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〜49〜
無言のまま家に到着した後、自室に見向きもせずに入り、ピシャリと閉じた襖越しに、母香里の気配がする。
もう耐えられない……。梨紗は思った。母親という存在がこうまで重荷になって行くとは! もうこれ以上一緒には住めない……。
「家出」という文字が脳裏に浮かんだ。今までは例え浮かんでも直ぐに消えていったはずの「家出」の文字。けれども今は直ぐそこに在る。けれども勇気が無い。牧人の胸に飛び込んで行く勇気が、まだ無いのだ。
へたへたと自室のソファに座り込んで、ふとケータイを開けるとメールの着信記録があった。「牧師 橋爪」とある。なんと他人行儀な名前なのだろう。「牧人」と書いて欲しかった。けれども梨紗はすがるように、メールを開けた。
『もう着きましたか?大丈夫?月曜日には、病院で待ちます 牧人』
『ありがとうございます。でも月曜日は一人で行きます。大丈夫です。梨紗』
そう不自由な手で打って、梨紗は気が変わらない内にさっと返信した。それからどーっと疲れが出て来たのを覚えて、ソファに横になった。
― 勇気が無いんだわ……。母を捨てられないんだ、わたし。でも先生との愛は本物だし、先生もわたしのことを……。それなのになぜ一緒になれないの? なぜ神様はわたし達の邪魔をするの!?
そして他のカップル達は、なぜ教会で結婚式を挙げちゃうの? 神様の存在なんか、てんで信じては居ないのに、なぜ!? その時はみんなニコニコしているのに……普段は宗教なんか毛嫌いして。それって欺瞞じゃない!? 矛盾してるじゃないの?
もう何もかも、嫌になった……。
ケータイが鳴り、校長の声がしたので梨紗は誰も居ないのに居住まいを正した。
「何があったんですか、先生? 今警察が来て事の次第を話してましたよ。ちゃんとご連絡くれなくちゃあ。変な人に刺されたとか」
「あ、はい、済みません。少しショックを受けたので連絡が遅れてしまって」
「月曜日には来られるの?」
「午前中に病院に寄ってから、午後から参ります」
「大丈夫? 授業に支障は無い?」
「はい、幸い軽症でしたから」
ケータイの向こうで、長い吐息が聞こえた。それは梨紗を心配しているというよりも、授業について困惑している溜息のようだった。
「大丈夫です。期末テストの前ですし、休めませんから」
「分かりました。お大事にね」
「あ、はいっ。ありがとうございます、済みませんでした」
ケータイが切れた。事務的な会話ほど虚しいものは無いのだと、今梨紗は痛烈に感じる。
「ねえ……梨紗……梨紗」と襖の向こう側から、どこか恥じているような虚ろな香里の声がした。
「なによ!」
「何か食べなくちゃだめよ。何がいい? 明日わたし休むから……美味しいもの、作ってあげるから。最近わたし、食事もろくろく作ってなかったし」
香里のその声は、どこか躊躇いがちだった。
「いらない」と梨紗は突っぱねた。「わたし、お腹すいて無いから。それから明日の日曜日も、休まなくていいから。稼ぎ時なんでしょ」
しばらくして、香里の少し弱々しい声が聞こえた。「そう……」
それから遠くからテレビの音が微かにしてきただけで、夜は更けて行く。
**ーー■ーー■ーー**
梨紗が自分の部屋で何か食べようと、ぼんやりとお菓子の袋を持って立ち上がると、机の上のケータイがマナーモードを示した。ブルブルっと震えるケータイが、何かを訴えてでもいるようだ。梨紗はそっとそれを持ち上げる。
「あ、もしもし」
「宮本さん!?」
その切羽詰った声は牧人だった。梨紗の胸がギュッと痛む。けれども、牧人を慕う気持ちには偽りは無いと、改めて梨紗は感じた。本当なら、声だけではなく、牧人の側に居たい……。
「もう寝たかと……」
「いいえ、まだ」
「痛むの?」
「少し」
「メール見たよ」
「そうですか」
「お母さん、怒ってたね。けどそれが普通だよね。僕がもしもそうなっていたら、僕の母も同じ事を言うかも知れない」
梨紗は黙って、お菓子の袋を握っていた。
「月曜日は、僕は休みだから、必ず病院に行くけどいいかな?」
「大丈夫です」
「怒っているの?」
「別に……」
「宮本さん、僕の気持ちは変わらないよ。色々考えたけど、恐れずに行かなくちゃ何事もならないと……そしてどうしてもダメなら、それは神の思し召しだと感じて」
「何でそう言うんです!?」
微かな怒りを持って、梨紗は問いかけた。
「そんな……無理しなくてもいいんです」
「無理してない。進まなくちゃ。何があっても僕は君が好きだよ」と牧人は誰にも遮ることが出来ないほど強い口調で、そう言った。
「君が好きだ」
「障害が多過ぎて、わたしにはもうどうしていいか」
と梨紗は思わず本音を出した。今にも涙ぐみそうだ。
「障害を作り出すのは、自分なのだと僕は信じる。今まで色々あったけど、それはもう終わったことだ。それらが終わったという事は、君と出会える為だったんだとそう信じたい」
「前向きなんですね、先生は」
「牧人、と呼んで欲しい」
「…………」
「運命を切り開くのは、僕達だよ。もう逃げるのは止めた。自分を哀れむのも止めた」
牧人はもう“草食男子”ではなかった。
「一緒に切り開いてくれる?」
「ええ……牧人……」
今日初めて喜びの涙が梨紗の瞳に浮かんだ。牧人は真実愛してくれている。それだけで十分だ……。
「こんなことでめげちゃダメだよ」
「そうですね」
「愛している」
「わたしも」
泣き笑いが梨紗の顔を覆い、そして勇気がわき出でた。
「わたしももう逃げない」
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