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〜39〜

 

 ヒュンジュンと別れ一人電車に乗ると、ひしひしと孤独が募って行く……。
 梨沙は窓から流れる夕暮れの景色をぼんやりと眺めながら、過ぎ去った過去を思い起こしていた。
 確かに牧人を今でも忘れられず、だからこそそれで苦しんでいるのは確かで、ヒュンジュンが言った通りだ。けれども、やはり心の隅では牧人の言動が許せないところがある。それは、無理して隠蔽できるものではない。それは常に梨沙を苦しめていたのだから。
 

 再び教会に出席する気は無かった。けれども愛から招待されれば、愛の結婚式には出席するかも知れない。自己矛盾だとは思うが、梨沙には何も決められないのだ。それに朴訥でいい人のように見えるのだ、愛の相手は。  

― 愛さん、変わった……。いい人、見つけちゃって。  

 梨沙はすっかり伸びきった髪をいじった。ガーリーにしていたヘアは、忙しさにかまけてパーマも出来ず、すっかりもとのままのストレートヘアになっていた。いや、お洒落をすることすら忘れていたようだ。今の自分は、もう老女のように感じる。まだ世間的には若い女なのに、そう自覚することなど最近とんとなかった。
 梨沙は苦笑した。
 

―― ■・・ ◇・・ ■――  

 

 明日は中間テスト後の休みだ。梨沙は英語クラブの副顧問でもあったが、無理して出席する必要は無い日だから、久し振りにぐっすり寝ようと思っていた。
 家に戻ったが、まだ香里は帰宅していなかった。最近母香里の様子が少し変なのに気づいていたが、なぜか今日はピンと来るものがある。
 

 梨沙は香里の寝室のふすまを開けてみた。余り香里の寝室に入ったことなど無いが、今晩の梨沙は妙に冴え冴えとしていた。
 年甲斐も無く派手なハート柄のベッドスプレッドの掛かっているベッドに座ってぼんやりしていたが、なぜか視線が窓際のドレッサーに向く。散らかった化粧品の間に、白い物が無雑作に置いてあったからだ。
 
梨沙は立ち上がると、その白い紙片を手にした。
『ホストクラブ シャレード』と綺麗な文字で印刷されてある。

「ホストクラブ!? そんな……」
 紙片を手に、梨沙は呆然とする。裏返すと、須賀リュージという名前があった。多分、源氏名なのだろうか? それとも、本名?
 そういう場所には全く疎い梨沙には見当もつかなかったが、香里がそこに、いやそのホストに嵌っているのだけは、瞬時に理解した。今、刹那的にしか生きられない母親が、憎らしくもある。その毒々しい思いが、この頃香里に対して段々募っていた実体だった。
 

「バカ。バカバカっ! お母さんったら」
 梨沙の憎悪が高まる直前、ケータイが鳴った。
「はい、もしもし」とナンバーも確かめずに、梨沙はぞんざいな口調で出た。
「あ……梨沙?」
 少しくぐもったハスキーな声、それは忘却の彼方にあると思っていたが、けれども結局は忘れていなかった声だった。
 

「穣(みのる)?」
「ああ、そう。元気?」
 梨沙は一瞬黙り込む。
「なによ、今更……」
「ああ、ごめん。驚かしてしまって」
 多田穣の声は以前と同じく優しくて甘い、けれどもどことなく相手を見透かしたような声音だった。
 

「あの……何でしょうか」
「そんなに他人行儀に言わないでくれよ」
「だって……もう他人じゃん」
「仕事、忙しい?」
 再び、梨沙は黙り込んだ。多田に対する思慕は、今ではほとんど消えかけていることに気付いたが、けれども多田の声を聞いていると、官能に火がついたようになってしまうのだ。いけない、と梨沙は戒めた。
 

「もう切るわよ」
「なぁ、明日でも会えない?」
「何言ってんのよ! もう二年近く会ってもいないのに。何考えてんのよ」
「君が欲しい」
「何ですって!? まじ言ってんの?」
 

 バカにしないで、と言おうとして、梨沙はハッと口元に手をやった。
「君が欲しい」というあからさまな要求をされたことが、最近あっただろうか? 牧人然り、そしてヒュンジュンも、二人とも余りにも控えめで、こういう端的で乱暴な要求はするはずもなかった。
 けれども、その言葉はまるで魔術かサタンの誘いのように、梨沙を捕らえて離さない。
 

「彼女が居るのに……ずるいじゃん」
「ああ、カノジョ、ちょっとお堅くってね」
「わたし、そんなに簡単に……売り物じゃないんだから」
 こう言ったものの、もう抗えない気がした。罠にかかった兎のように、そして蜘蛛の糸にからめとられた蝶々のように、もう抵抗できない魔法の言葉……。
 それは数年に渡る、穣との濃密な肉体の交わりがあったからだ。それは卑猥さを至福と陶酔とに変えてしまう、どうしようもない人間的な欲求だった。
 

「分かった。明日はオフなの」
「いつものシティホテルでいいよね。休憩ってことで」
「何時?」
「一時半。ロビーで」
「うん、いいよ」
「良かった! 久し振りだな〜、梨沙と会うのは。どんな先生になっているんだろ」
「ただの冴えない教師よ」
「じゃ」
 

 切れたケータイをいつまでも握り締めている梨沙。そして窓ガラスの向こうの、果てしない暗闇を覗きながらつぶやく。
「わたしも……母と同じなんだわ」
 

 

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2009/11/12