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星に祈りを 番外編
『早春の誓い』
〜1〜
午後8時近く、どうやら人影もまばらになった職員室の一角で、梨紗は旅もの雑誌を開いていた。入学試験と初めての卒業式もようやく終わり、どこかホッとした中にも、未だ行き先の決まらない数人の生徒達の行く末に討論を重ねて疲れ果て、今やっと一息ついたところだった。
明日は日曜日だが、牧人は一週間で一番忙しい日なのだ。けれどもその晩、牧人と横浜でデートの予定だった。いいお店を探しておいて、と牧人に言われていたのだ。そして、両方が幾らか時間が取れた頃合を見計らって、早春の伊豆に出かけようと、どちらとも無く言い出していた。
今梨紗はこのうえなく幸せだった。
あの日以来、二人の愛は揺るがなくなっていたし、それが本物であることを悟ったのだから。やっと辿り着いた一つの終着地……けれどもそれは新たなる障害多き門出でもあったが、今の二人には幸福の衣がふんわりと掛かっているような気さえしていた。
もちろんここまで来るまでには様々な事柄が起こったのだったが……。
牧人の教会内では、公然と牧人と梨紗の間が囁かれていたが、もう牧人は否定はしなかった。けれども、はっきりと断言するのも避け、なるべく周囲を刺激しないようにはしていたものの、このような噂はあっという間に信徒達に広がって行くものだ。
日曜礼拝に梨紗が出席すると、皆の視線が自然とかわざとか、梨紗に注がれた。その雰囲気がうっとうしくて、梨紗はなるべく出席を避けようとしていたが、けれども牧人は梨紗に「逃げないように」と頼んでいた。又梨紗の方も、何も疾(やま)しい事はしていないという意識が梨紗を奮い立たせている。
そうであっても、やはりどうも気詰まりなのだ……。
「宮本さん……他人の噂は気にしないことよ」
とある日さやかが梨紗の耳元で囁いた。
「クリスマスも新年礼拝も、あなたちゃんと来ていたでしょ。でもそれで良かったの。本当に好きだったら、何も隠す事無いわよ! わたしは先生とあなたは、物凄くいいカップルだと思っているもの。でも……」
「でも?」
「分かっていると思うけど、もうすぐ先生は関西の方の教会に赴任されるのよね。もうそれは決まっているんですもの。今更変えられない。なのに、あなたは直ぐには先生に付いて行けないでしょ? 仕事とかお母さんのこととかあるし……」
「うん」と梨紗は正直に頷いた。「それが問題なの」
「焦る事無いわ」とさやかはいつものように、朗らかな笑みを浮かべながら言った。
「今はメールとか電話とか、新幹線とか色々あるんですもの」
「そうね」
そう答えつつも、梨紗の心には一抹の不安と吹き抜ける冷たい風を背筋に感じずにはいられなかった。
けれども、梨紗と牧人は共に多忙ながら、いつもどこかで会うようにしていた。
さすがに牧人のマンションは教会の近くにあるのでそこで会う事はもう無かったが、お互いに少しでも時間のあるときには、駅、映画、レストラン、公園、ただの通りを歩くだけでも、二人の仲はもう揺ぎ無いものになっていた。
ただし二人はまだ、最後まで行ってはいなかった。穣の時には、出会って直ぐに身を捧げていたのに、未だに二人はそのことについてだけは慎重なのだった。
梨紗の母香里は、つっけんどんな態度を取り続けていたが、内心では既に諦めていた。愛する二人が、自分が働いている結婚斡旋所『カップル・ツリークラブ』に来る若者達よりも打算的ではないのが妙に嬉しくもあるが、けれども親としてはやはり心配だったのだ。
何よりも、牧人の職業が気に入らなかったが、さりとてどんな仕事が良いとは香里は言えない。どんなに金持ちでも、又IT長者や医師や弁護士や大学教授と言った憧れの職業であっても、その中にはやはり“愛”がなければ成り立たない事を知っていたからだ。
香里はもう内心許していたのだ。けれども梨紗が自分の側を離れて行くのを想像する事は辛かった。ふと、梨紗が幼い頃の写真のフレームをぼーっと眺めている自分が居たりする……。
「諦めなきゃ……梨紗はもうとっくに大人なのよ」
―― ◇・・・◆・・・◇――
「宮本先生、何見てんですか?」
と隣の二年D組の中年男性の若林先生が、梨紗の見ていた雑誌をチラッと覗き込んだ。
「『春の伊豆の旅』か、ははぁ」
「友達と行こうと思って。忙しいから近場しか行けないけど」
「若い人はいいですなぁ」と若林先生は唸った。「ま、春休みは少しは取れるでしょう。あたしらの職業には、あんまり休みと言うものは無いですけどね」
「でも今年の生徒達は優秀で、結構いい大学に入りましたよね」
と巧みに梨紗は話題を避けた。
「そうですな。宮本先生も、一年生先生ながら頑張りましたね」
「ありがとうございます」
「さ、僕はもう帰りますよ。……あの、送って行きましょうか?」
「え?」と梨紗は目を見張ったが即座に断った。「いいえ、結構です。わたしもう少ししてから帰りますから」
「そうですかぁ〜〜?」と言う若林先生の目つきは、どこか卑しい。けれども梨紗は無視して、パソコンに向った。
「やな奴、あいつ」
と梨紗の前に座っていた30過ぎと思われる国語の女性教師須賀先生が、若林先生が職員室から居なくなって直ぐ、そっと言いかけた。
「あいつって、スケベなの。気を付けるのよ、宮本先生」
「い、いいえ。わたし、大丈夫ですから」
「そうよね。宮本先生なら、あんな煤けたような中年男じゃなく、もっと若いイケメンから声掛けられそうだもんね」
「いや……まぁ……」と梨紗はお茶を濁した。そしてパッと牧人の顔を浮かべた。
今開いているページには、安価だがステキなペンションが載っていた。薔薇の浮かぶ貸切風呂に、部屋にはロマンチックな紗の天蓋が掛かっているベッドがある。思わず頬が赤らみ、まるで何も知らない処女のように梨紗は恥らった。
― ここにしようかなぁ〜。伊豆高原、か……。
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