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〜50〜

 

 香里はもう寝たらしい。静かな静かな夜だった。  
 梨紗は、そっとパソコンを開け、メールソフトを開けた。様々なメールの中に、牧人が言ったように、去年のバレンタインデーの日のメールが来ていた。それからさやかや、愛からのメールもあった。

 梨紗は少しだけ躊躇った後、牧人のメールをクリックした。長い文が目に飛び込む。けれどもそれは無機的な文字列ではなく、既に愛のベールに包まれた文字のように見えた。本来なら、ずっと前に送られてきていたメール。それを削除したのは、梨紗自身。  
 先程の牧人との、甘い、そして切ない会話の余韻を抱いたまま、梨紗はその面影に浸っていたかった。メールを開けるのが怖かった。  
 けれども、やはり読まなくてはならないのだ。それが牧人への、真実の愛の証(あかし)なのだから……。

 

『宮本さんへ  

 最初に言いたい。  
 本当に済まないと思います。反省しました。自分の愚かしさに、あれほど気付かされたことはありません。去って行く宮本さんのあとを追いたいとまで思った。けれどもいつもの私の悪い癖で、結局前に出る事が出来なかった。  
 闇の中を舞う、あなたからのチョコの包装紙の切れ端、それだけが今の私の手元にあるだけです。あなたからの告白は、信じられず、けれどもそれが事実だと知ったときの歓喜は、あなたには想像できないでしょう。  
 私はもう諦めていました。二度と女性を愛すまいと。主イエス・キリストだけの愛に生きようと……けれどもそれは、ただの人間である私には、とても不可能な事だったのです。

 あの日、一昨年のクリスマスの夜、道にさ迷う子羊のような宮本さんを教会に誘い入れて以来、忘れようとしていた“何か”が、再び私の心の奥に巣食ったのです。  
 けれども年の差、あなたが大学生である事、あなたが未信者であること、そして何よりも魅力的で芯の強いあなたに自分が釣り合うのか、それが不安でした。

 と言うのも、私は過去二度の出会いに失敗し、そして絶望し、苦悩していたので、再び起るかも知れない失恋をこれ以上味わいたくは無かったのです。けれども、あなたはいつも孤独な私の側に居ました。現実には居ないのに、居てくれるような気がした。それは幻影だったのでしょうか?  

 私は臆病だったし卑怯だったと思います。あなたを愛しながら、そうではない振りをずっと続けていた。けれども、何事も限度はあるものです。あなたを見る度に苦しかった。今までのどの愛よりも、これは重症だと思いました。  
 そして、手が届くその時になって、サタンが私に囁いたのでしょうか。『洗礼を受けていなければダメだ』と言ってしまったのは。言った瞬間、わたしは目が覚めたのです。今まで如何に様々な呪縛に縛られていたのかを。  
 過去去って行った女性達にも、そのような呪縛を与えていたのかも知れないと悟ったのです。もう元カノ達を恨むのはやめました。一番愚かしいのは、自分だったのだから。そしてだからこそ、今再びあなたを失おうとしているのだと。
 

 宮本さん、いや梨紗と呼ばせて欲しい。今のあなたが洗礼を受けていようがいまいが、そんなことはもうどうでもいい。将来的に、あなたは洗礼を受けるかも知れないし、受けないかも知れない。けれども、わたしは今この瞬間のあなたが好きだと言う事を告げたいのです。あなたは有りのままでいいのですから。  
 将来がどうなろうと、私はあなたを失いたくない。もしも失ってしまったら、あなた以上に愛する人が出てくるとはもう思わないからです。
 

 神様は憎しみの中には存在しない。神様が存在するのは、愛の中でだけです。  
『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である。コリント第一13:13』

 その通りなのです! 信仰も希望も大切ですが、今の私にとって一番大切なのは、やはり使途パウロが述べたように、愛なのです。それこそ、早く私が悟るべきものなのでした。

 私はチョコの紙切れを拾い上げ、いつまでも待っていました。あなたが又戻って来るのを。そして今でも待っています。  
 言葉足らずの私をお許し下さい。牧師なのに、語る言葉を知らず、聖書の本当の奥義を悟らなかった。けれども今は違います。
 

 宮本さん、どうかこれを見たら返事を下さい。そして愚かな私を赦して下さい。あなたが私のような者を愛して下さっていたことを知って、けれどもその前から、私こそあなたを愛していたことを知って欲しい。  
 どうか私の愚言など忘れて、私の元に来て欲しい。それだけが、今の私の希望であり切なる願いであります。

 私は先程まで夜空を見上げ、星に祈りを捧げていました。愚かしい人間を見下ろし、そして運命の名の元に支配して下さる神よ。けれども、どうか私の愛をあの人に届けて欲しいと。そしてもしもそれが叶わない時には、全てを諦めて生きて行くつもりだと祈り続けました。  

 あなたからの返事を待っています。

        あなたを愛する 牧人より   』

 

 読み終えた梨紗は、呆然と、そのメールの前で佇んでいた。これ程の愛の告白だったとは、梨紗自身一年近くも露知らずにいたのだ。牧人の真実の気持ちを知らずに……。  
 どんな時にも、牧人が自分を思い祈っていたというのに、自分は得て勝手に振る舞い、半ばやけくそで元カレと関係まで持ってしまっていた。

 確かに強制された洗礼は嫌だが、美帆の言うように、信仰は愛した者の後から付いて来るかも知れないではないか。そしてその時には、梨紗も喜んでそれを受け入れるだろう。いや、受け入れるに違いない。  
 愛は自己主張ではなく、ある時は捨てるものなのだからだ。リカコが自分を傷つけたのは、それはもしかすると何かの所以なのかも知れない……。もしかすると、神様のいたずら?
 

 今梨紗は、リカコを恨んではいなかった。恐怖の体験だったが、けれどもそれは次の瞬間には、喜びに変わる前の試練だったのかも知れないと、ふと梨紗は夜空を見上げた。  
 星に祈りを捧げていた、と牧人は書いていた。そして今梨紗も又、同じ事をしようとしている。
 

 梨紗は襖を開けた。香里は炬燵の中で居眠りしていた。時計は10時半を示している。  
「お母さん、わたしやっぱり行ってきます。お母さんが例え反対しても、わたしは行きます」と梨紗はそっと香里に囁くと、約30分ほどの距離の牧人のマンションに向った。
 梨紗が出た後、香里はそっと目を開けた。その瞳には、涙が浮かんでいる。  
「子供はいつかは出て行くのよ。なのに馬鹿ね、わたしって」

 

☆ーー†・・・†・・・†ーー☆

 

 クリスマス前の大気は澄んで冷たいが、上気している梨紗の頬には心地良かった。そう言えば、大分前、ファミレスでアルバイトしていた後も、こんな夜だったような気がする。

 牧人は起きていた。一階の窓から明かりが漏れていたので、そうと分かる。  
 梨紗がベルを押すと、ややあってドアが開き、牧人のびっくりした、それでいてまるで知っていて待ち望んでいたかのような、安らぎに満ちた顔が覗いた。

「ああ、宮本さん……」  
「梨紗と呼んで」  
「梨紗……」
 

 牧人は梨紗を玄関に導くと、ゆっくりとドアを閉めた。その途端、梨紗はしっかりと牧人の胴に手を廻し、無言で抱きついた。最初はおずおずと、けれども次の瞬間、強く牧人は梨紗を抱き返した。そして顎を、梨紗の髪に置いた。

「読んでくれたの」  
「ええ。だから来ました」  
「そうか……」  
「もうわたしを離さないで! 離さないで下さい」  
「うん、いいよ。だけど君に見せたいものがあるんだ」  
「なにかしら?」と梨紗は顔を上げて、愛する人を見上げた。

 牧人は少しだけ身体を動かすと、机の上に置いてあった小さな紙切れをそっと取り上げて見せた。  
「バレンタインのチョコの包み紙。君がくれるはずだったチョコの香りが今もする」  
「まあっ、今でも持っていたんですね」
「いや今こそ捨てるよ。本物の君を得たんだからね」

 チョコの包み紙の切れ端が、はらはらと床に落ちた。それと同時に、梨紗は牧人からの始めての口づけを受け入れていた。長い間待ち焦がれていた口付けを。  
 牧人は邪魔な眼鏡を外すと、梨紗の右腕を気遣いながらも、その深い抱擁を離そうとはしなかった。そして梨紗も又、やっと掴んだ幸せを決して離すまいと、星に、そして神に誓ったのだった。  

 

<終わり>  

 

 

長い間お読みくださった皆様、ありがとうございました。

 

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2010/2/9