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サイト開設2周年記念短編

             

はじまり  

 

ゴンが死んだ。少なくとも早苗の手の中で、ある寒い早朝、ゴンは小さな溜息のような息を引き取った。

子供の居ない早苗と俊一夫婦は、ペット専門の移動葬儀屋に来てもらった。葬儀屋は夫婦の自宅の前にやって来ると、車に積んであった簡易焼却炉にゴンの亡骸を入れ、一礼すると直ぐに燃やしだした。  
 一陣の煙が寒中の薄曇りの空に上がり、早苗と俊一は手を合わせ、瞑目した。早苗の目から、涙がポロポロこぼれ落ちた。
 

  涙の中に、生前のゴンの元気な姿が浮かんでくる。散歩の途中、雑草の中を嬉しそうにドンドンかき分けて行ったゴン、大きな犬の前では直ぐに尻尾を垂れていたゴン、やがて歩くのも辛そうだった晩年のゴン……。

  早苗達は初めて飼う犬の為に、数冊の本を買ったり、躾についてあれこれぎこちなくやってみた。けれどもゴンは、もうかなり歳を取っていたのか、何も覚えてくれない。ただつぶらな丸い瞳で、小首を傾げながら悪戦苦闘している早苗達夫婦を見つめているだけだ。

  その何気ない動作がどうにも愛しくて、早苗は初めて生き物に対する考えを変えた。生き物達も人間と同じように生きていて、喜んだり悲しんだり、そして苦しんだりすることを知った。  
 たった数年間だったが、それは早苗にとって、宝石にも勝る貴重なものだったのだ。
 

  早苗のお気に入りは、午睡の為にソファで横になっているときに、ゴンが乗ってきて直ぐ側で居眠りする時だった。ゴンの温もりを直で感じながら、午後の幸福な時間がゆっくり過ぎて行く。それは至福の時間だった。少なくとも早苗は、ゴンのおかげで、自分の病気を忘れる事が出来た。  
  自分のことよりも、この小さな少しいじけたワンコの方に、より関心が移って行ったからだ。他者を思いやるという事はどういう事なのか、初めて気付いたような気がした。そして、それが自分への“癒し”となることを知ったのだ。

 

*〜*〜*〜*〜*

 

  ゴンと始めて出会った日……あの日も寒い朝だった。

早苗は、卵巣癌の手術後の抗癌剤投与ですっかり頭髪の抜けた頭を、冬には似つかわしくない夏用の日よけ帽を目深にかぶって、大儀そうにゴミを出していた。
 
そこへ顔見知りの近所の奥さんが、珍しく犬の散歩で通りかかった。早苗はその夫人も犬も少しだけは知っていたが、その時までその黒っぽい余り可愛いとは言いかねる犬を、まともに見た事さえなかった。けれども早苗はなぜかその時、犬の真ん丸い黒い瞳を見つめたのだ。
 

 「あら、山本さん、もうお身体良ろしいの?」
と呼びかけられ、早苗は足を止めた。  
「ええ、大分。ご心配をおかけしました。あ、でも珍しいのね、犬とお散歩なんて」  
「そうよ、最後の散歩なの。これが終わったら、保健所に連れて行くのでね」  
「え! 保健所!?
 早苗の息が一瞬止る。
 

 「そう、可哀想だけど処分してもらうの。わたし達、来週引越しするけれど、犬を連れて行けない事情があって。それにこんな雑種、誰も引き取ってくれないし」
「あたし……この犬もらおうかな」  
 頭で考えるより早く、心がそう告げていた。そのときゴンは分かったのか、しきりに尻尾を振って早苗の方にすり寄ってきた。

「ええっ、ほんとにいいんですか? でも奥さん……病後でしょ? 犬を飼うのは結構大変なんですよ」
 驚いたのは、その奥さんの方だった。  
「いえ、いいの。リハビリだと思えばいいんだから」
 

  犬を連れた奥さんは恐縮しながらも、どこかホッとした風情になった。  
「やっぱりね〜、わたしもこの子を殺すのは嫌だったんですよ。でも良かったね、ゴン。新しいご主人ができて」
「あら? ゴンと言うんですか」  
「そうなの、ゴン。ヘンな名でしょ?」  
「ゴン、始めまして」  
 ゴンは分かっているのか、しきりに尻尾を振っていた。早苗は恐る恐る、ゴンの頭を撫でてみた。ゴンの毛は少し硬かったが、けれどもその温もりは早苗をどこか平安にさせた。
 

  あの奥さんとはそれっきりだ。けれども、ゴンは以来ずっと早苗と一緒だった。  
「俺は犬が嫌いだって言っていただろ? それに、病後のお前に、犬の世話なんかできるのか? 始めてじゃないか」と最初は文句を言っていた俊一も、いつの間にかゴンとの生活に慣れて、一緒に遊ぶようになった。夫婦二人だけの生活に、明るい笑い声が戻って来た。

 早苗はいつもゴンに向かって、「あたしとあんた、どっちが先かしらねぇ」と言いかけていたが、やはりゴンの方が先だったようだ。  

 *〜*〜*〜*〜*

 

 葬儀屋が帰り、ゴンの遺灰だけが残った後、俊一がぽつんとつぶやいた。  
「何だか、幼い頃の焼き芋屋に似ていたな、あれ」
 ゴンの灰は、銀色の小さな骨壷に収められた。早苗はそれを、そっと仏壇に置いた。改め て涙が浮かぶ。
「ゴン、ごめんね。助けてあげられなくて」
 

 その日から又、早苗は昼間一人きりになった。どこへ行っても、何をしても、ゴンの事が忘れられない。小さな骨壷を見ては、一日中泣いていたこともあった。これが世に言う「ペットレス」と言うのだろうか。こんなに悲しいのだったら、もう二度と動物は飼うまいと早苗は誓った……はずだった。

 

 *〜*〜*〜*〜*

 

 ゴンが死んで二度目の春が来て、早苗は癌の定期検診に病院に行った。結果は良く、早苗は久しぶりに賑やかな商店街の方に足を向けた。今は良くても、その内どうなるかは分からない。けれども、道行く人々は春の暖かな幸せにくるまっていた。

 早苗の目の前を歩いていた母と幼い子どもが、何かを覗き込んだので、早苗も思わずつられて覗いてみた。ペット・ショップの檻の中の、小さな茶色の仔犬の目とこちらを見た早苗の目が合った。ちぎれるように振られた、小さな尻尾……。どこかゴンに似ているつぶらな瞳。14万円の値札が付いていた。  
 血統書付きの、豆柴だ。
 

「高いわねえ……」と思わず溜息交じりに口に出してつぶやくと、「ローンもありますよ」と直ぐ横に来ていた若い女性店員が言った。「可愛いでしょ? ね、早く僕をおうちに連れて帰って〜って言っているんですよぉ……多分、ですけど」  
 早苗はその若い店員を見つめて、クスリと微笑んだ。青春の輝きを帯びた、眩しいほどの生き生きとした生気にあふれている。きっと未来は広がっているだろう、自分とは違って。 

 そして再び早苗は、その小さな命を持ったワンコの方を見つめた。
「決めたわ! もう名前もあるのよ」と早苗は微笑んだ。  
 
そう……これから又、ゴン二世と生きて行くのだ。生きよう、もう一度。

「ありがとうございま〜す!」と店員が明るい声で叫んだ。その声を背後にして、早苗は抱きしめたゴン二世の暖かい温もりを感じていた。
 愛すること、それは人間でもワンコでもいい。それが生きて行くことなのだと、今早苗は信じて歩き始める……。

 

 終わり   

 

2008−9−12
*この物語の一部は、実話を基にしています。主人公早苗は、私の友達です。