘」と日本海が良く見えたのに感激でした。山頂に立つと戦国の悲劇的な城物語も嘘のようだ。なんと、こんな高所にも大井戸跡が残っていました。 また広大な二の丸には当時の天球丸3層櫓などの説明付きの写真なども掲げていて分かり易く、雄大な石垣は見物でした。 紅葉も素晴らしかったが、桜の時も良さそうです。 麓に重文の行けなかったのですが「仁風閣」や、「宝隆院庭園」があります。 |
![]() [紅葉の小径にて] ♪「生ぬくき にほいみたせて山さくら 咲ききはまれば 雨よぶらしも」 <松の段・尾上柴舟歌碑より> ♪「鐘つかぬ 里は何をか 春のくれ」 <松の段・松尾芭蕉句碑>句意は「入り会いの鐘をついてこそ風情があるのに、この里は鐘もつかぬ」という芭蕉の奥の細道への旅での作。城跡の情緒とは違う句。 |
美作 津山城 ⇒自治体HP |
別名: | 鶴山城 |
| 所在地: | 岡山県津山市山下 Tel 0868−22−3310観光協会 |
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| 城の種類: | 平山城 | ||
| 築城年: | 元和2年(1616) | ||
| 築城者: | 森忠政18万6千石 | ||
| 遺構: | 石垣・堀・天主台 | ||
| 「津山城」は嘉吉元年(1441)「山名忠政」が鶴山に城砦を構えたのが最初で、慶長8年(1603)信濃海津城から美作18万6千石で入封した「森忠政」が新たに築いた名城である。 「森忠政」は本能寺で信長と討死した「森欄丸」の弟で、兄亡き後「森家」を継いでいる。 築城は13年を要し、幕府には4層の天守と言って5層の天守を造り幕府に発覚するところだったが、幕府の調査前に4層の庇を取除き、なんとか責を免れたという。この5層の天守が明治初年に破却されるまで残っていた。 「森氏」は四代で継嗣なく断絶、元禄11年(1698)に「徳川家康」の第2子「結城秀康」の曾孫の「松平長矩」が10万石で入封、9代170年を世襲して明治に至っている。 ★郭内は複雑な曲折を重ね、敵は本丸にいくまでにも戦略的配慮がされ、なかなか辿り着けないでしょう。また本丸を囲み段状に二の丸、三の丸などが配されその石垣の総量は驚嘆に値します。かっては本丸に櫓が31もあった名城といわれます。 現在は鶴山公園として市民の憩いの地となり、日本の桜の名所です。駐車場から中腹まで数段になる膨大な石塁が目に入ります。 迷路のような広大な郭を巡っていたら、高石垣の上部の石垣に枡形の水門か排水口の空道部でしょう2,3目につきます。郭内の面積は9111uもあり、紅葉が彩りも真っ赤で素晴らしかったが、桜の大木も5千本とあり、是非その時に来たいものです。 ★★H15/4/2再訪、残念にも桜祭りはしてましたが開花は2分咲きでした。なんと備中櫓の造営中でした。また来なくちゃなりません。 |
![]() [山中御殿] 「われに、七難八苦を与えたまえ」 <山中鹿之助>が没落した尼子の再興を願い、この城の天にかかる三日月を仰いで祈ったと言う歴史に残る名文句である。 |
出雲 富田城 (月山) ⇒自治体HP |
別名: | 月山城 |
| 所在地: | 島根県安来市広瀬町富田 松江駅よりバス広瀬下車、道の駅そばより登城道あり。 Tel 0854-23-3340(市商工観光課) |
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| 城の種類: | 山城・国指定公園 | ||
| 築城年: | 室町時代 | ||
| 築城者: | 不詳 | ||
| 遺構: | 石垣・堀・礎石・曲輪・井戸跡 | ||
| 「富田城」は山陰の雄、「尼子氏」の本城として、飯梨川東南の勝日山(月山)標高197mに築かれた城だ。 かっては川舟の往来や、松江に通じる交通・軍事上の要衝の地であった。 築城者は「平景清」とも言われるが定かでない。文治元年(1185)「源頼朝」は近江源氏「佐々木義清」を出雲守護に任命、以来佐々木氏が居城、富田城と称した。明徳3年(1185)佐々木氏の後裔「京極高詮」は守護代として甥の「尼子持久」を城主とした。その後「持久」の孫の「尼子経久」が京極氏に対立し独立、永正5年(1508)には守護となり出雲国内を統一した。 天文10年(1541)には山口の「大内義隆」の四万の大軍を撃退したが、「経久」の孫の「尼子晴久」の時には「毛利元就」の勢いに圧されて勢力を落とした。 永禄9年(1566)「毛利元就」の三万の大軍に攻められ、さしもの難攻不落の名城も落ちた。この戦いで尼子十勇士「山中鹿之助」の奮戦が歴史上有名になった。 「尼子氏」の後は、城代として、「吉川元康」・「吉川広家」が、慶長5年(1600)には「堀尾吉晴」が入城したが、地の利に適さず、松江に移り、山陰四百年余の戦国攻防の幕は閉じた。 ★「道の駅」のそばに案内板あり坂道を登る。ついでなのでこの坂道の左上の公園に「山中鹿之助の銅像」があるので是非見て欲しいです。城郭は坂道の突き当たった左手の山一帯でした。大手門跡が登城口の一つで、このすぐ上に広大な山中御殿「屋敷跡」がありPもできる。 周辺に虎口もあり、相当な石塁が見られる。ここから山頂の本丸まで20分はたっぷりあった。遺構の保存が良く、古い石垣部も良く判るように、説明も沢山あって嬉しい。時節柄錦秋の山々の眺めは最高でした。山全体が城郭で、さまざまな曲輪が幾段も階段式に広がり、見るべきものが多く時間の余裕がもっと欲しかった城跡でした。 |
![]() [山頂の模擬天守] 「君が代は元の羽衣まれに着て、なつとも尽きぬ巌なるらん」 <初めこの山は「崩岩山」と言われたが、初めてここに城を築いたとき「崩岩」の字が良くないので「南条伯耆守貞宗」がこの古歌に因んで羽衣石の山と改めたと伝説がある> ・・日本城郭大系より |
伯耆 羽衣石城 (うえし城) ⇒自治体HP |
別名: | |
| 所在地: | 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石字古城 松崎駅と倉吉駅の中間、タクシーで10分 |
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| 城の種類: | 山城、比高280m | ||
| 築城年: | 貞治5年(1366) | ||
| 築城者: | 南条貞宗 | ||
| 遺構: | 曲輪・桝形・井戸跡・堀切・石垣・模擬天守 | ||
| 「羽衣石城」は、貞治5年(1366)守護職「山名氏」に属した「塩冶高貞」の次男「南条貞宗」が築いた伯耆屈指の堅城である。 「南条氏」は代々「羽衣石城」を継ぐが大永4年(1524)に世にいう「大永の五月崩れ」で「尼子経久」と戦って敗れ因幡に逃亡、天文9年(1540)当主「南条宗勝」は再び「山名氏」の援兵を得て城奪回を計ったがまたも大敗し、その後「尼子氏」は「毛利氏」に滅ぼされたので毛利氏に臣従して旧城に復すことが出来た。 天正7年(1595)「南条宗勝」の子の「元続」は今度は「吉川元春」の一万三千の軍と戦い落城したが、いったん退き、「秀吉」の加勢を得て、城を急襲し奪回した。 この後も「吉川氏」との血なまぐさい死闘があったが「秀吉」の渇え殺し戦法によりさしもの鳥取城も落城し豊臣・毛利両氏の は和睦して、伯耆四郡は「南条氏」の領することになった。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦には「南条氏」は西軍に属したため滅亡、城も廃城となった。 ★東郷池に注ぐ羽衣石川添いを南ヘ溯ると、標高360mの羽衣石山にいたるが、長和田(ナゴタ)橋を川上に直進するとPあり。ここが登城口で山頂まで約20分。山中をすすむと巨岩に突き当たる。天女が降りてこの大石に羽衣を掛けて、麓で入浴したという伝説があるようです。また山中に井戸跡があった。頂上の本丸の敷地は広く、3層の模擬天守が建ち、帯曲輪には、大きな望遠鏡付きの展望台がありました。眺望するには最高の場所でしょう。虎口に大石があった。 「ふるさと創生」事業で町の観光のポイントの一つにしたようです。岐阜から来た青年二人と一緒になりまして、聞くとこれから富田城に行くという、同じなので誘ったがお付きのタクシーで倉吉駅に向って去った。 |
[山頂の復興天守] ![]() [錦帯橋から] |
周防 岩国城 ⇒関連HP |
別名: | 横山城 |
| 所在地: | 山口県岩国市横山 Tel 0827−41−0633 |
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| 城の種類: | 山城 | ||
| 築城年: | 慶長13年(1608) | ||
| 築城者: | 吉川広家3万石 | ||
| 遺構: | 石垣・堀・井戸跡・天守台・模擬天守 | ||
| 日本三名橋「錦帯橋」と共に知られる「岩国城」は標高200米の横山の山頂に聳えて美しい。 「岩国城」は「毛利元就」の次男「吉川元春」の三男で、兄の死により継嗣となる「吉川広家」が出雲の国 富田月山城から岩国に移り、その居城を横山一帯に求め築いた城である。 この時、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに敗れた「毛利輝元」が防長ニ国にされると共に、「広家」も3万石に減封された。 城が完成したのは慶長13年(1608)である。また横山の三方を迂回する錦川は天然の外堀で、東側の川向こうの錦見に町割りを行い、城下町をつくった。 緑の山頂にそびえる白亜の天守閣は、3層4階の上に物見を置くという様式をもち、藩の象徴として仰がれていた。しかし、7年後の幕府の一国一城令により破却廃城される。 以来、山下の居館だけで藩の政治は行われたが、13代271年の間、文武両面の振興と人材育成、文化の向上に大いに努め、その石高は幕末には実質10万石以上と言われるほどとなり、明治維新に至った。<お城のパンフ参考> ★H15/3再訪しました。今回は前に殆んど見てない野面積みの石垣、竪堀、空堀を堪能しました。北側の林の奥にも、苔むす大きな石垣が随所に見え、また高さ10mもある大空堀や井戸跡、天守台など本丸周辺の古城の雰囲気にすっかり浸れました。 現在の天守は昭和37年古図面をもとに復元されてます。3層4階桃山風南蛮造りと言われ、4階が3階よりも外にはみ出した独特の構造で城下をを睥睨してます。天守からの眺望も勿論格別でした。 麓の城下町も架け替えの完了した名橋「錦帯橋」の見学や「吉川資料館」「佐々木小次郎像」など、見る物が多くすべてを見るのには泊まり掛けでもよさそうですね。町並みにも昔の雰囲気が溢れ旅情も一層深まりました。ただ錦帯橋を渡るのに、ロープウエイ代もセットで有料、確か840円で、もし地元の方にも有料だったらちょっとキツイ事でしょう。 それはともかく、生憎と名物の桜の開花に一週間ほど早かったのが大変残念でした。 |
![]() [山頂天守台] 「・・因幡国鬼ヵ城開関矢部十良暉種ハ駿河住矢部彦五良ノ一族也、・・乃チ山田ノ山城ニ居城開築シ因幡ノ国主十八之第二席也」 上記<矢部氏系譜>が八東町矢部家より発見され若桜城の歴史が一部解明されると。 |
因幡 若桜 鬼ヶ城 ⇒自治体HP |
別名: | 鬼ヵ城 |
| 所在地: | 鳥取県八頭郡若桜町若桜 Tel:0858-82-1111(若桜町教育委員会) 若桜鉄道若桜駅下車40分 |
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| 城の種類: | 山城・県指定史跡 | ||
| 築城年: | 建仁年間(1200〜04) | ||
| 築城者: | 矢部暉種 | ||
| 遺構: | 石垣・空堀・天守台・土塁 | ||
| 「若桜城」は若桜駅前を直進して南方向に見える鶴尾山(342m)の山頂に築かれている。 天然の要害であるこの峻険な山城をめぐって、初代「矢部暉種」より16代続いた「矢部氏」は天正3年(1575)尼子の再興を謀る「尼子勝久・山中鹿之助」に攻略された。その後も3年間で城主が6人も代ったという。 その後は毛利方が領したが、天正8年(1580)の夏「秀吉」の中国攻めにより、鳥取に落ち、「若桜城」へは「八木但馬守豊信」がおかれ、翌9年の第2次因州平定戦後「荒木平太夫」に城を与えました。「平太夫」は後に「木下備中守重堅」(2万石)と改め、関ヶ原合戦では西軍に参戦したため敗戦後自決し、かわって徳川の「山崎家盛」(2万5千石)が入封、城の大改修や城下町の整備に着手したと言われます。 元和3年(1617)に「家盛」の子「家治」が備中成羽移封となり、替わって「池田光政」が入城したが、一国一城令で廃城となり、400年続いた歴史も終わりを告げました。 現在見られる「鳥取・米子城」に次ぐ豪壮な「石垣遺構」は山崎氏の時代のものといわれます。<参考:若桜町教育委員会冊子> ★駅の南方、「龍徳寺・若桜神社」の先を川沿いに行くと(駅より700m程)左側山下に「若桜城登山コース900m」の案内板がある。更に進行すると山腹のP・3台程の余地の所で車道が終わる。ここから攻めたが、登城口は三か所あるようだ。山頂に近づくと巨きい石垣に驚く。少し危険のためロープがはってある。削平地や曲輪、空掘が良く残り、ほうづき段には破却のためか大石が倨在する。全国でここしかないと言われる「行き止まり虎口」を探したが、保存のため、埋められ?たらしく見ることが出来なかった。かって天守には二層の櫓が在ったらしい? 山頂は若桜町でちょうど「山崎氏入城400年祭」が行われた後で、天主台の上や曲輪に丸太でやぐらが組まれ、大きな城名の幟が翩翻と翻っていた。遺構の石垣は苔むして古城の面影が濃い。量、大きさは城フアンにとっては充分評価を得られるものと思った。眼下は紅葉の絶景でした。 |
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石見 津和野城 ⇒観光協会HP |
別名: | 三本松城・蕗城 |
| 所在地: | 島根県鹿足郡津和野町城山 Tel 0856−72−1771 |
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| 城の種類: | 山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 永仁3年(1295) | ||
| 築城者: | 吉見頼行 | ||
| 遺構: | 曲輪・石塁、天守台・櫓 | ||
| 「津和野城」は出雲から長門、周防に通じる交通の要衝で、街道を扼する標高367mの三本松城山に築かれた要害堅固の名城である。 築城は永仁3年(1295)元寇警備のため、能登から石見に入部した地頭職「吉見頼行」が着任後、津和野城の築城にかかり、正中元年(1324)二代「頼直」の代に約30年の月日をかけて本格的な山城を完成させた。 その後、「吉見氏」は大内氏家老としてその旗下に入るが、主家の「大内義隆」が家来の「陶晴賢」に討たれてしまう。 10代「吉見正頼」は、弘治3(1557)年に「毛利元就」と計り、「陶晴賢」を滅ぼし、以来、「吉見氏」は代々毛利氏の部将として西石見二郡、長門阿武郡を領した。吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつあった。 慶長5(1600)年、関ケ原の戦で西軍が敗退すると、14代「吉見広行」は主家の「毛利氏」の萩移封に従い、12代305年に及ぶ津和野の居城を「坂崎出羽守直盛」に明け渡して、萩に退転した。 「坂崎氏」は備前「宇喜多氏」の一族であり、在位16年の短期間に津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発などを行い、今日の津和野の礎を築いたが、有名な「千姫事件」で自刃失脚した。 その後、元和(1617)年に因州鹿野城主「亀井政矩」が4万3千石で入城し、11代250年を経て明治に至り、廃城となった。<津和野町HP参考> ★「津和野城」は以前から念願の城でした。特に山頂に聳える累々たる石塁が雲海に浮かぶ容姿を一目見たかったのです。幸いな事に早朝ホテルから外を眺めると町全体が真っ白、晴れ始めたところで登城開始。ロープウエイは10時からで、そんなの待ってたら、霧がすぐ消えます、稲成神社の脇に登城口があり急いで山を登りました。途中山腹で三重の竪堀が見えます。20分程で出丸に着きますが、奥の本城までとにかく先を急ぎました。 いやぁ、もう凄い石垣です。ここにかっては三重の天守、14の櫓、城門6基があったというのも頷けます。6700uという城地に石塁がそっくり残ってます。あっちこっち一時間も写真撮ってました。残念ながら霧はもうアットいう間に殆んど蒸発しましたが、それでも数葉はまだ山々の合間に棚引く雲海をカメラに収めました。20分早く出ればよかった。 それにしても何という素晴らしい雰囲気でしょう、山城の中でも超Aクラスの石垣遺構と思います。今でもまだその感激が忘れられません! 麓の高校そばには移築された物見櫓、馬場先櫓が現存してました。城下には「森鴎外旧宅」のほかたくさん見るものがあります、城下町観光もお勧めですね。 |
![]() [角楼の石垣・土塁] ![]() [絶壁上の屏風折れの石垣] ![]() [巨石に囲まれた見張台か] ![]() [土塁] ![]() [敷石遺構・古代の城ではここしかないもの] ![]() [巨石に彫られた観音像] [水門排水口]![]() [復元門付近と景観] |
備中 鬼ノ城 kinojyo ⇒自治体HP |
別名: | なし |
| 所在地: | 岡山県総社市奥坂鬼城山 Tel:0866−92−8363(市文化課) JR吉備線服部駅下車徒歩1時間 |
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| 城の種類: | 古代朝鮮式山城・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 5、6、7世紀説 | ||
| 築城者: | 吉備氏・渡来系集団・国家 | ||
| 遺構: | 塁状遺構・角楼・水門跡6・門跡4・石垣・土塁・敷石・礎石建物跡・のろし場・水汲み場 | ||
| 「鬼ノ城」は標高400mの吉備高原の最南端に築かれ、眼下には古代吉備の中心地であった総社平野や足守川流域平野を望み、吉備の津(港)も間近い。 およそ1300年ほど前、「大和政権」により国土防衛上築かれた古代山城とする説が有力である。現在のところ築城に関する古文献は見当たらない。 天智2年(663)大和政権は朝鮮半島の「白村江の海戦」で大敗を喫し、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、西日本の要所に「大野城」をはじめとする「朝鮮式山城」を築いたことが「日本書紀」に記されている。一方史書にない同種遺跡と考えられている「神籠石式山城」が16城もあり、「鬼ノ城」はその一つである。 「鬼ノ城」は摺り鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦で、この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmに亘り鉢巻状に巡っている。城壁は一段一列の列石の上に土を少しずつ入れて、つき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高約6mもある。 要所にある堅固な高石垣は方形切石の布積みが多く、天然要害の地と相俟って、その威圧感と迫力には圧倒される。このように版築土塁や高石垣で築かれた城壁は、数m〜数10mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。 城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大さで、4つの谷を含み、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所設けられ、また出入口に4つの城門がある。その他にも食料貯蔵庫と考えられる礎石建物跡、のろし場、溜井(水汲み場)など多くの遺構がある。<参考:現地管理事務所で頂いた説明パンフレットより> ★訪城したのはH14/12のことでした。左のHPを開くと、その後、遺構調査・復元が大分進んでいるようです。山の西側の道は車も通れる広い道で、その他の道も良く整備され、山全体は石垣と巨石の山岳庭園のような雰囲気の国定公園でした。麓の駐車場から30分ほどで角楼まで登り2Hほどで見学出来ました。 1300年前の城ということですが、近世の城といっても不思議でない石垣や敷石、水門や門跡などに驚嘆します。左写真の怖いような絶壁に累々とした「屏風折れの高石垣」、その高度な石積み技術には驚きます。また山頂からの景観が何とも絶景で素晴しいです。 「鬼ノ城」には第10代「崇神天皇」の時、「吉備津彦命」が将軍として派遣され、鬼ヶ城に籠る「温羅(うら)」という鬼神を退治した古い有名な伝説があります。この説話はお伽噺の「桃太郎」の鬼退治の原型らしいのですが、地名もこの縁に由来したといいます。 帰りに総社市HPにもある近くの「岩谷」を訪ね巨岩「鬼の差し上げ岩」の鬼の手を入れた手の跡などを見学、こちらも鬼が居そうな雰囲気で何か修験者になったような感じでした。 |
[山頂の本丸には背後に小高い3層の天守が建っていたという櫓台が残る] [本丸の説明板] [崩れたままの石垣] [御蔵屋敷跡] [釣井の壇跡にある井戸] [百万一心の碑] [輝元が開山した洞春寺跡、毛利元就と歴代の墓所がある] [郡山城から眼前に見える郡山合戦の尼子陣所跡、左が青山、右が光井山] [現地案内板] |
安芸吉田 郡山城 ⇒自治体HP |
別名: | - |
| 所在地: | 広島県安芸高田市吉田町吉田 Tel 086−642−2111(安芸高田市) |
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| 城の種類: | 山城(放射状、輪状連郭式)・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 建武3年(延元元、1336・旧本城)大永3年(1523・本城) | ||
| 築城者: | 毛利時親・毛利元就 | ||
| 遺構: | 郭(約130)・天守台・石垣・堀切・土塁・井戸 | ||
| 「郡山城」は戦国時代の中国地方を制覇した「毛利氏」の本城です。 「毛利氏」は鎌倉時代幕府の政所別当として有名な「大江広元」の子「李光」が相模国毛利庄(現在の神奈川県愛甲郡)に住んで毛利氏を名乗り、その孫の「毛利時親」の時、安芸吉田庄へ地頭として下向され、建武3年(1336)に「郡山城」を築いたといいます。以後毛利氏代々の居城となりました。 戦国期の安芸「毛利氏」はまだ勢力も弱く出雲の「尼子氏」と周防の「大内氏」という2強国の狭間で、政治基盤も絶えず不安定でした。 大永3年(1523)27才で宗家家督を継承した「毛利元就」は天文6年(1537)嫡子「隆元」を「大内義隆」の元へ人質に出し、今までの尼子氏との関係を絶って大内側に組したため、天文9年(1540)に出雲の「尼子晴久」の3万の軍勢に城を囲まれました。「元就」の三大合戦といわれる、この有名な「郡山合戦」で、城兵や領民ら8千が力を併せ、半年近く籠城の末、遂に尼子の大軍を撃退し勝利を得ました。これにより一躍、「元就」は武名をあげました。この戦いの時すでにこの城が8千人を収容できる大規模の堅城に拡張されていたことが分っています。 その後、「毛利元就」は弘治元年(1555)の「厳島合戦」では家臣でありながら「大内氏」から実権を奪った「陶晴賢」との戦いに勝利し、永禄9年(1566)には宿敵「尼子義久」の本城「月山富田城」を1年半のわたって攻め、遂に降伏させ、8ヶ国を領する中国の太守となります。 元亀2年(1571)「元就」が没し、孫の「毛利輝元」が当主となり、「郡山城」は安土、大坂城などにならい、石垣の構築、瓦葺きの建物などの大改修が行われたといわれます。しかし、山間部では不利な条件も多く、やがて20年後の天正19年(1591)には「広島城」を築城して移り、歴代およそ260年間居城したこの城を去りました。 慶長5年(1600)「毛利氏」は関ヶ原合戦の西軍敗北により防長2国へ減封、長門萩に移り、「郡山城」も元和元年(1615)の「一国一城令」により取り壊され、更に寛永14年(1637)には「島原の乱」の影響で、安芸切支丹宗徒による城の利用を恐れて再度石垣、堀などの大破却が行われたといいます。 現在の城は多くを破却されましたが、城郭は実に径約1kmに及ぶ郡山全域に及ぶ大規模なもので、主郭部を中心にして、放射状に延びる支屋根郭には約130近い郭と、外周には多治比川と可愛川を利用した2重の堀もめぐらされ、山麓には城下町が形成されて、その広大さに驚きます。 <日本城郭大系・図説中世城郭事典 参照> ★H15/3/24訪城。「郡山城」は「三矢の訓え」で有名な、戦国の西の英雄「毛利元就」の本城です。麓の駐車場から20分ほど登って行くと毛利家代々の墓所が見え、近くに毛利フアンに有名な「百万一心」のレブリカの石碑が建っています。 「毛利元就」は城の拡張工事の折、この石を人柱の代わりに地中に埋めたといいます。その意は百は一日、万は一力を表し「一日一力一心」と読み、人心の結束に心を砕いた元就の人となりが思われる家訓の一つです。文武兼ね備えた武将だったことが分ります。更に20分ほどで主郭部へ。さすがに国指定、立派な案内板、説明板、標識が随所にあり、関係者の史跡保存への熱意が伝わってきます。広大な城で、土塁や空堀は少ないが、郭の構成が良く分り、また櫓台や井戸、苔むす石垣、虎口、堀切なども残り歴史を振り返らせてくれました。残念ながら居館跡という歴史民族資料館が休館でした。 「吉田町」を車で走りながら、この町の家屋の屋根の鯱飾りが多いのに驚きました。こんな風景はめずらしく楽しい旅の思い出です。またゆっくり訪ねたいと思うこの頃です。 |
[現地説明板] [大手枡形虎口] [本丸への虎口] [天守台] [本丸からの景観] [本丸から中海方面] [本丸天守閣跡] [重畳の石塁] [内膳丸曲輪より本丸] |
伯耆 米子城 ⇒米子市HP |
別名: | 久米城・湊山城・飯山城 |
| 所在地: | 鳥取県米子市久米町山下 Tel : 0859−22−7111(米子市) 米子駅より徒歩15分 |
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| 城の種類: | 平山城・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 天正年間(1573〜92) | ||
| 築城者: | 吉川広家 | ||
| 遺構: | 天守台・石垣・門・井戸 | ||
| 「米子城」は、応仁から文明年間(1467〜1487年)に、 戦国時代、安芸の「毛利氏」は出雲の「尼子氏」を征服し、天正19年(1591年)西伯耆の領主となった 慶長6年(1601年)、伯耆国18万石の領主として この頃の「湊山」の頂きには「吉川氏」の四重の天守と、後の城主「中村氏」の四重五層の美しい大小天守が並び建ち、「鳥取城」とならび称される山陰の名城と謳われたようです。 その後、讒言による「横田内膳」の暗殺事件を経て、慶長14年(1609年)には「一忠」がなんと梅を食べて夭折、継嗣もなく「中村氏」は断絶しました。 この後、伯耆は三分され、翌年に 元和3年(1617年)、「加藤氏」は 寛永9年(1632年)には、 以後、明治2年(1869年)まで230年間、「荒尾氏」が代々、米子城主として城を預かり、明治に至りました。 明治6年(1873年)この名城の建物もわずか37円で古物商に買い取られ解体されたといいます。<米子市HP・日本城郭大系 参照> ★H13/11/24、H19/5/20訪城。 初訪時は山頂石垣修復中で、やっと念願のリベンジができました。城は「城址公園」となって、市民に親しまれているようです。休日でもあり散策する方や写真を撮る方がかなり見えられました。 好天に恵まれた山頂本丸からの美景に感嘆しました。東に大山、北西に中海一帯、また市街が一望です。「米子城」は一つの独立した城でありながら、本丸、二の丸、三ノ丸とそれぞれが独立した城であり、また三ノ丸の裾を切って深浦から引かれた海水は内堀・外堀を巡り、中海に注いでいた「海の浮城」といいます。 公園入り口には見事な石垣に囲まれた枡形虎口、本丸に至る登城道には、累々と石塁が続き、見所が多くあります。見学時間は1.5時間でした。 |
[現地説明板] [現地縄張り図] [最高所の主郭二の段周辺] [主郭方面から厩の壇を] [南端曲輪東側畝状竪堀群] [主郭南側大堀切] [馬釣井・唯一の井戸] [千畳敷北川高い切岸] [医光寺の総門(移築大手門)] [市街と麓の水堀] |
石見 七尾城 ⇒益田市教育委員会HP |
別名: | 益田城 |
| 所在地: | 島根県益田市七尾町 Tel 0856ー31ー0100(益田市役所) |
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| 城の種類: | 山城 | ||
| 築城年: | 鎌倉時代 | ||
| 築城者: | 益田兼高か益田兼時 | ||
| 遺構: | 郭・空堀・土塁・畝状空堀群・井戸跡 | ||
| 「七尾城」は中世約四百年に亘って西石見に一大勢力を誇った「益田氏」の本城である。 城は益田市一円を見下ろす標高120mの丘陵に築かれ、理想的な山城の機能を備えた戦国名城の一つである。 城跡には多くの案内や説明文が親切に設置され、城跡公園として、中腹の住吉神社を経て散策登城出来るようになっている。 城の縄張りは最高所の「主郭尾根曲輪」を要にして北方に松葉の形で東と西へ尾根が伸び、その延長は共に400m近くある。最高所の主郭群の南側は高さ20m幅20mほどの大堀切で切り塞がれ、その先の尾根上の逆L形の曲輪には東側斜面の横堀の下にこれでもかというような「17本の畝堀群」が設けられ防備を固めている。 主郭北側にもやはり高さ10mほどの堀切を設け、その先の「東尾根防塁群」には数段の曲輪が急斜面に連なり、最南東端の「艮の出丸」には7本の畝状が見られる。 さらに市街地側、「西尾根防塁群」は、南端の「太鼓の壇」に接して「千畳敷」という西の尾根の最高所になる曲輪があり、北端は急斜面になって、ここから先は危なくて降りられない。 その先の尾根には遊歩道で迂回しなければならない。西尾根防塁群は藪もあり少し未整備気味だった。 見所はやはり東尾根海側防御に配慮した畝状空堀群のすごさであった。 「七尾城」の歴史は古い。12世紀初頭、「藤原定通」なる人物が石見国司として当地に下向したことに始まるといい、その子孫が地名の益田を名乗ったという。やがて源平合戦の時に、「益田兼高」は壇ノ浦の合戦など源氏側で大いに戦功あり石見守護に任じられたと伝えられる。 城は建武3年(1336)一度だけ一族の「三隅氏・周布氏」によって大手口を攻められている。 弘治2年(1556)「益田藤兼」の時、「大内義隆」を討った「陶晴賢」に味方して、「毛利元就」と津和野の「吉見正頼」に攻められ存亡の危機に落ちいった。この時、この一戦に備えた「七尾城」の今に残る大修築が行われたという。幸いに戦いは無かったが、以降、毛利氏の軍門に下り参下として行動、慶長5年(1600)の関ヶ原 の戦いに西軍敗戦後、「益田元祥もとよし」は「毛利輝元」の家老として長門の須佐に移った。これより「七尾城」も廃城となった。 <日本城郭大系・図説中世城郭事典・日本の名城・古城もの知り事典 参照> ★H19/11/18 訪城。 まず、七尾城と一体の国指定史跡の「益田三宅御土居」を城下に探しました。目的地の「泉光寺」はカーナビですぐ判りました。この周辺が館跡です。 お寺の前がきれいな史跡広場として残され、地上の遺構は土塁が2本見られるだけで、そのほかの堀などは埋められてしまってます。広場に井戸跡がありました。道路際には説明標識が多くありました。特に広場にある展示小屋には貴重な資料が展示され、御土居の発掘調査内容ばかりでなく七尾城の想像図や縄張り図などふんだんでした。 これを見てまず妙義寺にある「益田越後守兼堯公像」、医光寺の七尾城唯一の遺構建造物の豪壮な移築大手門も見学出来ました。 七尾城の登山口は麓の住吉神社の参詣駐車場からで、日曜なのに空いて居り助かりました。 天気も予報は下り坂だったのが晴天で、城跡からは日本海も良く見え、眺望にも満足、いや、とにかく好きな畝堀で満腹でした。 |