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星に祈りを

〜1〜

 

梨沙が、S教会に通い出してから、もうすぐ一年になる。
 
一年前のクリスマス・イブの夜、キャロルの歌声に誘われるようにこの教会のチャペルに入って以来、何かが確実に変わり、そして何かが起きようとしていた。それは梨沙の心と境遇の変化かも知れなかった。
 

けれども、それは嘘、と梨沙は叫ぶ。  

― それは嘘よ! 本当はあの時誘ってくれた若い副牧師、橋爪牧人(まきと)先生のせいなのだわ……。彼が居るから、わたしはあの教会に通っている。それは、罪深い事なのかも知れない。偽りの信仰なのかも知れない。  
 でも、どうしても、橋爪先生からは離れる事ができない……。
 

 梨沙は大学四年で、来年中学の英語教師の就職が決まっている。何倍もの難関を突破して、ある私学の女子中高一貫の教師に合格したのだ。母は喜んでくれた。  
 けれども、いい事ばかりではなかった。特に母にとっては、そして梨沙にとっても……。
 

 去年、クリスマスの25日に手術をした母の恋人、豊岡は、結局帰らぬ人となったのだ。それは暑い夏の嵐の日だった。気丈な母は、恐らく最期の恋を全うし尽くして、呆然と病院の廊下で佇んでいた。  
「香理さん、香理さん」と呼んでいたあの温厚な豊岡が、そこまで病魔に蝕まれていたとは……。  
 最初は再婚に反対していた梨沙が、やっと賛成した矢先だったが、それは遅かったのだ。人生は無情でそして決してやり直しが効かないのだ、ということを教えてくれたのも豊岡なら、聖書の言葉にある『主は与え 主は奪う』と言う言葉を与えてくれたのも豊岡だった。
 

 そして今、梨沙は再び恋をしている。偶然通り掛かった教会の、その副牧師、橋爪牧人を。多田という元カレとは、すっかり縁を切っていて、今梨沙は一人なのだった。  
 牧人はその中規模の教会の副担任牧師で、28歳。主任牧師は50代の田中と言う牧師だ。牧人はその助手のような仕事をしている。けれども、もう一人前の牧師には違いない。

「あと一年ぐらいで、僕はどこか別の地域に赴任致しますよ」  
と、牧人は最近よく信者達に言っていた。  
 信者と言っても、80%は老人か初老の人達だ。ご他聞にもれず、どの教会も若者は少ない。その少ない若者のグループ、つまり青年会「ユースの会」のメンバーは、7人しか居なかった。そして牧人は、その青年会を指導しているのだ。
 

 梨沙は魅入られたように、その青年会に入っていた。けれども、洗礼を受けたわけではないし、実際の所、本当に信仰を持っているかどうかも分からなかった。いや、持っていない、と言った方が正しいかも知れない。  
 自分の心は汚い、と梨沙は思っている。けれども、元々青年が少ないS教会では、梨沙のような“お姉さん”はとても重宝がられ、大事にされた。それが梨沙の喪失感を、少しは埋めてくれていた。心地良かった。誰かが自分を必要だと認めてくれているという事は。
 

 そして梨沙は、少なくともCS(=Church School=教会学校)では、数人の小中の子供達にあれこれ世話を焼いたり、指導したりしていた。それは自らの仕事にも通じる。例えそれが一文にもならなくても。  
 そして牧人の微笑みさえあれば……。
 

 けれども梨沙は知っていた。牧人の微笑みは、誰にでも向けられていたのだ。その爽やかで穏やかな言い方やソフトな物腰も、誰に対しても平等だった。

 もちろん、梨沙にも彼の眼差しは向けられていたが、けれどもそれは梨沙一人のモノではなかった。そして永遠に手に届かないもののような気がしていた。牧人は梨沙の憧れであり、けれどもいつまでも誰の者でもない……そう信じていたのだ。今までは……。

 

ーーー◇◇◇ーーー

 

「ねっ、宮本さんっ」と、4人居る「ユースの会」の女性メンバーの内、最も梨沙と仲の良い荒川さやかと言うOLの仲間が、ある日曜日の礼拝の帰りに、梨沙に耳打ちした。  
「え、なぁに?」
「ほらほら、橋爪先生さぁ〜」  
「ん?」  
「どうやら、独身生活も終わり、かもしれないってよ」
 

 もしも心に爆弾が落ちたとしたら、きっとこんな感じかもしれない、と梨沙はその時感じた。足が止る。  
「何のこと? もしかして……結婚するかもって?」  
「うん。今更だけどさ。あの歳で、そしてあのルックスで、今まで結婚しなかった方がおかしいよね〜。でも赴任前に、とうとう年貢の納め時かも、って噂だよ」  
「『ユースの会』の人? それとも……」  
「確かさ〜、誰かのお孫さんの写真、先生に見せてたって言ってたよ。こっそりだけどさ」  
「そうなの……」  
「でね、それだけじゃないの。田中牧師のお嬢さん、居るでしょ?」  
「ああ、あのツンデレでT大出身の人? 結構綺麗な人だよね」
「そう。今まで、男嫌いで通してたけど、そのハナシを聞いて泣き出したんだってよ」  
「へぇ」  
「多分、ツンツンしてても、心の中じゃあ、橋爪先生のこと思ってたんだね。やっぱ、あのお嬢さんも、結局“オンナ”だったってわけかぁ〜」
 

 さやかの噂話に、梨沙の目の前が暗くなった。  
「はー、残念っ。わたしはどうでもいいけどさ、カレシが居るから。でも、いつかは橋爪先生も結婚しなくちゃーね。いつまでも一人で居るのって、牧師としては良くないらしいよ。出世しないって」  
「カトリックの逆よね」と梨沙はわざと茶化して言った。  
「ほんとだね〜、カトリックは例え誰かを好きになっても、結婚できないんだって。ちょっと理不尽だけどさ」  
「橋爪先生なら、お嫁さんになりたいって人は、一杯居たでしょうにね、なぜかしら? 今まで独身通してたのは」  
「あのイケメンで、あの笑顔で、今まで何人の女の信者を泣かしてきたのかしら〜ね」  

 ふふふっ、とさやかは屈託なく笑った。梨沙もつられて笑おうとしたが、上手く行かなかった。引きつった奇妙な、不自然な笑いになってしまうのだ。

「でもさぁ〜、牧師の奥さんって大変そうじゃない? この仕事、休みらしい休みも無いし、そのくせ、給料は低そうだし。それに相手は洗礼受けたクリスチャンでなきゃならないし。今時、若い子で洗礼まで受けてるのって、少ないからぁ。だから、好きだったとしても、みんな二の足踏むんだよね、きっと」とさやかは一人頷きながら呟いた。  

 さやかの言う事は当たっていた。結局、梨沙も二の足を踏んでいたのだ。あらゆる面で、ただ愛だけでは乗り越えられそうも無い塀を、牧人は持っていたからかもしれない。自分とは縁の無い人間、職業、未知なる不安……そういったものが、梨沙の心に蓋をしていた。  
 けれども、反面誰かが牧人に寄り添っている姿を想像するのも、絶望に身震いする。誰かが牧人を独占してしまうのを見るのは、許せない。そういう良からぬ思いを抱いていたのも事実だ。

 梨沙の心は揺れていた。

 

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2008/12/22start〜