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鳩の翼
〜「BLIND+LOVE」番外編参〜
5万PV打御礼感謝
その1
秋の風が、古色蒼然かつ広大なレッドフォード伯爵邸の中庭に吹き付けて行き、その風と共に美しい調べが微かに流れて、サラの耳に届いた。
サラは読書中だったが、本から顔を上げ、思わず微笑んだ。聞こえてきている声は、息子のショーンと、そしてレッドフォード家の幼い令嬢サマンサの重唱だったのだ。綺麗な透明な響きを持つ声は、今年11歳のショーン。そしてやや拙いながらも、可愛いまろやかな声が9歳のサマンサだ。
O FOR THE WINGS OF A DOVE
FAR AWAY,FAR AWAY WOULD ROVE,
IN THE WILDERNESS BUILT ME A NEST,
AND REMAIN THERE FOR EVER AT REST
(おお、鳩の翼で
どこか遠い 遠い所に さすらい
荒野の中に わたしに作られた 巣で
そして とこしえに そこで 休まん)
「いい曲だわ……」とサラは呟いた。「メンデルスゾーン氏は、いつもいい歌を作るのね」
「鳩の翼」と題されたその曲は、今度の11月の聖歌隊のコンサートの曲の一つでもあり、そしてもちろんソロ・パートはショーンが歌う予定だった。
その少し前にサマンサの10歳の誕生日があり、そこのパーティでもショーンとサマンサがその曲を重唱するのだった。
全盲のサマンサは、わがまま一杯に育ったものの、歌に関しては非常にいい音感と声を持ち、今ではショーンがサマンサの音楽の先生であり、そして兄のような存在になっていた。立場こそ違え、ショーンもそしてサマンサも一人っ子同士。お互いにどこか魂が似通っているのかも知れない。
「でも、わたしは駄目ね、まだ……」
サラは微かに頭(かぶり)を振った。
サラがショーンを連れてレッドフォード家に家庭教師としてやって来たのは、今から約5カ月前だった。三階建の立派なお屋敷の、屋根裏部分に当たる四階の2つの部屋があてがわれ、親子はそこに住むことになった。
ショーンはそこから小学校に通い、サラは月曜日から金曜日までの毎日5時間余り、サマンサの家庭教師となって、教室としての一室で一から教え始めたのだった。
それはサマンサの父であり、レッドフォード家の当主であるアルバート・レッドフォード伯爵の言いつけだったが、今ではサラは幾分後悔していた。
どの盲学校にも馴染まず、どこに行っても暴れたいだけ暴れ、我を通すわがまま娘のサマンサの目となって教え込もうと、この5カ月努力に努力を重ねてきたが、サマンサは不貞腐れたように何とか勉強はするものの、決して心を開こうとはしなかった。
今ではサマンサはかなり点字が読めるようになり、算数にも能力を発揮し始めたが、その態度は不遜で、サラを心底軽蔑しているのは明らかだった。
夏の間、3週間だけレッドフォード伯爵とサマンサ、そして祖母に当たるヘレンの3人が南フランスにバカンスに行った時だけ、サラはほっと一息ついたのだった。
その間、サラは亡き恋人でショーンの父であるジェームズの妹、メアリー・シーモアからの誘いの手紙も、レスターに居る姉のトレイシーの誘いも断り、聖歌隊の練習に明け暮れるショーンと二人だけで、この広いお屋敷で過したのだった。それは久し振りに味わう憩いの一時だった。
サラは孤独を愛していたし、それに慣れても居た。けれども、ある時その孤独が自分を蝕んでいることに気付いたことがある。
ある夏の夕暮れ……サラはレッドフォード邸の裏庭に立ち尽くし、ふとショーンが育って独り立ちして行く未来を描いたのだ。その時、ゾッとする風が体内を吹き抜けて行った。
その時ショーンは振り返ると、母親であるサラをじっと見上げた。その父親似の美しい顔が、何かを察して曇ったのをサラは感じた。
― わたしは、息子の重荷になってはいけないんだわ。いつかは息子も成長して、ここから離れて行く。その時、わたしは……どうするの? 息子に追いすがることも出来ないし、又新たな仕事を見つけなくてはならないのかしら?
思い出だけで生きていくことは出来ないのよ! わたしもいつかは、歳を取って行くわ……。人生って、結局そういうことなのね。
独身の目の悪い女が将来どう生きていけるか、サラは急に不安に駆られたのだ。
「どうしたの、ママ?」とショーンが首を傾げながら聞く。
「別に。なんとも無いの。ただ、何だか淋しいわね、この裏庭は」
「僕がいつも居るじゃないか」とショーンは、少し大人っぽく言った。
「僕だって今度の11月で、12歳だ。夏休みが終わると、最上級生になるんだよ。ちょっとは、僕を見直して欲しいなぁ」
「あ、そう、そうだったわね」
サラはスカートにまつわりつく夏草を手で払うと、ニッコリと微笑み返した。
「ショーン、愛してるわ。いつまでも、愛してる」
そう言うと、サラは衝動的に愛しい息子を抱きしめた。
「うん、僕も」とショーンも素直に答えた。けれども、もう随分少年らしくなったショーンは直ぐに手を解いた。
「どうしたの、ママ。今日のママ、少し変だよ」
「そんなことないわよ」
「あっ、そうだ。伯爵様や、サマンサが居ないから、やっぱり淋しいんだね。明日、帰って来るよ。そうしたら、又賑やかになるなぁ」
「ショーン。あなた、どうしてサマンサと仲が良いの? ママ、それが羨ましい。何か秘けつでもある?」
「別に」とショーンは遅咲きの白い薔薇の匂いを嗅ぎながら言った。
「ただ、あの子の気持ちが分かるだけ。あの子が次に何をしたいか、とか、何を欲しているのとか、何となく想像が付くんだ」
そこまで言うと、ショーンはクルリと振り向いた。
「あ、そうだ。今度ね、秋にコンサートがあるの。全てメンデルスゾーン氏の曲ばかりでね、バイオリン協奏曲とか色々。その時、我が『セント・マーク教会聖歌隊』も出演するんだよ。それでね、『鳩の翼』と言う宗教曲を歌うんだ。ソロは……」
「もちろん、ショーン、あなたでしょ?」とサラは笑うと、ショーンの形の良い鼻を摘んだ。6月のコンサートで『ピエ・イェズ』を歌って以来、ショーンのボーイ・ソプラノはこの町ではすっかり有名になっていたのだ。
サラは幾分気分が良くなった。

そして次の日、午後過ぎに馬車の音が聞こえてきた時も、気持ちは落ち着いていた……はずだった。
けれども、急いで階下に降りて、召使い達が総出でレッドフォード伯爵一家のお戻りを迎える為に居並んでいた最後尾に立ち、聞き覚えのある足音を耳にしたとき、サラの心臓が不自然に波打ち顔が火照ったのには、我ながら驚いたのだった。
「やあ!」と言う明るいレッドフォード伯爵の声がし、「お帰りなさいませ」と一斉に言う召使い達の中で、サラは唯一人俯いたままだった。
おずおずと顔を上げると、背の高い伯爵の端正な笑みが飛び込んで来た。そしてサラは、伯爵の隣に、まるで梃子でも動かないかのようにしがみついている、エリザベス・フリン子爵令嬢を見つけたのだった。
サラは凍りついた。そして激烈に、そして衝撃的に悟ったのだった。
― もしや……わたしは、伯爵様を……愛している? まさか……そんなこと、あり得ないわ……。それに、絶対に不可能なことを思い描いているなんて……。
「サマンサ!」と叫びかける、ショーンの甲高い声がして、サラは我に返った。サマンサは、見えない手を伸ばしてショーンの手を取り、伯爵はにこやかにサラに言いかけた。
「やあ、オーウェル先生。留守番ご苦労様でしたね」
「い……いいえ……」
サラの口からは、まるで機械仕掛けの人形のような声が出ただけだった。
「どうしました?」
「いえ……。お戻り、嬉しゅうございます。旅のお疲れ……お察し致しますわ」
「途中で、エリザベス・フリン令嬢もいらして、それは大層賑やかでしたのよ」
と、サマンサの祖母のヘレン・レッドフォード夫人が大仰に言って促したので、少し訝しげに小首を傾げていたレッドフォード伯爵も、スタスタと中に入って行った。
サラは、自分の気持ちが汚れている様な気がしたまま、一番最後までその場に立ち尽くしていたのだった。
そしてもう秋……。あの日から、サラは自分でも心乱れたまま過していた。
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