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〜29〜
どれくらい泣いていたか分からない……。やっと声を忍びつつしゃくりあげながら、梨沙はノロノロと立ち上がった。右手で涙を拭き、左手でクシャクシャになった無残なチョコをしっかと胸に抱いた時だった。背後に足音がしたのは。
梨沙がハッと振り返ると、すぐそこには牧人の姿が街灯にぼんやりと照らされていた。それも右手に革鞄を持ち、フード付きではなく律儀そうな黒っぽい半ゴート姿だ。明らかにさっき愛と一緒に居た人影ではない!
「あ! ……先生!?」
「宮本さん?」と呼びかける牧人の怪訝な声がした。「どうしたの、こんなところで」
「あ……いえ……」
梨沙は狼狽の声を上げたが、それは喜ばしい狼狽でもあったし、そして自分に対する恥の叫びでもあった。一瞬でも、いや今まで牧人を信じていず、愚かしくも全く勘違いしてた自分が恥ずかしくてならない。
「あの……つまり……」
しどろもどろで、どう言い訳していいか分からない。
「先生に会いに」と梨沙はキッパリと言った。「でも……落としてしまって……チョコを」
「チョコ? ああ、今日バレンタインデーだから?」
「そうです」
「ありがとう。義理チョコでも嬉しいですよ」
と牧人は暗がりでもよく分かるほど、ニッコリと微笑んだ。
「義理じゃないです!」
思わず我知らず、甲高い声が出てしまう。
「…………」
「義理じゃないんです。でも……あげられません。目茶目茶になってしまって」
再び涙が頬を伝う。けれどもそれは後悔の涙だった。
「わざわざ届けに来てくれたんですね、この寒いのに」と牧人は優しく言いかけた。
「それだけで、僕は嬉しいですよ、宮本さん」
「あのぅ、先生は教会に?」
「ええ、今までずっと。まあ、色々雑事がありましてね、教会では」
二人の背後に、人影が通り過ぎた。二人は黙ったままだ。
「さっき……見たんです。愛さんと誰かが、ここから……」
「知っていました」と牧人は静かに答えた。
「え?」
「愛さんには、恋人がいらっしゃるんですよ。あいにくと、ここ、同じマンションにね」
「それじゃあ……」
「そう。察しがいいですね、宮本さんは」と牧人は淋しげに微笑む。
「愛さんは、僕に時々料理を届けて下さるが、実はそれは口実だったんです。愛する人がここに住んでいるからなんですよ。僕は単なる美人局、というか、ダシに使われていたみたいです。まあ、別にそれでもいいんですがね」
梨沙は金槌で叩かれたような気がした。愛の行動の全てが明白になった。そして、梨沙は何もかも勘違いしていたのだ……。
「先生の為じゃなかったんですね」
「そう……みたいですね。ま、いいじゃないですか。恋人達の美人局は。愛さんは、ノン・クリスチャンであるその恋人のことを、お父さんに言う事をすごく躊躇っているんですよ。きっと反対されるってね。
でも僕はいいと思うな。時々その人をお見かけするんですが、とても感じのいい隣人ですよ。ここに来ている内に、どうやら知り合いになられたようです。相手は外食産業の工場の人だそうですが」
牧人はさばさばした声音で言い続けていたが、ふと梨沙に目を止めた。
「ああ、立ち話で済みません。寒いのに。宮本さんも早く帰った方がいいですよ。若いお嬢さんは夜道は危険ですからね、最近は」
「先生……わたし」
「はい?」
「さっき、義理チョコじゃないと言いましたね」
「ええ」
「わたし……本気なんです」
牧人は暗闇でハッと息を飲んだようだった。
「本気チョコだったんです。わたしは、わたしは……」
梨沙の声は乾いていた。
「わたし、先生のこと、好きなんです!」
牧人は驚いたように俯く。
「好きなんです! 愛してはいけませんか、先生のこと!」
「ありがとう」と牧人は短く答えた。
「先生はわたしのこと……嫌いなんですか?」
「嫌いだなんて……」
牧人はしばらくモジモジしていた。けれどもようやく顔を上げると、
「僕は……でも……」と真っ直ぐ梨沙を見つめて答える。
「でも、それから、なんですか?」
「僕も嫌いじゃない。て言うか、僕も……」
「え!?」
「でも」
「でも?」
「あなたが、クリスチャンだったら、と……」
「クリスチャンでなければ駄目ですか? 洗礼受けないと駄目なんですか!?」
「牧師の奥さんになるには……」
「じゃなくて、先生自身はどうなんです!? わたしのこと、好きなんですか」
「好きです」と牧人はポツンと答えた。「けれど」
「どうして、愛しているだけじゃだめなの? なぜ、洗礼とかにこだわるんですか? わたしはただ先生を愛しているんです! 条件なんか付けないで!! 付けないで……」
梨沙は血を吐くように叫んだ。ひと時の歓喜は絶望に変わっていく。
梨沙はクルリと振り返ると、牧人に背を向けて走り去った。牧人が何か背後で叫んでいるような気がしたが、途中でチョコの包みが落ちても、梨沙は振り返りもせずひた走る。悲しみだけが梨沙の後を追いかけて行き……そして沈黙が残った。
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