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第 39章
木漏れ日
北風が落ち葉を吹き落す、カサコソという音が、半地下になっている隔離室の窓から聞えてくる。もうすぐ氷雨が降るだろう。そんなどんよりとした鉛色の曇り空だ。
ノエルは虚脱感に浸され、毎日をこの隔離室で過していた。鉄格子こそ無いが、この隔離室には外から鍵が掛けられるようになっている。
ノエルの心は虚しく、虚無感だけがノエルを支配していた。
半狂乱に陥ったノエルを、先生達はこの隔離室に押し込めた。彼らはノエルの精神状態を憂い、ノエルまでもが自殺するのではないか、と恐れたからだった。
外の世界では、ウォーレス先生の醜聞と自死、ラファエルの怪我と受難、警察による再度の家宅捜査……それらが行われていたが、今のノエルにとってはこの侘しい部屋の中にポツンと置かれている素朴な木の十字架に祈る事しか出来なかった。
アニュス デイ(神の子羊)
クイトリス ペッカータ ムンディ(罪深き)
ミゼレーレ ノービス(我らを 哀れみたまえ)
ミゼレーレ ノービス(我らを 哀れみたまえ)
遠くの音楽堂から聴こえて来るバッハの『ロ短調ミサ』のボーイソプラノの澄んだ声が、今のノエルの心象を全て言い表していた。
― 罪深き我らを 哀れみたまえ 主よ イエズスよ
僕はラファエルが助かったら、もう二度と自分の欲望を出す事はありません、主よ。僕はここを去り、そしてもうラファエルには会いません。主よ、どうか彼を助けて下さい! 願わくば僕に全ての罰と苦しみを与えて下さい……。
苦い涙が幾度もノエルの頬を濡らしていた。
グリーン先生以外は時折食事を運ぶジュリーだけがやって来るが、ジュリーもほとんど何も言わなかった。
ただジュリーは、ノエルがもう何日も食事には少ししか手を付けていない事を心配していた。そして無表情にただ壁際の十字架だけをぼんやりと見つめているノエルに対して、けれど元々無口な彼女はどう慰めていいか分からないまま、そっとその食事を下げるのだった。
先生達の間では最初の内混乱が起こっていたが、ウォーレス先生の亡骸を丁寧に葬り、そして葬送のミサのあと、やっと幾らか落ち着いてきた。
当事者のウォーレス先生は亡くなり、もう一人の当事者のラファエルは傷が重く、何とか命は取り留めたものの、医師に面会を禁じられていた。そしてノエルと言えば、ラファエルの事を聞こうとすると錯乱状態に陥ってしまうので、結局何一つ真相が分からないままだったのだ。
「けれどもこれでいいのです」
とある日、グリーン先生がグリフィス校長に進言した。
「ウォーレス先生の死の真相を追究し、ラファエルとノエルを苦しめるのはもう辞めましょう。多分それはウォーレス先生も望んでいなかったでしょうから。
人は誰しも心の闇を持っています。それを他人に知られたくないと、いつもは封じ込めている。けれども何かのきっかけで、それは現われてしまうのです。その時の自分の醜さ……そう言ったものは、わたし達も恐らく持っているに違いありません。
少なくとも、これが警察の思い通りにならなくて良かった……そう思います」
「けれども町の人々は、ウォーレス先生がラファエルに乱暴しようとしていた、と今でも噂しておるそうな」
グリフィス校長は深い吐息をついた。
「少なくとも、ラファエルの発作は事実でしたね。あの時通り合わせた二人のご夫人が、ノエルの為にちゃんと証言してくれましたから。けれども、ノエルは何か知っているんですよ。知っていても、決して告白する事はないでしょうが。例えどなたかに懺悔したとしても、わたし達はそれを口外する事は出来ませんからね」
「噂とは怖い物だからな」
二人の神父達はしばし黙り込んだ。
「けれども、バトラー夫人の申し出は、ノエルにいつか伝えます。もう少し日が落ち着いたら」
「ああ……フランスのリヨン神学校の話か?」
「そうです。バトラー夫人はご子息のノエルが法的に息子にならなくても、留学費用を出すと言っておられます。見上げたご夫人だ。いや、これが彼女の精一杯の贖罪の道なのかも知れないが」
「あそこへ行くとなれば、ノエルの将来はずっと薔薇色になるだろうな。このようなアイルランドに居ても、出世する事はまず出来まい。彼は我々の希望の星だ。そうなればきっと素晴らしい司教になるだろう」
「我々神学校の生んだ逸材となるでしょうね」
グリーン先生は、僅かに顔を輝かせた。
「ノエルは自分の責任でラファエルがこうなったのだ、と思い込んでいます。けれどもラファエルも日に日に回復しているようですし」
「が、マクブライド家は怒っているな。傷が癒えたら、即刻ダブリンに連れ帰る、と言い張っておられる」
「無理もありません」
グリーン先生は溜息をついた。
「真相はどうであれ、追い詰めたのはウォーレス先生です。ドハティー警部に見られてしまっていますからね。それから、マーク・ジョイスも近々オーストラリアに流刑になります。わたしはその前に、彼に面会してきますよ」
「大変な年だったな、この1900年は!」
「早く来年が来て、新世紀になったら、この神学校とアイルランドも、何とか苦難を乗り切って欲しいものですね」
「もうすぐクリスマスか……。早いものだ。我々は段々一年が早くなる。もう歳だな、そう感じるとは!」
二人の先生達は、それからしばし黙り込んだ。木漏れ日が、窓から差し込んで、少しだけ室内が明るく輝いた。
「若い者達は、例え過ちがあったにしても、きっと立ち直る。そしてわたし達のあと、未来を継いでくれますよ。彼らの生命力と若々しい力に、主よ、幸いと恵みあれ! そして将来のアイルランドも、彼らの腕に掛かっていますからね」
「そうだな」
年老いたグリフィス校長は、腕を後ろに組むと、やっと安寧の微笑みを浮かべた。
「彼らはまだまだ若い。わたしから見ると、まだまだほんのひよっ子だわい!」
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