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【マーライオンの国で】

 

その1

 

 成田へはバスで行くことになった。
 蘭と翔吾は、いかにも若いカップルといういでたちで、ガイドブック、旅行カバンやカメラ、小型ノートパソコン、スマホ、その他を持てるだけ持つと、勇んで出立したのだった。
 見送ったのは、残った舎弟のほとんど、と弟浩次だ。バス停までの運転はおデブの高橋がした。
 

「そんじゃ行ってくるから、みんな朗報を待っていろよ!」  
と玄関口で蘭が明るく叫ぶと、舎弟たちは皆押し黙った。  
「んだよぉ、まるでお通夜みたいじゃんか」  
「だってですね」と乙部が目をしばたかせる。「もう危険で、あっしは代行が心配で、多分夜も寝られませんや」  
「じゃ寝なきゃいいだろう」と蘭はあっさりと言った。
 

「大丈夫だって、乙部。あたし、ちゃんと帰ってくるから。それに、親父と姐も連れて帰って来るし」  
「そう巧く行きますかね」と高橋がつぶやく。  
「俺が付いてますから、何とかなります」と翔吾はそう言ってから、ニッと笑う。昨晩のタンデムドライブが無事済み、おまけに蘭の唇までドサクサに紛れて奪うのに成功し、鼻息も荒い。  
 蘭が、少なくとも“オンナ”だということを確信も出来たし……。
 

「それじゃ行くよ。いつまでもグズクズできねぇよ。もう乗りかかった船、だし」  
「それを言うなら、乗りかかった飛行機でしょうが」  
 そう言うと、乙部はさっと蘭に近寄り、耳打ちした。  
「代行……くれぐれもご用心なすっておくんなせぇ。絶対に戻って来て下さいよ。家庭を持たないあっしにとっちゃ、代行、いや蘭お嬢さんが“娘”のようですんでね」  
「そりゃありがとうよ」と蘭は、改めて乙部の心境を知った。けれども今更後には引けない。
 

 乙部は黙ったまま、深く礼をした。  
「では行っていらっしゃい。ご苦労さんです」  
「ああ」  
 そう勇んで答えたものの、実は蘭も不安で一杯だったのだ。けれども舎弟たちの手前、そのような女々しい素振りは見せられるはずが無い。  
「土産、買ってくる」と場違いな言葉を最後に、蘭は高橋運転のベンツに乗り込んだ。  


「もう誰もいないよね。ヒットマンとか」と結構キョロキョロ見回して、やはり落ち着きのなさが露呈した。

「バス停までは直ぐです、代行。新宿発の」  
「新宿か。ぶふふふ、てめえ、新宿っつーと怖いんじゃねぇの」と蘭は翔吾に意地悪く言うと、その腕をつねった。
「いてぇ〜! もう前のことは言わないで下せえよ」  
「ふん、神鳥の姐御は、感度良かったかい? なにせ、綾って名ですよぉ。そういう名前の色っぽい女優が居ましたよね。俺その映画見たけど、もう涎が垂れっぱなしで」  
と運転しながら高橋が問いかけた。
 

「そんな下世話な話は今は無〜しっ」と蘭は釘を刺すと、東南アジアガイドブックを開いた。「あ〜あ、これが仕事でなく、ロマンチックな旅ならなぁ」  
「前にも言いましたがね」と翔吾はドスの効いた声で言った。  
「あっちでは気を抜くな、ということです。ロマンのロの字も無いところなんっすから」  
「代行、出来たらマーライオンの彫刻か何か買ってきてくだせぇ」  
と高橋は呑気にそう言ったのだが……。  
 まさかそれが二人にとって厄介なお荷物になるとは!
 

 TCATは快適なドライブで成田に着いた。けれども一歩玄関をくぐると、そこには人、人、人の群れ。それも日本人、アジア人だけではない、物凄い国際的な人々の集団で、そこだけが、まるで「小地球」という感じだ。  
 シンガポール行きは、深夜出発ということで、とりあえず蘭と翔吾は大した喧嘩も無く、だだっ広い成田空港を右往左往していた。
 

 荷物を預けると、もうあとはやることが無い。深夜までは長〜い時間なのだ。  
「てへっ! いろんな人種が居るもんだね〜」と蘭は、まるでおのぼりさんの様にキョトキョトしている。  
「代行っ、席は三人の席の外側ですが、いいっすよね」  
「三人の席か……外側? あ、そうか。深夜だから外見ても仕方ないし、ただ寝るだけじゃんね」  
「さあてね、寝れるでしょうかい」  
「何でだよ〜?」  
「だって、狭いし揺れるしあの騒音だし。俺は飛行機苦手だな。何度乗っても好きになれない。大体パイロットになろうっていう奴の気が知れやしないし。俺って、今まで一度だって、飛行機の機中でマジで寝たことが無いんっすよ」
 

「あれっ、そぅお? 翔吾って意外に小心だね」  
「小心、とかじゃないでっす」と翔吾はムッとして言った。  
「あたしは、上海に行っただけ。まだアジア以外には行ったこと無い。なんか、淋しいよね、若い女がさ、どこにも行かずに日本でウジウジしてるって」  
 淋しげにつぶやく、恋人もどきの蘭を見て、翔吾が誘った。  
「どこかで、早めの夕飯でも食いましょうか」  
「もう、中に入ろうか? 入っちゃうと、もう戻れないけど。そこはもう治外法権だから、日本じゃないしね。ちと早いけど、外に居てもしょうがないし」  
「お互いのパスポート、いいんでしょうね」  
「何でビクついてんだよ。パスポートは、ホンモノじゃんか。ほんと、翔吾って言葉ほどじゃないよな」
 

 その時、蘭の首から下げていたケータイが鳴った。首から下げていないと、ケータイの音すら聞こえない騒々しい空間だ。  
 蘭はひとしきり片耳を塞いで聞いていたが、パチンと閉じた後は、浮かぬ顔だった。  
「どなたからです?」  
「乙部」と短く答えた蘭は、それからヒソヒソ声になる。

「あのさぁ〜、髑髏会から一人、堂本組からも一人、それからどうやらサツからも一人、あたしたちを付けて来ているらしいってさ」  
「ええっ!?  
 そう顔をしかめながらつぶやくと、翔吾はぐるりと辺りを見回した。けれども余りの人の多さに、誰が誰やら全く読めない。一人雑誌を読んでいる若者、家族連れ、出張風のサラリーマン、引退した風な初老夫婦、恋人達、わーわーきゃーきゃー言う女の子たち、その他……。
 

「それって、男? 女?」  
「え? あ、そうか。あたしって、男だとばかり思ってた。けど、どっちか分からないんだ」  
「それに、歳も分からない、人種も不明」  
「だよね」  
「仕方ないです、もうここまで来ちまってるんだから」  
「それにしても、皆地獄耳だね〜。あたしたちの行き先まで知ってて、付いてくるなんて」  
「そんなこと、当然でしょ。田島がばらしたのかも知れないし、それに……あっ!」  
「え、なに?」  
「多分、張の一派からも来ているかも」  
「ええっ、4人もぉ。もう勘弁してよぉ」  
 二人は初っ端から、もう既にお手上げ状態だった。
 

 

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2011/1/6