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29 やけっぱち
「畜生! ちっくしょう!!」
道々芳人の罵り声が通りに響き渡り、帰り道を急ぐサラリーマンやOL達が不審そうに眺めるのも知らず、芳人は尚も言い続けていた。
「おいっ、芳人、もうやめろや」となだめる淳平の言葉も聞かず、芳人は暗い顔をしたまま、ぶつぶつ悪態を付いていた。それは、不甲斐ない成績を取った自分自身にでもあり、更にはそんな自分をあしざまにクラスみんなの前で罵倒した高橋先生への憎しみもあるのだ。
それともう一つ、今朝病院から戻って来た母親の言葉も芳人を少なからず動揺させていた。
「なあ、芳人」と母親はいつもと変わらない声で、塾に行く芳人に向って言ったのだった。
「え? なに?」
「あんなあ、ちと話があるんやけど……」
「なんや、早う言うて。もう時間がないんやさかい」
「わたしなぁ……どうやら転移してもうたらしい……」
「転移……!? って、つまりガンが?」
「うん」と母親は何気に答えた。芳人は物凄い衝撃を受けたが、けれども顔色を変えないように努力しながら言ったのだ。
「けど……今すぐどうとかいうんやないんやろ? すぐ死ぬとかじゃ」
言ってしまって「しまった」と思ったが、もう遅い。けれども、母親はいつものように、冷静にお茶を飲んでいた。
「まあ、ちゃうとは思うけど、もう一度精密検査やね、多分」
そう答える母親の背中が、急に老けた様に感じて、芳人は「なら、よかった」と心にもない言葉を発すると、逃げるように家から出て行った。
それなのに、よりにもよって数学の最低点を取ってしまい、クラスのビリケツになってしまうとは! こんな有様では、国立どころか私立の医大も危ない……というか、かなり無理っぽいではないか。
「なぁ芳人、芳人は数学は悪いけど、あとの二科目は上の方やんか。それにまだ秋だし……って、こんな事言うても慰めにはならんやろうな〜」
と淳平は芳人の代わりに溜息をついた。そういう淳平だって、余り良い成績とは言えないのだが、それでもどこかの私立医大には通れそうなのだ。
「お前んとこは、金が唸っていていいよな」と芳人は言いたく無いことまで親友に言ってしまった。
「唸ってるわけじゃないよ」と淳平も不機嫌になる。
「てか、今日のお前、少しおかしいよ」
淳平は、勘だけは鋭い。
「カノジョを待たすのが嫌なん?」
「それだけやないって!」と芳人はがなった。と言うか、悲痛に叫んだ。
「それだけじゃない?」
「つまりな……あの……おかんが転移したって、そう言っていた……」
「転移かぁ」と淳平は鸚鵡返しに言う。「って、どこの部位に?」
「知らん」
「知らんって、そんなことぐらいちゃんと聞けよ。部位によっては、大したこと無いときもあるし、反対にやばい時もあるから」
そういう淳平は、如何にも医者の息子だ。
「そうやな……俺って、なんか焦ってたわ。気持ちが落ち着かんでな。医者になるつもりの人間が、すぐに動揺するなんて」
「分かるわ」と淳平は同意する。そして優しく言い添えた。「他人じゃなく身内がなるとそうなるもんやて、そう父も言ってた。理性的にはなれへんって。どんな名医でも」
芳人は「そやな」と呟きながら、小柄な淳平の肩を叩いた。良い友達を得て良かったと、今改めてそう感じる。
「やけになったらあかん。自分の負けや。そう言うのも、僕のおかんとはちゃうからかも知れないけどな」
「俺、勉強する。猛烈に勉強する。そして医大に受かる。それまでは、友里菜には会わん」
「欲しがりません、勝つまでは、かぃな」と淳平は微かに笑った。
「今はただ、お前のおかんを支えることしかないやんか」
「そやな……淳、おおきにやで」
そう言いつつも、芳人は来年の入試が失敗に終わるのではないかと、恐れていた。二人の女性に……一人は愛する友里菜、もうひとりは尊敬する母に対して、申し訳が立たないと妙に律儀に感じていたのだった。
「それにしても、母は強し、やな。平気な素振りで」
「きっと、心の中では泣いてるし不安で一杯やと思うよ。けど、母親ってのは、息子には弱みを見せへんものとちゃう?」
自分よりも、淳平の方が大人だ、と芳人がそう確信した瞬間だった。
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