四国地方の名城
| 香川 | 「☆丸亀城」・「☆高松城」 |
| 徳島 | |
| 高知 | 「☆高知城」・「岡豊城」 |
| 愛媛 | 「☆松山城」・「☆今治城」・「☆宇和島城」・ 「☆大洲城」・「川之江城」 ・ |
![]() ![]() [現存天守] ![]() [枡形虎口] ♪「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」 <高浜虚子S24> ♪「人麿の 歌かしこしと おもひつつ 海のかなたの沙弥島を見る」 <三の丸の吉井勇の歌碑より> |
讃岐 丸亀城 ⇒自治体HP |
別名: | 亀山城・蓬莱城. |
| 所在地: | 香川県丸亀市一番町 Tel 0877−23−2111 |
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| 種類・指定: | 平山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長2年(1597〜) | ||
| 築城者: | 生駒親正 | ||
| 遺構: | 天守・大手門(重文)・石垣・御殿表門 | ||
| 「丸亀城」は「生駒氏」が「高松城」の西讃岐の押さえとして丸亀平野北端の標高66mの亀山に築いた四国を代表する美しい城だ。 「生駒親正」は天正15年(1587)播州赤穂から17万6千石で讃岐に入り、「高松城」を築き、ついで慶長2年(1597)「親正」親子は、四国の官領職「細川氏」の家臣の「奈良氏」の出城を大きく作り変え、後の「丸亀城」の築城にかかった。5年掛かって完成し、「親正」の子、「一正」、その子「正俊」などが居城した。 自然の小山を利用した平山城である。 山の形が亀に似ていることから「亀山城」と名付け、それにちなんで「蓬莱城」とも呼んだ。 しかし城は「生駒一正」の代に、一国一城令によりいったん廃城ときまったが、建物を破却したのみで城地、土木構築物はほとんど保っていたという。。 「生駒家4代54年」の「高俊」の後、寛永18年(1641)「山崎家治」が西讃岐5万3千石で入封し、城郭の再建をした。 現存する「丸亀城」建造物を造ったのはこの時らしく、亀山の周囲の平地に内堀と外堀をめぐらし、総高60mに及ぶ東西南北の4面に日本一といわれる4段階の高石垣を築き、螺旋状に登る峻険な縄張りが構成された。 また城下町も整然と町割を施した。現存する3層の天守は「山崎氏」の頃建てられたといわれる。(諸説あり) 「山崎氏」は3代17年で無嗣絶家となり、万治元年(1659)「京極高和」が播磨「龍野城」より6万石で入封、以後7代212年を経て、維新に至った。<参考:丸亀城パンフレット> ★H8/4/27初訪、H13/7/20再訪。 丸亀城で語れるのは、何といっても石垣の美しさでしょう。「扇の勾配」と呼ばれるその美しさは日本一といわれ、その傾斜の見事さが忘れられない。「重文」の木造現存天守は、全国の12城の一つで、「備中松山城」の天守の次に小さいのに、麓から見上げると石垣の上に実に堂々と見えます。遺構は大手一の門、二の門の大形の堅固な枡形の構えや御殿表門のほか、21mに及ぶ高石垣など見所があります。城下からの眺めも最高、天守から眺める瀬戸内海や市街の景観も実に素晴らしいです。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 ★★H21/4/13再訪、何度来ても石垣の美しさに感動します。 |
![]() [現存天守] ![]() ♪「春や昔 十五万石の城下かな」 <正岡子規> |
伊予 松山城 ⇒自治体HP |
別名: | 勝山城・金亀城 |
| 所在地: | 愛媛県松山市丸の内 Tel 0899−21−2540 |
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| 城の種類: | 平山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長7年(1602〜) | ||
| 築城者: | 加藤嘉明 | ||
| 遺構: | (重文)天守・櫓・門,石垣・堀・塀・土塁 | ||
| 松山市街から良く見える市のシンボル「松山城」は海抜132mの勝山山頂に本丸を置き、姫路・和歌山城と並び、三大連立式平山城の一つといわれ、現存する12の天守閣の一つであり、日本の名城である。 「加藤嘉明」は「秀吉」の家臣で「賎ヶ岳の合戦」において七本槍の一人として武勲をたてたが、関ヵ原の戦いに東軍「家康」側につき戦功を認められ20万石の大名となった。 そこで慶長7年(1602)道後平野の中枢部の勝山に「松山城」を築くため、普請奉行に「足立重信」を命じて地割を行い、工事にに着手し、翌8年(1603)10月に「嘉明」は居を新城下に移し、この時はじめて「松山」の名を公にされた。 その後も工事は継続され、24年後の寛永4年(1627)に会津に転封された。 当時、天守閣は5層で偉観を誇ったという。 その跡へ「蒲生氏郷」の孫「忠知」が上の山城から入国し、未完であった麓の二の丸の造築を完成したが、寛永11年参勤交代の途中、在城7年目京都にて病没し、無嗣子で断絶する。 その後寛永12年(1635)「桑名城」より「松平定行」が15万石で封じられて、以来14代世襲して明治に至った。 なお「天守閣」は寛永19年(1642)に5層を3層に改築されたが、天明4年(1784)の元旦に落雷により焼失、文政3年(1820)に再建に着手、安政元年(1854)に35年を経て現在の3層の天守が完成された。これが現在の天守閣である。外観は江戸後期の城閣建築末期の特徴を示して、勾配や破風などすべてが直線で構成されている。 <松山城パンフレットより引用> ★H8/3/23、H9/7/12、H13/7/20訪城。 「松山」は道後温泉、俳人「正岡子規」や坊ちゃんの「夏目漱石」で有名な四国最大の歴史豊かな都市です。当地で長男が結婚した折、幸運にも訪城することが出来ました。ロープウェイで登り、お城までの累々たる高い石垣、門、櫓などにはすっかり感嘆しました。その後も機会みて2度来たのですが、来る度に、その素晴らしさに堪能してます。眺めもいうことないですね、松山市街が眼下に一望です。市街から見える城姿も美景でした。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 |
![]() [復元天守] |
伊予 今治城 ⇒自治体HP |
別名: | 吹揚城・美須賀城 |
| 所在地: | 愛媛県今治市通町3−1−3 Tel 0893−31−9233(管理事務所 |
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| 種類・指定: | 平城(水際城)・県史跡 | ||
| 築城年: | 慶長7年(1602) | ||
| 築城者: | 藤堂高虎:20万石 | ||
| 遺構: | 本丸・二の丸・櫓・内堀・石垣 | ||
| 「今治城」は瀬戸内海交通の要路である来島海峡を支配できる地点に、慶長7年(1602)関ヶ原の戦功で、伊予半国を領した「藤堂高虎」によって、今張の浦に築城された。 かって戦国時代の支配地点は、唐子山山頂の「国府城」で「能島水軍」の領主「村上武吉」が居城としていたが、天正13年(1585)「秀吉」による四国征伐で侵攻した「小早川隆景」に戦うことなく開城、伊予平定後の「隆景」に「国府城」を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年「隆景」は筑前名島に転封した。 その後「福島正則」「池田景雄」「小川祐忠」と城主が代わり、慶長5年(1600)には「藤堂高虎」が入封した。 「高虎」は関ヶ原の合戦では、「福島正則」と共に、徳川軍の先陣で活躍、その功で加増の上、伊予半国20万3千石で「国府城」に入城するが、慶長7年山城の「国府城」を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や経済発展にも便利な、「今張」に石高に相応しい城郭と城下町の建設を始めた。慶長9年に完成、三重の堀に海水を引き入れ、大規模な海城であった。本丸には高さ八間の石垣の上に5層5階の天守があり、また城門が20、櫓も20あったという。石垣は軟弱な地盤を補い本丸、二の丸の石垣の下に犬走りを巡らせている。 「今治城主」としての「高虎」は在任8年間であったが、「近江膳所城」の縄張や「伏見城」の修築に忙しく、「今治城」の縄張りは重臣の「渡辺勘兵衛」が行っている。 この時、今張の浦を「今より治める」の意をもって「今治」と改めたといわれる。 慶長13年(1608)「高虎」が伊勢「津城」に転封、養子の「高吉」が2万石の城主となったが、「高吉」も寛永12年(1635)に転封となった。 天守閣はあったかどうかの説もあるが、築城4年後の慶長15年(1610)に解体され、丹波「亀山城」に移築され、「家康」に献じたといわれる。以後は建てられていない。 寛永12年(1635)「家康」は異母弟の掛川3万石の「久松定勝」に松平姓を名乗らせ、5男「松平定房」を藤堂家のあとの「今治藩3万石」に封じた。 以後10代に亘り「松平家」の居城として明治に至った。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 <今治城パンフレットより引用> ★H7/10/28、H13/7/20再訪。 昭和55年の市制60周年の記念事業として5層6階の天守閣・多聞櫓・武具櫓、昭和60年に御金櫓が、平成2年の市制70周年には山里櫓が復元され、築城当時の雄姿が再現されました。 防御の面から方形の城は敬遠されていたのでしょうが、石垣の一部に曲折を設けたりして、工夫されているようです。さらに海水を引き入れた3重の堀として、堀に浮かぶ城影が絵のように美しいです。この堀は海に繋がり、鯛やヒラメ等の海水魚が泳いでいるとのことですが、さすがに釣っている人は居ませんでした。見事な石垣の下には4m幅の犬走りが設けられて珍しいようです。福江城で見たかな。築城奉行の渡辺勘兵衛の功労を表して城の表門である鉄門見付に「勘兵衛石」とよばれる大石がありました。天守閣からは石鎚山連峰も見られ、ビュースポットです。 |
![]() [現存天守] |
伊予 宇和島城 ⇒自治体HP |
別名: | 丸串城・板島城・鶴島城 |
| 所在地: | 愛媛県宇和島市丸の内 Tel 0895−24−1111(観光課) |
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| 種類・指定: | 平山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長6年(1601) | ||
| 築城者: | 藤堂高虎:7万石 | ||
| 遺構: | 天守・搦手門(重文)・石垣・門 | ||
| 「宇和島城」は宇和島湾に面した板島の標高80mの丘陵に築かれた平山城で、慶長年間(1596-1614))に「藤堂高虎」によって築城され、寛文2年(1662)から5年にかけて「伊達宗利」により大改修されたものである。 歴史は古く、天慶の乱で知られる「藤原純友」の基地の一つであったといい、また「純友」を討伐した伊予の「橘遠保」が砦を造ったともいう。 その後、嘉禎2年(1236)には「西園寺公経」の所領となり、戦国時代の天文15年(1546)「家藤監物」の居城となって、「板島丸串城」と呼ばれた。 その後、城主の変転が続き、天正3年(1575)には「西園寺宣久」が居城とし、天正13年(1585)「秀吉」が四国征伐を行うと、伊予は「小早川隆景」34万国の所領となり、この時板島には城代が置かれた。 天正15年(1587)「板島城」は大洲城主「戸田勝隆」の城代「戸田与左衛門」が居城した。当時の城は小規模な砦であった。 文禄4年(1595)「藤堂高虎」が宇和郡7万石で封じられ、初めて本城となり、翌年より築城工事を起して、5年を要して現在ある天守や櫓を建て厳然たる城郭を造った。この年板島を宇和島と改めた。 慶長13年(1608)「高虎」が「今治」に転封となり、「富田信高」が入城したが慶長18年改易となり「高虎」預かりとなった。 元和元年(1615)奥州仙台の「伊達政宗」の長子「秀宗」が10万石で入城しそれ以後「伊達氏」歴代の居城となった。 2代「宗利」の時、天守など城郭の大改修を行い、同11年(1671)完成したという。 現在の天守閣は「伊達氏」により1662年改装されたもので、3層3階、本瓦葺、白壁の塗籠造りの独立式天守で、S9年国宝、S25年重文に指定されている。規模は小さいが、現存する日本の天守閣12の一つである。 この天守は望楼型天守で、後に現れる層塔型を思わせる完全な正方形平面を持ち、美しい均衡を見せている。一重目屋根に二つの千鳥破風をもち、荘重な美しい意匠となっている。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 <参考:日本名城の旅> ★H8/3/25、 松山で息子の結婚式に出席下さった上司をお誘いして、宇和島まで足を伸ばしました。少し急な坂と石段を7,80mのぼると、天守に着きます。この城山の山頂からは宇和島湾や市街、遠く九州の山並まで一望できました。 諸書によると、この城の縄張りは5角ですが、1角が「空角の経始(なわ)」といつて5角を4角と錯覚させ、空角を利用して逃れる、幕府の隠密も気づかなかった築城の工夫がされているということです。 城下で他にも見たいものあるのですが、時間の都合で、麓の南豫護国神社に寄った後、名物の「鯛めし」店で郷土料理を食べて帰りました。 |
![]() [現存天守] ![]() [大手門から天守] ![]() [天守への石垣の曲線美] |
土佐 高知城 ⇒自治体HP |
別名: | もと大高坂城 |
| 所在地: | 高知県高知市丸の内 Tel 088−872−2776 |
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| 種類・指定: | 平山城・国史跡 | ||
| 築城年: | 慶長6年(1601)〜 | ||
| 築城者: | 山内一豊・忠義 | ||
| 遺構: | 天守(重文)・塀・本丸御殿・門・石垣・堀 | ||
| 「高知城」は現存12天守の一つで土佐一国を治めた「山内一豊」の居城である。 古くは南北朝の頃この地方の豪族「大高坂山松王丸」が居城したが北朝側に破れ廃城になっていたらしい。 その後四国全土を席捲した「長曽我部元親」が、天正19年(1592)この地の桂浜に「浦戸城」を築いたが、関ヶ原で西軍に属したため叙封された。 慶長6年(1601)「山内一豊」が関が原の戦功により一躍「掛川城主」から土佐20万石の大名となり入国、浦戸の旧城は偏地と見て、将来の発展を考えて、わざわざ名築城家の「百々安行」を招き、大高坂山に「高知城」を新たに築いた。 慶長8年(1503)には本丸と二の丸が苦心のすえ完成して新城に移った。 同16年2代「山内忠義」の時に更に三の丸も完成して、南海随一の名城と言われた。 享保12年(1727)に城下町に大火が起こり追手門を残して他の建造物のほとんどが焼失して、再建にはなんと享保14年(1729)から始めて25年も要し完成したのは宝暦3年(1753)であった。現在の建造物は当時のものである。 天守は白亜の4層6階、戦国時代の面影が残る高欄つき望楼型天守である。最上階はかって「一豊」が城主として居た「掛川城」を模しているという。 「山内氏」は転封もなく、「長曽我部氏」の旧臣との軋轢を内包しつつも、この城で15代270年栄えて、維新の時には日本を代表する多くの有為な人材を輩出して、新しい時代の一端を担った。 平成20年8月現在、三ノ丸の石垣整備事業が実施されて、「長曽我部元親」時代の石垣が検出されている。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 <参考:日本の名城の旅・井上宗和著> ★H8/3/25、 憧れの「よさこい節」や「坂本竜馬」で有名な南国土佐の高知へやっと来れました。「山内一豊」は賢妻のオカミサンのヘソクリ10両で名馬を買い「信長」の馬揃いで騎乗して評判になり、戦功も挙げたという話しが有名ですが、城内にはその「山内一豊の妻」の像や自由民権運動の「板垣退助」の像も建っています。最も土佐と切り離せないのは、この封建的郷関から飛び出し、「日本国」という言葉を真に叫び、新しい世界観をもって、明治維新成功への礎を築いた偉大なる「坂本竜馬」でしょう。その像は桂浜にありはるか海上を見つめて居りました。近くには「竜馬記念館」がありました。こちらで思いがけず知人に奇遇したのも忘れられぬ思い出です。 ★★H21/2/26再訪。 |
![]() [艮うしとら櫓] ![]() [月見櫓] ♪「讃州さぬきの高松さまの 城が見えます波の上」 <城の入城券に書かれていた俗謡> |
讃岐 高松城 ⇒自治体HP |
別名: | 玉藻城 |
| 所在地: | 香川県高松市玉藻町 Tel 0878−51−1521 (玉藻公園管理事務所) |
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| 種類・指定: | 平城(水城・水際城)・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 天正16年(1588)〜 | ||
| 築城者: | 生駒親正、17万石 | ||
| 遺構: | 櫓(重文)・門・石垣・堀 | ||
| 「高松城」はまたの名を「玉藻城」とも呼ばれた。 その由来は万葉集で「柿本人麿」が讃岐の国の枕言葉を「玉藻よし」と詠み、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれたことにあるという。 この城は、天正15年(1587)「豊臣秀吉」から讃岐一国17万6千石を与えられ入府した「生駒親正」が、天正16年から香東郡野原庄と呼ばれた現在地に数年の歳月を費やして完成した平(水)城で「高松城」と名付けた。 城は瀬戸内海に接して,外堀に潮の香り豊かな海水を引きこんでいる、豊前中津、伊勢の津城と共に,全国でも珍しい「日本三大水城」の一つといわれる。 縄張りは当代第一といわれた「黒田如水」ともいわれ、讃岐の水軍力を高めたい「秀吉」の意向により本丸を中心に時計廻りに、二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、城は背後を海によって守られ、残る三方は三重の堀に囲まれた堅固な構えとなっていた。 また、かっては海水が引き込まれた外堀には軍船が停泊出来、水軍の根拠地としての機能を兼備していた。 3層5階の天守が豊前「小倉城」に模して建てられ、要所には20の櫓があってその威容を誇っていた。 「生駒氏」は4代54年間続いたが、寛永17年(1640)には「生駒騒動」といわれるお家騒動により、出窒フ矢島1万石に移封となり、この後、寛永19年(1642)「松平頼重」が、常陸下館より東讃岐12万石の城主として入城した。 「頼重」は「家康」の孫で「水戸黄門」の実兄でもあり、将軍家と近親の関係にあり幕命により四国・中国の監察役を務めた。 以後親藩として「松平氏」の治世は11代228年間にわたり居城して明治維新に至った。 <お城のパンフレットより> ★H8/8/15、H13/7/13再訪 現在高松城玉藻公園には、天守は明治17年に老朽して破却されましたが、松平藩時代の政庁と言われる「披露閣」や、昭和42年には重文の「艮櫓3層3階」が移築されたほか、「月見櫓、」水手門をはさんで「続櫓と渡櫓」が残されています。櫓もいいが、天守台と堀、内苑御庭の松林の眺めも素晴らしい。 またすぐ近くの日本の名園「栗林公園」は、寛文9年(1669) 「松平頼重」が隠居用に造り、閑日月を送ったといわれます。こちらに行かれる方の方が多いのですが、ついでに是非お城もご覧頂きたいものです。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 ★★H21/4/13再訪 |
[H16復元天守と高欄櫓遠景] [近景] [現存二の丸苧綿櫓] [現存三の丸南隅櫓から天守方面] |
伊予 大洲城 ⇒自治体HP |
別名: | 大津城・地蔵ケ嶽城・比志城 |
| 所在地: | 愛媛県大洲市三の丸 Tel 0893−24−2111(大洲市役所) |
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| 種類・指定: | 平山城・県指定 | ||
| 築城年: | 元弘元年(元徳3年、1331) | ||
| 築城者: | 宇都宮豊房 | ||
| 遺構: | 四棟の櫓(重文)・石垣・堀・井戸 | ||
| 「大洲城」は肱川を眼下にする景勝に建てられた古い歴史のある城である。 かってこの地は「大津」といわれ、源平時代に伊予の豪族「河野氏」がここに「比志城」を築いたのがはじめといわれる。 さらに鎌倉時代には元弘元年(元徳3年、1331)下野の国から「宇都宮豊房」が伊予の守護職として下向、地蔵岳に新城を築き整備したらしい。 この堅城も「宇都宮氏」8代「豊綱」の永録11年(1568)の時、伊予の「河野氏」と中国の「毛利氏」の連合軍2万5千の大軍に攻められ善戦したがついに敗れて落城、237年の幕を閉じました。 その後は宇都宮の旧臣「大野直之」が在城、天正13年(1585)伊予の「小早川隆景」の属城となり、同15年には「戸田勝隆」が宇和・喜多郡16万石を封じられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代が置かれた。 文禄4年(1595)「藤堂高虎」が宇和郡板島7万石で封じられ、併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた「高虎」は板島に城代を置き、大津を居城とした。 慶長14年(1609)近江洲本より「脇坂安治」が5万3千500石を与えられ「大津城」に入城した。 その後、元和3年(1617)「加藤貞泰」が6万石で入封、大津を「大洲」と改めた。 以後「加藤氏」が13代に亘り統治して明治に至った。 4層4階の天守造営については「藤堂高虎」が入部して築いた説と、「脇坂安治」が造営したとの二説があったが、近年の発掘調査により、藤堂期に城郭の大改修が行われ、脇坂期に天守が築城されたと考えられている。 城は肱川の急崖の上にあり、築城の際洪水のため、石垣が度々崩れ人柱を立て、選ばれた「おひじ」という娘の願いにより前出の「比志城」とも呼ばれた伝説があり、また肱川のひじから来たものともいわれる。 <参考:日本の城、名城探訪ガイド・南條範夫監修> ★H8/8/15、 城内に近江聖人といわれた「中江藤樹」の墓がありました。訪ねた時は都合で僅かの時間しか居れませんでした。木造天守の復元工事が進められ、完成は16年7月のようですので、またゆっくり訪ねるつもりです。 ★★H18/10/1 やっと再訪。生憎の小雨まじりでしたが、まだ木の香芳しい復元木組みの天守はじめ、重文の苧綿櫓、三の丸南隅櫓も併せて見学できました。写真はイマイチですが、対岸から見るお城の全貌は美景でした。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 |
![]() [模擬天守 ♪「姫ケ嶽 海に身投ぐる いや果ても うましと入りぬ 大名の子は」 <与謝野 晶子> |
伊予 川之江城 ⇒自治体HP |
別名: | 佛殿城・土肥城 |
| 所在地: | 愛媛県四国中央市川之江町1087−4 Tel 0896−28−6222(川之江城櫓) |
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| 城の種類: | 平山城 | ||
| 築城年: | 延元2年(建武4年1337) | ||
| 築城者: | 土肥義昌 | ||
| 遺構: | 石垣、復興天守、櫓、櫓門 | ||
| 「川之江城」は阿、讃、土に通ずる軍事上の要衝であり、伊予の豪族「河野通政」が讃岐の「細川氏」の侵略に備えて、延元2年(建武4年、1337)「土肥義昌」に命じて、標高62mの「鷲尾山」に築城させた。 この時仏法寺の「恵心僧都」開基の仏像をそのまま城内に残したため、「佛殿城」という名がついたという。 興国3年(康永元年、1342)に「細川頼春」の兵7千に初めての攻撃を受け、「義昌」は「畠山城主」の「由良吉里」とともに細川氏を迎え撃ったが、多数の前に落城した。 その後和解により城は「河野氏」に返され、「河野氏」は新しい城主に「妻鳥友春」をおいた。 元亀3年(1572)「友春」は来攻した安房の「三好長治」を討ったが、四国平定を目指す土佐の「長宗我部元親」には対抗しきれず、主家に背いて通じてしまう。 「河野氏」の命により「友晴」を討った「川上安勝」が新城主となるが、ついには天正10年「長宗我部氏」の大軍に滅ぼされた。 その時「安勝の娘の年姫」が山上から海に身を投じたと言われ「姫ケ嶽」の名が残り、その悲話が「与謝野晶子」に歌われた。 天正13年(1585)「秀吉」の四国平定の際、「小早川隆景」の軍に攻められ最後の落城を喫し、その後、「福島正則、池田,小川」と目まぐるしく領主が替り,「加藤嘉明」の時,最終的に廃城になったという。 寛永13年(1636)「一柳直家」が川之江2万8千石の領主になり、城山に城を築こうとしたが,寛永19年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり,明治に至ったため,わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。 文献により寛永14年(1637)廃城説もある。 <参考:日本の城、名城探訪ガイド・南條範夫監修ほか> ★H13/7/20訪城、 現在は桜の「城山公園」として有名。川之江市政30周年の記念事業としてS61年3層4階の模擬天守閣、2階建涼櫓、櫓門が完成。山頂からの瀬戸内海の眺めが素晴らしい。 名城とはいえないかとは思うのですが、かなりの古い歴史を生き抜いた城の一つです。 |
![]() [本丸] ![]() [本丸石垣] ![]() [平成元年復元の鷲の門] ![]() [橋から枡形へ] ![]() [下乗橋、現在は改造されているが木製の太鼓橋だった。御殿への正面出入り口で橋を渡ると枡形で石垣で厳重だったという] ![]() [旗櫓の下にあった数奇屋門。一名、不明門とも呼ばれた。現在は往時をしのばせる木製の数奇屋橋が架けられています。] ![]() [阿波の青石の内堀石垣] ![]() [旧表御殿庭園・庭園には家政の嫡男至鎮公毒殺にまつわる伝説の“踏み割りの橋”と呼ばれる石橋が残されている] |
阿波 徳島城 ⇒私立徳島城博物館HP |
別名: | 渭山(いのやま)城・渭津(いのつ)城 |
| 所在地: | 徳島県徳山市徳島町城内 Tel 088−656−2525(徳島市立徳島城博物館)JR徳島駅下車徒歩15分 |
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| 城の種類: | 平山城 | ||
| 築城年: | 至徳2年(元中2、1385)・天正14年(1586) | ||
| 築城者: | 細川頼之・蜂須賀家政 | ||
| 遺構: | 石垣・堀・庭園(国名勝史跡)・復元門 | ||
| 伝統ある「阿波踊り」で有名な、徳島の「徳島城」は徳島駅の東北側10分ほどの標高62mの城山(渭山)の山上に本丸、二の丸があり、本丸を下った東側には三層の天守跡が建っていたという。 城主居館は山麓の現在の博物館のある表御殿庭園跡の位置にあった。 当地は鎌倉時代、富田庄といい伊予の地頭「河野氏」の支配地であった。 至徳2年(1385)に阿波の守護「細川頼之」が禅僧「絶海中津」と共に当地を訪れ、その山水の美しい地形はまさに絵で見る中国の名勝、渭水そのままであると感賞、戦略上の利点もよく、ここに小城を築いて「渭津」と名付け、勇将「三島外記」に守らせたといわれる。 以後「渭津(渭山)城」は、「勝瑞城」や「一宮城」とともに「細川氏」の阿波統一の拠点の一つであった。 下って城は天正10年(1582)土佐の「長宗我部元親」の2万余の兵に攻略され、「元親」は「吉田康俊」を城番として置いたが、わずか3年後「秀吉」の四国征伐の際には、城を捨てて逃亡したという。 天正13年((1585)の「豊臣秀吉」の四国征伐によって阿波はすべて平定され、戦功により「蜂須賀小六正勝」の子の「家政」が28才の若年であったが老父に代わって18万石で入封した。ご存知のように「小六正勝」は尾張蜂須賀村の土豪で野武士が生業だったともいわれるが、「秀吉」が美濃攻めの際、最前線の「墨俣一夜城」築城に協力して後、重臣として重用され、ついにここに一国一城の大名となった。 「家政」は初めは「一宮城」にいたが、あまりにも高峻な山城のため、やがて「秀吉」の許しを得、中世の平山の「渭山城」の大修築工事を始めた。 家臣間に平地選地について反対意見もあったが、「家政」は笑って聞かず「世は太平に属し、武備や地利より人の和を得ることこそが大事なれ、要は徳にあって嶮ではない」と家臣を諭したという。城郭は北は吉野川、南は園瀬川を外郭とする、阿波随一の大規模の城下町となった。 元和元年(1615)「家政」の子「至鎮」は大坂の陣の戦功により「徳川家康」から淡路を加封され、25万7千石を封され、以後、「蜂須賀氏」は16代280余年年近くの長期を世襲して明治に至った。 <参考:日本城郭事典・日本の名城の旅・井上宗和著> ★H13/7/20訪問しました。 新しく開通した鳴門大橋を渡って渦潮を見学後、鳴門市内の「岡崎(撫養)城」を見学してから念願の「徳島城」へ、通用門の「鷲の門」が高々と立派に復元され迎えてくれました。内堀の水堀には延々と見事な石垣が残り、表御殿の跡地に建つ御殿をイメージした、書院作りの「徳島城博物館」も建てられていました。石垣は阿波の青石(結晶片岩)で独特の味あいを持つといわれます。 護国神社のある山上には本丸があり、東二の丸には3層の天守が明治まで聳えていたといいます、麓の城下町はさぞ賑わいがあったことでしょう。「信長時代からの300年近くの長期政権」を維持した外様大名は少なく、さまざまな逆境を乗り越えた藩政だったと推察されます。。 もう一度ゆっくり再訪し歴史を紐解きたいお城の一つです。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 ★★H21/3/2再訪。 |
[公園入口から」 [外堀」 [内堀側から外堀高土塁側を」 [復元武家屋敷」 [比高36mほどの城山近景」 [山頂本丸下の曲輪」 [内堀内の馬出しらしい小島」 [現地縄張り図」 |
伊予 湯築城 ⇒自治体HP |
別名: | 湯月城 |
| 所在地: | 愛媛県松山市道後公園 TEL:089-948-6877(市広報課) |
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| 種類・指定: | 平山城・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 建武3年(1336) | ||
| 築城者: | 河野通盛 | ||
| 遺構: | 曲輪・土塁・外堀・内堀、武家屋敷(復元) | ||
| 「湯築城」は、風早郡河野郷を本貫とした伊予の豪族「河野氏」が道後に築いた城である。 源平合戦において「源氏の与党」として活躍した「河野氏」は戦功により勢力を伸ばしたが、「承久の変」(1221年)で「河野通信」らが院側に味方して敗北して没落する。 一族のうち、母が「北条氏」出身であったため一人幕府側に属していた「河野通有」が、元寇の際、武勲をあげ伊予国守護に任じられ、家運を盛り返した。 南北朝時代「通有」の子「通盛」はいち早く「足利尊氏」に臣従して、戦功を重ねた結果、「河野家」の惣領職を認められ、旧領を回復した。 建武3年(1336)「通盛」はその権威を固めるため、風早郡河野郷にあった本拠地を温泉郡道後に「湯築城」を築きそこに移した。 当時、伊予国内は一族の「土居、得納、忽那、村上氏」が南朝側に分れて同族同士の戦いが絶えず、「湯築城」は諸将との対抗と道後平野を制圧するうえ、交通上の要衝でもあった。 「通盛」が築城した「湯築城」は、江戸時代の『湯築古城図』によれば、内堀と外堀をもち、丘陵頂部の「本壇」と北方の「杉の壇」、東方の「中壇」の郭や家臣居住空間等を構えた堂々とした平山城である。 築城後も、「河野氏」は諸国との戦いや内紛をくりかえすことになる。 城は興国2年(1341)、3年には、南朝の宮方勢力が大いに振るい「土居、忽那氏」らに攻められた。 享禄年間(1528-31)頃、「河野家」の家督争いの混乱で「河野通政」と「村上通康」が争った。この時のしこりが後に尾を引き、「村上水軍」が「河野氏」から離反し、やがて「河野氏」の滅亡に拍車をかけるようになる。 天正13年(1585)、「秀吉」の四国平定の後、「河野通直」の時ついに「村上水軍」を先頭にした「小早川隆景」の軍に攻められ落城、鎌倉以来の名門も築城以降、150年を経て滅亡した。 その後、「福島正則」と変わり転封後廃城となった。 昭和63(1988)年から12年間の発掘調査で明らかとなった溝や土塀の遺構、輸入陶磁器等の出土品も含めて、全国でも極めて重要な中世守護の城跡遺跡である。 平成18年4月6日、(財)日本城郭協会から「日本100名城」に認定されました。 <参考:松山市文化財課HP・日本城郭大系> ★H18/10/1訪城。 本年、日本城郭協会より「日本100名城」に選定される。知らぬとは何と情けないことか、松山城には三度、隣の「子規記念博物館」にも足を運んでいたのに、場所を調べずこれだけの城を永く見逃していました。 当城は「湯月城」とも言われ、道後温泉の「道後公園」に国指定の城跡として、良く整備され保存されています。内堀、外堀と2重の堀が巡り、見事な高い土塁も復元され、更に土塁の内側には武家屋敷も2棟復元されています。山頂に登ると3段の曲輪に守られる、かなりの堅城に見えます。 「松山城」とセットで訪城して、その後、道後温泉に浸かってみるのも、城めぐりの醍醐味ではないでしょうか。 [伝説];「通直」が城主の時、ある日のこと、奥方が二人現れた。瓜二つで見分けがつかず、館の庭の二本の杉の木に縛りつけ煙でいぶしたところ、狐が現れ「あれなる一方はわれらが狐一族の頭である。解き放してくれれば、われらは此の国を退去し、国の行く末も安泰である」と懇願した。「通直」は狐の所業を許したが、このため伊予の国には狐は住みつかず狸が栄えたという。古図にある「杉の壇」は伝説に由来しているのだそうだ。しかし狐の神通力も通じず「湯築城」は落城、「秀吉」には敵わなかったようだ。 帰り道で買った名物の「柚子味のタルト」はなかなかの美味だった。 |
![]() [現地説明板] ![]() [二の段からの美景] ![]() [本丸詰に礎石建物跡] ![]() [三の段の石垣と礎石建物跡] ![]() [三ノ段から四の段への土塁] ![]() [本丸と二の段間の堀切内井戸] ![]() [正面が四の段虎口付近は 防衛上の最重要地点の一つ] ![]() [南側出城方面景観] |
土佐 岡豊城 おこうじょう ⇒南国市HP マピオン地図 |
別名: | なし |
| 所在地: | 高知県南国市岡豊町八幡 Tel 088−863−2111(南国市) 交通:JR高知駅からバス「歴史民俗資料館」行き終点下車 |
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| 種類・指定: | 平山城・国指定史跡 | ||
| 築城年: | 不明 | ||
| 築城者: | 長宗我部元親 | ||
| 遺構: | 曲輪・建物跡・土塁・石垣・連続竪堀・多重堀切・井戸 | ||
| 「岡豊城」は戦国乱世の四国制覇を果した「長宗我部元親」の本城である。 鎌倉時代初期、遠祖「秦能俊」が信濃国より土佐にへ入り、天正16年(1588)後の高知城になる「大高坂城」に移るまで「長宗我部氏」21代に亘って在城した。 「秦能俊」は長岡郡宗我部郷に土着して、その地名から「長宗我部氏」を称し、「岡豊城」に拠ったと伝えられる。 築城期は定かでないが、。「秦氏」が岡豊に移住したのは庶流の派生から考察すると鎌倉末か南北朝頃とも推定されている。 城は高知平野を眼下に見下ろす海抜97mの岡豊山の山頂にあり、城跡には現在「歴史民俗資料館」が建って城域一部が失われているものの、大半は城址公園として実に良く整備保存され、今でも中世城郭の遺構が存分に見学できるすばらしい城であった。 「長宗我部氏」は香暦2年(1380)頃、「細川頼益」が土佐の守護代となるや、その傘下に属して、以後100年の間は平穏に過ぎた。 しかし永正4年(1507)「細川政元」が横死、「応仁・文明の乱」で守護である「細川氏政権」が瓦解、「長宗我部氏」は後援者を失い土佐の群雄割拠の中に孤立した。 永正5年(1508)19代「兼序」の時、領地争いなどで遂に「本山・山田・吉良・大平連合軍」などに「岡豊城」は攻められ落城する。「兼序」は自刃、子の20代「国親」は幡多郡中村の「一条房家」を頼って落ちのびた。 しかしその10年後、永正15年(1518)「一条房家」の援助を得て旧領に返り咲いた「国親」は軍事力を増強して旧地を回復、永禄3年(1561)に急死するまで近隣の城を次々と降ろし強大な勢力を築いた。 「国親」の死で跡を継いだ「元親」は一度は苦境に会いながらも、永年の宿敵「朝倉城」の「本山氏」や「安芸氏」を滅ぼすとともに、西部土佐に君臨する「一条氏」をも降ろし土佐を制覇、やがて阿波、伊予、讃岐にも侵攻し、天正13年(1585)に至ってはほぼ四国全土を統一した。 しかし同年、「豊臣秀吉」の四国征伐に敗れた「元親」は「秀吉」から土佐一国のみ安堵されて、天正16年「大高坂城(後の高知城)」に本拠を築くが、治水に難があり、更に天正19年「浦戸城」を築いて居城とした。 「岡豊城」はこの頃廃城となった。 「岡豊城」は階郭式縄張りで、山頂部の本丸を中心に南北650m、東西450mの範囲に曲輪群や防御、攻撃の施設を備える。東に二の段、西に三の段、四の段を配置され、特に本丸西側の緩斜面部への防御が完璧に残っている。こちらから本丸へは高い切岸からの横矢掛りで虎口が防御され、崖上斜面には7連続竪堀や3重の堀切まで設けて誠に堅固に思えた。 <参考:日本城郭大系・t図説中世城郭事典> ★H21/2/26訪城。 土佐の高知、やっと再訪、四国ではこちらだけ連続竪堀が多く念願の山城巡りを満喫しました。久礼、岡本、姫野々、松尾城なども訪城でき、すっかり満足しました。 高知城も観光客がいない早朝に訪ねて良い写真が撮れました。6日間の城巡りでしたが土佐は二月末なのに暖かく好天にも殆ど恵まれ、また「岡豊城」からの景観も良く最高でした。 「岡豊城」、小学館版の「日本名城百選」のお城の一つでもあります。 |
![]() [現地案内図] ![]() [主郭虎口石垣] ![]() [堀切] ![]() [主郭からの景観] ![]() [主郭] ![]() [主郭側面石垣] ![]() [小倉丸の土塁道] ![]() [土橋] |
阿波 一宮城 ⇒徳島市HP |
別名: | なし |
| 所在地: | 徳島県徳島市一宮町城山 TEL:088-621-5419(市文化財係) 交通:JR徳島駅からバス一宮神社前下車、徒歩25分 |
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| 種類・指定: | 山城(標高144m)・県指定史跡 | ||
| 築城年: | 歴応元年(延元3,1338) | ||
| 築城者: | 小笠原長宗 | ||
| 遺構: | 曲輪・石垣・土塁・空堀・堀切 | ||
| 鎌倉時代の守護「小笠原長房」の子、「長久」の四男の「長宗」は、南北朝時代に阿波一宮神社の上一宮を領する「一宮宗成」を滅ぼし、上下一宮をあわせて支配すると共に、「長宗」は下一宮の地に「一宮城」を築き、ここを本拠にして自らも「一宮氏」を称した。 「一宮城」は前面の鮎喰川と、背後の山岳に囲まれた天然の要衝で、また何度も改修の手を加えられたため広く世に知られる。 南北朝時代、阿波の守護は「細川氏」が任じられており、当初は南朝側であった「一宮氏」も貞治元年(1362)北朝側に降り「細川氏」の被官となった。 戦国乱世の時代、「細川氏」に代って「三好氏」の勢力が台頭、この頃「一宮城」の「長宗」から数えて12代目の「一宮長門守成祐(助とも)」は三好家臣団の中でも有力な地位を占めていた。 「成祐」は天正5年(1577)に再び「細川側」に組して、阿波の「三好氏」と対抗して侵入してきた「長宗我部元親」とも手を組んでいた。 この後、「一宮城」は「三好氏」との攻防戦の舞台になるが、天正10年(1582)「元親」が阿波を平定すると、「成祐」は「元親」に「夷山城」に招かれ無残にも城内で謀殺されてしまう。 その後、「元親」は「一宮城」に家臣「江村親俊」、「谷忠澄」を置いて守らせたが、天正13年(1585)に「豊臣秀吉」の四国征伐にあい「豊臣秀長軍」4万余の攻撃を1万の兵でよく守ったが遂に降伏して開城した。 代って同年、「秀吉」により阿波に封ぜられた「蜂須賀家政」がここを居城とし、このとき城の大改修を行った。 しかし翌年に「家政」は「徳島城」に移り、その後、同城は「徳島城」の支城(阿波九城の一つ)として整備され家臣の「益田宮内少輔」が城番となって守った。 のち一国一城令により寛永15年(1638)廃城となった。 <参考:図説中世城郭事典・日本の名城・古城もの知り事典・日本城郭大系> ★H18/10/1訪城。 駐車場をお借りした「大日寺」の向かいの「一宮神社」左脇の登城道入口に大きな説明板がある。標識に従い20分ほどで城域で竪堀が見られる。その先の「米倉跡」の曲輪を経て、その先の堀切を一つ過ぎると、「財蔵丸」と「明神丸」の中間にある深い大堀切があり、ここから「本丸」に至る堀底道は「明神丸」の側面攻撃の横矢が掛っている。この道を50mほど進むと本丸虎口の石垣が正面に聳えていて感動ものであった。 「本丸」は一際高くなり景観もよい。3m近い石垣が北側を囲っている。更に本丸から西南の「釜床跡」から急斜面を下って、途中の「つぶて石」を見ながら別郭の「小倉丸」方面を見学すると、更に30分ほど要する。「小倉丸」には櫓台も土塁も空堀もあった。こちらの斜面下に小池のような「水の手」も見えた。 説明板や縄張り図、標識も実に親切に設置されて地元の方々の並々ならぬ城への愛着が感じられた。遺構もすばらしいが、実に気持ちよく古城の趣きを拝見できた。更に尾根の末端まで行く時間がほしかった。 |