白州みちくさ案内

平賀文男氏の「赤石渓谷」の尾白川をたどる

 平賀文男氏は韮崎市の出身ということからか、南アルプスに関する文献もいくつかあります。
 今回は著書の一つである「赤石渓谷」(昭和8年・隆章閣)の「尾白川」の章をたどりながら、尾白川渓谷道中を振り返ってみましょうか。著作権が切れていないので、全文を載せるようなことはできません。

平賀氏は当日は台ヶ原宿に泊まり、出発の朝の風景を書き記しています。
 今となっては家々の間に見える風景となっていますが、八ヶ岳、金峰山、茅ヶ岳、そして南アルプスを眺めて、台ヶ原の地が「峡北山峡の奥座敷」(引用:p.103上段) と賞賛しています。
 甲斐駒ヶ岳には二、三条の残雪があったと書かれているので、時期とすれば、おそらく5月頃ではないかと推測できます。黄蓮谷の右俣・左俣と坊主岩辺りを言っているのでしょうか。ともあれ、南アルプスの登山口に来たことの感慨に満ちていたようです。
 余談ではありますが、昭和40年頃の文献を見ても、甲斐駒ヶ岳の黒戸山口は行列ができるほどだったようでして、資料の記述に垣間見ることができます。戦後すぐに山小屋の管理をされていたのが、道の駅はくしゅうの前にあるガソリンスタンド(COSMO)のおじいさんですが、一晩に100数十名が宿泊したということもあったようです。

台ヶ原への道程にも触れていて、乗合自動車で40分くらいで着くとありますが、結構早いので驚きです。韮崎〜台ヶ原は、距離にして20km弱ですが、私がバスを利用した頃でも約40分かかっていました。10年くらいまでの話ですが、当時でこの時間というのは、本当なのかどうか分かりません。ガソリン車かどうかも分かりませんが、40分で着くのならば、当時としては素晴らしい速度だったでしょう。

 7時に台ヶ原を出発し、竹宇方面へと進んでいますが、これは今の「白州中学校東」交差点からではなく、との町の中を進んでいったのでしょう。役場のすぐ近くから入る道です。(知らない人には分からないですよね)駒ヶ岳神社前宮に向うわけですが、ニイニイゼミが鳴いているという記述があるので、上では5月頃と書きましたが、もう少し後かもしれません。とはいえ、雪が残っているというと何月くらいなんでしょうか。

いよいよ山に入っていきますが、駒城電力会社の発電所を過ぎて山へと近づいていくことが書かれています。今は発電所はありません。しかし、その名残は貯水池や導水管跡に見ることができます。駒城電力会社というのも聞きなれない名前ですが、この道は旧菅原村で駒城村ではありません。とはいえ、こういった小さな単位の区域のための電力会社があったというのですから、知らないことはたくさんあるものだと思えてきます。

 そして、駒岳神社へと着きます。「社務所を兼ねた休茶屋の主人から、登山者名簿に署名を求められた」とあり、これは、今の尾白荘辺りではないかと思います。最近立て直したようなので、建物自体は新しくなっていますが、当時はどんな建物だったのでしょう。

尾白川を渡り、登山道ではなく、新道を通ったと書かれているので、今の渓谷道が当初設置されたのは、昭和初期ということになるのかもしれません。不動滝・紙蛇滝・百合ヶ渕には修験者の逸話が残されており、この渓谷道を通って修行をしていたのかと思っていましたが、ちょっと違うかもしれません。おそらく、設置したのは菅原山岳会の方でしょう。(未調査)
 歩を進め、鼓滝・旭滝・クズバ岩(グドバ岩のことでしょうか)・唸岩(どこのことでしょう?)・神蛇滝を過ぎて宿営地の石室に着いたとあります。
 不動滝の手前辺りでは、岩の横を通るように渓谷道が進んでいきます。石室とはこの辺りを言うのでしょうか。

そして、ガンガノ沢などを過ぎて、不動滝に到着します。ここで11時と記されているので、台ヶ原から4時間になります。現在も歩いたらこれくらいかかるでしょう。

 さらに渓谷を登り、富士岩・地獄滝・天狗岩・瓢箪渕・養老の滝と来て、12時半。

このあと、沢を登り夕方6時には屏風岩の鞍部の登山小屋にたどり着いたということで、相当に健脚だったということですね。

翌日は駒ヶ岳山頂へ到達し、黒戸山登山道をそのまま下り、台ヶ原から韮崎への帰路を取っています。

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