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星降る夜の奇跡

〜三年後〜

 

 今年のイブは休日。
 梨沙はかなり遅くまで布団の中に居た。何か苦しい夢をウトウトと見ながら、やっと目を覚ますと、既に母親の姿は無かった。母はよりにもよって明日のクリスマスに手術を受けると言う、ボーイフレンドの豊岡の元に、見舞いに行っているのだろう。
「もう少し寝ていようかな〜」とつぶやきながらも、梨沙は考え込んでいた。 

 豊岡は二年前に母親が乳ガンの手術を受けた時に知り合った患者仲間で、そして再婚を約束するまでの仲になった中年のサラリーマンだった。
 最初は梨沙も「いい大人が」と嫌な気持ちでいたのだが、豊岡の人柄や嬉しそうな母の姿を見ている内に、再婚してもいいよ、という旨を告げていたのだ。
 それなのに、無情にも豊岡はガンが再発してしまい、明日はその再手術の日なのだった。クリスマスだというのに、理沙の周りは全く楽しいことなど何も無かった。
 

 横になっている梨沙からは、狭いダイニングの片隅に置かれた小さなクリスマス・ツリーが見えた。確か一昨日、母が黙りこくりながら、そのツリーを飾っていた後姿が目に浮かぶ。
 母はまるで願でも懸けているかのように、黙々とそのツリーにオーナメントを下げていた。小さな木製の天使が揺れ、深い緑色の玉があちこちにぶら下がり、所々に金色の安物のリボンが付いているだけの、淋しい、かなり地味なツリーなのだが、母にとってはそれはまるで宝物のように感じたに違いない。
 

 それは、豊岡が再入院する前日に、二人で買ったのだという。母は何も言わないが、多分二人はそれを同じ部屋で分かち合いたかったのに違いない。もうどちらも中年だが、恐らく身体の関係はあったと梨沙は信じている。それはどこか艶かしい母の目付きで分かる。少し前まで、愛の悦びが母の周囲を包んでいたのだから。ほんの二ヶ月前までは……。  

 けれども母親は昨晩、
「それじゃ、あたし早起きして病院に行ってくるから」
と梨沙に言ったきり、黙り込んでしまったのだ。
「大丈夫だよ、豊岡さん、ガタイが良いもの! 体力あるしガッツもあるし」と梨沙は精一杯母を励ましたつもりだった。

「そうね」と母はつぶやいた。「あんたは? ああそうか。明日はクリスマス・イブだったよね。何か友達と計画があるんでしょ?」
「ないない」と梨沙はわざとおどけて言った。「あるわけないじゃん」
「多田君とは……もう?」
「ああ、穣(みのる)? 彼とはもう夏に終わったって言ったじゃない。しつこいよ、母上は」
「そうか……でも、なんか残念ね」
「んなことないよ。わたしはまだまだ若いんだから。そんなことより、お母さんこそ」
「もう二度と来ない恋ってか?」と母は笑いながら問う。「かもね。わたしの歳では、もう……」
 母親の声が消えた。
 

「あっ、もしかしたらわたし、明日豊岡さんのお見舞いに行くかも」と梨沙は心にもないことを告げた。
「いいのよ、無理しなくても」
「いいじゃん。邪魔してやるから」
「んまぁ、梨沙ったら〜」と母はそれでも嬉しそうに笑った。「出来たら、でいいのよ、梨沙」
「うん、出来たらね」

 

 そのような昨晩の会話が、今では空々しく浮かぶ。わざとらしい笑いをしてはいたが、二人とも不安に押し潰されそうだったのだ。けれども母は強い人だ。
 結局言葉通り、早くから病院に出かけて行ったらしい。空しいツリーが、狭い公団の部屋に鎮座し、そこだけが妙に華やいでいる。

 梨沙はのろのろと起き出した。今日はイブ。けれども、梨沙には何の予定も無いのだった。
 梨沙は台所の石油ストーブをつけた。ボッと火がついて、暖かい空気が吹き抜けて行く。今年は灯油の価格も上がり、懐が寒い梨沙のうちにとっては、暖かい冬なら良いのにと少しだけでも願う。

 多田穣とは、この夏に終わったのだった。去年のイブの夜、夢のような一夜をホテルで過し、梨沙は名実共に“女”になった。
 けれどもそれ以来、二人は会えばホテルに行き、めくるめく肉体の喜びに溺れていた。梨沙は満足していたのだ、少なくとも最初の内は。
 

 三年前のイブの夜、梨沙は初めて多田と駅で出会い、そしてデートを続けていた。この三年間、高校生だった梨沙は今では教育学部の大学三年。そして、多田は一流企業に内定していた。
 はたから見れば、理想的なカップルに見えた。けれども梨沙と多田の間の、人生に於ける価値観は次第次第に違っていった。
 

 毎年イブには奇跡が起こる、と梨沙は信じていたが、今この時梨沙は何一つ信じられないでいた。
 多田に別の彼女がいること、そしてその彼女は梨沙のうちとは格段に上流のお嬢様だったのだ。行っている大学も、ミッション系の莫大なお金が要る女子大生。
 週に三度も家庭教師で忙しい梨沙とは、比べ物にならない程の家庭だ。格差社会と言うが、それを身をもって梨沙は今感じていた。
 

 多田はその別の彼女の、洗練されたお洒落な感覚とスラリとした容姿にすっかりのぼせてしまっていたし、将来的にも、又両親にも紹介するのはぴったりだと感じたとしても、不思議はないし、それを梨沙が批判することすら出来ない。
 梨沙は結局身を引いた。

 

 去年イブの日に一緒に映画に行った明日香は、カレシが居ないと愚痴っていたが、今では結構いけてるカレシを見つけて、今は一緒に居るはずだ。
 けれども梨沙はただ自分の身を嘆いていただけではない。自分の考え方が嫌になったのだ。相手と格下だの格上だの、そして自分を卑下しまくる自分自身が嫌になっていた。どんな生活であろうと、自分にプライドがあれば。こんなにめげる事もないのに……。

 

 ばーかっ。梨沙のバカっ! 淋しいクリスマスを迎える人は、他にも要るって言うのに、自分で“悲劇の主人公”に成り切っているなんて、なんて愚かなの、わたしって。
 さ、何か食べて豊岡さんの病院に行こう。豊岡さんは、明日手術じゃないの。わたしなんかより、あの人の方がずっとめげてるはずじゃない! それなのにこんなにウジウジしているなんて……梨沙らしくないよっ。
 

 梨沙はやっとちゃんと起き出し、一人ブランチを食べ、そして目一杯お化粧し、2、3日前に買った黒のセーターを着た。その上に、流行の短いワンピを着て、黒いジーンズを履く。
 ふと以前多田に買って貰った淡水真珠のネックレスをしてみた。黒いセーターと自分の白い肌によく似合う。けれども梨沙の顔は歪み、出なくてもいい涙があとからあとから頬を伝い始めた。

 梨沙はそのネックレスを、台所の家庭ごみの中に投げつけるように捨てた。宝石はつけて嬉しい場合のみつけるべきなのだ。今の梨沙には宝石や装飾品など必要がない。欲しいのは、ただ人の温もりと自分を見つめてくれる誠実な瞳だけなのだ。  

 愛する人との肉体の交わりは大切だとは思うが、それよりももっともっと大切なものが欲しかった。多田からは、もっと他のものが欲しかったのだ。それが何かは、梨沙は言葉には表せない。
 しゃがみ込み、涙を拭った梨沙は、すぐにシャンと立ち上がると、公団のうちをあとにした。

 

☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆

 

 梨沙が豊岡の4人部屋の病室を訪れた時、母親はちょうどみかんの皮を剥いていた。豊岡はベッドに座り、一見血色がよくどこが病気なのか分からないほどだ。けれども微かな浮かない不安感が、豊岡の周りを被っていた。

「やあ、梨沙ちゃん、来てくれたの?」と豊岡の方が先に梨沙に声をかけた。梨沙は黙ってお辞儀をする。母が顔を上げた。
「あら、梨沙、早かったじゃない?」
「うん、まあね。どこも行く所がないし」
「そんなこと言うなんて……」と母が咎める。
 

「いいんだよ〜、梨沙ちゃん、正直で良いね。おじさんはそれが好きだな〜。でも、こんな日に梨沙ちゃんを誘う男が居ないなんて、ちょっと残念だね。みんな、見る目がないのかな?」
と豊岡は、わざとらしくなく言いかけてくれる。
 梨沙は近くの椅子に座った。病院の椅子って、なんでこんなに無機的で温かみが無いんだろう、と梨沙は思う。
 

「いいえ、わたしって魅力ないから。気ばかり強くて、男の人はきっと辟易しちゃうんでしょうね」
「可愛いのにな〜」と豊岡は目を細めた。「な、香理(かおり)さんと似ているよ、どこか」
「そりゃそうよ、あたしの娘だもの」と母は笑いながら答える。けれどもどこか作り笑いっぽい。

「あの……その横に置いてある黒いの……何の本ですか?」
と梨沙は話しを変えたくて尋ねた。

「ああ、これは聖書だね」
「聖書!?
「そんなに驚くなよ、梨沙ちゃん。こう見えても、おじさん、若い頃は教会に通っていた時もあったんだから」
「で、今になって、聖書?」と母は茶化しながら聞く。

「ああ、うん、そうだねぇ……人生ここまでくるとねぇ、何だかもう一度読みたくなくってね、棚から引っ張り出したんだがね〜」
「信仰が人を救うなんて、嘘っぽいと思います」と梨沙ははっきりと自分の意見を述べた。
「梨沙っ!」と母がまなじりを釣り上げて叱る。

「いやいいんだよ、香理さん」と豊岡は静かに制した。「そうかも知れないなぁ。自分の命があやうくなった時に、神様にしがみつくなんて、弱い人間だと思うだろう? だけど、人間って弱いんだよ、本当に」  

 梨沙は恥じた。こういう自分だから、多田も又離れて行ったのかも知れない。何事も白黒付けたがり、相手の意見を尊重しようとしない自分は……。

「でも……信じれば救われるんですか? 神様は豊岡さんを救ってくれるの?」
「神様はね、梨沙ちゃん。願えれば叶えてくれるって言う、ご利益のある存在じゃないんだ。神様はいつも楽しいことだけではなく、辛い事も与えて下さる。『主は与え、主は奪う』なんだよ。つまり、全てを包括して下さるっていう存在かな。人間の生き死にを」
「難しいですね、そんなの……理不尽な気がする」
「ああ、ごめんごめん。ややこしい事言ってしまって、今日はイブだって言うのに」
「そうですよ、楽しいことだけ考えていましょうよ、今晩だけは」
と母が言い繕った。「だって、明日クリスマスの日に主術なんですもの。きっと大成功に違いないんだから」
 

「お医者さん達も大変だな、クリスマスの日にも手術なんかして」
と豊岡が言うと、
「だって、それって単にお仕事でしょ」と梨沙が口を差し挟んだ。豊岡は怒るどころか、はははと笑った。
「その通りだね、彼らにとっては仕事なんだな」

 梨沙は初めて、この豊岡に生き続けて欲しい、と願った。母親が豊岡と付き合うことを、今なら応援出来ると……。けれども、もう遅いのだろうか。やっと好きになり始めて来たと言うのに……。

 

 梨沙は暫く病室に居てから、出て行った。母と豊岡二人だけにしたかったからもあるし、自分の居場所が無いと感じたからでもある。
 梨沙が出て行く時、背後で豊岡の「いい娘さんだね」と囁く声が聞こえた。

 

☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆

 

 病院から出ると、星空だった。二年前もそうだった。なぜイブの晩は、星が降るように感じるのだろう? ちょうど工場がお休みだから、という物理的理由だけではないような気がする。
 けれども梨沙の心は沈んでいた。このまま、うちに帰りたくない。去年のような夢見心地の、絵に描いたような一夜ではなくとも、何かしていないと気が滅入ってしまう。
 町の中のイルミネーションが、空しく瞬く。人工の光は、けれども大自然の光よりも、余りにも眩し過ぎるのだ。
 

 梨沙は歩き出した。あてどもなく、気の向くまま、足の向くままに。多くのカップルや、子供連れの家族、一人ぼっちの若者や老人達、はしゃいでいる中年の女性達……様々な人々とすれ違いながら。

 

 『主は与え、主は奪う』……ほんと、今のわたしみたい!

 

 少しだけ、気分が楽になった。豊岡が、単に神頼みをしていないという事が分かって、何だかほっとした。
 空を見上げると、ちょうどこのような夜にキリストが生まれたのかな、とも思う。もちろん、12月に生まれたどうかは分からないが、森羅万象の大自然の、星の下で生まれたのだけは確かだ。
 

 微笑むとどこかからキャロルの歌声が聞こえてきた。人々が立ち止まり、その余り上手くない歌声に耳を傾けている。知っている曲もあれば、知らない曲もあった。梨沙も又、立ち止まり、人々に混じって老若男女の歌うキャロルを聴いていた。
 そこは教会の玄関先らしい。階段の上で、寒さの為にコートを着ながら歌っている一団だった。
 

 人々は立ち止まっては、直ぐに一人又一人と去って行く。けれども、梨沙だけはずっとお終いまで聴いていた。黒いマフラーの上にかかるサラサラした黒髪。それを多田は撫でてくれたものだ。
 ああ、多田のことなどもう忘れなければ、と梨沙は誓った。もう前を向かなければ……。でも、できない。そんなに簡単に苦悩なんか、忘れられるわけがないじゃないか。
 

 曲が終わって、歌っていた一団がぞろぞろと中に入って行くのを、梨沙はぼんやりと見つめていた。
 ふいにどこかから言葉があった。

「あの……よければ、中に入りませんか? 今晩は暖かいコーヒーと紅茶、それと手作りのケーキを用意していますから」  

 振り向くと、目の前に眼鏡をかけた、優しい雰囲気の若い男が立っていた。黒い背広に白いシャツ。極めて保守的な服装だ。
「あ……でもわたし、通りがかりですから。それに、信者でもないし」
「関係ないですよ」と青年は律儀に笑う。「今晩は、どなたでもいいのですから。主の恵みに預かりましょう」
 

 不思議な言い方だ。普通ではない。どこか奇妙だ。

「でも」と梨沙が言いかけると、
「先生! 副牧師先生!」と誰かが中から声をかけた。「外は寒いですよ。あれ、そちらは?」
「この方もお誘いしているんです」と青年が答えた。
「副牧師先生……ですか?」と梨沙が聞くと、
「ええ」と青年は照れくさそうに笑う。「一応ね。さ、中に入りましょう」
 

「先生」
「はい?」
「あの、願いは叶うんですか? 今救いたい人が居るんですけれど、助かるのですか?」
 青年は少しだけ黙っていたが、すぐに続けた。確信を持って。
「一緒にお祈りしましょう」
「祈る?」
「ええ。祈りが全てです。そしてあとは、お任せしましょう」

 

 わたし、祈った事なんて、一度も無かった……。成功するかしないか、そればかりだった……。結果がどうなるか、それしか考えていなかったんだ。

 

「先生」
「え?」
「わたしも、入って祈って良いんですね」
「もちろんです!」とその若い副牧師は断言した。その瞳は誠実に、星に負けないくらい瞬き、梨沙をじっと暖かく見つめている。「わたしも一緒に、共にその方の為にお祈りいたしますから」

 梨沙の瞳からキラキラと宝石のような涙が溢れる。星降る夜の下で、梨沙の凍った心が解けて行く。新しい出会いが、梨沙を待ち受けているかのように……。奇跡はやっぱり起こる……このイブの晩には。

 

「星降る夜の奇跡〜三年目〜」終わり

2007年12月11日Tue.

 

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