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星降る夜の奇跡〜一年後〜
梨沙は病室の窓から、暗い空を見上げた。今晩はクリスマス・イブだというのに、こんな所に居る自分が何故か不思議な気がした。窓を開けようとしたが、母が寒がるだろうと思って、その手を止めた。
「もう少しで、見舞い客が帰らなければいけない8時よ」
と言う母の声が背後でした。その声にはわざとらしい明るさの中に、どこか淋しげな気分が込められていることに、梨沙は直ぐに気付いた。
「今日、バイトはいいの?」
「今晩、バイトはしないんだ、わたし」
そう振り向きざまに、梨沙は言った。この病院の専用の寝巻きを着た梨沙の母が、肩にショールを引っ掛けて、こちらを向いていた。化粧っけの無い青白い肌、やつれた顔付き。けれども、その瞳はじっと我が娘に向けられている。
(頼られているんだ……でも、うざい)
けれども梨沙は作り笑いをすると、サーッとカーテンを引いた。同室の3人は、テレビを見たり、見舞い客と話し込んでいたり、もう既に寝ている者もいる。
梨沙の母の乳癌が見つかったのは、最近だった。以前からしこりがあったのだというが、母は不動産の仕事が忙しくて、病院に行きそびれていたのだ。そして大学一年になった梨沙もまた、その事には大して気にもとめていなかった。
その時まで、癌なんて誰かよその人のことでしかなかった。まさか自分のたった一人の家族が癌に冒されていようとは、脳裏に浮かんだ事すらなかったのだ。それは遠い他人、テレビや本での出来事でしかなかった。
離婚後も、母は自分の弱さを見せない人だった。しゃにむに働き、梨沙と二人だけで生活できるという自信を持っていようと、健気に努力しようとするような女性だった。そして梨沙は、そういう母に甘えていたのかも知れない。
けれども乳癌と診断された時、梨沙の中の何かが弾け散った。梨沙は大袈裟に言うと、「運命」を呪ったのだ。幾ら医師が「まだ大丈夫」と言っても、それを鵜呑みのするほど大馬鹿ではない。もう梨沙は、人を充分“疑う”ほどの大人だった。
手術は、クリスマス前に慌しく行われた。今日のイブは、手術からちょうど一週間経って、母も落ち着いてきた頃だった。そして母は弱音を梨沙に見せることは、一度も無かった。
「バイトはしないの? イブだものね〜。多田君と会うの?」
「詮索はやめてよ」とだけ、梨沙は言った。
「はいはい、梨沙のプライバシーには突っ込まないから……」
母はにっこりと微笑んだ。不安をそっと隠しながら……。
梨沙と多田穣(みのる)は一年前から付き合っていたが、けれども一年間二人はデートを重ねたものの、梨沙の受験や様々な用事や、お互いの多忙さにかまけて、まだ多田を本当の“彼氏”だと母に言ってはいない。けれども、多田と言う大学生と付き合っている事だけは、一応母には言っておいたのだ。余計な心配をかけたくなかったのと、要らぬ詮索をして欲しくは無かったからだった。
今晩、多田は相変わらず小田急の駅員のバイトが入り、会えないというメールが来たばかりだった。せっかくのイブなのに、他のカップルがこの日だけはと楽しみにしている晩なのに、多田はどこか気が利かない人間だった。
デートの場所も、多田は自分の撮りたい汽車や電車の写真を撮りに梨沙を誘うことが多かった。そうでなければ、戦争映画かアクション映画に梨沙を誘っては、帰りにマックで質素な食事をするだけ。
こんなデートでも、梨沙の乾いた心は、何かそして誰かを求めていたから、ひたすら多田の言う成りになって付き合ってはいた。けれども最近、梨沙は母の病いを知って以来、自分の将来に漠然とした不安感を抱くようになった。
(手に職を付けなくちゃ。そんな華やかな職業は無理としても、ちゃんと稼げるような女にならなくちゃだめなんだ。クラスメートのように、チャラチャラとオシャレしたり、彼氏を漁ったりしているようではダメ。わたしはこの上なく不幸ではないけれど、でも幸福でもない……。どこか漂っている感じがする。穣とも、こんな状態じゃあ、続けるの無理だな、きっと)
梨沙は多田に、「お母さん、癌だって」と告げたときのことを思い出していた。多田は「あ、そう」としか言わなかった。せめて「大変だね」とか「お前〜、大丈夫?」とか言って欲しかったのだが、多田は黙って「うん、へ〜え」としか答えなかった。
その時だ、梨沙の心に「別れ」と言う文字が浮かんだのは……。
「バイトしないけど、友達と映画に行って来る」
梨沙はとっさに嘘をついた。
「そうぉ? 楽しんできてね。お母さん、梨沙と一緒に家に居なくてごめんね」
「お母さんこそ、クリスマス・イブにこんな病室にいるんじゃ〜ね」
「いいのよ。4人でおしゃべりしたり、退屈していないから。それより梨沙が心配。一人だし……夜道、気を付けてよ」
「小さい子じゃないんだよ、もう」
うんざりしながら梨沙が答えたと同時に、8時のオルゴールとアナウンスが流れて来た。
『お見舞い客の皆様、お時間でございます。お帰り下さい』
「ちっ、もう8時か」
と、隣に寝ている患者の夫らしき声がした。
「それじゃ、あなた、気をつけて」
カーテン越しに弱々しい患者の声がする。梨沙の母よりももっと若い女性の声だ。
『皆様、お帰りの時間です……』
「うざいんだよ」と梨沙はつぶやくと、「それじゃ」と言いながら、自分のハンドバッグとダウンのコートを羽織った。
「また、明日来るよ」
「無理して来なくていいのよ。もう、お母さん、大丈夫だから」
そう言うと、母は点滴棒を持ちながら起き上がった。
「見送るわね」
「いいよ〜」
「違うの。トイレにも行きたいしね」
精一杯母は微笑むと、立ち上がった。
梨沙と母は、並んでエレベーターまで行った。二人とも無言だった。
「早く退院して、又梨沙と暮らしたいわ」
「弱気出すなって。もうすぐだからさぁ」
そう言っている間にエレベーターが上ってきた。
「それじゃ」
「夜道、気を付けてね」
さっきと同じ会話があったが、梨沙はすぐにエレベーターに吸い込まれていった。母は片手を振った。
「メリー・クリスマス!」
母の思いもかけない言葉を聞いて何か言おうとした梨沙の前で、エレベーターの扉が閉まった。
「メリー・クリスマス? しゃれにもなんないよ」
梨沙はエレベーターの中で、ひとりぼそっと呟いていた。
身を切るような星空の下、梨沙はダウン・コートの襟を立てて、歩き出した。坂道を下ると、駅が見えてくる。暗い坂道、けれどもどことなく華やかに感じるのは、そこここに置かれてある控えめなツリーや電飾だろうか? そういえば、ここ数年、クリスマスと言っても、以前のような煌びやかさは影を潜めていた。それが梨沙にはありがたかった。
けれども行く所に行けば、きっと幸せそうな人々が、イブを祝っているに違いない。クリスチャンではなくとも、なぜか祝いたくなるシーズンなのだ。
駅に着き、切符を買おうと自販機に近寄ったその時、背後から声がした。
「梨沙、おい、待てよ!」
振り返ると、目の前に多田が居た。多田はむさい半コートを着ている。
「は? あんた、なんでここに居るの? バイトは?」
「今晩のバイトは、やめたよ」
「でも今朝のメールでは……」
「無理して取りやめた」
「ここで何してんの?」
「決まってるだろう? 梨沙を待ってたんじゃないか!」
多田はむくれて言った。
「病院にくればいいじゃん」
「だって……お母さんに悪いかな、と思ってさ。ほら、見舞い客に来て欲しくないって患者、多いだろ?」
意外な事を多田が言ったので、梨沙はちょっと押し黙った。
「まあね〜、だけどここで待っているなら、メールすればいいじゃん」
「梨沙を驚かそうと思ってさ」
梨沙の顔に、自然に笑みが浮かんだ。
「今日の梨沙……奇麗だ」
「何言ってんの?! ばっかみたい」
「ホラ、俺達が出会ったのも、去年のイブだったしな」
「ま、そうだったかな」
梨沙ははっきりと覚えていたが、けれどもなぜか忘れていた振りをした。
「だから、今日は記念日と言うわけ」
「穣って、ほんとにおバカっ」
「まさか誰かと会うって予定は無いよね?」
「これから真っ直ぐに家に帰るとこ」
「その前に、飯食わない?」
と多田はさり気なく誘った。梨沙の胸に、どこかポッと熱いものが灯った。
「いや?」
「いやじゃないよ。でもどうせ……」
「今晩は、マックとかラーメン屋じゃないから」
「へぇ、穣も気が利くんだ」
「そんなにいい店でもないけど……」
最期の語尾は、尻すぼみになった。
「でも、せっかくの夜だから」
「どんな店でもいいよ、穣が選んだ店なんならさ」
「いや、先輩が教えてくれたんだ」
(穣って底無しの馬鹿正直なやつ! でも、嬉しい)
「どこ?」
「うん、ええと……あそこ!」
多田が指差した先には、無機的な駅ビルがそびえていた。
「あの五階にあるイタリア・レストラン。確かぁ、『ベル・フローラ』だったかな?」
「『ドルチェ・フローラ』でしょ?」
梨沙は幾らか失望して、それでも健気に作り笑いしながら言った。確かあの店は、安いがちょっと不味い、というカフェテリア形式のイタリアン・レストランで、友人と一緒に食べた事があった。お世辞でもロマンチックな店ではない。けれども多田にしてみれば、精一杯の情報だったのだろう。多田のような人間が、るるぶや他のレジャー雑誌を読んだりするはずが無いからだ。
「いや?」
「いやじゃないよ。どうせ暇だし、お呼びも無いし」
「じゃ、行くか」
二人は連れ立って、そびえ立つ駅ビルに入った。
『ドルチェ・フローラ』は、大勢の若者達が群がっていて幾らか待たされたものの、程なく店員が案内してくれたのは、偶然にも窓際だった。そこからは、巷(ちまた)の灯火が瞬いて見え、案外いい席だった。そしていつもはださい店も、この日ばかりは精一杯飾り立て、控えめなキャロルの音楽が流れていた。
店先のツリーに飾ってある少ない銀色の装飾品が、この店をどこか清楚に見せていた。それはクリスマスのマジックなのかも知れないが……。
「ここから見下ろすと、奇麗ね。昼間の汚い物が、闇に隠れてしまって」
梨沙は正直に言った。多田は少しだけ笑った。
二人はそれから交互に、真中にあるバイキング形式の料理を取りに行っては食べ、どうでもいい話を取りとめもなくし続けた。いつの間にか10時になっていた。
「もう、帰ろうかな?」
と梨沙がつぶやくと、多田は「そうだね」とだけ答えた。あえて引き止めようとはしない多田に、梨沙は虚しさを覚えた。
「じゃトイレに行ってから、帰ろうかな」
「うん、いいよ」
「一度お母さんのお見舞いに来てよ」
「あ……いいけど、でも……」
「なに?」
「あそこに行くと、思い出すから」
「なにを?」
多田は黙り込み、残ったウーロン茶を飲んだ。
「なんなの?」
「俺のお袋さぁ、前にあの病院に入院してたんだよな」
「え? なんで?」
梨沙はその事実を初めて聞いた。
「う〜んと、梨沙の親と同じ病気で……」
「え! 乳癌で?」
「いいや、お袋のは子宮のほう」
「―――!」
梨沙は一瞬口をつぐんだ。
「で、今はどうなの?」
「いない」とだけ多田は言った。それから彼はぐっとウーロン茶を飲み干した。
「ごめん」
梨沙は恥ずかしくなった。この一年間、二人は付き合っているようで、その実何も知らなかった事に気付いたのだ。
「なんで梨沙が謝るんだよ」
「だってわたし、何も知らなくて」
「知らなくったっていいよ」
多田の微笑みは静かで、そして淋しげだった。
「言ってくれなきゃ嫌だよ、わたし! わたしって、穣にとってなんなの? ただの彼女? そんなんじゃ嫌だ。穣のこと、もっと知りたかったのに!」
「でも、こんなこと言ったら、梨沙が心配するだろうと思ってさ」
「わたし、そんなにヤワじゃないよ」
「うん、それは分かる」
多田は妙に納得したような口振りになると、頷いた。
「でも時々、わたし、母が居なくなって……もしかして一人になったらどうしよう、とか思う事があるんだ……」
梨沙は下を向き、それから大きな窓ガラス越しに遠くの明かりを見つめた。多田は黙って、梨沙の手を取った。
「俺が居るじゃん?」
「でも……」
「梨沙を一人にはしない」
多田はキッパリと言った。「一人にはしないよ」
梨沙は何も答えなかった。急に涙が溢れそうになった。そして自分が今までどんなに強がっていたか、その事実を痛切に感じた。自分の強がりが、ある時は多田をもがんじがらめにしていたのかもしれないのだ。
けれども今はもう違う。多田が側に居てくれると思っただけで、自分は救われているような気がした。
二人は勘定を済ますと、駅ビルから外に出た。
「じゃ俺、これから深夜バイトなんだ。梨沙と一晩中居たいけど、無理だな。クリスマスなのにごめんな」
「でも、いつか……」
「うん、いつか」
多田はそう短く言った。
クリスマスには、やはりマジックが起きるのかも知れない。凍れるような星空の中を歩み去る多田の背中を、梨沙は暖かい微笑みを浮かべながら見送った。見上げると、珍しく降って来そうな星々が梨沙を見下ろしていた。
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