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その8
『ラグーナ・エンジェル』の従業員全員が縛られ、そしてムーの配下たちがニセの従業員に扮していたとは、さすがの江口も気づかなかった。自分の美形の部下をバーテンとして潜り込ませていたのだが、そいつも殴られて気を失っており、翔吾がどこに連れ去られたか皆目知らない。
「ちっ」と江口は舌打ちした。
― 滝川組長たちは、やっとこさ保護できたが、翔吾が居ないんじゃあ……。
その時、江口のケータイが鳴り響き、江口はさっと耳に当てた。
「どうなんだ、首尾は?」
「滝川組長たちは何とか保護できましたが……現場は押さえられませんでした」
「ばか者〜!」と相手は押し殺したような声で、怒鳴る。
「ああ、はいぃぃぃぃ、済みません」
「で、ムーや張たちは?」
「浅野と共に消えました」
「う〜む」と相手は唸った。
「もう少しだったのにな」
「はい、官房長官」と江口は思わず襟を正して答える。
「あいつらを捕らえなければ、伊藤元大臣への金の取引は証明できんぞ」
「はいっ、分かっております」
「江口……お前は有能だと思っていたのだがね」
「す、済みません」と江口はケータイを持ったまま、頭を90度下げた。「しかし、滝川組長が居ますよ。なんとか保護しましたので、彼らの口から……」
「分かった。また連絡してくれ」
「はいっ! ところで浅野の捜索はどうします?」
「浅野か……」と相手は暫く黙り込んだ。「あいつなら、放っておけ」
「は? ……ってことは……?」
「所詮、あいつは捨石なのだよ、江口君」
「す・て・い・し」
「そう、捨石」
相手は冷たく言い放つ。
「それじゃあ、あとは頼んだ。切るぞ」
江口が何か言おうとすると、ケータイは無情にも切れた。
「ちっくしょう! 兄貴はどうでもいいっていうのかい。汚い野郎だよな、政治家って者はさ」
江口は吐き捨てた。
その頃、黒いリムジンが疾風のように波止場に向っていた。そして途中で、救急車とすれ違って行く。
やよいと翔吾は無機的な視線を、その救急車に向けた。翔吾は手錠を掛けられ、張とムーの間に挟まって座らされている。ムーの巨体がどうにも重く、邪魔で仕方ない。やよいはちょうど翔吾の斜め前だ。
「あんたは知りすぎてるのよ、浅野さん」
とやよいは静かに言った。「それにしても、あたしの娘に惚れた振りをしてまで、近寄るとはね」
「任務だからな」と翔吾は短く答えた。
「でしょうね。わたしにとっても、蘭は、全然可愛くなかったわ。高志に似て、チンクシャで頭悪かったし」とやよいは、冷酷な母の顔をして言った。
「けど少なくとも、蘭は娘……だった。ま、今となってはどうなってもいいけどさ、あのレディースのギャル崩れで親不孝な娘は!」
「冷たい母親だな」と翔吾。
「あんただってそうじゃないの?」とやよいは含み笑いをして言った。「藤村昌樹は、母親には冷たかった。でしょ?」
翔吾は無言だった。
滝川やよいは、煙草を吸うとフーッと煙を吐いた。その横顔は、50近いが妖艶で整っており、かなりの美人だ。少なくとも娘の蘭には余り似ていない。今でも男心をくすぐる美貌と、毒を持っている極道の姐なのだ。どうりで、髑髏会の藤枝登喜男が入れ込んだのもよく分かる。けれどもやよいには、何かが欠けている。それは、憐憫とか優しさという言葉で表される物かも知れない。
「もう直ぐ海の藻屑となるあんただから、話しておきましょうか、藤村さん? いや、浅野さんでもどっちでもいいわね、今となっては」
「ま、お好きに」と翔吾は素っ気無く答えた。
「あたしは、東郷佳吉の養女ではなく友達の娘なのだけど……誰の娘だと思う?」
「さあね」
「伊藤元大臣の娘なのよ」
「えええっ!?」
さすがの翔吾も、この思いもかけない証言に仰天していた。
「もちろん、正妻の娘じゃないわ、若い頃大学生時代の時に間違って出来た子。それはあんただってそうでしょ、藤村昌樹さん?
ところで父伊藤は
齢
70過ぎになっても、今でも権力を欲しがっている。一生に一度は総理になりたいのよ。哀れな爺さんだと思いたいけど、所詮あたしの父でもあるって訳。歯がゆいけど……。
伊藤は、幼児のあたしを大学のクラスメートで親友だった東郷佳吉に託した。皮肉なもので、東郷は結局父親の仕事の極道、そして伊藤は政界の道を選んだの。
そして伊藤は孫息子浩次と組んで、権力を手にしたくなったのよ。おとなしく老後を過す良き爺さんとして余生を生きればいいものを、よせばいいのに浩次の才能に突けこんだの。
でもあたしも嫌じゃなかった。だってあたしは、自分が極道ではないのを知っていた。それなのに、好きでも嫌いでもない滝川のところに輿入れしてきて、極道の妻、つまり姐御になってしまった……。いいえ、ならされたの。運命のいたずらでね。
父伊藤は、関西の出身だから堂本組と組んで、堂本組の脱税を見逃す代わり、政治献金として多大なお金を要求していたわ。あたしはその関係で堂本伊佐夫を知り、ひと時の火遊びをしてしまったというわけ。
ところが堂本伊佐夫は本気になって、あたしに惚れちまってさ。生まれてきた浩次が息子だと知って、何度もあたしに言い寄ってきた。それに父は目を付け、例の巨大ダム建設にお金をばら撒いたの。ヤクの取引を堂本組の仲介でしてまで。
で、あと少しで総理になるところだったのに……色々政変があって無駄になった。そして最後は、孫息子に一肌脱ぐつもりになったのよ」
「それじゃ、蘭は?」
「蘭は確かに、滝川高志の娘で、そして父伊藤の血を引いている。だけど、あのように馬鹿でね〜、父の孫娘に当たるけど、蘭のことは好きではなかったわ。あの娘を愛したのは、どこか似かよっている滝川高志だけ。
あはははは。あの二人はお似合いよ。どっちも抜けてるし、単細胞だし、そのくせ仁義だの何だの古臭い事ばかり言ってさ。馬鹿な極道の見本みたいなものじゃない。まるで、古生代の恐竜と同じだわ」
「俺はそういう所が嫌いじゃないんでね」
「あら? 浅野さん、蘭に本気で惚れたんじゃないでしょうね」
「まさか。けれど、俺は仁義とか古臭いものは、妙に好きになっていってね。全てが合理的、論理的、そして打算的な世界にあって、あの娘は貴重な存在じゃないかって、最近思うようになった。
人間は何でも金や権力で生きているんじゃない。そういうのに頼らず、感性を大切にする種族も必要なんだと最近思うようになったのは……ひょっとしたら、あの滝川蘭のおかげかもしれないな。そんな蘭を亡き者にしようとする母親の前では特にね!」
やよいは、やおら吸っていた煙草を翔吾の頬に押し付けた。
「あぢぢぢぢぃぃぃぃ〜〜〜〜!」と翔吾は悲鳴をあげる。
「ふん、弱虫っ」とやよいは吐き捨てた。「この世の中で一番大切なものは、所詮お金と権力しかないのよ。そうあたしは嫌と言うほど思い知ったわ! あんただってそうだったじゃない? あたしと同じように、養父母に育てられていたくせに! 養父は藤村直樹議員。あんた、福岡の議員さんの息子だったでしょ!?」
翔吾は顔を苦痛で歪めたまま、無言だった。
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