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プロローグ
約束を果たしに
アイルランド西部ゴールウェイの司教の部屋を、侍従がノックした。
「お入り」
と言う穏やかな司教の声に導かれるように侍従が室内に入ると、司教はゆったりとした黒い私服に身を包んで、事務机に向いながら、1932年用のクリスマス・カードに手際良く署名を書いているところだった。
質素だが上品で暖かみのある部屋には、暖炉の火が勢いよく燃えている。
「なに?」
司教は、老眼鏡を摺り下げながら、侍従の方に振り返った。
「客人でございます、司教様」
侍従がなにやら切羽詰った様子で居るのに、怪訝な表情をしたその面長の上品な司教は、椅子をくるりと回転させると、
「どなた?」
と聞いた。
「ダブリンから来たと仰っておられましたが……その、お名前を伺う前に、門前で倒れられたのです」
「ダブリン? 誰だろうね」
「さあ……わたしどもも始めてのお顔でして」
「今どちらに居られるのかな?」
「わたしどもで、奥の客間の方にお運び頂きました。今はベッドでお休みになっておられます。医師をと言ったのですが、お断りになられて」
司教は暫くペンを弄んでいたが、やがて、
「後で行く」
とだけ告げた。侍従は下がろうとして、ふと足を止めると、思い出したように述べた。
「熱がおありのようでした。そしてその方は松葉杖を落としながら、『ノエル、ノエル』と……」
司教のペンが止まった。彼の白髪の頭が、驚いたようにギクッと上を向いた。
「ノエル!?」
自分の若い頃の、そして改名する前の名前を知っており、松葉杖を持っている人物、その人物は一人しか居ない……!
司教は、さっと身軽に立ち上がった。
「待ってくれ! 今すぐ会おう。それから、医師を至急呼ぶように」
「はい、承知いたしました」
侍従は慇懃に言ってから司教の為に扉を開けると、司教は風のように通り抜けた。そして、何かに急かされたように、奥の客間に向って歩みを速めた。
途中の長い廊下の窓から外を見ると、嵐の前触れのような木枯らしが吹き、暗い闇夜の木々を揺らしていた。
司教は、奥の客間に来ると、自ら扉をさっと開けた。
中には大きな寝台と、すぐ横に小間使いの老女が付いているだけだった。老女は司教を見ると、目礼して手桶の湯を代える為に、部屋から出て行った。
寝台には、小柄で痩せた初老の神父が横たわっていた。そして寝台の横には、堅い古い形の松葉杖が立てかけられていた。彼はわずかに右の壁を向き、こちら側には形のいい耳や鼻しか見えなかった。それでも、司教にはその人物が誰だかすぐに分かった。
「ラファエル? ラフィー? ラフィーだろう?」
ラファエルと呼ばれた神父は、少しだけ目を開けると、大儀そうに振り返った。そしてその蒼い瞳で、司教をひたと見つめた。
「ノエル……」
「ラフィー! ああ、ラフィーだね」
「約束通り、会いに来たよ、ノエル」
神父の言葉はか細かったが、どこか意思的な響きがあった。
司教は思わずラファエル神父の、だらりと垂れた右手を取った。
「死ぬ前には、君に会いに行くと約束したね。だから、会いに来た……」
「もう言わないでおくれ」
と司教ノエルは、訴えかけるようにその手にしがみ付きながら懇願した。
「分かっているから……君の事は分かっている。だから……」
それから司教は、寝台のすぐ側の椅子に腰を降ろした。そして初めて、暖かい微笑みを、病んでいる神父に返した。
「あれから何年経ったのかな?」
とラファエル神父は天井を見ながら尋ねた。
「さあ、何年だろうね」
「今年やっとアイルランドが名実共に独立できたから……だからもう、33年前だ」
「ああ、そうだね、33年も経ってしまったんだ。けれども、ようやく君はわたしの元に帰って来てくれたね」
「そう……ようやくわたしも君の元に帰って来られた。約束通り……」
ラファエル神父はそう答えると、命の残り火が弱々しく燃えているその痩せた手で、司教の手を握り返しすと、微かに微笑んだ。それだけは、昔のままの微笑み……。
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